柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 前回、ウィリスの報告書に記載のある物価について書いた。 そこで、越後における物価について、補則しておきたい。
 
 先ず、高田の米価が横浜の半分くらいと報告しているが、前回は、その原因を書かなかったが、これは、高田が北陸戦争の兵站基地になった為、米の藩外への輸出が禁止されたのが原因と書いている。 藩内に米がダブついたということだろうが、官軍も大量の兵糧米を必要としていた訳だから、それを補っても余りあったと云う事か。 むしろ、戦争で需要が高まったのだから、米価は高騰すると思われるのだが、江戸から高田までの米価は、十分の一あるいは十二分の一と報告しており、高田でも半分くらい、柏崎で半分以下と書いている。 どうも、疑問が残る。 ウィリスは、公使館の医官であると同時に、外交官(この時は、江戸の副領事)でもあるのだから、この旅にはは情報収集という任務もある。 事実、公使パークスは、進行中の戊辰戦争の状況を知る必要を感じ、新政府の要請に応じている。 その意味でも、ウィリスの観察が正確であったと思えるのだが、この米価の差は、何を意味するのだろうか。
 
 ウィリスは、米価のほかに、西欧人としては欲しいところの肉や卵の価格についても報告している。 高田で、数日、多忙な医療活動をしているが、道中とは違い、多少ゆとりができたのか、報告書も、この時から詳しくなっているのだ。 以下、ヒュー・コータッツィ著(中須賀哲朗訳)『ある英人医師の幕末維新』から、その件を引用してみよう。
 
「魚類は横浜とほとんど同額だが、期待に反して鳥肉は当地がずっと高い。 土地からみて、きじや野兎や熊などがいると思われるのだが、獲物が乏しく高価である。 がんが四分銀から五分銀、野がもが三分銀、並みの品質の卵が一つ天保銭一枚で売られている。 これらの食糧がいつも手にはいるというわけではない。 だからそれがない時は、病院用地として柏崎で推賞できる産物はほとんどなく、当地が冬は温暖であったとしても、病人用の食糧不足によってその利点が相殺されてしまうのではなかろうか」と。
 
 因みに、1両=1分銀X4=1文銭X4000~10000、天保銭=100文、
 
 以前から柏崎の幕末史も調べているのだが、どうも違和感がある。 そこで、前後するが、柏崎に関するウィリスの記述を引用する。 (同書、以前にも引用した。)
 
「柏崎は貧相なつまらない家並みの町である。 戸数は四千といわれているが、なんら製造業がなく、住民も仕事がないようで、町全体が大きな漁村といった様子だ」
 
 酷評というほか無い。 物価についても同様で、先にもあったように、鳥一羽の価格が一両に近く、卵に至っては、米一升に相当する。 確かに、鳥肉や卵は、当時としても高価なものだっただろうが、これは異常とも思える。 ここに疑問があるのだが、これには、戦争と謂う背景があるのではないだろうか。 特に、柏崎の場合には、特殊な事情がある。
 
 柏崎は、桑名藩の飛び領である。 しかも、以前計算してみたのだが、本国桑名と同等あるいはそれ以上の石高があった。 およそ十一万石くらいか。 当時の藩主は、会津の松平容保の弟であり、京都では、兄が守護職、弟が所司代だった。 その為、官軍の最大の標的の一つになった。 しかし、桑名本国は、京都から近いこともあり、藩主をよそに早々に降伏している。 そこで、藩主は柏崎を頼った。
 
 ところが、柏崎も勤皇佐幕で二分していた。 表向きは桑名藩だが、実際には、当時、柏崎でも代々の豪商・星野藤兵衛は、官軍に味方し、軍資金から兵糧まで、私財を擲って、官軍に協力しているのだ。 事実、明治天皇の北陸行幸の際、子息と弟が、没落した星野家の窮状を天皇に直訴(近藤芳樹を介して)し、藤兵衛には、従四位下の官位が遺贈され、千円が下賜されている。 しかし、星野家が復興した気配はない。
 
