柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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○親元 四郎

○廣顯 五郎

    『尊卑分脈』には、子として、●親顯○冬光の名前がある。

○貞繁

    『尊卑分脈』には記載がない。但し、『稿本もりのしげり(毛利家関係文献)』(時山弥八編・大正5年)の「毛利家系図」には、記載がある。

 


 

毛利氏第六世代

 

○妙玄 僧となる。『寛永系図』、第四子に僧妙雲をかけて妙玄をいはす。同人なるべし。

    『尊卑尊脈』には、「妙雲」とあり、「親茂」の次に記載。『稿本もりのしげり(毛利家関係文献)』(時山弥八編・大正5年)の「毛利家系図」は『尊卑分脈』と同じ。

●親衡 初、親茂 孫太郎 備中守 陸奥守 従五位下 入道号寶乗
『尊卑分脈』には、「陸奥守、改め親衡 法名寶乗 備中守と号す」とある。
元徳二年(1330、三月五日、祖父了禅、相伝の所領のうち安芸国吉田荘(吉田麻原[をはら])を譲りうく。元弘三年(1333、北朝、正慶二年)、後醍醐天皇、伯耆国船上(ふねのうへ)に潜幸のとき、一族ことごとく越後国にあり。親衡は安芸国に在邑せしかば、綸旨をたまふによりて船上にはせまいりて官軍にくはゝる。建武元年、親衡越後国にありといへども、千種忠顯が弟佐渡国司某とこころをあはせ宮方となる。延元元年(1336)十月、山門の宮方没落のとき、男元春、等持院尊氏より親衡が罪、恩免の御教書をまうしこひ、十一月、親衡、尊氏に降る。このとき男元春より麻原郷をうけて生涯の領知とす。正平五年(1350、北朝、観応元年)、足利直冬、築紫にをいて謀反のとき、親衡、宮方となりて、これに応ず。文中三年(1374、北朝、応安七年)、大内介弘世入道道階、安芸国に打入。ときに親衡をよび二男匡時、三男直元とともに宮方となり、道階に応じ、吉田麻原に五箇所の城郭を構へ、嫡男元春と相わかれて父子合戦にをよび、天授元年(1375、北朝、永和元年)八月、卒す。

○某 宮内少輔

   『尊卑分脈』には、「親茂」の上、二番目に記載。『稿本もりのしげり(毛利家関係文献)』(時山弥八編・大正5年)の「毛利家系図」には、ただ「男子」とのみ記載。

○某 近江守

   『尊卑分脈』には、「近江寺」とあり、一番に記載。『稿本もりのしげり(毛利家関係文献)』(時山弥八編・大正5年)の「毛利家系図」には、ただ「男子」とのみ記載。

 

 

毛利氏第七世代

 

●元春 初、師親 少輔太郎 備中守 右馬頭 従五位下 入道号元阿 母は三田入道某が女。
建武二年(1335)の春、曽祖父了禅、老衰せるにより、軍役をつとむることあたはず、髙尾張頭師泰に就て元春を代官として武家にまいらす。このとき元春元服して少輔太郎師親と名のる。(時に十三歳)八月、等持院尊氏、関東進発ののち元春所領安芸国吉田に下るいへども、すでに美濃判官全元、後醍醐天皇より、かの地の地頭職をたまはる。よりて其地をうしなひ、わづかに外祖父三田入道某をたのみて其国にあり。十一月、武田兵庫助信武、武家方に属し、同国矢野の城主熊谷四郎三郎入道覚を退治す。元春、信武と力をあはせ合戦し、且、全元が代官を追おとし、吉田庄をとりかへし地頭職に復す。のち其地の琴崎山に城を築いて、これに住し、のち又、其西北郡山にうつる。子孫隆元がときに至るまで居城とす。延元元年(1336)、京師にあり、正月、尊氏鎮西に下向のとき、命によりて、桃井修理亮直常が手に属し、安芸国にとどまる。五月、尊氏帰洛のとき、高師泰が手にありて軍忠をいたす。これよりのち師泰に属し、しばしば軍功をあらはす。六月晦日、曽祖父了禅辞して安藝国に下向のとき、在京の料として河内国吉田郷山田村をよび京都の宅地二所をゆづらる。興国二年(1341、北朝、暦応四年)、曽祖父が家督を継、正平五年(1350、北朝、観応元年)、足利直冬、築紫にありて謀反す。父をよび諸弟等これに与し、宮方の旗をあぐるといへども、元春独、師泰にしたがひ、石見国にをいて所々の合戦に軍忠を抽。中にも江河の先陣、世もってこれを称す。二十二年(北朝、貞治六年)、宝筐院(ホウキョウイン)義詮より本領安堵の御教書を下さる。建徳二年(1371、北朝、応安四年)、今川伊代守貞世入道了俊、探題となりて九州に渡海し、菊地以下の宮方を討。元春、命をうけて探題に属し、九州在陣七年の久しきにをよぶといへども一度も国に帰らず。所々にをいて軍功をあらはす。

『史料綜覧』(第六巻)「建武三年(1336)十月十二日」の条に、
「十二日、尊氏、義貞北国ニ赴クト聞キ、村上信貞、小笠原兼經等ヲシテ、之ヲ撃タシム、尋(つい)デ又、毛利元春ヲシテ、父親衡ノ越後ニ在ルヲ誘降セシム、(市河文書、毛利文書)」
『尊卑分脈』に、
「貞治五年、寶匡院殿義詮之時元春抽軍忠親父寶乗幷弟匡時直衡等為宮方元春独為將軍方此時毛利家安危未決以元春之軍功安堵畢」
〔貞治五年(1366)、寶匡院殿義詮の時、元春、軍忠抽く(ぬきんでる)。父親寶乗並に弟、匡時、直衡らは宮方の為、元春独り將軍方と為る。この時、毛利家の安危は未だ決せず、元春の軍功をもって、安堵におわんぬ。〕

◎『大日本古文書』「家わけ八ノ一(毛利家文書)」(5)「足利義詮御教書」に、
  參御方、可抽軍忠之状如件
      貞治五年九月二日    (足利義詮花押)
       毛利右馬頭殿
*頭注「足利義詮、元春ヲ招ク」
◎同(6)「足利義詮安堵御教書」(切紙)に、
  參御方致忠節者、本領不可有相違之狀如件、
      貞治六年三月五日    (義詮花押)
       毛利右馬頭殿
*頭注「足利義詮、元春ヲ招ク」
◎同(七)「今川了俊(貞世)預ケ狀」に、(但し、■は不明、[]は推測、[]は辞書に無い漢字。)
 ■■■■■■■同國■■庄領家半濟、(■[]利大膳權[][][]行分)幷■立庄領家半[]事、爲所[][][]所之替、所領置也、[]先例、可致其[][]之狀如件、
      應安七年八月五日     沙彌(今川了俊花押)
       毛利右馬頭殿
*頭注「兵粮料所ノ替」
【補注】兵粮料所: 南北朝時代に幕府が軍勢発向諸国の本所領年貢を、1年を限って兵粮米にあてるよう指定した所領。年貢の半分をあてる場合が多いが、3分の1の場合もあった。南朝側の朝用分と対応した政策で、歴史的には、治承・寿永の内乱期の兵粮米を背景としたものである。1352(正平7∥文和1)7月、幕府は近江、美濃、尾張3ヵ国の本所領年貢の半分を兵粮料所として配下の軍勢に預け置くよう守護に命じ、翌8月には伊勢、志摩、伊賀、和泉、河内の5ヵ国を加えて対象国を拡大していった。(平凡社『世界大百科事典』参照)
◎同(8)「室町将軍家(足利義満)御教書」には、
於九州所々致忠節之上、去月十二日渡筑後河、抽戰功之由、今河伊與入道了俊所注申也、尤神妙、向後彌可致軍功之狀、依仰執達如件
      應安七年十二月廿四日   武蔵守(細川頼之花押)
       毛利右馬頭殿
*頭注「足利義詮、元春ノ筑後川ニ於ケル戦功ヲ褒ス」
◎同(9)「今川了俊(貞世)自筆書狀」に、
(押紙)「今河伊與守了俊自筆也」
御代官目安一[][][][]加判形候事、如何と存候也、麻生山合戰事者、以御指南、大内
問答候て、入眼[][][][]すて歸國候了、難儀時分、城山陣取事、愚意[][][][か(変体仮名)][][][]人可然申候處、以御張行、彼山に(変体仮名)取移候、踏候き、筑後河度候て後、皆宇山上事、肝要事候き、是又一向御張行候、本折城兵粮入候之事、以御意見沙汰、是又諸人存知事候、所隈陣取事、愚意通申候處、御張行候、成功候了、水島引事、可爲夜陰之由、御一身御意見候之間、無相違候、路々御同道候之事、皆人存知候、又藝州輩今度落上御堪忍候、是又目出候、如此條々ハ(変体仮名)、中々御一見狀なとまても候ハ(変体仮名)ぬか(変体仮名)と存候、毎度愚意同心に(変体仮名)御張行候故に(変体仮名)、[]遊もありし事に(変体仮名)て候しそか(変体仮名)し、此興候、度々京都[][][][]間、可御心安候哉、恐々謹言
      (永和二年)三月十一日  [][](了俊花押)
        毛利右馬頭殿
*頭注「麻生山合戦」
*同2「城山ノ陣取」
*同3「本折城」
*同4「所隈ノ陣取」
*同5「水島ノ退陣」
*同6「今川了俊、元春ノ軍功ヲ認ム」
◎同(10)「今川了俊(貞世)擧狀寫(切紙)に、
毛利右馬頭元春申本領安堵事、可被經御沙汰候哉、於鎮西、自[?、ウ冠に取]前随分致忠節候之間、如此執申候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言
      (永和二年)六月九日   沙彌了俊(御判)
*頭注「了俊、元春ノ本領安堵ヲ管領細川頼之ニ執申ス(シッシン、とりもうす)」
◎同(11)「細川頼之施行狀」に、
安藝國吉田庄地頭職事、任去貞治六年三月五日安堵御教書、可被沙汰付毛利右馬頭元春之狀、依仰執達如件、
      永和三年七月晦日     (頼之)武蔵守(花押)
      今河(了俊)伊與入道殿
*頭注「幕府、了俊ヲシテ吉田庄地頭職ヲ元春ニ付セシム」
◎(12)「室町將軍家(足利義満)下文」に、
      (義満花押)〇以下(花押1)トアルモノ皆之ニ同ジ
下     毛利右馬頭元春
   可令早領地安藝國吉田庄地頭職事
右、任曽祖父刑部少輔(時親) 法師(法名了禪)去建武四年正月十六日譲狀、可令領掌之狀如件、
      永和四年七月四日
*頭注「義満、元春ヲシテ吉田庄地頭職ヲ領掌セシム」

