柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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試行錯誤の連続だが、今回から先ず「大意」を述べ、その後に注釈を附す形にしたいと思う。また、11ポイントでは、視力低下で読みづらいので、これからは12ポイントを使用する。

 

 ところで余談だが、昨日、ブログ版『柏崎通信』にジャンクでないコメントが届いた。2011年頃、調べて居た越後出身の北海道開拓者の足跡にに就いてだ。コメントがあったのは、『北海道立志編』から新潟県出身者の地域別分布など掲載した記事に対するもので、その中に揚げた一人が、どうも曽祖父であるようだ、と言うもの。それについて連絡したいと云うのだ。驚いて、久しぶりにブログを見ると、昨日の訪問者が150人近くあった。これも驚き。最近、『柏崎華街志』の掲載如何を考えて、アップロードしていない。早速、令嬢のメールを出したのだが、何だか、責任を感じてしまった。

 しかし、『北海道立志編』もそうなのだが、個人で調べるのには限界がある。当時は、北海道の野幌や江差などに問合せもしたのだが、回答を頂くのに、先ず肩書など看板が無いと云う障壁があり、更に個人情報保護法が阻害して、十の内に一つでも回答があれば良い方なのだ。そんな次第で、頓挫しているのが実情だが、コメントを貰うと、矢張り嬉しい。やる気も起る。

 

 まあそんなことで、今回の『くぢらなみ』も書く積りである。序に言うと、今回は紙数が少ないので安直に考えていたが、これ調べる中に、何とも圧縮された濃密なものである事が判ってきた。何しろ調べれば調べるほど、加速度的に量が増える。そんな訳で遅々として進まないが、ご容赦。

 

承前。

 

▲驛傳 往古五里駅伝の一なり、即ち柿崎・鯨波・椎谷等なり、厩牧舎に凡諸道須置駅毎三十里(六町一里)置一駅若地勢阻険及無水草処随便安置不限里数云々、五駅便覧(はっさき)三里鯨波一里柏崎三里宮川一里椎谷とあり、慶長九年諸道に一里塚を築く、元標江戸日本橋なり鯨波の一里塚は今二十三夜塔の建てゝある所なり、柏崎下町へ一里、柏崎より田尻村一里塚へ一里、慶長五年五月六日上杉遺民乱の時、見附の古城山に立て籠りし蔵王堂義俊捕縛せられて府中へ送らるゝ途中鯨波駅にて創傷の為めに苦死す、慶長十六年駅路改正柏崎宿場と為る、六月領主松平上総介忠輝公の有司大久保石見守より宿馬の定書を問屋下條へ渡す、下條家の由緒書に貞治二年より問屋並に庄屋役勤め申候と見ゆ、享保年中版の廿四輩記八崎に(泊有り茶屋あり)越後の関所あり、鯨波迄三里、これを米山三里と云ふ、峠八ッ有、坂道にて難所なり、鯨波(泊り無し茶屋なし)明和九年二月当村昔より宿場を勤て年々疲弊するを以て問屋兼庄屋下條豊蔵仮庄屋唯右衛門外組頭四人百姓惣代新左衛門等刈羽郡一町六十八ヶ村を相手取り駅馬入費補助金の訴訟を起す、領主松平越中守の領地内蒲原郡大肝煎佐久間長右衛門岩船郡佐藤辰左衛門魚沼郡酒井忠之助等の取扱にて事済となる、当村山有り海有れども安賃銭を以て宿場役を勤来りしを以て明治維新の頃は疲弊困窮し従て人気あしかりしが近年駅馬廃さられて民風も淳朴と為り家計も追々富裕と為るに至れり、陸路の記に戊辰の役に官軍桑名の軍を破りし所なり其時鯨波の駅はやけたりとぞ。

 

大意:

 昔、(律令制によって定められた)五里駅伝の一つである。すなわち柿崎・鯨波・椎谷などがそれで、そこの厩舎や牧場で「およそ各街道には三十里(六町を一里として、約118㎞)毎に駅を置き、もしくは地勢が険しいか水や草地が無い処ならば一駅を置き、里数に限らず便不便に随って置いたそうだ。『五駅便覧』によれば、鉢崎から鯨波までが三里、鯨波から柏崎までが一里、柏崎から宮川までが三里、宮川から椎谷までが一里とあり、慶長九年(1604)には、諸街道(東海道・東山道・北陸道)に一里塚を築き(修理もしている)、基準点を江戸の日本橋とした。鯨波の一里塚は今の二十三塔の建って居る所にあり、そこから柏崎下町まで一里、柏崎から田尻村の一里塚まで一里ある。慶長五年(1600五月六日の「上杉遺民の乱(上杉遺民一揆)」の時、見附の古城山に立て籠もった蔵王堂義俊(?)が捕縛されて府中(今の上越市高田)へ送られる途中、鯨波駅で(創)傷の為に苦しんで死んだ。慶長16年の駅路改正では、柏崎が宿場になった。その6月、領主の松平上総介忠輝公の有司(官吏)大久保石見守より宿馬の定書が問屋であった下條氏に渡された。下條家の由緒書に「貞治(じょうじ)2年(1363より問屋並びに庄屋役を勤め申し候」とある。享保年中の版『二十四輩記(二十四輩順拝記?)』に八崎に(宿屋なし茶屋あり)越後の関所があある。鯨波まで三里(約12㎞)あり、これを米山三里という。峠は八カ所あり、坂道で難所である。鯨波(宿屋無し茶屋無し)は明和9年(177211月16日より安永に改元)2月、当村は、昔から宿場を勤めてきたので疲弊した事から、問屋兼庄屋役の下條豊蔵、仮庄屋の唯右衛門ほか組頭四人、百姓惣代の新左衛門らが、刈羽郡の1町66村を相手取って、駅馬の経費や補助金について訴訟を起したが、領主の松平越中守の領地内の蒲原郡大肝煎・佐久間長右衛門、、岩船郡の佐藤辰左衛門。魚沼郡の酒井忠之助らの仲裁で解決した。当村は山有り海有りだが、安い賃金で宿場役を勤めて来たので、明治維新の頃には疲弊困窮し、(旅人には)人気があったが、近年、駅馬の制度が廃止になり、(宿場役も無くなったので)、住民の気持ちも昔の様に純朴になり、また家計も段々と裕福になった。(尚)、『陸路の記』に、戊辰戦争の時、官軍が桑名藩の軍を破った所だが、その時、鯨波の駅(宿場)は焼けてしまった、とある。

