柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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前回に続き、その五「天ぷら」を原文のまま掲載する。

天ぷら 

天ぷらと云ふのは何處の言葉か知らないが、日本語ではないだけは確からしい。伊太利のテンプララの轉訛(てんか)だと云ふことを聞いたが、明治以來の外國語の日本化と違って、德川期以前のものだらう。伊太利には日本の天ぷらと同じ料理がある。私は嘗てローマで、小さな蛸の天ぷらを食べたことがあるから、伊太利が天ぷらの本家かも知れない。外國の料理と較べて、元來日本の料理は簡單であるが、その中でも簡單な天ぷらは、都會農村何れにも向く大衆料理である。日本人の副食物としては油の補給が出來るから、榮養の方面より見ても、もっと廣くて廉く普及させる必要がある。天ぷら程日本の料理で、値段の高いものから安いものまで、幾通りもある料理は少からう。値段の高下はたねと油によるのであって、料理は簡單のやうに見えても、天ぷらを揚げるこつと、たねと油とを選擇する腕は又別だ。

 天ぷらの好きな人は、大凡先づ海老を註文する、海老は天ぷらの王と云はれてゐるが、なかには、ぎんぽうが王だ、はしらのかき揚げが良いと云ふ江戸ッ子もゐる。いや飯のおかずにはあなぐぉ入れて呉れと、油の蒸氣を浴びながら、鍋のすぐ前に腰掛けて、親方の長い箸が、自分の處へ配って來るのを、茶碗と箸を持って待ってゐるのも樂しみのひとつだらう。

 天ぷらの海老位、ぴんからきり迄あるものは先づあるまい。最上のものは生きてゐるのを、親方が兩手で剝いて尾の先だけ皮を残して、衣をつけると、すぐ丁度好い煮え加減の油の中へ入れるのであるが、この海老の大きさは、大き過ぎる程旨くない。さらばと云って小さ過ぎては、かき揚の種にするより外はない。頃合の處は、揚げて眞紅になった尾の先が食べられる位の大きさが良いのではないか。海老の好きな人は尾を残さないからである。こんな海老は江戸前の、捲きと呼ばれる捲き船の漁獲した海老で、大きさは普通の魚屋の店頭にある車海老よりは遙かに小さい。捲き船と云ふのは、普通の日本流の四角な帆を、帆柱一杯に蟬のもと迄捲き上げて、普通の船のやうに舳が先に進むのではなくて、眞横に舳と艫と後先なく進むのである。帆柱は船の眞中にあって風を孕むから、船は横に倒れさうになりながら、舳と艫から綱で引かれた底網を曳きつつ、静かに波の上を滑って行くのである。漁場と目指した處を曳き終ると網を手繰って獲物を取り上げては、又次の場處を曳きに行く。此網へ入る海老が捲きである。同時に江戸前の旨い蟹も獲れるから、品川沖へ海釣りに出た歸りに、捲き船の上って來るのを待ち合せて、捲きを賣って呉れない時は、蟹を買って歸ることも度々あった。魚が釣れなくても旨い蟹が買へればそれで満足したものだ。

 捲き船が品川沖で、捲きを獲るのはこんな風だから、風が凪いだら全く不漁だし、風があり過ぎると、いくら帆を半分に捲いても、船は横走りだから波をかぶって網が曳けない。動力を持つ漁船だったら、どんあことでも出來るだらうが、風を賴りにする舟では捲き船の漁は日なみに支配されて、餘計には獲れない。それが、天ぷらの捲きを高價にするのである。この海老許りは天氣好くても、手頃な風が吹かなければ生きたのが天ぷら屋には入らない。本當の捲きの天ぷらを喰はうなぞとは、今日贅澤すぎるが、なによりも運が良くなければ駄目だ。近來は千葉縣下で外の漁法で獲ったのが、東京へ入るやうになったから、それ程でもあるまいが、何處のでも冷凍したのを水に漬けて戻したのでは、海老の身が白くなってゐて味が落ちる。新鮮な海老の身は、よくかへった葛ねりのやうに殆透明なのが旨い。車海老や伊勢海老は他の料理にすると良いが、天ぷらにしては捲きの敵はない。