 

○匡時 初め匡家 宮内少輔 大膳大夫 従五位下 毛利を称し、子孫、桂・坂・光永・志道・口羽等を称す。

○直元 初め直廣 直衡 越後守 毛利を称し、子孫にいたりて有富を称す。

 

毛利氏第八世代

 

●廣房 亀若丸 中務大輔 治部大輔
安芸国東西条の戦ひに討死す。

○廣内 初、實廣 三郎 兵部少輔 毛利を称し、子孫、麻原また門田を称す。
『尊卑分脈』には、「兵部少輔、麻原と号す。廣内と改む。
●弘親(兵部少輔)→廣顯(少輔三郎)
○廣國(常陸介)→●顯衡(少輔四郎 常山桂岳と号す)
○親心(ちかむね、宮内少輔)
○廣能→●秀元(少輔五郎)
○廣頼

○忠廣 左馬助 中馬を称し、後、長屋・平佐を称す。

○廣世 左近少監 長井掃部助貞廣が養子となり、猶、毛利を称す。

○元淵 子孫、小山を称し、又、福原にあらたむ。

毛利氏第五世代

 

●貞親 次郎 左近将監 従五位下 入道号朗乗 母は長崎泰綱が女、亀谷局と称す。
建武元年(1334)、貞親、越後国にをいて阿曾宮の御謀反に与するのよしきこえしかば、勅勘をかうぶり、長井右馬助高冬にめし預けらる。延元元年(1336)、宮方に参り、山門遷幸のとき供奉し、還幸のとき出家し朗乗と号す。孫元春を憑(たの)みて安芸国に下向す。正平六年(1341、北朝、観応二年)正月卒す。
【補注】阿曽宮: 不詳。
【同2】長井右馬助高冬: 長井挙冬(ながい たかふゆ)、生没年:正和3年(1314年)-貞和3年(1347年)324日は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将・大江姓長井氏嫡流の当主、大江氏総領。通称は右馬助。(ウィキペディア參照)
◎『大日本古文書』「家わけノ一(毛利家文書)」(4)「毛利貞親自筆譲状」に、
譲與安藝國吉田郷者、自祖父寂佛之手、亡母(亀谷局)譲與、文永之譲狀、同副狀等在之、仍貞親
所譲給也、然者、先吉田郷計師親譲給者也、不可有他妨、有限年貢等可令進濟、仍譲狀如件、
〔安芸国吉田郷を譲与すは、祖父・寂佛の手より、亡母・亀谷局の譲与、文永の譲状、同じく副(添)状などこれあり、よって貞親に譲り給う所なり。然らば、先の吉田郷の計らいを師親に譲り給うものなり。他の妨げ有るべからず。限り有る年貢等、進んで済ませしむべし。よって件の如し。〕
    建武三年正月晦日      貞親(花押)
*頭注「經光、吉田郷ヲ亀谷局ニ譲ル」(尚、頭注は『大日本古文書』記載の頭注)
*同2「貞親、傳領シテ孫師親(元春)ニ譲ル」

◎『越佐史料』(第二巻)建武元年九月の条に、「是歳、毛利貞親、越後ニ於テ、大覺寺統ノ阿曾宮ヲ奉ジテ兵ヲ擧グ、仍テ、貞親、惣領長井高冬ニ預ケラル、尋デ、貞親ノ子親衡、佐渡國司千種某ニ從ヒ、越後ニ下向ス」とある。これに関して、『毛利文書』として、次に記載がある。
*頭注 「阿曾宮」
「元弘一統御代之時、建武元年元春祖父右近■■(大夫)貞親、於越後國、阿曾宮同心申御謀叛之由、就有其聞、蒙勅勘、惣領長井右馬助(高冬)ニ被預置畢」
【注釈】《元弘の南北統一の時代、建武元年(1334)、元春の祖父・右近大夫貞親は、越後国において、阿曽宮に同心(協力)して謀反したという風聞(噂)が都にまで届き、その為、勅勘(天皇からとがめ)をこうむり、一族の惣領(当主)である長井右馬助高冬に御預け(武家法における未決勾留・刑罰の1つで親族などの私人の元で拘禁状態に置くこと)にされてしまった》
「父親親衡、千種殿(忠顕)舎弟令同道佐渡國司■■(下向か)畢[おわんぬ]、其外了禪子孫悉令在國越後國畢、了■(禪)一人在京」
【注釈】《父親の親衡は、佐渡国司千種忠顕の舎弟に同道させ下向した。その外、了禅の子孫は悉く、越後国に在国させたが、了禅は一人京都に在った。》の意味と思われるだが、千種忠顕自身は、越後あるいは佐渡に下向した事実が無い為、「舎弟」を親衡の舎弟とも取れ、あるいは千種忠顕の舎弟とも取れ、浅学、本文記載の返り点(レ点、一二三点、上中下点、甲乙丙点)に従うと判読しがたい。中世漢文の読下しは難しい。
【注】千種忠顕: 千種 忠顕(ちくさ ただあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿(公家)。権中納言六条有忠の次男。千種家の祖。官位は従三位参議、贈従二位。(ウィキペディア參照)
また、同史料に、『毛利文書』として、以下の頭注があり、次の文書が揚げられている。ただし、次にあげる『大日本古文書』には、同様の文書が無い。
*同2 「時親ノ子孫、越後ニアリ」および「足利尊氏ニ應ズ」
「建武二年冬、將軍家(尊氏)於關東御一統就御中違、海道御進發之刻、武田陸奥守(マヽ下同ジ)信武未爲兵庫助之時、自關東給御教書於安藝國、建■(武)二年十一月、捧御播(幡下同じ)於矢野城、令對治熊谷四郎三郎入道蓮覺之間、元春在國藝州、依爲幸、令同心(致合戦)、上洛仕、於京都、正月十六日、合戦以後、度度致忠節畢、武田信武者籠八播(幡)山、將軍御下向九州、之刻、桃井兵部大輔(義盛)殿未修理亮殿申時、藝州爲大將御留之間、属彼御手■(可)致忠節之由、就仰罷留、自九州待付御入洛申畢」
【注釈】《建武二年(1335)冬、関東において将軍家(足利尊氏)一統(武家方)で内紛があり、海道(東海の大道)を進発(出発)した折、未だ兵庫助に就任していなかった武田陸奥守信武は、安芸国で関東より御教書を給わり、建武二年十一月、矢野城において御旗を奉じて、熊谷四郎三郎入道蓮覚を退治しようとしている頃、元春は芸州(安芸国)に居り、家運向上のために、参戦に同意し、上洛し、京都における正月十六日の合戦の後も度々忠節を尽くした。一方、武田信武は、八幡山(東広島市?)に籠り、将軍・足利尊氏が九州下向の際、未だ修理允と云わなかった桃井兵部大輔義盛を芸州の大将として留め置かれたので、(元春)は桃井の陣に加わり、忠誠を尽くすよう(安芸国に)留め置かれたので、尊氏が九州から帰還するのを待って上洛した。》
【注】武田陸奥守信武: 南北朝時代の武将。武田信政の子信時にはじまる信時流武田氏の生まれ。甲斐源氏嫡流甲斐武田氏の第10代当主。『甲斐国志』によれば、「生山系図」を引用し室を足利尊氏の姪とする。室町幕府の引付衆にも任じられた。官位は、陸奥守、伊豆守、甲斐守、修理亮、左馬頭(ウィディペキア參照)。
 『太平記(1~3)』(日本古典文学大系・岩波書店・34~36巻)の内、第二巻「大樹摂津國豊嶋河原合戦事」(114-5)武田式部大輔。尚、頭注に「信武、但し、この時、降参したのではなく、安芸守護であったから八幡を捨てて安芸に帰った『天正玄公仏事法語』《『甲斐志料集成(8)』(甲斐志料刊行会編・甲斐志料刊行会・昭和10年刊)及び『甲斐叢書(第8巻)(甲斐叢書刊行会・昭和10年刊)に収録』)》」、第三巻「正行參吉野事」(15-5)武田伊豆守、同「四條縄手合戦事
上山討死事」(17-13)(19-1012)、同「薩多山合戦事」(157-1)、同「笛吹峠軍事」(188-814)武田陸奥守(信武?)、子息・安芸守(直信?)、同・薩摩守、同・弾正少弼、同「京軍事」(244-8)とある。
【補注】『天正玄公仏事法語』: 『甲斐叢書(第8巻)(甲斐叢書刊行会・昭和10年刊)に収録』)(552-15)「信光公第六世孫信武、在尊氏將軍幕下、建武初洛中逆虜蜂起、公隔淀河一道水、布陣於城南男山、不是准陰侯嚢沙背水(韓信の作戦計略『史記』)英略也哉、數戰兵盡、纔(わずか)從七騎、當得勝利、時謂之七騎武者也、將軍且退、息兵於關西筑之前州、公亦去在藝州居之、亡何將軍再起義兵入洛、公將三軍發藝州、亦應焉、悉平殘冠、四海歸一、信武公者、清浄心院是也」
《信光公の第六世の孫である信武は、尊氏将軍の幕下にあった。建武の初め、洛中の逆虜(宮方)が蜂起した。公(信武)は淀川を挟んで、城の南の男山に布陣した。これは、淮陰侯(韓信、後の漢高祖・劉邦の武将)の「嚢沙背水の計」の如き英傑に外ならない。数度戦い兵は尽き、従うのは僅かに七騎だが、勝利した。人々は、これを「七騎武者」と云った。また一方で、将軍は撤退し、関の西、九州で兵を休ませ再起を図った。公(信武)もまた去って安芸国に居住した。何の逃げたのではない。将軍は再び義兵を募って入洛したのだ。公は、まさに三軍を募り安芸国を出発し、残党を悉く平定して、国を統一した。信武公とは、清浄心院にほかならない。》
 また『尊卑分脈』には、「延文三(1358)四卅(三年四月三十日)出家依森院殿御事也、九州探題、康永(1342-1345)天龍寺供養随兵、陸奥守、伊豆・甲斐守、兵庫頭、甲斐守護、號八福寺」とある。以下、武田氏祖・信光から系図を挙げる。
●信光(大膳大夫、武田五郎、伊豆守、法名光蓮[]又號伊澤、右大將家御時賜石禾[]庄、五郎承久亂之時、賜安藝國守護職了)
 ○朝信(弓上手、武田太郎)
 ○信忠(悪三[]郎、改高信)
→●信政(武田小五[]郎)
  →●信時(治部少輔、伊豆守)
    →●時綱(弾正少弼、伊豆守)
      →●信
宗(安木[]守護、彌六、伊豆守)
        →●信武

