承前。 今回は、大意と若干の注釈を加えたが、未だ不足の部分が多く、また誤解して居る所もあると思う。後に加筆、修正あるいは訂正を行う事になるだろうが、ご容赦。
▲領主
(一)佐々木氏鎌倉幕府の頃、佐々木盛綱越後を領す、一族孫四郎房綱を鯨波に置き桂山城を築き海岸一帯の鎮衛と為す、佐々木氏の先は宇多天皇の皇子篤實親王九代の後胤近江国の住人佐々木源三秀義なり、秀義源義朝の家隷と為り男子五人有り、太郎定綱、次郎経高、三郎盛綱、四郎高綱、五郎義清、何れも源頼朝創業の功臣なり、盛綱高綱は越後歴史に関係あり、東鑑(あずまかがみ)に、治承四年十月廿三日頼朝著相模国府給始被行勲功賞、其中に北條殿及義定盛綱等以下或安堵本領或令浴新恩云々、創業之功臣也、寿永三年二月廿七日、佐々木盛綱参上、子息俊綱一谷合戦之時、討取越前三位通盛、訖可給賞之出申之於勲功者尤所感也、元暦元年十二月廿六日、盛綱自馬渡備前国兒島、追伐左馬頭平行盛、朝臣今日以御書蒙御感之仰、先詞曰自昔雖有渡河水之類、未聞以馬凌海浪之例、盛綱振舞希代勝事也、元暦二年六月廿五日、本知行所者(江州)可被沙汰之由有御契約云々、文治五年、源頼朝奥州征伐の時、従軍す、餘目氏の記に秀衡いせいにふけり両国を公領とし越後のうかいよりこなたを知行し勅定をそむき云々、鎌倉追大殿御発向有て秀衡を退治し玉ふ云々、同年、佐々木盛綱、越後に封ぜらる、蒲原郡加地城に居る一族孫次郎房綱鯨波に居城(古址は村の南の澤御所の入の山上に在り隠くれこやばといふ所も有り)口碑に佐々木氏戦時用として国内所々に朱を多く埋めたりと、建久五年正月十四日、盛綱越後の産生鮭二尾を頼朝に献上す、志賀理斎の三省録に、頼朝菊川止宿の夜、佐々木盛綱が領所より鮭の楚割(すはやり)を取り寄せ、盛綱一切をこゝろみて其余りを和卓(おしき)に居へ、童(こもの)にもたせ、頼朝の旅館へおくる、頼朝浅からず和卓のうらに自筆を染らる、
待居たる人の心もすはやりの
わりなく見ゆる心ざしかな
大意:
佐々木氏が鎌倉幕府に仕えて居た頃、佐々木盛綱(もりつな)が越後を領有していた。(盛綱は)一族の孫四郎房綱(ふさつな)を鯨波に配置し、桂山城(かつらやまじょう)を築いて海岸一帯を鎮守し防衛させた。佐々木氏の先祖は、宇多(うだ)天皇の皇子篤實(あつざね)親王の九代の後裔で、近江国の住人・佐々木源三秀義(げんぞうひでよし)である。秀義は、源義朝の家令となり、男子五人があった。(すなわち)太郎定綱(さだつな)、次郎経(つね)高(たか)、三郎盛綱、四郎高綱(たかつな)、五郎義(よし)清(きよ)で、何れも源頼朝の(鎌倉幕府)創業の功臣だった。(特に)盛綱と高綱は越後の歴史に関係があり、『東鑑』に、治承(じしょう)四年(1180)十月廿三日、頼朝が相模の国府に到着し、勲功の賞を始められた、その中に北条殿と義定(よしさだ)や盛綱等以下、あるものは本領を安堵(あんど)され、またあるものは新に恩賞を受け、云々、創業の功臣とされた。寿永三年(1184)二月二十七日、佐々木盛綱が従軍し、その子息の俊綱が一谷(いちのたに)合戦の時、越前三位通盛(みちもり)を討ち取った。勲功に対する(恩)賞を給わるべき申し出に至ったのは、もっともな事だと思う。元暦(げんりゃく)元年(1184)十二月二十六日、盛綱は、自ら備前国児島を渡り、左馬頭(さまのかみ)・平行盛(ゆきもり)を追討し、朝臣である私は、今日、感状を頂いた(御書(ごしょ)を以(もっ)て御感(ぎょかん)の仰(おお)せを蒙(こうむ)った)。感状には、昔から馬で川を渡るという話は聞いたことがあるが、海を渡ったという話は聞いたことがない。盛綱の行動は前代未聞の事だ(先詞に曰く、昔より河水を渡るの類(たぐい)有るといえども、いまだ馬を以て海浪を凌ぐの例えを聞かず、盛綱の振る舞い稀代の勝事なり)と。