 併し天ぷらにしては海老に及ぶものはない。乾海老でも上手にもどすと、値段の割に旨い處が特徴だ。支那料理の海老を支那式に揚げた天ぷらは、多くは乾海老を戻したのだが、殆んど判らない位によく戻してある。日本でも天ぷら蕎麥(そば)の海老は、乾海老が使はれてゐて仲々旨く戻したのがる。まづいのは海老を大きく見せやうとして衣を馬鹿に厚く廣くする事だ。乾海老なら保存が出來るから、海老の獲れる海岸なら邊鄙(へんぴ)な土地でも、乾海老を盛にし大衆的な天ぷらの種にしたい。それには先づ天ぷらの油が十分良く無ければいけない。てんぷらと云へば胡痲の油をすぐ思ひ浮べるが、この際胡痲、菜種や豆のために、畑を潰すのは成るべく避けて、他の油を見つけたい。旨い天ぷら油はどんなものが使はれてゐるか、どうもこれは餘り公にされてゐないやうだ。(かや)の實の油と、胡麻油とを混ぜたのが良いとか、胡痲も白胡痲がよいとか、色々あるやうだ。何れにしても、どの油でも一味は良くなり。混ぜ合せに秘傳があったり好みがあったりするやうだ。

 落花生の油で揚げた天ぷらも香がなくて良いが、喰べた後で口の中に油が凝固する気持ちが良くない。綿の實の油の天ぷらも輕いが、南鮮邊でないと出來ないし、満洲から豆が入らないから、豆油を使ふ譯にも行かない。椿の油は良いが量が十分に無い。動物性の油は臭みが少なくて、フライやカツレツには良いが、どうも天ぷらには旨く調和しない。天ぷらには植物性の油が適するやうだ。近來糠の油一味で天ぷらを揚げて見たら、これは仲々旨かった。天ぷら許りではない、これなら日本人の食用油の一として、今後大いに推奬(すいしょう)すべきものだと考へた。

 朝鮮では日本人の經營であるが、木浦(もっぽ)綿實油(めんじつゆ)を採取して米國へ輸出してゐるのがあった。精米事業の傍ら糠から糠油を搾って、これ又米國へ輸出してゐた。反って内地では米糠の油を搾ってゐる處は少いから、今はまだ量が十分にない。糠はそのまま家畜の餌料にしたり糠味噌その他に使はれてゐる。併し餌料にもその他大凡の場合に、油の無い方が有効だと云はれてゐる。鶏の産卵なぞは、糠を多量にやると油のために産卵が減って來るとの話だ。糠をそのまま肥料にしてもその中の油だけは一向肥効が無いと云ふから、油を搾るだけの手數で今後吾々は食料油の相當量が得られるのである。

 朝鮮で輸出の糠油を搾った人の話では、一石の玄米から一斗の糠、一斗の糠から一升乃至一升二合の油が採れるとの事だ。併しそれは糠を百度近く熱して高い壓力(あつりょく)で搾らなければならない。糠を永く搾らずに置くと、油の出方が惡いから、精米をやる傍ですぐ搾る必要がある。小さい精米所なら壓力は高くでも小さい壓搾機(あっさくき)で濟むから、町工場でも圖面さへあれば器械はできる。これを全國に普及させたら、天ぷらの油には事を()かない譯だが、萬一餘ればこの油を石鹼の原料にすると、海水でも泡の立つシャボンが出來るから心配はいらない。

 天ぷらの衣は小麥粉を水でとくが、贅澤なのはそれに卵を交ぜて金ぷらなぞと云ってゐる。それよりは衣の厚みと揚り加減の方が味覺に大きな關係がある。一疋揚げの衣は薄くなると齒當りが堅くて良くないが、餘り厚過ぎても中の種の味を損ねる。かき揚げの場合なdぞは下手な人が厚くつけ過ぎて、外は丁度良く揚ってゐても中から白い生煮えの汁が出る位だと、種も生々しく旨くない。又反對にばか貝の柱のかき揚げに衣が薄くて、揚げ過ぎると柱迄が狐色に焦げて、旨味も何もなくなってしまふ。油の煮え加減を見るのは餘程むづかしいと見えて、熟練の揚げ手でも時々箸の先から、といた衣の雫を落して見て、油の温度を測ってゐる。一體にかき揚げの方が油の熱が高いのではないだらうか。江戸前の芝海老や柱のかき揚げの持つ落ちついた味は上方にいくつ天ぷら屋が出來ても、容易には(あじわ)へまい。