 ○信長(一條氏祖、弓馬就者、武田五郎、號一條六郎)
 ○信隆(岩崎氏祖、號岩崎、武田七郎)
 ○信継(岩崎八郎、石橋)
 ○信基(岩崎九郎、長[]淵)
 ○光信(岩崎十郎、岩崎、依爲嫡子譲得武田屋敷)
 ○光性
【同2】矢野城: 広島市安佐区矢野にあった山城。
【同3】熊谷四郎三郎入道蓮覚: 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。熊谷頼直の次男。通称は四郎三郎、蓮覚は法名、実名は熊谷直行。足利尊氏が鎌倉で挙兵すると、安芸国守護・武田信武も建武2年(1335年)12月に挙兵する。後醍醐天皇が指導する朝廷への不満から、毛利元春や吉川実経等を始めとする安芸の有力な豪族が尊氏方に参加。熊谷氏の総領家も足利方に従うが、分家であった蓮覚とその子直村、甥の直統らは南朝方に味方した。武田軍の東上を阻むべく、自身の築城した矢野城に籠城して、武田信武率いる足利勢との間に同年1223日、矢野城攻防戦が開始された。少数とはいえ天然の要害を利用した堅城であった矢野城に立て籠った蓮覚は、多勢の武田軍を相手に奮戦奮闘し、寄せ手の吉川師平が討死、多くの将兵が負傷、死亡した。しかし4日間の籠城戦の後、矢野城は落城。蓮覚ら一族は討死した。安芸熊谷氏は当時4つの家に分かれており、分家筋であり、血の繋がりも薄くなりかけていた蓮覚の一族は、この南北朝の混乱期に総領制からの独立を狙って、反乱を起こしたものと考えられる。(ウィキペディア參照)
【補注】熊谷氏に関しては、当時の武家習慣、情況及び上下関係などが解るので、『熊谷家文書』(『大日本古文書・いえわけ第14「熊谷・三浦・平賀家文書」の内、「熊谷家文書54・建武三年3月8日(尾張守直經上巻)桃井義盛下文」以下を挙げる。
「下    熊谷小四郎直經
   可早令領地安藝國西條鄕内寺家分地頭職(事)
  右以人依有忠、所領置也、任先例、可令領掌之狀如件、
      建武三年三月八日        修理亮(桃井義盛)花押」
  *頭注 「義盛、直經ニ安藝西條鄕内寺家分地頭職ヲ預ク」
また、同「熊谷家文書224・建武三年6月25日(支族上)尼智阿(熊谷有直後家)代朝倉佛阿軍忠狀」
「    (證判「(直義)花押」)
 安藝國三入本庄一分地頭尼代朝倉兵衛三郎入道佛阿屬當御手致軍忠事、
一、去年十二月廿三日、(安藝)矢野城合戦之時、押寄西尾頸高矢倉本、捨身命抽軍忠之条、福嶋新左衛門入道、武藤五郎入道見知候畢、
一、今年正月十二日、令發向京都、自同十三日至十六日、於(摂津)供御瀬致警固畢、
一、同十六日合戦
、於法勝寺南大門幷完谷口面、香河兵衛五郎、大多和彦太郎等同所合戦之間、令存知者也、
一、同十七日、向西坂本、致警固畢、
一、同十九日、令發向八幡面、至大將御上洛之日、抽軍忠畢、
右、軍忠之次第、證人分明之上、大將又有御存知者哉、然早欲賜御證判矣、仍言上如件、
     建武三年六月廿五日       沙弥佛阿狀(裏、花押)
 進上   御奉行所」
 *頭注 直義證判
 *同2 三入本庄一分地頭代朝倉佛阿
 *同3 矢野城ニ戦フ、見知ノ人、福島新左衛門入道、武藤五郎入道
 *同4 法勝寺南大門幷ニ完谷口ニ戦フ(法勝寺は京都白河に在った六勝寺の一つ、完谷口は不詳)
 *同5 八幡ニ発向ス
【同4】桃井兵部大輔義盛: 『太平記(一~三)』(日本古典文学大系・岩波書店・34~36巻)の内、第二巻「節度使下向事」(52-7)、同「將軍御進發大渡・山崎等合戦事」(78-2)及び第三巻「御所圍事」(70-2)に登場する。出典の部分は、「節度使下向事」の部分(建武二年11月8日)。
また、『尊卑分脈』(吉川弘文館・明治37年刊)「清和源氏」10巻95頁に記載。参考の為に「桃井氏家祖」より「義盛」までの家系図を略記す。尚、この家系は南北朝時代、争乱の時代の一族の様子を知る上で興味深い。(説明書きは読下し)
●義胤(桃井と号す。近江守、従五位下右馬允・兵部少輔、「足利四郎」(義助の子なり)義助早世の後、祖父の子と称す云々)→●頼氏(桃井三郎)
→●胤氏(「桃井」三郎次郎、実は如幻の子)→●満氏(「桃井」又二郎)
  →●尚義(「桃井」孫二郎、元弘元年鎌倉において討死)、孫二郎系桃井氏祖
    →●義通(「桃井孫二郎」、刑部大輔)
     ○義盛(修理允)
     ○胤義「桃井」孫三郎、(孫)三郎系祖
     ○直氏(四郎)
 ○如幻(僧)
 ○頼直(「桃井」小次郎、或は「本伝」に、義胤の末子「頼氏の舎弟」云々。小次郎系桃井氏祖。)
  =>貞頼(桃井六郎、実は、僧・如幻の子云々。)
*同3
 「高師泰ニ属ス」
「同建武三年五月、將軍家自九州御進發■(之)時、髙越後守(師泰)手、致忠節畢、自建武三年迄至于歓應(観下同じ)二年、越州發向所々、一ケ度不闕致忠畢、此段世以無其隠者也」
《建武三年(1336)五月、将軍家が九州より進発した時、髙越後守師泰に属し、忠節を尽くした。建武三年より観応二年(1351)まで、越州高師泰に従い転戦したが、一度だけ従わなかった。これ事は、それだけに世間に隠せない事である。》
*同4 「時親、元春ヲ代官トシテ尊氏ニ属セシム」
「此刻、了禪老體、依不叶行歩、出家仕、忍南都、自九州御入洛、參㝡前[最前]、孫少輔太郎師親、進代官、可致忠節之旨、再三令申之間、預御感畢」
《この折、了禅は老体で、歩く事も出来ず、出家して南都(奈良)に隠棲していた。(尊氏)九州より入洛の時は、最初に参陣し、孫の少輔太郎師親は代官に昇進した。忠節を尽くすと再三にわたり進言し、(尊氏より)感状を頂いた。》
*同5 「貞親、後醍醐天皇ニ供奉ス」
「此刻、元春祖父右近大夫貞親、爲□宮方、供■(奉)山門、先□皇(後醍醐天皇)御臨幸之時、出家仕、(法名號朗乗)」
《この時、元春の祖父・貞親は、宮方に属し、後醍醐天皇の山門(サンモン、比叡山)行幸に供奉し、その後、出家した。法名を朗乗と云う。》
*同6 「親衡、足利氏ニ應ズ」
「親衡令同道佐渡國司、爲御敵、令在國(越後)之間、同建武三年十月、元春依申沙汰御教書、同■(十)一月初而參御方畢、其外一族等同心」
《親衡は、佐渡国司を同道させ、御敵(宮方)に属して越後に居たが、建武三年10月、元春は、道理(沙汰)を申上げて御教書により、同月11月に、初めて尊氏の下に参上した。他の一族らもこれに従った。》
「如此、元春親祖父幷迄至一族等、悉爲御■(殿)之間、於了禪之跡者、元春一人爲代官致忠條、世以無隠、且建武三年七月了禪之譲明白也」
《このようにして、元春、親(親衡)、祖父(貞親)から一族に至るまで悉く武家方(尊氏)になり、了禅(時親)の跡を継いだ元春が、一人、皆の代官として忠節を尽くした事は、皆知る所であり、建武三年7月の了禅の譲り状は明白で確かなもである。》
*同7 「時親、安藝ニ下向ス、在京料トシテ吉田鄕山田村、京屋地ニ所ヲ元春ニ譲ル」
「建武三年六月晦日、山門合戦破之間、了禪■(爲)老體、在京爲無益之間、就高越州、其子細申入、蒙御免、下向藝州之刻、爲在京料所、吉田鄕・山田村・京屋地ニ所、(一所、北少洛堀河[路下同じ] 一所、北少洛町)先宛給畢、其外一族若黨等成敗事、家昇(督)事等、見彼狀畢、屋地ニ所、爲元春判刑(形)、令沽却赤松美作守畢、了禪之狀ニ見師貞者、飯田左衛門師貞、船中之間、召具被下向事也、(彼飯田左衛門尉師貞者、寶乗召仕、麻原鄕爲代官、去々年、應安七年死去了)」
《建武三年(1336)6月晦日(末日)、山門合戦に敗れた頃、了禅(時親)は老体の為に京都に居て何の役にも立たなかったので、高越後守師泰にその理由を申し上げ、参戦を断った。安芸国へ下向するに先だって、在京の料所(特定の所用の料にあてる領地)として、(安芸国高田郡)吉田郷山田村と京都の屋敷地として二カ所、一つは北小路堀川(下京区)、もう一ケ所は北小路町(中京区)を(元春に)与えた。その外、一族郎党などへの裁定や家督相続の事等、先の宛状に見える通りである。屋敷地二カ所に付いては、元春が証印をして、赤松美作守(貞範?、美作守護職)に売却(沽却)した。了禅の書状にある師貞とは、飯田左衛門師貞の事で、船を使ったので、供として召し連れ下向されたのである。(かの飯門師貞は、宝乗に召し仕え、麻原郷の代官をしていたが、一昨年の応安7年(1374、南朝・文中3年)に死去した。)》
【注】山門合戦: 便宜上、先ず、
『日本史年表』(岩波書店)の建武3年の事項を挙げる。
 1月、(新田)義貞・顕家ら、足利軍を破り入京。
 2月、尊氏、旗下の将士に建武政府の収公地を返す。
    尊氏、摂津打出・豊島河原で(楠)正成・義貞に敗れ、九州へ走る。
    途中室津で軍議、中国・四国の侍大将の配置を定める。
 3月、尊氏、筑前多々良浜に菊地武敏を破る。
    顕家、義良親王と陸奥へ行く。
 4月、尊氏、一色範氏らを九州に留めて東上。
 5月、尊氏、義貞・正成を兵庫湊川に破る。正成戦死。
 8月、尊氏の奏請で、豊仁親王即位(光明天皇)。
 10月、義貞、恒良・尊良両親王を伴い越前に下る。
 11月、後醍醐、光明に神器を渡す。
     尊氏、「建武式目」を定める(室町幕府成立)。
 12月、後醍醐、吉野へ移る(南北朝分立)。
 次に、
『後鑑』の建武三年
【補注】『後鑑』(あとかがみ): 室町幕府の歴史書。三四七巻、付録二〇巻。1853年成立。江戸幕府が成島良譲らに命じて編纂させた。歴代将軍の事績を中心に、1331年から1597年までの史実を編年体で叙述し、各条ごとに典拠史料を掲げる。(『大辞林』参照)
 「『太平記』伝、山門ニハ京中無勢ナリト聞テ、六月晦日、十萬餘騎ヲ二手ニ分テ今路西坂ヨリソ寄タリケル。將軍始ハ、態小勢ヲ河原ヘ出シテ矢一筋射違ヘテ引セラレケル間、千葉(貞胤、千葉介)・宇都宮(公綱[きんつな])・土居(通増)・得能(道綱)・仁科(重貞)・高梨(不祥)ガ勢、勝ニ乗テ京中ヘ追懸テ攻入。飽マデ敵ヲ近付テ後、東寺ヨリ用意ノ兵五十萬餘騎ヲ出シテ竪小路横小路ニ機變ノ陣ヲ張、敵ヲ東西南北ヨリ押隔テ四方ニ當リ八方ニ圍テ餘サシト戦フ。寄手、片時ガ間ニ五百餘騎人討レテ、西坂ヲ差テ引返ス。サテコソ京勢ハ、又勢ニ乗リ、山門方ハ力ヲ落シテ、牛角ノ戰ニ成ニケリ。」
【補注】『太平記』(日本古典文学大系・岩波書店)第二巻「京都両度軍事」188p-10に記載。
「『梅松論』伝、去程に勢洛中へ寄來るよし虚騒ぎ繁かりし間、兼日(兼ての日)、手分有て先細川の人々四國の勢を召具して内野(上京区)に(彌)陣をとる。法成寺(平安時代中期に藤原道長によって創建された寺院、中京区に法成寺跡)河原には、師直(高師直)を大將として大勢を相したが(随)へて相侍所に六月晦日拂暁に義貞大将として、大勢内野の細川の人々(細川頼春[足利氏の支流・細川京兆家]や細川顯氏・定禅親子[奥州細川氏]が集めた中国・四国の国人衆)の陣へ寄來る。身命を捨て戰ふといへども打負て、洛中へ引退く處に、敵二手に成て、大宮(現・四條大宮辺り)猪熊(同四條猪熊辺り)を下りに、所々に火を擧る。同時に師直の陣、法成寺河原に於て合戦ありしに、味方打勝けり。かゝる所に下御所大將(足利直義、尊氏の弟)として三條河原に打立て御覧しけるに、敵東寺近く八條坊門邊迄亂入、煙見へし間、將軍の御座覺束(おぼつか)な(奈)しとて、御發向あるべきよし申(もうす)輩(やから)多かりける所に太宰少弐(大宰府の次官=少弐を名字とした九州の御家人、守護職)頼尚が陣は綾小路大宮(下京区)の長者達遠が宿所にてぞありける。頼尚の勢は(八、以下同じ)三條河原に馳(はせ)集りて何方(いずかた)にても將軍の命をうけてむかふべきよし、兼て約束の間、彼河原に二千騎打立て、頼尚申けるは、東寺に勇士多く属し奉る間、假令(たとえ)敵堀鹿垣(堀や枝のついた木や竹で作った垣)に附とも、何事かあらん。御合力(加勢)のためなりとも、御馬の鼻を東寺へむけられバ北にむかふ師直の河原の合戦難儀た(多)るべし。是非に就て今日は御馬を一足も動さるべからず。先頼尚東寺へ參るべしとて、三條を西へむかふ所に敵大宮は新田義貞、猪熊は伯耆守長年(名和長年)二手にて、八條坊門まで攻下りたりし間、東寺の小門を開て、仁木頼章(兵部大輔、二郎三郎)、上杉伊豆守重能(尊氏の従兄弟)以下打て出で、攻戰ふに依て、一支もさゝ(支)へず(春)して、敵、本の路を二手にて引上る處に、細川の人々頼尚、洛中の條里を懸(馳)切懸切(かけきり)戰ひしほどに、伯耆守長年、三條猪熊に於て豊前國の住人草野左近将監(不祥)が爲に打と(取)られぬ。義貞(に)は、細川公卿定禪、目を懸て度々相近付、に義貞危く見へしかども、一人當千の勇士ども(共)、下(折)塞(ふさがり)て命に替り討死せし間、二三百騎に打な(奈)されて、長坂にかゝ(懸)りて、引(く)とぞ聞へし。南は(八)畿内の敵、作り道(サクドウ)より寄來りしを、越後守師泰、卽時に追散し、大將(大勢)打取り(る)、宇治よりは法性寺(京都市東山区本町にある浄土宗西山禅林寺派の寺院)邊まで攻入たりしを、細川源蔵人頼春、内野の手なりしを召ぬかれて、大將として、菅谷(すがたに)邊まで合戦せしめ、打散しける。竹田は、今川駿河守頼貞(後に丹後・但馬・因幡の守護職、今川氏は、足利氏御一家・吉良家の分家)大將として、丹波但馬の勢馳(せ)向(ひ)て追落す。六月晦日、数箇所の合戰、悉(ことごと)く未(ひつじ)の刻以前に打勝ける。(翌日)七月朔日、三條河原に於て首(頸)の實檢あり。數千餘とぞ聞へし。云々。」
【補注】『梅松論』下巻後段に記載がある。尚、文献としては、『群書類従』合戰部一・巻第三百七十一「梅松論」上・下(経済雑誌社・明治27年、内外書籍株式会社・昭和11年)がある。
「『名和系圖』云、長年、長田小太郎行高(親)、子長田又太郎(長年、以下皆長年)、伯耆守東市正(ひがしのいちのしょう[司、つかさ])、村上太郎左衛門尉、從四位下、本名長高俊、後醍醐天皇勅定(諚)、元弘三年閏二月廿九日夜、被任左衛門尉被下、年字同三月三日、伯耆國被宛下號、從四位位下、村上伯耆守長年、御治世之後、因幡國被宛下、因伯兩國之成主、建武三年六月晦(七月十三日)、京於内野自害、法名釋阿。」
【補注】文中、名和長年に付いては、長田又太郎、伯耆守、東市正、村上太郎左衛門尉、長高俊など、皆、名和長年の事である。
「『斯波系圖』云、信貞、小三郎行貞、子小三(太)郎、因幡守左衛門尉、建武三年六月晦日、於京六角猪熊、神本三郎太郎兼繼ガ爲ニ討死。」
以上の事から、この日、東寺山門付近で激しい戦いが在った事が窺える。

