柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 先日の午後、息子の聖が狂言教室に出かけた。 8月の発表会の為の練習である。 演目は「附子(ブス)」、主人が「附子という毒薬が入っている桶に近づくな」と出かけるが、実は「附子」の正体は「砂糖」と言うところから始まる最もポピュラーな狂言の演目。 息子は、シテ(主人役)を演じるらしい。

 
 ところで、幕末・明治に来日した外国人で、「能狂言」について書いた人は少ないのではないだろうか。 1848年、旧暦9月8日、慶応が改元され明治になった。 サトウの、その年の12月15日(旧暦11月2日)の日記に、能と狂言の観劇のことが書かれている。 (萩原延壽著『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』より)
 
 観劇した狂言の演目幾つであったのかは書かれていないが、面白いと思った狂言は『末広(スエヒロガリ)』、『伯母酒(オバガサケ)』で、『素袍落(スオウオトシ)』も非常によかったと書かれている。 (残念ながら、『附子』は上演されなかったのかもしれない。)  また、能は、『鉢の木』を見たようである。
 
 その部分を引用してみよう。
 
 「能は一種の悲劇ないし史劇で、狂言は笑劇である。 舞台装置はなく、衣装はすべて古風である。 舞台は約二十四フィート四方、左手の長い通路が、舞台と役者の出てくる楽屋をつないでいる。 能は約二百番があるが、印刷した台本は安い値段で買うことができる。 それは笛と小太鼓の奏する音楽、というよりも、不協和音にあわせて、ゆるい朗詠調でうたわれる。 やはり古風な衣装をつけたオーケストラは、舞台後方の床机に腰をかけている」と。
 
 サトウには、能楽が不協和音に聞こえたところが面白い。 さて、これだけでは只単なる記載なのだが、関心を引くのは、先ず、前後の関係から、中世の日本語である狂言を、見て聞いて理解しているということだ。 もっとも、狂言の場合は、今の人が聞いても理解できるし、楽しめるのだが。 それに、能については、 「能のほうは最初よくわからなかったが、隣席の婦人から台本を借りて文句をたどるうちに、わかってきた」と書き、内容を紹介しているのである。 ここでも驚くのは、能の台本を読み理解していることだ。 と言うのも、能や謡の台本というのは、大抵、お家流で掛かれたものを木版印刷されているからだ。 私自身、父が謡をしていたので、その教本や家に伝わる台本を見たことがあり、中学生頃では、もしこれが楷書体であったとしても何が書いてあるのやら全く理解できなったのだ。
 
 サトウは、来日当初から日本語の教師を雇って勉強している。 しかし、習字まで習っているとは書いていないのだが、翌日の12月16日(陰暦11月3日)の日記に、昔習った習字の先生について書いている。 (というよりも、その先生の藩の事情を、当時の藩政の事例として書いたのかもしれないが。)
 
 それによると、その先生は、丹波・出石藩仙石家の人で、手塚タイスケという人物だったようだ。 この日、本人に会って聞いたのか、それとも昔を思い出して書いたのか、記述からは伺えないが、出石藩の内情が書かれている。 もしかすると、ウィリアム・ウィリスが、越後・会津から帰府していたから、会津藩の実情(農民一揆が会津一延に起こっていた事情)を聞いた所為かも知れない。
 
 少々横道に逸れるが、興味ある数字なので、紹介しよう。
 
 「出石藩の藩主は仙石讃岐守(久利)で、石高は三万石と見積もられているが、実収入は一万六千石で、そのうち八千石が家臣の封土から取れる。 四千石が藩主の生活の維持に使われ、のこりの四千石が行政上の出費にあてられる。 後者は役人の俸給、参勤交代の旅費、出陣のさいの費用、武器購入費などをふくむ。 武士階級の数は五十家族にすぎない。 家老などの制度は他藩とおなじである。 太政官日誌第五号で公布された法令により、官職世襲の旧習が廃止され、人材登用の道がひらけたが、これを完全に実施するためには、家臣の封土wp均等にしなければならないと、手塚は考えている。」
 
 これを読むと、磯田道史著『武士の家計簿』に見える加賀藩前田家の状況とは大いに異なる。 多くの小藩の事情が、手塚の話から伺えるようだが、仙石家の場合、少々特殊な事情がある。 丁度、仙石久利が藩主の時、有名な『仙石騒動』により、五万石から三万石に減封されているのだ。
 
 興味ある話だが、話を戻す。 アーネスト・サトウは、当時の一般的な公文書に書かれる書体、すなわち、「御家流」を習ったのであろう。 長くなるので、詳細は省くが、書体には階級がある。 例えば、楷書は天子に対する上書に使うなど。 自分は、三歳から小学校を卒業するまで、松井先生の書道塾で習字を習ったった。 先生から、そんな話を聞いたのである。 (後なって、詳しく調べるのだが。)
 
 長くなったので、この辺りで終えるが、この逸話は、アーネスト・サトウが、僅か20代の若者にして、単に通訳官としてではなく、当代随一の日本の理解者あるいは日本学者であったことの査証ではないだろうか。
 
Best regards
梶谷恭巨
 

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