 上方と云へば、上方の天ぷらは鹽で喰べるが、東京は醤油を主としたつゆに大根おろしと極ってゐるやうだ。鹽も良いと思ふが衣へついた油が醬油と口の中で溶ける味は又別の味覺である。このだしは甘過ぎると天ぷらの旨さを落すし無論辛過ぎても旨くないむづかしい處だ。少し酢を入れたものもあるやうだが、上方で東京風と云って出すつゆは槪して甘過ぎるから鹽を入れて加減すると旨い味になる。大きすぎる海老が何故天ぷらに向かないわけは、一つには天ぷらの衣とつゆとに關係があると思ふ。大きな海老だと餘程衣を厚くしないと、つゆの味とが溶け合って身に及ばないからであらう。一度揚げたものを煮る場合は、中身は厚くても味が徹るから、衣が厚すぎても、中身が大きくても差支へない。かき揚げが飯に向くのは此處からではあるまいか。勿論捲きや芝海老が伊勢海老より旨いのを、衣のためだと云ふのではない。

 次回は、その六「鮪のとろ」を掲載する。
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 前回に続き、その四「御狩塲燒」の本文を原文のまま掲載する。

御狩塲燒
 

御狩場燒(おかりばやき)と云ふ名は、何時頃から出たのであるのか、昔將軍が鷹狩に出る處を、御狩場と(とな)へられてゐたから、古い名かも知れないが、普通鴨料理と呼ばれてゐた。鴨場で晝飯(ひるめし)に出る料理であるから御狩場燒と云ふのだらう。

 鴨場と云ふのは、外國には何處にも無い日本獨得の鴨獵をする處である。眞中の大きな池から、一寸曲って放射狀に小堀が引いてあって、堀の兩側には土手がる。大池から小堀の奥の突當りには、能くかくされた(のぞ)きがあって、小堀の様子を小さな穴から見ながら、鴨の餌を撒いてやるのである。樹木の植込竹藪等で、何處からも見えない様に隠されてゐる大池には、何千と知れない色々の鴨が、囮の家鴨と交って休んでゐる。小堀から浮いて流れて來る餌をあさりながら、囮の家鴨に連れられて、小堀深く入り込んだ時を見計って、大きな又手を持って小堀の土手の後から、左右四人位づつ出ると、小堀の中の鴨は驚いて飛び立つ處を、又手でかぶせて捕るのである。

 この獵は餘り古いことではなくて、徳川の中期後に始まったと聞いてゐる。捕り逃がした鴨が大池へ戻ると、他の鴨にも影響するから、鷹匠が拳の上に鷹を乘せて、又手を持つ人の後に控へ、又手のぁぁらない鴨には、すぐ合せ捕るのが本來だ。鴨場では一切口をきかず、足音を立ててもいけないから、誠に悠暢(ゆうちょう)なのどかな獵だ。

 鴨料理は、臓物も肉も丁度すき燒のやうに切って各自の皿に盛ってある。鍋は一人に一枚、小判形の廻りの縁だけが少し高い平鍋である。厚さは二分位の鐵板だが、兩面とも全く同じに出來てゐる。鍋と云ふ程深くはないから燒き(ばん)と云ふのが良いかも知れない。火が過ぎて鍋の中が焦げつくと、鋏で裏返して使ふのである。さうして丁度鍋の大きさに合ふやうな、七輪が銘々に用意してあるから、肉や葱を先ず醤油をつけてから、平鈑の上に乘せるのである。肉の盛られてゐる皿の中に、醤油がに入れてあるのが本式のやうだ。この料理から見るち、今日のすき燒は、昔狩場で捕れた獲物を喰べるのに、鍬を能く洗ってその上で燒いたから、すき燒と云ふのだとの説もあるが、御狩場燒と云ふ名前と並んで、すき燒も、御狩塲燒も、どちらも正しいのかも知れない。

 御狩塲燒は無論鴨に限らない。併し脂のものでないと、すぐ鍋に焦げついて火加減が面倒だ。だから鴨が最も合ってゐる。鴨の中で最も旨いのは小鴨である。小鴨の肉が、薄く切られてゐるのを鍋にのせ、一方だけ燒いて、上の面はまだ半燒位のが一番旨いやうに思ふ。戰前は新橋から電車通りを僅か銀座に二、三軒行って左の細い路地を西へはいった處に、鳳と云ふ腰掛けの小料理屋があった。野鳥は凡て小鳥でも、雉、山鳥でも、あらゆるものを喰べさせたが、専門料理は御狩塲燒であった。