*同8 「時親、所領ノ處分」、「佐橋庄ハ敵陣相奪ノ地」
「同建武四年、任約束之旨、悉可譲給之由、元春致了禪訴詔(訟)之處、了禪如令申者、孫太郎親茂參御方畢、幷孫子等降參之上者、悉譲與師親者、自余之仁等可令無足之間、且不便之次第也、安藝國吉田庄事者、於當所有其切(功)之間、親茂一期之後可知■(行)由、被譲之間、雖歎申、菟角被仰之上、吉田鄕・山田村爲當知行之間、麻原鄕者、親々衡爲懸命、一期之間可持、越後國佐橋庄(刈羽郡)南條爲敵陣之間、麻原鄕不持者、惣可及餓死之■(由カ)了禪被計(訴カ)申之間、不及力、寶乗一期待暮畢」
〔同建武四年(1337、南朝・興国2年)、約束の旨を任じ、悉く譲り給うべきの由、元春、了禅(時親)が訴訟致すところ、了禅が申せし如くは、孫太郎親茂が御方(宮方)に参じおわんぬ、並に孫子等、降参の上は、悉く師親(後に元春)に譲与するは、自余の仁等、無足(所領や給地を持たない)せしむべきの間、且つ不便の次第なり。安芸国吉田庄の事は、当所において、その功を有すの間、親茂一期の後、知行すべき由、譲られるの間、歓び申すといえども、兎に角、仰せられの上、吉田郷山田村、当知行となすの間、麻原郷は、親・親衡、懸命をなす、一期の間、持つべし。越後国佐橋庄南條は敵陣をなすの間、麻原郷は持たざる者、たちまち餓死に及ぶべきの由、了禅、訴え申せらるの間、力及ばず、寶乗(親茂、後に親衡)、一期待ち暮らしおわんぬ。〕
《どうも話が複雑だが、了禅(時親)は約束(元春との約束か?)したので、元春に(所領と給地)総てを譲るが、子の貞親は宮方として山門(比叡山)に籠り、孫の親茂(親衡)も宮方に与し、降伏したので、他の一門一族の者も、所領や給地を失う事になって非常に困った状況になってしまった。安芸国吉田庄については、元春に軍功があったのだから、親茂の死後、元春の知行とするのは当然でうれしい事だが、兎に角、吉田郷山田村を当面の知行とし、麻原郷については、親衡(貞親)が懸命に守ったのだから、死ぬまでは知行にして良いだろう。越後国佐橋庄南條は、敵陣(宮方)の中になったいるので、麻原郷が無ければ、収入が無く餓死しかねない、と了禅が訴えられるのだが、了禅の思う様にはならず、寶乗すなわち親茂(親衡)は、最後まで吉報(自分の所領になる事)を聞く事も無く没した。》
*則注 「吉田庄土貢ヲ注」
*頭注9 「佐橋南條ハ二千貫ノ地」
「了禪之跡所領、越後國佐橋庄南條地頭職、安藝國吉田庄地頭職、河内國加賀田鄕地頭職、此等三ヶ所也、佐橋南條者二千貫、吉田庄者千貫、加賀田鄕者二百貫之地也」
〔了禅の跡、所領は、越後国佐橋庄南條地頭職、安芸国吉田庄地頭職、河内国加賀田郷地頭職、これら三ヶ所なり。佐橋南條は二千貫、吉田庄は千貫、加賀田郷は二百貫の地なり。〕
【補注】貫(高): 土地の面積、その年貢の量を銭(貫文)で表した。時代は違うが、戦国時代、甲斐武田家の例では、一貫=籾一石との研究がある。
「歓(観)應元年、父親親衡起謀叛、罷成御敵之刻、元春爲御方之處、藝州先守護武田信武、吉田庄地頭職内、吉田鄕者、爲元春當知行、爲御方之上者、不及子細、於麻原鄕者、父親親衡爲知行之地之上者、可爲闕所之由令申、入代官、致違亂之間、髙越州下向備後國之時、就歎申、武田方越州依被遣狀、知行無相違者也」
〔観応元年(1350、正平5年)、父親・親衡、謀反を起し、御敵(宮方)にまかり成るのとき、元春、御方(武家方)と為るのところ、芸州・先の守護・武田信武、吉田庄地頭職の内、吉田郷は、元春の当知行と為し、御方を為す上は、子細に及ばず、麻原郷においては、父・親衡知行の地と為すの上は、闕所と為すの由、申すべく、代官を入れ、違乱致すの間、髙越州(越後守・高師泰)、備後国・下向の時、歎き申すに就き、武田方、越州、状を遣わされるにより、知行、相違なきものなり。〕
*同10 「貞親、遁世シ元春ヲ慿[たの]ミ安藝ニ下向ス」
「宮内少輔入道・近江守・上總介等申本領之間、祖父右近大夫貞親(法名朗乗)、建武三年十一月出家遁世仕、憑元春下向藝州之間、吉田鄕内上村、麻原鄕内山田村、爲時料所、朗■(乗)一期有知行之由、令申之處、彼上村・山田村兩村、三人ニ、朗乗一期之後、爲永領可知行之旨譲與之由承、爲御敵出家遁世之仁之譲狀、不可立者也、但親衡有去狀云々、此與之儀者哉、朗乗于元春去狀雖有所望依不出也」
〔宮内少輔入道・近江守・上野介等、本領を申すの間の事、祖父右近大夫貞親(法名朗乗)、建武三年(1336、南朝の延元元年)十一月、出家遁世仕り、元春を憑(たの)み、芸州へ下向の間、吉田郷内・上村、麻原郷内・山田村、為時(?)料所、朗乗、一期知行有るべきの由、申せし処、彼の上村・山田村両村、三人に、朗乗一期の後、永領となし知行すべきの旨、譲与の由承り、御敵となり出家遁世の仁の譲り状、立つべからざる者なり。但し親衡去り状を有す云々、この与の儀の者か、朗乗、元春去り状において、所望有といえども、出さざるに依るなり。〕