 因みに、長州藩の近藤芳樹は、国学者でもあり、その縁を頼って、北陸を周遊している。 その時の旅日記が『陸路廻記(くぬかちの記)』である。 近藤芳樹の旅には、偵察あるいは諜報の気配がある。 戊辰戦争が始まる前に、柏崎にも訪れ、星野藤兵衛と会っているのだ。 この時、官軍支援の密約ができたのではないだろうか。 明治天皇行幸の時、窮状を訴えたのも、近藤芳樹を介してである。 尚、明治になって、近藤芳樹は、明治天皇の歌の侍講も務めている。 以前、調べたことを多少書いているのだが、謎の多い、興味ある人物だ。
 
 これらのことから(星野家の没落や、先には書かなかったが、勤皇家で私塾を開いていた原修斎は維新後、柏崎を去り佐渡に渡っている)、柏崎の住民の多くは、むしろ桑名藩贔屓ではなかったかと思われるのだ。
 
 時代が遡るが、天保の「生田萬の乱」の時、生田萬の期待に反して、住民は決起しなかった。 この乱は、歴史的には有名だが、参加したのは僅かに数人。 また、柏崎を中心とする桑名藩領では、それ以前にも一揆が起こった様子が無い。 但し、余談だが、現在は柏崎市の中心街に近い春日という所では、何度も一揆が起こっている。 ここは、桑名藩領ではなく、旗本(確か九千石)・阿部家の領地で、他の旗本領の多くと同様、地元の庄屋と役人が結託し、年貢の取立ては、当に苛斂誅求だったと云う。 何度も直訴、果てには一揆を経て、幕末頃には、平安を得たという。 因みに、何時頃までか不明だが、「春日には嫁にやるな」という話が残っていたとか。
 
 また、ついでに言えば、北陸戦争後、新撰組に参加した人が、記録に残る限りで、5人いる。 桑名藩に対する住民感情が悪ければ、敵対こそすれ、負け戦に最後まで従軍するだろうか。 余談だが、そのうちの一人、金子某は、拙宅の近く新道の農家の出身である。
 
 余談・蛇足が長くなった。 違和感の原因は、当時の住民の感情的背景があったのではないだろうか。 ウィリスが柏崎を訪れたのは、未だ戦闘の余韻の残る、というよりも、直後でもあり、住民の感情には、官軍に対する反感があったのかもしれない。
 
 ウィリスが滞在したのは、前後(往還)数日であり、しかも、治療と日本人医師の指導で多忙を極めていたはずだ。 物価なども、人に調べさせたに違いない。 食糧も、自分で買いに行ったのではないだろう。 サトウは、行く先々で、こまめに買い物をし、且つ記録を残している。 私的な記録なので、その時の状況がよく判るのだが、ウィリスの場合、ここで上げたのが、報告書などの公文書であることも影響しているのかもしれない。 気になったので、一応、ウィリスの来柏の記録が無いか問い合わせてみたが、今の所、無いと言うのが回答だった。
 
 尚、柏崎に産業が無かったわけではない。 例えば、官軍に備えるため大砲も鋳造している。 ただ、時間が無かったた為か、試射に終わっているようだが。
 
Best regards
梶谷恭巨
 

コメント
いつも楽しく拝読致しております。
拝啓
いつも楽しく柏崎通信を拝読させていただいております。海外の購読者です。
柏崎には親戚がおりますが、当時の柏崎の様子が先生の記述より偲ばれ興味深いところです。

自分の先祖が長岡藩士なので、幕末の歴史、新潟の歴史に興味があります。ご機会あれば、河井継之助や北越戊辰戦争に関する先生の私見などを読んでみたいところです。

最近は精力的にご研究が進まれているご様子ですが、日本は大変な酷暑のようですので、どうか
お体にお気をつけてくださいませ。
【2010/08/11 11:27】 NAME[パラオのスガワラ] WEBLINK[] EDIT[]


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