 上方は東京よりも家鴨が賞味されてゐるから、御狩塲燒が廣まりさうに思ふ。或はに出來てゐるのかも知れない。それと同じやうに、東京には豚の御狩塲燒が出來て良いと思ふ。豚は牛肉よりもこの料理に適してゐると思ふが、それには肉の場處の選擇次第だと云へよう。

すき焼を家で、たまに牛肉のロース燒を喰はせる處がある。その料理は全く御狩塲燒と同じである。眞中に醬油溜りも何もない平面な平鍋に、先づ牛の脂の四角に切ったのを敷いて、その上で肉を燒く。燒けたのに醬油をつけて喰へる處は、成吉斯干料理と同じである。違ふ處は鍋に穴が明いてゐないから、焔で直接に燒かない處だけだ。この方が牛肉のすき燒よりは、遙かに旨いと思ふが、これも肉の吟味がむづかしくて、適當の肉が餘計ないから、すき燒のやうに簡単に行かない。それを喰はせたのが、牛肉屋の豊國であった。

 本郷の、大學の裏門を出て、からたち寺に向ってすぐ左へ曲ると、突當りの門構への家が豊國だ。慥か明治十年西南役の大立物の一人、桐野利秋の住んだ云へだとか聞いてゐたが、高低のある良い庭であった。門をはいるとすぐ斜右(ななめみぎ)に、靴のままテーブルで、すき燒の喰べられる座敷があった。そこへは大學の敎授連中が、(ひる)には能く見えてゐた。ここで註文すると、ロース燒を出して呉れたが、火の加減から肉迄、普通のすき燒と違って吟味が良くしてあったから、何處のより旨いと思はれた。

 次回は、「天ぷら」を掲載する。
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承前

 この章の終りだが、容量の制限には困ってしまう。もっとも、無料のアプリを使っているのだから文句は言えない。有料ならもっと楽になりそうだが、そうも行かない。その分、古本だが何冊か買える訳だ。ただ、有料にしても、試しては見たのだが、エディタが宜しくない。その一つが、編集の画面と公開画面が異なる事だ。他も試してみたが、「帯に短し、タスキに長し」で、結論的には、似たり寄ったり。

 もしかすると、私のPCが時代遅れなのかも知れないが、今更、替える事も出来ない。愚痴、ご容赦。

 金澤のじぶ煮のやうな特殊料理ではないが、京都の秋に川魚を主とする料理屋で、小鳥の燒鳥をするが仲々旨い。材料は鶫が多いから多分岐阜邊りの網場から來るのだらうが、京都は海が遠いから鮮魚の料理よりも小鳥料理が昔から發達してゐたやうだから、(つぐみ)よりもより少さい、靑じ、頬白(ほおじろ)、ひわのやうな骨の小さいものを料理する旨い料理法があると思ふが出逢(であ)はない。佛蘭西(フランス)では雲雀飯(ひばりめし)を作る料理法がある。雲雀(ひばり)は日本では禁獵(きんりょう)だから他の小鳥に應用(おうよう)するのが良い。過程で造るいため御飯の一として(すす)めたい。それは小鳥を骨ごと小さく切って鹽味(しおあじ)にして、フライ鍋で油でいためる簡單なものだ。それに飯を入れて適宜に煎れば良い。雲雀をバタでいためてオリーヴ油で飯を()るのが本式だが、(いや)な臭ひのない植物油なら何でも良い。これも無論熱いうちに喰へるのである。

 野鳥の中でも雉は昔から、鷹狩りの最も良い獲物として狙はれはただけに旨い鳥である。人によってはその香を嫌がるが、それは喰べつけないためだ。慣れると反ってあの香が良くなるから、捕りたてのものより或時間を置いた方を喜ぶやうになる。一體に野鳥は捕りたてのものには、味がまだ出て來ない處がある。雉はその代表的のものだらう。佛蘭西では雉と云ふ名詞を動詞にして、肉に時間を置いて柔かく旨くすることを、フェザンテーと云ってゐる。雉は天火で丸燒にすると良いが、肉を薄く切って醬油に漬けて置いて燒くのも旨い。雉の蝋燭燒(ろうそくやき)と云ふのは、肉も骨も一處によく叩いて味をつけたのを、串の廻りに蝋燭のやうな形にぬりつけて燒くのである。(しか)大凡(おおよそ)の野鳥にこの燒き方が合ってゐるやうに思ふ。