毛利家第四世代

○基親 初基頼 左近蔵人 入道号膽佛
『尊卑分脈』には、左近将監、「本頼」とある。以下その子孫。
●時元(丹後守、従五位下)→●経高(左近将監、従五位下)
○經親(左近将監、左近蔵人、従五位下、始め「泰秋」、後「甲斐守」と号す、法名・寂雲、『続千載和歌集』『新拾遺和歌集』等の作者)→●重經(三郎、掃部助)

○時元 左近大夫 因幡守 熱田大宮司たり。
『尊卑分脈』に記載なし。また『稿本もりのしげり(毛利家関係文献)』(時山弥八編・大正5年)の「毛利家系図」には、次の「政光」と共に記載有り。

○政光

●時親 四郎 修理亮 刑部少輔 従五位下 入道号了譚 (寛永系図・基親が兄とす)
文永七年(1270)七月十五日、父が相伝の所領をゆづりうけ、のち六波羅評定衆に列し政務を沙汰す。このとき在京の料、河内国加賀田郷をたまはる。元弘の乱には所領越後国にあり。建武のはじめ男貞親等をよび、一族多く宮方となる。時親このとき京師にありて志を武家に通ず。等持院尊氏、九州下向のとき、老身供奉することあたはず、よりてしばらく南都に隠る。延元元年(1336)尊氏帰洛あり。これより先、曾孫・元春を代官として武家にまいらせ、無二の忠節をいたす。このとし時親、行歩かなはざるにより、尊氏の恩許を得て所領安芸国高田郡吉田に下向し、越後国刈羽郡佐橋庄、河内国錦部郡加賀田郷をあはせ三千二百貫文の地を領す。興国二年(1341、北朝、暦応四年)七月六日卒す。

『尊卑分脈』に、以下の記載がある。
「建武二年従尊氏領安芸吉田郷地頭職京屋地二箇処矣、建武三年六月晦日山門合戦破之間、了禅為老体在京為無益之間、就尊越州申入其子細蒙御免、下芸州之刻、為在京料吉田郷山田村京屋地二箇所一処北小路堀川一処北小路町充行給畢○了禅所領越後国佐橋庄南條地頭職安芸吉田庄地頭職河内国加賀田郷地頭職此等三箇処也。佐橋南條者二千貫吉田庄者千貫加賀田郷二百貫之地也。了禅之時吉田下向也。」
《建武二年(1335)、尊氏に従い、安芸吉田郷地頭職、京の屋地二カ所を領す。建武三年六月晦日、山門合戦の破れし間、了禅老体の為、京に在り、これを益する無き間、尊(氏)越州に就き、その仔細を申し入れ、ご免蒙り、芸州に下るとき、在京料の為、吉田郷山田村、京屋地二箇所、一処・北小路堀川、一処・北小路町、充て行い給った[](た、おわんぬ)〇了禅の所領は、越後国佐橋庄南條地頭職、安芸吉田庄地頭職、河内国加賀田郷地頭職、これ等三箇処なり。佐橋南條は二千貫、吉田庄は千貫、加賀田郷は二百貫之地なり。この時、了禅は、吉田に下向した。》
◎『大日本古文書』「家わけノ一(毛利家文書)」(3)「毛利時親譲状写」元徳二年(1336)に、
譲與
 安藝國吉田庄(吉田麻原)兩郷地頭職事
右地頭職者、爲時親重代相傳所領之間、所譲與孫子毛利孫太郎親茂也、不可有他妨、祇園一切經會、關東御公事等、無懈怠可令勤仕之、仍譲状如件、
〔譲与
 安芸国吉田庄、吉田・麻原両郷地頭職の事
右地頭職は、時親重代相伝す所領のあいだ、孫子毛利孫太郎親茂に譲与するところなり。他の妨げ有るべからず。祇園一切経会、関東の御公事ら、懈怠なくこれに勤仕せしむべし。よって譲状、件の如し〕

    元徳二年三月五日       時親(花押)
【注】元徳二年: 翌年、元徳三年(1331)8月9日に、南朝の元弘元年が始まる。
*頭注「時親、吉田麻原兩郷ノ地頭職ヲ孫親茂(親衡)ニ譲ル」
 
【補注】麻原郷: 現在の広島県高田郡甲田町上小原・下小原付近。
*同2「祇園一切經會」
 
【補注】祇園一切経会: 京都の祇園社(今の八坂神社)の一切経会。経典を書写、奉納する経供養として、平安期に恒例となった法会。(『日本国語大辞典』参照)
*同3「關東御公事」
 
【補注】関東御公事: 鎌倉幕府の御家人(ごけにん)が首長(鎌倉殿(かまくらどの))に対して負う奉公義務、すなわち御家人役全般と同義に用いる場合もあるが、とくには、それから軍役を除外し、経済的義務に限定していう。その内容は、鎌倉御所用途、内裏(だいり)・寺社などの修造費、篝屋(かがりや)用途、防鴨河堤役(ぼうかもがわつつみやく)(京都鴨河の堤防を修築する役)、駅家雑事(うまやぞうじ)以下、朝廷の課す公役と幕府が独自に課す武家役双方の系統を引く恒例・臨時の雑税で、銭納を原則とし、幕府政所(まんどころ)で統轄された。賦課の形式は、所領内の公事田数に応じて御家人単位にあてがわれ、惣領(そうりょう)の支配のもと一族、庶子(しょし)が分担した。もっともこうした事例を幕府草創期に確認することはできず、関東御公事の制は承久(じょうきゅう)の乱後に制度化され、さらに寛元(かんげん)年間(124347)を待ち、法的にも完成されたと考えられる。(『日本大百科全書』参照)
また、『史料綜覧』(第六巻)「延元元年(1336)七月」の条に、
「毛利時親、安藝吉田郷山田村、及ビ京都屋地ヲ曾孫元春ニ譲與ス、(毛利家文書)」

〇親忠 四郎 蔵人 伯耆守 従五位下

〇親宗 六郎
『尊卑分脈』に子・了嚴(僧正)に記載有。

〇女子 少輔助太郎正廣が妻。

日本外史ヨリ毛利氏ニ関スル記事ヲ左ニ抜抄ス

〔『日本外史』より毛利氏に関する記事を左に抜抄す。〕

  (第三子曰)季光[従五位下](為)左近将監[安藝守号西阿為評定]
〔第三子を季光といい、[従五位下]、左近将監となり、[安芸守、西阿と号し、評定(衆)になる]

