柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 前回、『柏崎通信デジタルライブラリー』に掲載するところ、『柏崎通信』に掲載してしまった。 この文、前後するが『况翁閑話』の一連の節なので、前段も掲載することにした。 尚、『資料』の内、『柏崎通信』に掲載してもよさそうなものに付いては、掲載することにしたい。

(22)他人の技能を見出すは容易ならず、附佐藤某女の咏歌(詠歌)と野津中将(鎮雄)の文藻

 前回には初対面の秘訣とて桑丘和尚の談を述しが、其中にも述べし如く、桑丘和尚の伝法にて失敗したること多きのみか、他人の賢愚を見取るは勿論他人の一技能を見出すことさえ容易のものにあらず、又よく交りて後にあらざれば其技能は悉し難し、况や其心術をや、但し交りて最初にありと思うたる技能が深く交りて後に無くなるあり、又最初になしと思うて後に有りと認むることあり、一二の例を挙ぐれば、余十八九歳の時、遊歴の途中秋の末なりしが、越後頚城郡春日新田迄行き、日暮れて同駅の問屋(当時、駅務うぃ司る職を問屋という)佐藤惣兵衛という家に宿を需(モト)めたりしに、召使う婢僕も少きと見え、年頃六十許(バカリ)なる賤しからぬ老女が出来りて夕飯の給使をし、自ら此家の老母なることを語り、又いづ地へゆかるるかと問いしゆえに、明朝早く出立そて春日山の古城に到り上杉不識公の遺跡を訪い、又予が十二世の祖石黒兵部の旧屋敷跡をも尋ぬる積りなりと話せしに、婆も今年の春久々にて春日山に登りて、一首詠みたりとて、

 きくたびに昔の春ぞ忍ばるる、世をふるしろの鶯の声

と口吟しに、余は最初より田舎の一老婆なりと思い居たる老婆が口より、此うた出んとは実に驚き、俄に言辞に謹敬を加え語り問いしに、江戸の前田夏繁の門なるよし語られ、夫より上杉氏の旧跡に付て種々語り、老女のいわるるには明早朝に行李をば此に預け置き春日山に登られ、朝夕は尚此に一泊せられよとの事ゆえ、翌日暁に出でて春日山の古城趾より林泉寺等を巡りて旧を探り、午後帰り来りしに、老女は曰くまだ夕陽没せざる故に駅後の福島古城を見らるるなら案内すべしとて、先に立ち導きて福島の城趾を見せたり、此福島の城は越後少将忠輝卿の古城趾にして海に臨み規模頗る大なり、巡了(オワ)りて帰途老女は一首詠出たりとて予の矢立(墨壷なり)を乞うて一首を書きて示せり、取りて見れば

 音信(オトズ)るる人もなぎさにあれはてて、秋風さむくふく島の城

 此時余は春日山にても、亦此福島の城にても、七絶三四首を作りたれども、此老女の二首の歌には遠く及ばず、故に今は自身の作詩は忘れて、一句も思出されぬも、老女の歌は記憶して忘るる能わざるなり。

 この段、長くなり、また続きは野津少将の事に移るので、次回に。

(注)佐藤某女: この話は、『懐旧九十年』の(12)「関矢氏と越後巡回」の段にに記載がある。 関矢氏については、『柏崎通信』(730) - 「関矢孫左衛門(北越名士伝・大橋佐平)について」に記載しているので参考に。
(注)春日新田: 国道8号線と国道18号線の交差点の海側に位置する地区。
(注)上杉不識公: 上杉謙信の事。
(注)石黒兵部: 『懐旧九十年』の冒頭(一)「私の家系」に記載がある。 少々長くなるが、「お館の乱」にも、また毛利氏にも関係するので、その部分を引用する。
 「私の家系は越中砺波の石黒氏で、先祖は木曽義仲に従って京都に上ったと申しますが、今日判然としているところでは、関東管領上杉憲政の家臣で、石黒忠英というのがあります。 通称は石黒太郎、入道して静斎と称しました。 これが我が家の系図を遡って最も古い先祖です。 私は、それから十四代に当ります。 上杉憲政が川越の戦に大敗北して、越後に落ちて来ました時、この忠英はこれに随って越後に入ったのです。 この人は、後に京都で没しましたが、その子石黒左近太夫または兵部忠明(タダアキラ)と申すにが、上杉謙信に仕え、謙信の没後上杉家に内訌が起った際、右の左近太夫は、北条丹後守ち共に和解に力めたが聴かれませんので、丹後守は遂に反いて北条(きたじょう)城に旗揚げをしましたが、左近太夫は、暇を乞い、浪人して姉の婿なる、片貝式部を便(タヨ)って、越後三島郡池津に居着くことになりました。 ・・・・・」とある。
(注)越後少将忠輝卿: 徳川家康の六男、松平忠輝の事。 室は、伊達政宗の長女・五郎八(イロハ)。

 この老女の話は、石黒忠悳に強い印象を与えたようだ。 『懐旧九十年』の記載が、それを物語る。 私自身も、このエピソードの印象が深い。 私事になるが、自分は「十邑にも一賢あり」という言葉を座右の銘の如く、よく使ったものだ。 何時から使い始めたか記憶にないが、システム・エンジニアの基本的姿勢と考えていたからだ。 どんなシステムを構築するにも、企業なり団体には、それぞれに運用してきたシステム(体系あるいは体制)があり、それを十分に調査し、そのシステムの長所短所を検討し、新規システムの導入による関わる人々の極端な不都合を拝することが、システム構築の基本だと考える故だ。 言い換えれば、システムが支障なく運用されてきた背景には、どんな小規模の会社あるいは社会にも先人の知恵があると云うことだ。 それを尊重することがシステムエンジニアの本分でなければならない。 そんな訳で、「十邑にも一賢あり」という言葉をよく口にした。 長く、出展は『老子』だと思い込んでいたのだが、改めて調べて見るに、その記載がない。 さて、何所で知ったのか、ご存知の方があればご教授願いたい。

Best regards
梶谷恭巨


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