 上戸だけの話だが、雉の骨附の肉を白燒(しろやき)によく燒いて、出來れば塗物の酒呑(さけの)みか、燒物のビール呑みに入れて、その上に熱燗(あつかん)の酒を注いで雉酒(きじざけ)を造ると(じつ)に旨い。中に入れた肉の大きさにもよるが、二三度は繰り返へせるが、その度に味が落ちるのは何ともしやうがない。硝子(がらす)のコップだと酒の(にごり)()いて見えて良くない。それは雉酒(きじざけ)に限った譯ではなく、鰻酒(うなぎざけ)河豚(ふぐ)のひれ酒、何れも同じだ。(かに)甲羅酒(こうらざけ)の時には、コップでないのが如何にも嬉しく雅味(がみ)があり、それだけ味覺を(そそ)られる。肉から酒にだしの出るのは、雉が一番のやうだ、それだけに後の肉は煮がらしだ。併しそれを細かく叩いて醬油で煮てそぼろにすると、反って生から煮たのよりも旨くなる。野鳥の味の餘りないのは、叩いて十分細かにして煮てそぼろにすると見違へるやうに旨くなる。尤もこの式の料理なら誰にでも向いて、何の肉だか判らなくなって旨い。

 山鳥の味も雉子によく似てゐるが、雉よりも臭みは少く、味は反って鶏に近づいて來る。だからすき燒でも、燒鳥でも、天火で燒いても、雉と同じやうに料理するのが良い。さう云へば山鳥に近い味を持ってゐるのが、支那(しな)から輸入してここ二三十年以來、大分繁殖した小綬鶏(こじゅけい)である。大きさは(うずら)より大きく、鳩より(やや)小さい。パートリッヂ系の鳥だが、肉の味は山鳥に()く似てゐてより旨い。草の實や害虫を食べる益鳥(えきちょう)として保護されてゐるが、一部鳥打ちに解禁されてゐる。この獵も犬を使ふと鶉程でないが相當面白い。網でも良く獲れて可なり繁殖力があるから、これを全國に放飼(はなしがい)すれば、鶉のやうな渡り鳥でないだけに、秋から早春迄に食膳に(のぼ)すことが出來ると思ふが、冬野に餌が無くなった時に、麥畑(むぎばたけ)を荒らすからどんなものか。山口縣の或嶋に放飼して非常に繁殖したさうだが同時に農家から苦情が出たと聞いた。苦情の出る程繁殖する前に、土地の人達に網獵(あみりょう)を許しさへすれば、それ程のことはないと思ふ。網なら生きて捕れ雄雌も良く判るから、全く居ない地方へ分けて(ひろ)めるのが良いのではないか。何れにしても鐡砲(てっぽう)打ちのゲームとして繁殖させるのが惡いのであって、網獵奬勵(あみりょうしょうれい)が今後の狩獵法の主眼とならなければ、食料問題には貢獻されない。秋のみのりの前、八月頃から鷹笛(たかぶえ)による雀の網獵の如きも許す方が良いと思ふ。一部の地方では害鳥驅除(くじょ)として、或る種類の雀には許されてゐると聞くが、害虫驅除に雀の有効な(てん)を睨み合はすこと勿論である。(しか)し雀の害の方が多いとすれば、米の増産にも害になり、米の節約にも害となる狩獵法の改正に、この際左顧右眄(さこうべん)する必要はないだらう。

 小綬鶏(こじゅけい)と殆んど同じで、羽根の入るのもっと濃い、さうして餘り斑點(はんてん)のない鐡鶏(てつけい)と云ふのがあるが、この方はどうも繁殖が惡いやうだ。臺灣(たいわん)の山地には多くて、生蕃(せいばん)はこれを罠で捕って、里へ()りに來ると云ふ。臺灣へ行った時しきりに求めたが遂に得られなかった。味は小綬鶏と殆んど違ひはなからうと思ふ。内地でこれを繁殖させやうと云ふ熱心家が、東北にあったがその後どうなったか。もし鐡鶏が自然繁殖に適してゐたら、小綬鶏と同様に是非放飼(はなしがい)するのが良い。併しそれは云ふ迄もなく、ゲームとしてではなく食用としてである。