食相模毛利荘因氏(焉)娶三浦氏死(於)其難[一作秀光]
〔相模の毛利荘を食む。因って氏とす。三浦氏を娶って、その難に死す。[一に秀光と作る]
(季光子)経光。(出鎌倉)[左近将監]、居越後南荘
〔季光の子の経光、鎌倉を出でて、越後の南荘に居る。〕
(経光子)時親[称修理亮](復起)為六波羅評定衆足利尊氏滅六波羅加賜時親以安藝吉田及河内利田(時親生貞親、貞親生親茂、・・・)
〔経光の子の時親、[修理亮と称す]復起きて六波羅の評定衆と為る。足利尊氏、六波羅を滅し、時親に加賜するに安芸の吉田及び河内の利田を以てす。〕
【註】この部分は、『日本外史』巻之十二、「足利氏後記」の「毛利氏」にある。岩波文庫『日本外史』(中)の249頁を參照。
【補注】()の部分は欠落、[]の部分は外史には無い。上記の所を念に為に記すと、「第三子曰季光、為左近将監、食相模毛利荘、因氏焉。娶三浦氏死於其難。季光子経光。出鎌倉。居越後南荘。経光子時親。復起為六波羅評定衆。足利尊氏滅六波羅。加賜時親以安芸吉田及河内利田。」である。

[][元弘三年五月七日]、高氏意益々決、抵京師。乃密使使伯耆請降。帝素聞其家聲、則大悦、賜使者、以 []、敕[]曰諸国官軍汝其師[]之以滅国賊賊滅之後賞當従所謂(中略)高氏[]兵南攻六波羅[自祈戦勝納一矢於廟]云々ト
〔また[元弘三年(1333]五月七日、高氏、意益々決し、京師に抵(いた)る。乃[]ち密かに使いを伯耆につかわして降るを請う。帝、素よりその家声を聞き、則ち大いに悦び、使者に賜うに、邑をもってし、勅(みことのり)曰く、「諸国の官軍、汝、それこれを帥(ひき)い、もって国賊を滅ぼせ。賊滅ぶるの後、賞は当に謂う所に従うべし」と。(中略)「高氏、兵を引いて、南のかた六波羅を攻めんとし、自ら戦勝を祈り、一矢を廟に納む。」云々と〕
【註】[]は著者の加筆。[元弘三年(五月七日)]の部分は、巻之六「新田氏正記」の「新田氏」の新田義貞の挙兵の部分にあり、岩波文庫版では(上)342頁に有り、続く部分は、巻之七「足利氏正記」の「足利氏上」の高氏が六波羅を討つ経緯の所からの引用であり、中略後も含め岩波版では(中)12頁からの引用である。
【補注】記載方法は前補注と同様。参考までに、中略を原文を挙げると、「
而名越高家後至、與官軍将源忠顕・赤松則村、戦于狐川敗死。高氏方張宴于桂川西。指一仏舎、問其名。或答曰、勝持寺。高氏西曰、我将勝而持之矣。乃声言往攻行在、遂上馬行入丹波。三年四月廿七日、至篠村、建旗于八幡廟前。州人久下時重、以二百騎、先至。旗号一番字。高氏見之問故。対曰、右大将之起臣祖重光、先衆而至。右大将親書賜焉。遂以為号。高氏大喜曰。我家之嘉兆也。五月七日、」である。

故ニ時親ノ安藝吉田ヲ領シタルハ元弘三年以後ニシテ毛利氏ノ中国ニ勢力ヲ得ルニ至レル根源ハココニ存スルト知ルベシ
《そこで時親が安芸吉田を領有したのは、元弘三年(1333)以後のことで、毛利氏が勢力を得たのは、「元弘の乱」中「六波羅攻め」に始まりがあったと考えるべきであろう。》

  貞親左近将監属官軍
〔貞親(左近将監)、官軍に属す〕

  親茂備中守属官軍
〔親茂(備中守)、官軍に属す〕

  師親隷新田義顕、義顕為足利氏将高師泰所滅(中略)属師泰(延元三年)師親去属師泰、師泰之改石見敵阻却川、師親與高橋某先衆乱流抜三城以功盡食吉田邑及師泰敗属山名時氏
〔師親(毛利元春)、新田義顕に隷(属)し、義顕、足利家の将・高師泰の為に滅ぶ所、(中略)師泰に属し(延元三年[1338])師親、去って師泰に属し、(?)、師親、高橋某と衆の乱流に先だって、三城を抜き功を尽くすを以て、吉田邑を食み、師泰の敗するに及び、山名時氏に属す。〕
【補注】(?)「師泰之改石見敵阻却川」の部分の解釈、特に師泰が石見国に行った事実が確認できず、また読下し文としても浅学で読下せない。】

  匡親宮内少輔 直衛為越後守
〔匡親(宮内少輔)、直衛、越後守と為る〕

  (右ハ関氏ノ調査ナリ)
《右(上記)は、関(甲子次郎)氏の調査である》
【補注】上記の出典は、未確認だが、関甲子次郎著作『柏崎文庫』の第一巻「年代記1」(神代より九十七代 後村上天皇 正平23年(1368)まで)ではないかと思われる。

 

経光ヨリ時親貞親親茂匡時等相傳ヘ居リシガ元弘二年匡時ハ護良親王ヨリ令旨ヲ賜ハリタリ

《経光より時親、貞親、親茂、匡時(まさとき)等が毛利家を継承して来たが、元弘二年、匡時の時、護良(もりなが)親王(後醍醐天皇の皇子)より、次のような令旨(リョウジ)を賜った。》

今度信越大将仰付候依而所領緋縅之鎧可相遣候依如件 内宮 匡時ぬしへ
〔この度、信越の大将を仰せ付け候。依って、所領、緋縅(ひおどし)の鎧、相遣わすべく候、依って件の如し 内宮 匡時主へ〕
【註】匡時:『尊卑分脈』によれば、親茂の二男。宮内少輔、大膳大夫、従五位下。
【補注】この令旨に関する出典不詳。『越佐史料』、『毛利家文書』あるいは『日本外史』に該当する文献が無い。調査継続。

亦成良親王ヨリ感状ヲ玉ハル

《また、成良(なりなが)親王より(後醍醐天皇の皇子)、感状を賜る。》

  今度高時征伐大刻抜群之働依而太刀一腰可相遣者や

    元弘二年八月十五日  成良

    郷原直衛
〔この度、高時の征伐、大いに刻し(大変厳しかった)、抜群の働き、依って太刀一腰(一振り)相遣わすべきものや
  元弘二年(1332)八月十五日 成良(なりなが)
  郷原直衛〕
【註】郷原直衛:『尊卑分脈』によれば、親茂の三男。越後守、号・有富、始め直広。
【補注】先の令旨同様、出典不詳。調査継続。

其後護良親王ヨリノ左ノ感状ヲ玉ハル

《その後、護良親王より、次のような感状を賜る》

  今度信越両国徴義兵候所其許之働抜群者也依而信濃国筑摩郡郷之原郷永七百六拾貫文洗馬郷永二百拾五貫文処可致加恩者也

              左中将  新田義貞

    匡時殿へ
〔この度、信越両国、義兵を徴し候ところ、そこもとの働き、抜群のものなり。よって信濃国筑摩郡郷之原郷の永七百六拾貫文、洗馬郷の永二百拾五貫文を加恩致すべきところのものなり。
            左中将  新田義貞
  匡時殿へ〕

宗良親王ノ令旨

宗良(むねなが)親王(後醍醐天皇の皇子)の令旨》

  来ル六日越後国之南庄地方軍兵相集可仕右執如件

    戊十月一日     宗良

    直衛殿へ
来る六日、越後国の南庄地方の軍兵、相集り右執り仕るべし、件の如し
  戊(戊寅[つちのえとら]?)十月一日   宗良
  直衛殿へ〕

【補注】戊年は、戊寅(つちのえとら)、1338年、延元3年[北朝]暦応元年[南朝]の事か、あるいは、戊子(つちのえね)、1348年、正平3年[北朝]貞和4年[南朝]か?

 

之等ノ古文考ニ依レバ匡時直衛ノ兄弟ハ勤王家ニシテ新田氏ニ属シ其功多ク信越ノ内ニ勢威ヲ振ヘ居タリシガ新田氏ノ衰フルヤ直衛ハ信州上高井郡小布施村ニ移リ其子孫郷原姓ヲ名告匡時ノ霊ヲ祀リ郷原神社ト尊称シ今尚ホ存ス

《これらの古文考によれば、匡時・直衛の兄弟は、勤皇家であり、新田氏に属して、その時の軍功が多く、信越の両国で武威を振るっていたが、新田氏の勢力が衰え始めると、直衛は信州の上高井郡小布施村に移住し、その子孫は、郷原姓を名乗り、郷原神社を建立して匡時の霊を祀った。今もその神社は、同地(小布施町大字押羽)に受け継がれている。》

以上ハ関氏ノ考査セラレタルモノニシテ以テ匡時直衛ノ勤王家ニシテ当地方ト関係浅カラザルヲ知ル

《以上は、関甲子次郎氏が調査研究されたもので、これ等から匡時・直衛兄弟が、勤皇家として、当地(鯖石一円)と深い関係があった事を知ることができる。》

コヽニ匡時直衛ニ関係深キ信濃宮即チ宗良親王ノ信濃御在穏ノ年月及状態ヲ添記シ仝好ノ士ノ参考トス

《そこで、匡時・直衛兄弟に関係が深い信濃の宮、すなわち宗良親王が信濃に御在隠(隠れ住んだ)年月と状況を史料などより書き加えて、同好の人々の参考にしたい。》

遠江風土記ニ興国年中宗良親王越中ヨリ信濃ヘ移リ爾後吉野ヨリ諸国ヲ巡リ往来数十年勤労回マズ天援六年ノ夏ノ頃マデ伊那郡ノ山中大河原ニ御住有シガ信濃ノ宮方ミナソムキ奉リテ香取高宗ヨリ外ハ御頼ミ無カリケレバ五月信濃ヲ落チ給ヒ吉野ニ帰ラセ給フ云

