柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

 

 段落ごとに(▼)、順次注釈を付けたいと思うのだが、何しろ漢文あり古文ありで難渋。更に、資料を調べると、更に厄介な問題が出て遅々として進まない。しかし、その過程で新たな発見(自分にとってだが)あり、実に愉快である。とまあ、そういう次第なので、呉解釈、読下しの文法的間違いなどあると思うが、ご容赦。

 

 

柏崎文庫中の鯨波村誌

 編者がが明治十七年以来、鯨波に就いて見聞せし事左の如し

 

▲村名 口碑に往古は桂波と言へり、一年鯨の大漁ありて村中富裕となりければ鯨波と改む云々、神明社(しんめいしゃ)由緒記(てん)(しょう)(らん)国主上杉公撃本間佐渡守之日越兵会難風于時、念此神明果無恙着岸此磯、乃大喜己挙鯨波於是書鯨波云々、康平三の越後国に鯨波と見ゆ、京都の聖護院門跡道興准后廻国雑記青海川笠島など打過ぎて鯨波といへる浜を行けるに折ふし鯨のしほを吹きけるを見て

 

  わきてこの浦の名に立つ鯨波

       くもるうしほを風も吹くなり

 

 十返舎一九の金の草鞋

 

  眞黒になって寄せくる大波は

       鯨波ともいふへかりける

 

(註1)神明社(しんめいしゃ): 伊勢神宮内宮を総本社とする神社。ここでは、鯨波の現・神明社の事。調べて見ると、柏崎には、鯨波の「神明宮(しんめいぐう)」、芋川の「神明神社」の外、柏崎市内に、15の「神明社」がある。これを地域的に見ると、先の二社を除き、柏崎市内に、石曽根、藤井、長崎新田、佐藤ヶ池、曽地新田、上大新田、下大新田、上輪新田、古町、野田の十社、西山に別山、黒部、北野の三社、高柳に門出、岡野の二社があるようだ。(神社検索サイトより)

(註2)由緒記: 各地のそれぞれの神明社に有るようだ。この場合は、「鯨波(くじらなみ)神明社(しんめいしゃ)由緒記(ゆいしょき)という事になるのだろうが、柏崎市立図書館で検索したが蔵書目録には無かった。あるいは、「柏崎文庫」に収蔵されているが、未整理の状態かも知れない。(著者である関甲子次郎が寄贈したのが「柏崎文庫」であり、引用しているのだから在るのは事実だろう。)

(註3)天正の乱: 天正年間、特に天正十年(1582)に上野・甲斐・信濃で繰り広げられた「(てん)正壬(しょうじん)()乱」の事と思われる。続く文脈から推測すると、越後国内でも内紛があったようだ。

(註4)国主上杉公: 時代的に推測して上杉景勝の事。

(註5)同上以下の漢文: 大意、越後の国主・上杉公が本間佐渡守を攻撃した時、越後の軍兵は時化にあった、この時、神明社に祈念したところ、果たして無事にこの海岸に着くことが出来た、そこで大いに喜び、「自分は鯨波に乗じた」と、ここ(神明社)に鯨波の名前を書いた、云々。

 尚、ここに言う「本間佐渡守」は、時代的に見て、佐渡本間氏第15代当主・本間泰高の事ではないだろうか。但し、羽茂(はもち)本間氏(現佐渡市羽茂町)の三代高貞・四代高頼が、上杉景勝に討たれているのが、羽茂姓を名乗っていたと思われるで、佐渡本間家(本間家本家)の事と思われる。

 

 国主上杉公撃本間佐渡守之日越兵会難風

 (国主上杉公、本間佐渡守を撃つの日、越兵、難風に会う)

于時念此神明果無恙着岸此磯、

 (時に、この神明に念ず、果たして恙なく、この磯に着岸す)

乃大喜己挙鯨波於是書鯨波、云々

(すなわち大いに喜び、己、鯨波に挙り、ここに於て鯨波と書し、うんぬん)

(註6)(こう)(へい)三年: 1060年、後述する道興准后は室町時代の人なので、出典は不明だが、何らかの文献に記載があったのではないだろうか。

(註7)聖護院門跡道興准后(みちこうじゅんごう): 聖護院は、京都左京区聖護院の本山修験宗総本山。道興准后(1430-1527)は、第28代門跡、関白・近衛房嗣(このえふさつぐ)の子。

(註8)廻国雑記(かいこくざっき): 『廻国雑記』は、道興准后が著した紀行で、文明19年(1487)頃、完成した。以下は関係部分の抜粋。

 

柏崎市】

柏崎を過ぎけるに、秋風いと烈しく吹きければ、 

   おしなべて秋風ふけば、柏崎

いかが、葉もりの神はすむらむ

柏崎市青海川、笠島、鯨波】

あふみ川、かさ島など打ち過ぎて、鯨なみといへる浜を行きけるに、折節鯨の潮を吹きけるを見て、 

わきてこの浦の名にたつ鯨波

曇るうしほを風も吹くなり

柏崎市安田、山室、小国町三桶、川西町木落】

やすだ、山むろ、みをけ、しぶ川、大井、きおとしなど打ち過ぎて、うるし山をこゆとて、 

   初秋の露にぬるてふうるし山

今一しほぞ、風も涼しき

壷池といへる里にしばし休みて、或人に遣しける俳諧うた、

あぢ酒をすすむる人もなき宿に

水のみわくや。壷池の里

これより、くつぬぎといへる里を過ぎ侍るとて、我も亦、あしをやすめて立ちぞよる水かふ駒の、沓ぬぎの里

ふくろふといへる里にて、ねざめに思ひつつけける、

   此の里のあるじかほにも名のるなり

深き梢のふくろふの声

あひまた、湯の原、などいふ所を分け行き侍りけるに、道のほとりの尾花を眺めやりて、

すむ水はありともみえぬ池の原

尾花さわぎて、高き波かな

此の原をうち過ぎて、なぎなた坂といへる所をこえ侍るとて、またある同行にいひかけ遣しける俳楷歌、杖をだにおもしといとふ、山越えて薙刀坂を手ぶりにぞ行く

 

(註8)十返舎一九の金の草鞋: 『諸国道中金の草鞋』の十四、柏崎の後。原文注釈を書きたいところだが、崩し文字で判読できない。いつも思う事だが、江戸時代の人は、これでよく読めたと思う。しかも、強いて言えば、仮名交り草書体であり、版木を彫るにしても、落款を彫る自分としては、余程技巧が必要だと思うのだが。

 

Best regards


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