 水鳥の中で、どんな料理にしても旨いと思ふのは小鴨だ。鴨の種類も澤山(たくさん)あるが、味では小鴨、靑首(あおくび)、尾長の順になるだらうか。見た處は立派だから靑首が普通喜ばれる。これと家鴨(いえかも)の雑種が「なき」と呼ばれ、野鴨(のがも)をよく呼ぶから囮に使はれ、又家鴨より遙かに肉も旨い。合鴨(あいがも)と云ふのが本當だらうが、今日食用として東京では、家鴨のことを合鴨と云ふやうになった。京都では本當のあひるを略して「る」と云ってゐる。純粹(じゅんすい)の靑首はどんなに飼ひ()らしても、決して内地では産卵しないさうだ。若し産卵するのがあったら、必ず何世か前に家鴨の血が交ってゐるのだと、ある鳥通(とりつう)から聞かされた。以前は靑首は相當(そうとう)宮城の御堀にもゐたが、近年目立って少くなったのは、東京の近郊はもとより品川沖にも、餌が少くなったためであらう。不忍池(しのばずのいけ)(がん)も、容易に見られなくなった。(がん)で思ひ出すが、昔の一高の野球場に立ってゐると、夕方に不忍池から上って來る(がん)の群が、地面から僅か一二間の高さで、雁行(がんこう)して向って來る壯觀(そうかん)は、未だに眼に残ってゐる。(しか)(がん)の肉は、堅くてとても鴨に及ばない。吸物椀にするか、時を置いて柔くなった(ところ)を天火で燒くと良い。併し臓物、特に肝臓は脂が多いから()でて香料と(しお)とを入れてよく練ると(つま)みものにも、パンにも、實に旨い。雁ではないが鵞鳥(がちょう)の肝を練ったゲンゼーレバーステーテーは、ストラスブルグの名物と云はれた位旨いものであった。

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承前

 (うずら)(しぎ)も秋に渡って春は(かえ)って行く鳥だが、(ばん)反對(はんたい)に春來て秋には(かえ)って行く。春來るのは日本で()(いとな)むためである。鷭の旨いのは營巢(えいそう)を始める前より、秋に大きな西風が吹けば、南へ歸らうとする時分の方が良い。春は繁殖の關係で小魚を主として喰べるし、秋は穀類を多く喰へるからである。(ばん)は脂が少くて一般にそれ程賞味さらないか、御狩場燒(おかりばやき)にすると可なり旨い。鴫のやうに燒くのには、骨が大きくて堅いから餘り向かない。フライ鍋で植物油で燒いたら良ささうに思ふが、遂に今日迄その機會がない。春から初夏の頃、眞菰(まこも)河骨(こうほね)の中から尾を上げ下げして(かく)れたりする姿が、如何にも可憐で、眺めてゐる方が喰へるより良いやうな氣がする。

 小鳥で旨いのは(あお)じと、(すずめ)であらう。(つぐみ)赤腹(あかはら)も旨いが靑じには及ばないと思ふ。明治時代には目白の鬼子母神(きしぼじん)の境内に、有名な燒鳥屋があった。恐らく昔あの(あたり)で獲れた小鳥類を、燒いたのが始めだらう。ここの燒き方は小鳥類の丸燒だが、燒く時に一寸胡痲(ごま)油をつけて燒いてゐたやうだったが、普通の燒鳥より確かに旨かった。震災後に何年振りかで行った時は、料理屋風になって、もう昔の面影はなかった。(うずら)でも(つぐみ)でも(すべ)て小鳥は、毛を引く時に皮ごと()いたのでは味が丸で落ちるから、どんなに面倒でも、羽毛だけは丁寧に皮を(きずつ)けないやうに()かなければいけない。小鳥許りではなく肉の好い味は皮と肉との間にある。(かも)の如きも格段に違ふ。(いのしし)の肉も毛を剃刀(かみそり)()るのでなければ、毛根の(ところ)の良い味は捨てられる。