《『遠江風土記』に、宗良親王が越中より信濃へ移り、その後、吉野より諸国を巡り、往来する事、数十年、勤労回(?)まず、天援(天授の誤り)六年(1380)の夏の頃まで伊那郡の山中の大河原に住んでおられたが、香取(香坂の誤り)高宗だけが忠節を守り、信濃の宮方は皆離反したので、五月、信濃から、また吉野に帰られたと云う。》

【註】ここで謂う『遠江風土記』は、先ず『遠江国風土記』が考えられるのだが、作成時代が異なり、存在はするが未発見である事から、『遠江国風土記伝』(内山眞龍大人遺稿・岡部譲先生校閲、郁文舎刊・明治33年)の事ではないかと推測される。そこで先ず、『遠江国風土記伝』の構成から見ると、全13巻で、①浜名郡、②敷智[フチ]郡、③引佐[イナサ]郡④麁玉[アラタマ]郡、⑤長上[ナガカミ]郡、⑥磐田[イワタ]郡、⑦豊田郡(上・下)、⑧山香郡(北周智[しゅうち])、⑨南周智郡(山香郡と合併して周智郡)、⑩山名郡、⑪佐野郡、⑫城飼[キコウ]郡(城東郡)⑬蓁原郡(和名抄に[波伊波良]、榛原郡)であり、問題の部分は、③引佐郡の井伊郷(井伊家発祥の地)に出典と思われる記載がある。しかし、宗良親王に関する記載はあるが、内容に相違がある。

 そこで天授六年(1380)から宗良親王の所在を捜すと、『静岡市史編纂史料』(静岡市役所教育課市史編纂係・昭和2年)、(第二巻)附録第二編「宗良親王御年譜」に、「(天授六年)五月、宗良親王、信濃を出でて河内国山田(今南河内郡天野村小山田であろう。[現・河内長野市])に閑居し給う。

○中務卿宗良親王信濃の国より上りて河内国山田という所に住み侍りし頃、九月十三夜の月いと明かりしに申しおくりし。
    関白左大臣 冬實
 面影も見しにはいかに変るらむ、姨捨ならぬやまのはのつき
    中務卿宗良親王
 身の行方慰めかねし心には、姥捨やまのつきも憂(うい)かりき。」

とある。

【補注】『遠江国風土記伝』の著者、内山眞龍は、「17401821(元文5‐文政4)、江戸後期の国学者。遠江の人。通称弥兵衛。渡辺蒙庵に漢学を,賀茂真淵に国学を学ぶ。真淵没後は,伊勢の本居宣長と協力して,よく遠江国学の礎を固めた。早くから《風土記》の研究に志し,諸国を実地踏査して,《出雲風土記解》《遠江国風土記伝》を相次いで完成。《日本書紀》の注釈の集大成を期した大著《日本紀類聚解》は,朝廷に献上された。その他,著作には《新撰姓氏録註》《国号考》など。」(『世界大百科事典』參照)

 また、岡部譲は、「伏見稲荷宮司。姓は賀茂、名は真少、称連、御楯と号する。真淵の末孫にあたる。昭和12年(1937)歿、89才。」(weblio參照)

又李花集ニ次ノ御題ニテ詠マレシ歌見ユ

《また『李花集』に次の題で詠まれた歌がある》

興国五年信濃国大川原ト申ス山ノ奥ニ籠居シ侍ルニタヾカリハノナ山里ノカキホワタリ見ナラヌ心地シ侍ルニヤフシワカヌ春ノ光待チ出ル鶯ノ百囀モ音思出サレシカバ
〔興国五年、信濃国大川原と申す山のおくに籠り居侍りしに、たゞかりそめなる山里のかきほわたり、見ならはぬ心地し侍るに、やうやうわかぬ春の光、待ち出づる鶯の百囀(ももさえずり)も昔思ひ出でられしかば〕
《興国五年(後村上天皇、1344年)、信濃国大川原(大河原)という山の奥に籠られていたが、ただひと時かぎりの山里のかきほ(垣穂[垣根])渡り、見ならはぬ(見慣はぬ[見なれない])心地がしますが、ようやく分る春の光を待って出てきた鶯の何度も聞こえる囀り(さえずり)も、昔を想い出されたので》

かりのやどかこうはかりの呉竹を
ありし園とやうぐいすの鳴く

   〔假(仮)の宿、囲うばかりの呉竹を
在りし園とや、鴬のなく〕

【補注】『李花集』:後醍醐天皇の皇子、宗良親王の家集。集中の和歌の最下限から考えて、1371(建徳2)年以降の成立とされている。上下2巻、部立があり、上巻は春夏秋冬、下巻は恋と雑歌である。親王の歌899首を含め、総計1006首収められている。『新葉和歌集』撰進の際に、多くの歌が収められた。各種の写本は、十市遠忠による1530(享禄3)年か翌年筆写の本を祖本としていて、1941年に刊行された岩波文庫本(松田武夫校訂)も同様である。(ウィキペディア參照)

加フルニ鎌倉草紙ニ康永三年春頃小山若大丸奥州ヘニゲ下リ宮方ノ与黨ヲカタラヒ隠居シタリシガ奥州ハ関東(鎌倉管領ノコト)ノ分国ト成テ代官目代数多下リ隠家モナカリシカバ奥州ノ住人田村庄司ヲ頼ミテ故新田義宗ノ子息新田相州(義隆)ナラビニ其従兄刑部少輔ヲカタラヒ大将ト号シ白河辺ニ打出ル間上州武州ニ隠レ居タル宮方ノ末葉悉ク馳集ル又云新田相州殿ハ去ル永徳ノ頃マデ信濃国大川原ト云フ所ニ深ク隠レ有ルヲ国中皆背キ申シ宮ヲ初メ新田一門浪合ト申ス所ニ皆討死シテ父子二人打チモラサレ奥州ヘニゲ下ルト、康永ハ北朝ノ年号ニシテ吉野朝ノ興国五年ニ当ルサレバ宗良親王ハ興国五年ニ信濃ニ入ラレ信越ニ軍ヲ募ラレタル時南荘ノ直衛ニ令旨ヲ下シ給ヘラレシナラン戊年十月トセルハ丙戊(戌?)十月ニシテ興国七年即チ正平元年ナラン然ラバ毛利氏ハ南庄ノ人民ヲ引率シテ代々官軍ニ組シ足利氏幕府ヲ京都ニ開キ関東ニ管領ヲ置クヤ尚宗良親王ノ幕下ニ活動シテ逆臣足利氏ヲ撲滅シ京都ヲ回復セント計レルモ機運ノ未ダ至ラサル為メカ永徳ニ至リ宗良親王モ薨ゼラレ新田氏モ信濃国ヲ去ルニ及ビ毛利直衛小布施ニ落チ入リタルナラン然レドモ毛利ノ残党当地ニ尚繁栄セリ実ニ佐橋ノ地タルヤ其領有タリ而シテ正平十九年上杉左近将監憲栄越国主護職ニ任ゼラレ春日山ニ在城スルヤ上杉氏ノ幕下ニ属スルノヤムナキニ至ル

《加えると、『鎌倉草紙』に康永三年(1344)春頃、小山若犬(大は誤り)丸が奥州に逃げ下り、宮方の与党を誘って隠れ住んでいたが、奥州は関東(鎌倉管領のこと)の分国となって、代官や目代が多数下って来たので、隠れる所も無い為に、奥州の住人・田村庄司(清包)を頼って、故新田義宗の子息・新田相州(義隆)並に、その従兄・刑部少輔を説得して大将と称して、白河辺りに出撃している間に、上州・武州に隠れていた宮方の末葉が悉くはせ参じた。また伝える所の拠れば、新田相州殿は、先の永徳(1381-1384)の頃まで、信濃国大川原という所に人知れず隠れていたのだが、国中の皆に背かれた宮をはじめ新田一門も、浪合という所で皆討死したが、父子二人だけが生き延びて、奥州へ逃げ下ったそうだ。康永は北朝の年号にして吉野朝の興国五年(1344)に当る。そうすると、宗良親王は興国五年に信濃に入られ信越に兵を募られた時、南荘の直衛に令旨を下されたのだろう。「戌(戊は誤り)年十月」としたのは、丙戌年(1346)十月に、興国七年、すなわち正平元年になるからである。そうであれば、毛利氏は南荘の人々を率いて、代々官軍に味方して、足利氏が幕府を京都に開き、関東に管領を置いても、尚、宗良親王の幕下で活動して、逆臣足利氏を撲滅し、京都を回復しようと計画したが、機運に恵まれずなかった為か、永徳年代(1381-1384)に至り、宗良親王も崩御され、新田氏も信濃を去ってしまい、毛利直衛は小布施に落ち延びたのであろう。しかしながら、毛利の残党は、それでも尚、当地に繁栄し、実に佐橋の地に至っては、その領地であったのである。そうして、正平十九年、上杉左近将監憲栄(のりよし)が越後国主(守の誤り)護職に任じられて春日山に在城すると、上杉氏の幕下に属さなければならなくなったのである。》

【注】本文中、匡時・直衛兄弟と出て来るのだが、「直衛」は「直衡」の誤り、あるいは誤記・誤植ではないだろうか。この件に関しては、現在、「毛利家三代」に続く、「毛利家四代」あるいは「五代」で詳細を記す。

【補注】『鎌倉草紙』は、『鎌倉大草紙』の誤り。『群書類従』合戦部巻第三百八十二、『群書類従』(明治35年刊・経済雑誌社)では、13650頁。また『史籍集覧(第5冊)「通記第二十三」』(近藤瓶城・近藤圭蔵・明治35年)。更に『群書類従:新校・第十六巻』(昭和3年刊・内外書籍)では、473頁。『史籍集覧』の『鎌倉大草紙』の序には、漢文で次のように書かれている。以下、読下し文と注釈等を付け加える。

《古は左右の史有り、行と言を記し、善悪を一時(別に、眨[まばたき])に弁じ、勧懲(善を勧め、悪を懲しめる[勧善懲悪])、百世に無し〔垂歟、「垂か」〕。これ戴籍(サイセキ、書籍に載せる)の権輿(ケンヨ、始まり)、本朝、記録と称すは、多くを為さず。就中(かなんずく)、この記は、尊氏の末流の遺書にして、関東の大家の旧記なり。君臣上下の儀説、父子長幼の情、親疎有り、曲直有り、読むは事迹(ジセキ、事跡)を既往に鑑み、しかして心術(心の持ち方、哲学)を当来(来るべき世、未来)に誡(いまし)めるものは、あに君臣の枢機(スウキ、要点)を失うべきかな。》