 

(註1)五里駅伝: 律令の「駅制」と「伝馬制」から成る「駅伝制」の事と思われる。しかし駅制では原則として30里(律令における里単位、約16㎞)で約四里だが、この場合は、慶長6年(1601に東海道を53駅と定めた事に由来するのものか、あるいは、「五機七道」から、もしかしたら縁喜を担いで、「五里」としたのか、いずれにしても一般的にそう云われていたのではないだろうか。

(註2)漢文の個所: 大意にて省略。

(註3)五駅便覧: 『五駅便覧』は江戸期、幕府道中奉行所で正徳年間(1711-1716)に編述されたもの。史料としては、『日本交通史料集成』第三輯(国際交通文化協会、昭和13年刊)に収録されている。監修者は、樋畑(ひばた)正之助(雪湖)、調べたところ、郵政博物館の生みの親でもあるようだ。因みに、この箇所の出典は、佐渡道の内、中山道通りにある。

(註4)慶長九年・・: この年、徳川家康は、伏見から江戸に帰った。大意ににも書いたが、この時の諸街道とは、東海道・東山道・北陸道の三街道であったようで、恐らく、大阪冬の陣・夏の陣を見越しての事か。

(註5)慶長五年五月六日上杉遺民乱、・・・: 一般的には「上杉遺民一揆」と云う。石田光成と呼応して、上杉景勝・直江兼続が家康に対して臨戦態勢を取るが、春日山の堀直政が通牒し、五月、家康は諸大名に会津出兵を命じた。見附の蔵王堂義俊については、調べて似たが詳細不明。いずれにしても、府中、即ち春日山の堀直政の所へ連行される途中、蔵王堂義俊は不詳の為、没した。因みに、この蔵王堂義俊と思われる人物は、丸田氏一族の誰かかも知れない。この人物、『上杉分限帳』も当って見たが見つからない。関甲子次郎が敢て名前を挙げているので、出典が何処かに在る筈なのだが。ご存知の方があれば、御教授願いたい。

(註6)慶長16年駅路改正: 調べたが駅路改正については不明。ただこの年10月28日(西暦1611年12月2日)、慶長三陸地震が起こり、大津波で多数の死傷者が出た。また、これに先立ち、8月21日(西暦、9月27日)慶長会津地震が起こり、山崎新湖が出現した。この地震により阿賀野川が堰き止められ大洪水も発生している。こうした事情が駅路改正に影響したのだろうか。

(註7)6月領主松平・・・・: 出典不詳。大久保石見守は、大久保長安の事。佐渡金山等の開発で知られている。また、2年後の傾向18年4月には、「大久保長安事件」が起こり、大久保一族は族滅する。いずれにしても、大久保長安は謎の多い人物で、今でも隠し金山や埋蔵金でしばしばTVなどにも採り上げられている。因みに、柏崎の「大久保陣屋」は、大久保長安に由来すると云われる。

(註8)下條家の由緒書: 詳細不詳。

(註9)廿四輩記: 大意の中でも書いたように、『二十四輩順拝記』あるいは『親鸞聖人二十四輩順拝記』の事。因みに、「二十四輩」とは、親鸞聖人の二十四人の高弟の事。因みに、これには、大峰貫道本と西村七兵衛本があり、大峰本、前後二巻は、「近代デジタルライブラリー」に収録されている。依って、詳細は省略する。

(註10)陸路の記: 近藤芳樹の著。明治11年の明治天皇北陸行幸の際、侍従として随った国学者・近藤芳樹が書いたもので、読み方としては、「くぬがじのき」と読む。以前、近藤芳樹あるいは星野藤兵衛の所で採り上げたので省略する。

 

 以下、注釈を付けたいところだが、手持ちの史料あるいはインターネットの検索によっても、問屋・庄屋の人名がヒットしない。検索の方法を考えて改めて調べて見るが、取りあえず今回はこの辺りで止め、追々調査して、改めて紹介する。

 

Best regards


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