 鶫の多く獲れるのは、日光、金澤から木曾、岐阜へかけての丘陵であらうか。北から渡って南下する秋の中頃がしゅんである。夏の間から鳴きつけた囮を鳴かせて、網で獲るのだが、その網場で燒いて喰へるのも一興だ。多くは獲れないが、東京でも高井戸(あたり)りに網場を造ってゐる人もあったし、少し足を延して玉川を渡った丘陵地帶には、專門(せんもん)の網場があって、每朝小鳥獵が催された。これ等は大凡(おおよそ)石川縣の人が多かったから本家は金澤だと思ふ。囮の良いのを飼ひ馴らすことが難しいが、それは昔から金澤地方の人が上手である。この金澤に鶫を主にした料理に、じぶ煮と云ふ旨い料理法がある。金澤で料理屋へ特別に註文すれば出來るか知れないが、家庭料理が主なやうだ。(つぐみ)を四切れ位に骨ごと切って、饂飩粉(うどんこ)でまぶしたのを、良い味のだし汁の煮えてゐる中へ入れて中迄火がやっと(とお)ったか位の處で上げて、その汁と共に小碗に盛ったものである。熱いうちが實に旨い。金澤ではじぶ碗と云ふ碗迄出來てゐると云ふ。この煮方は(つぐみ)に一番適してゐると云ふが小鴨や靑首にも良い。雪の多い金澤で、冬の夜、火傷(やけど)するやうな(つぐみ)のじぶ碗を吹き吹き(つづ)る情調は、想像しただけでも旨さうである。このじぶ煮は他の小鳥類にも適するし、鳩や(きじ)にも向く料理だ。


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承前

野鳥の味

 

 震災前に霏本橋の電車通りから僅か東に入った處に、島村と云ふ小料理屋があった。一寸見るとしもたやのやうに見える家だったが、ここの(うずら)の吸物は有名なものであった。うづらを叩いて小さな團子(だんご)に丸めたのを一寸味附(あじつけ)をして、別に(こしら)へた實に良いだし加減の澄んだつゆに、二ッ三ッ入れてある鶉碗(うずらわん)であった。震災後四谷鹽町(しおまち)の横町にあった、丸梅と云ふ腰掛けの小料理屋では、(うずら)(きも)ばかりの吸物を出して呉れた。鶉料理の双璧と云ふ處だらう。(しか)しどちらも鶉のあの何とも云へない良い獨得(どくとく)の肉の香りは少ないから、野鳥の持つ特異の香の中で、親しみ味はうと云ふ料理屋ではないやうだ。それは鶉の足をそのまま腰の處から切り離して、股から上の大きな骨のある處を、骨の中の(ずい)の旨い味を散らさないやうに、少し叩いて食べ易くすると同時に、股へ脂が乘って白く見える處を(きずつ)けないやうに足ごと燒くのが最も良い。一羽から二本とれるが、(のこ)りの胸の肉は骨ごと叩いて平たく延ばして燒くのが旨い。これも骨の中の髓の味が、肉に浸み込んで何とも云へない良い味になる。嚙みこなせるなら叩くよりはその方が旨いことは云ふ迄もない。

 私は江戸料理はけなすけれど、江戸風の鶉料理だけは旨いと思ふ。このやうな叩き(うずら)に味をつけて空煮にしたのであって口取り等にあしらってある。胸や足の處は叩いて、平たく延ばして二皿に分け、一皿毎に(うずら)の羽根をわざと乘せてあるのは、少々氣障(きざ)ではあるが、羽根を見たり足を見たりすると(うずら)だなと思はれて、(そそ)られる味覺、それだけで喰べないうちから旨い。(うずら)も他の野鳥と同様に、全部を叩いて味をつけたのを、平たく薄い杉板の上に延して、杉板の(まま)燒く杉燒(すぎやき)も、勿論どの鳥よりもおいしい。板は薄い程早く燒ける。野鳥の中で(うずら)位旨い鳥はないから、どんな料理にしても可ならざるはなしと云って良からう。それにしてもあれだけ味覺の發達した支那人(しなじん)が、何故鶉を賞味しないのか。いやするのだらうが、鶉を料理するやうな高級な支那料理を私が知らないためであらうか。(しか)し、秋も九月頃から始まる網で取る旅順の鶉獵(うずらりょう)は、多獲で有名だが、渡り鶉で痩せてゐるから、内地鶉(ないちうずら)程に(あぶら)が乘ってゐなくて旨くない。奥地から段々移って來た鶉は、遼東半島の突端(とったん)旅順附近より海を越えて南へ行くのださうだ。だから獲れる季節が誠に短い。