元暦二年(1185)六月二十五日、本領(江州、近江国)は、お約束の通りの沙汰が下されたそうだ(沙汰されるべきの由、御契約あり)うんぬん。文治五年の源頼朝奥州征伐の時は従軍した。餘目(あまるめ)氏の記録には、(藤原)秀衡が勢力を振るい、両国(陸奥と越後の事か)を公領と称して、天皇の定め(勅諚(ちょくじょう))に背いて、越後のうかいより奥州まで占有したと。また遂に、鎌倉(幕府)の大殿(頼朝)は、軍勢を発して、秀衡を亡ぼされたと。同年、佐々木盛綱は、越後に領地を与えられ、蒲原(かんばら)郡の加地城を本拠地とした。また一族の孫次郎房綱(ふさつな)は、鯨波を居城とした(城址は、鯨波村の澤御所(さわごしょ)の入りの山の上に在り、「隠れこばやし」と言う所もある)、口碑には、佐々木氏が、戦時用に越後国内の各地に、「朱(辰砂(しんしゃ))」を埋蔵したと云う。建久五年(1194)正月十四日、盛綱は、越後の産物として鮭二匹を頼朝に献上した。志賀(しが)理斎(りさい)の『三省録』によれば、頼朝が菊川に泊った夜、佐々木盛綱が、領地から鮭の楚割(すはやり)を取り寄せ、盛綱自身が調理して、余分なものを取り除き、和卓(おしき)に据えて、小者に持たせて、頼朝の宿に贈った。頼朝は、感激して和卓(おしき)の裏に次の様な歌を書かれた。
待ちいたる人の心もすはしりの (待って居る人の心も走り出すように)
割なく見ゆるこころざしかな (盛綱の志が理屈抜きで見えるようだ)
(註1)篤實(あつざね)親王: 宇多天皇第八皇子・敦実親王の事。
(註2)東鑑: 鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻(あずま)鏡(かがみ)』の事。
(註3)義定(よしさだ): 甲斐源氏の祖とされる源義光の孫・安田義定の事か。
(註4)越前三位通盛(えちぜんさんみみちもり): 平通盛の事。清盛の弟・教盛の嫡男。一ノ谷合戦での妻・小宰相(こざいしょう)とのエピソードは『平家物語』一章が割かれている。因みに、宮尾登美子の『平家物語』でも、通盛・小宰相の物語は、一つの山場になっている。
(註5)餘目(あまるめ)氏の記録: 『奥州餘目氏記録』がある。驚いたのは、検索して出てきたのが、米国ユタ州ソルトレーク市のユタ系図協会撮影のもので(マイクロフィルム、閲覧は現地のみ可)、それによると、原本は永正11年(1514)に書かれたもので、実在するのは写本であり、明治32年に追記とある。所蔵者は齋藤報恩会博物館図書部、内容は、「留守氏」及び「餘部氏」の系図であるようだ。因みに、齋藤家は、戦前(農地解放前)は、山県の本間家に次ぐ豪農で、財団の設立は、大正12年(1923)、当時の斎藤家九代目当主の斎藤善右衛門が私財300万円を投じて設立した。目的は学術振興だが、大学に研究費補助するなど、当時としては前代未聞の企てだったと。
(註6)越後のうかい: 不詳。
(註7)澤御所: 不詳。
(註8)隠くれこばやし: 不詳。
(註9)朱: 辰砂、硫化水銀。
(註10)志賀理斎の三省録: 葛飾北斎の門人・柳川重信の父で、志賀忍(しのぶ)、字(あざな)は子堪、理斎は号。江戸後期の儒学者、伊賀同心の家に生れた。『三省録』は、天保の頃かかれた。
(註11)菊川: 静岡県の菊川市の事か。
(註12)楚割(すはやり): 「すわやり」、魚を短冊状に乾した干物。
(註13)和卓(おしき): 折敷(おしき)の事か。(足の無い、有るのは善)白木の八寸盆様なものと思われる。ところで、この「おしき」と云う言葉が記憶に在った。中国地方、特に父の実家のある三次地方の神楽に「和卓(おしき)舞」というのがあるのだ。私の家のある芸北地方と異なり、山陰特に出雲の影響を受けた神楽だと聞いている。
Best regards