 鶉の(りょう)には色々(かわ)った獲り方がある。旅順のやうに網を張って取るのもあるが、銃獵の好きな人は鶉獵(うずらりょう)位鳥撃ちの醍醐味はないと云ってゐる。同じ鐡砲(てつほう)()ちでも唯餘計(よけい)獲れるのが面白い、大きな獲物が欲しい、と云ふ人達は、鴨獵(かもりょう)や、雉、山鳥、猪、鹿を()ふのが面白いだらうが、犬を使ふ高尚な鳥打ちは鶉獵(うずらりょう)に限る。鶉は決して林の中や、高い樹や(けわ)しい山につくのではなくて、平原が好きだ。枯れ(すすき)の中や、低い草むらや、ぼさや、河原の草につくから、獵犬(りょうけん)の動作がすぐ眼の先に見えてゐる。犬の尾の振り方、素振り等で、ここにゐるなと云ふことが判斷(はんだん)出來る。鳥は容易に飛び出さないから、時間がかかる。それを待つ間の樂しみは何とも云へない。犬は鳥を見附けると、そのまま硬直したやうに動かないで、鳥を狙って主人から良しと云ふ掛聲(かけごえ)のかかるのを待ってゐる。實に鶉射ち位一羽の鳥で永く樂しめる醍醐味はない。犬の鼻先にゐると(きま)ってゐて、吾々にはどうしてもその鳥が見えない。(しか)鶉獵(うずらりょう)の名人は犬なしでこの鳥を見附けて投げ網で捕る(りょう)がある。

 秋に渡って來る田鴫(たしぎ)も、鶉と()んど同じ料理で喰べるのだが、これも實に旨い。鶉よりも骨格が華奢(きゃしゃ)だから、叩かずに骨ごと喰べられる。特に頭骨が薄くて弱いから、燒いたのを、長い(くちばし)を持って、(のう)を骨ごと(かじ)るのが旨い。田鴫は秋十月に北から渡って來るが、近來東京附近には餘り渡って來ない。附き場が亡くなったのと、(えさ)がないのとの二の原因だらう。化學肥料では、(しぎ)の好む虫類の、その又餌が田に無くなったから、三段の原因で田鴫(たしぎ)の渡りが(すくな)くなったのだらう。鴫の附き場で鳥打仲間に有名だった志村の田圃も、餘す處なく工場地域と變ったし、(わらび)から浦和へかけても工場や住宅が建て(つらな)った。明治時代、秋にはこの(あたり)に張り網が盛で鴫は膸分獲れたから、屋台店(やたいみせ)燒鳥屋(やきとりや)にも出たものである。

 (うずら)(しぎ)も秋に渡って春は(かえ)って行く鳥だが、(ばん)反對(はんたい)に春來て秋には(かえ)って行く。春來るのは日本で()(いとな)むためである。鷭の旨いのは營巢(えいそう)を始める前より、秋に大きな西風が吹けば、南へ歸らうとする時分の方が良い。春は繁殖の關係で小魚を主として喰べるし、秋は穀類を多く喰へるからである。(ばん)は脂が少くて一般にそれ程賞味さらないか、御狩場燒(おかりばやき)にすると可なり旨い。鴫のやうに燒くのには、骨が大きくて堅いから餘り向かない。フライ鍋で植物油で燒いたら良ささうに思ふが、遂に今日迄その機會がない。春から初夏の頃、眞菰(まこも)河骨(こうほね)の中から尾を上げ下げして(かく)れたりする姿が、如何にも可憐で、眺めてゐる方が喰へるより良いやうな氣がする。

 小鳥で旨いのは(あお)じと、(すずめ)であらう。(つぐみ)赤腹(あかはら)も旨いが靑じには及ばないと思ふ。明治時代には目白の鬼子母神(きしぼじん)の境内に、有名な燒鳥屋があった。恐らく昔あの(あたり)で獲れた小鳥類を、燒いたのが始めだらう。ここの燒き方は小鳥類の丸燒だが、燒く時に一寸胡痲(ごま)油をつけて燒いてゐたやうだったが、普通の燒鳥より確かに旨かった。震災後に何年振りかで行った時は、料理屋風になって、もう昔の面影はなかった。(うずら)でも(つぐみ)でも(すべ)て小鳥は、毛を引く時に皮ごと()いたのでは味が丸で落ちるから、どんなに面倒でも、羽毛だけは丁寧に皮を(きずつ)けないやうに()かなければいけない。小鳥許りではなく肉の好い味は皮と肉との間にある。(かも)の如きも格段に違ふ。(いのしし)の肉も毛を剃刀(かみそり)()るのでなければ、毛根の(ところ)の良い味は捨てられる。

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