また、『鎌倉大草紙』と異なる部分も多いので、該当する部分を、記載する。以下、原文に若干の注釈を付けた。尚、これは、「田村庄司の乱」であり、応永2年(1395年)から3年(1396年)にかけて、陸奥国安積郡(後世の磐城国田村郡)の田村則義・清包父子一族によって起こされた鎌倉府に対する反乱。通説では、小山若犬丸と連携して起こされた「小山氏の乱」の一環とみなされている。(ウィキペディア參照)

《応永三年の春の比(頃)、小山若犬丸、奥州へにげくだり、宮方の余党(与党)をかたらひ、隠居たりしが、奥州は関東の分国と成て、鎌倉より代官目代数多下り、隠家もなかりしかば、奥州の住人田村庄司清包(きよかね)をたのみて、古新田義宗子息新田相州、ならびに其いとこ刑部少輔をかたらひて大将と号し、白河辺へ打ていつる間、上州武州に隠居たる宮方の末葉ことごとく馳集る。此田村庄司は征夷將軍坂上田村丸、陸奥守にて下向のとき、我出生の地に子孫を一人残し給ひ、代々則(すなわち)田村の庄司と号す。北畠殿の国司の時より宮方にて代々関東へ不属(属さず)自立の志ありしかば今度の小山とも一味同心す。鎌倉殿、是を聞て則十ヶ国の軍兵を引率し、同二月廿八日、御進発。同六月朔日、白川(白河)の城、御下向。結城修理大夫が館、御座。大勢下向のよしを承り、新田、小山、田村等、悉退散して行方をしらず成行ける間、六月十九日に白川を御立あり、七月朔日に鎌倉に還御成(也)。同四年正月廿四日、小山若犬丸ども二人若年にてありしを会津の三浦左京大夫、是をめしとり、鎌倉へ進上しけるを実検の後、六浦の海に沈めらるる。》

毛利家第三世代

 

〇廣光 右兵衛大夫 從五位上
寛永系圖、蔵人、兵部丞、兵衛丞、從五位上、昇殿に作る。
父生害のとき、弟次郎蔵人入道某、三郎蔵人康光とおなじく自殺す。
《父・季光が、宝治元年(1247)の三浦泰村の乱(「宝治合戦」あるいは「三浦氏の乱」)で、三浦一族と共に自殺した時、弟・次郎蔵人入道某と三郎蔵人康光と共に自殺した。》
【註】三浦泰村は、平氏良文流三浦氏(家祖・為通)の七代当主、本書によれば、父・義村の次男、通称・二郎、式部丞、若狭守、正五位下、「鎌倉右府につかへ、宝治元年謀反し、六月五日一族すべて五百餘人(『尊卑分脈』一家二百七十六人)とともに法華堂にをいて自害す。年四十四。」とある《鎌倉右府・源頼朝に仕え、宝治元年(1247)に謀反し、6月5日、一族五百余人と共に法華堂(鎌倉、頼朝の持仏を祀った所であり、頼朝の死後、その廟所)で自害した。享年44歳。》


【補注】三浦氏に就いては、現柏崎市荒浜辺りに、その末裔が落ち延びたとの伝承があるそうだ。そこで、三浦泰村に係る系譜の詳細を挙げる。以下、本書および『尊卑分脈』等を参照して記載する。

●為通(三浦氏家祖) 平太夫 長門守 鎮守府将軍・忠道が長男
康平六年、先に伊予守頼義、陸奥國の兇徒征伐のとき軍功あるによりて、相模國三浦郷を宛行はれ、城を衣笠山に築く。このときはじめて三浦を稱す。永保三年三月十四日死す。法名圓覺。三浦郷矢部村の青雲寺に墳墓あり。のち義繼にいたるまでおなじ。
《康平6年(1063)、前九年の役(「奥州十二年合戦」あるいは「前九年合戦」)が、源頼義(河内源氏第二代、八幡太郎義家の父)によって前年の衣川・鳥海・厨川柵で安倍貞任(さだとう)が破れ、貞任を殺し
宗任が降伏した事で終り、その功によって、頼義が伊豆守に就任した際、為通も賞されて、相模国三浦郷を拝領し、衣笠山に築城した。この時、初めて三浦氏を称した。永保3年(1083)3月14日死去。法名を円覚、三浦郷矢部村の青雲寺に墓があり、孫の義継の代まで、菩提寺だった。》
【余話】「年を経し糸の乱れのくるしさに衣の館(たて)はほころびにけり」という衣の舘にまつわる義家と貞任の逸話が有名。

●為継(義家に仕える)→義継

●義明(太郎、三浦介)
【補注】頼朝挙兵に失敗、石橋山で敗れ安房に落ち延びた際、味方して衣笠山で討ち死にした。この時、一族の多くが討ち死にしている。
〇義行(次郎、寛永系図に、津久井氏の祖とある)
〇爲清(三郎、寛永系図に、蘆名氏の祖とある)
〇義実(四郎、岡部を称す)→義忠(真田を称す)、義清(土屋を称す)

●義澄(荒二郎、三浦介)
〇義宗(太郎、杉本を称す)
〇義久(三郎、大多和を称す)
〇義春(五郎、四郎ともある。寛永系図に多々良氏も祖とある。)
〇義秀(五郎、長井氏の祖、長井と称す)
〇重行(不祥)
〇義連(三浦佐原正木等の祖、佐原を称す)
〇女子(畠山庄司重能に嫁す)

●義村(平六、右兵衛尉、駿河守、従五位下)
《頼朝に仕え、建久元年(1190)12月11日に右兵衛尉、建仁三年(1203)8月4日に土佐の守護職、嘉禎4年(1238)に評定衆に加わる。延応元年(1239)12月5日頓死する。》
〇有綱(次郎、山口を称す)
〇重澄(大川戸を称す)
《宝治元年(1247)「宝治合戦」で泰村と共に法華堂で自殺する。》
〇胤義(平九郎、承久三年(1221)「承久の乱」で自害)
〇友澄(十郎、承久の乱で討ち死に)
〇女子(大川戸太郎広行の妻)

●泰村(二郎、式部丞、若狭守、正五位下)
《「宝治合戦」の首謀者、宝治元年6月5日、法華堂で一族五百人余と自害す。》
〇朝村(小太郎)→氏村(又太郎)《「宝治合戦」で泰村と共に自害す。》
〇光村(駿河三郎、新判官、壱岐守、河内守、能登守)
《「宝治合戦」で兄・泰村、子・某(駒王丸)と共に自害す。》
〇女子
北条武蔵守泰時の妻、後、佐原遠江守盛連に嫁し、その後、「矢部の尼」と称した。》
〇女子(小笠原太郎某の妻)
〇女子(毛利安芸介季光の妻)
《「宝治合戦」で季光が泰村と共に自害する因縁》
〇女子(中納言親秀の妻)
《『尊卑分脈』によって、中納言親秀の候補として揚げられるのは、大江広元の系譜に繋がる中原親秀(掃部頭、従五位上、評定衆)、清和源氏系、近藤・大友・武藤系親季(別名・親秀、従五位下、鎮西奉行、大炊助)の三名だが、いずれも大納言の記載が無く、強いて考えられるのが中原親秀だが、不祥。》
〇女子(「律の尼」と称す)
〇家村(三浦志摩守前次の祖、四郎、左衛門尉、式部大夫)
《三浦前次(ちかつぐ)は、美作勝山藩三万二千石の藩祖(現・岡山県真庭市勝山)、家系を残す為、泰村に命じられて、その場を遁れ、諸国を遍歴した後、三河国に住し、後に徳川氏に仕える。》
〇資村(五郎左衛門)
《「宝治合戦」で、兄・泰村と共に自害。》
〇長村(六郎左衛門)他不祥。
〇重村(七郎左衛門)
《「宝治合戦」で、兄・泰村と共に自害。》
〇胤村(八郎左衛門)
《「宝治合戦」で捕虜となるが、家系は残ったようだ。》
〇良賢(大律師)他不祥。
〇重時(九郎)他不祥。

 

〇某  次郎蔵人入道(他不祥)

〇泰光 三郎蔵人
寛永系圖泰元に作る。
【補注】『尊卑分脈』には、「泰元」とあり、「昇殿」の注がある。また『吾妻鏡』に登場する「泰光」を列挙すると、
嘉禎2年(1236)11月23日、「廿三日、丙子、将軍家還御、蔵人大夫入道献御引出物、役人、御劔左衛門大夫泰秀、砂金駿河次郎泰村、御馬
置鞍、毛利新蔵人泰光、岩崎左衛門尉等引之」
《23日丙子(ひのえね)、将軍家が還御され、蔵人大夫入道が引出物を献上した。負担したのは、剣を(長井あるいは大江)左衛門大夫泰秀、砂金を(三浦)駿河次郎泰村、鞍を置いた馬を毛利新蔵人泰光、岩崎左衛門尉らであった。》
延応元年(1239)7月20日、「廿日、丁亥、及深更(風)夜靜月明、将軍家俄渡御于佐渡前司基綱宅、被用御車、御共人々折節祇候分計(八九人)也、所謂周防右馬助、陸奥掃部助、毛利蔵人、河内守、兵庫頭、織部正、駿河四郎左衛門尉、同五郎左衛門尉、上野判官等也、於彼所召勝長壽院児童等、有管弦舞曲等興遊
云々
《20日丁亥(ひのとい)、風が深夜まで吹き、月明かりで静かだったが、将軍家が、牛車に乗られ、御供人々を数人祗候させ(伺候、従えて)俄に前佐渡守基綱邸を訪問された。御供としては、周防右馬助(北条光時)、毛利蔵人(毛利泰光)、河内守(三浦光村)、兵庫頭(藤原定員)、織部正(伊賀、藤原光重)、駿河四郎左衛門尉(三浦家村)、同五郎左衛門尉(三浦資村)、上野判官(結城、小山朝広)等で、勝長寿院の稚児らを招かれ、管弦舞曲などで遊ばれたそうだ。》
仁治2年(1241)6月17日、「十七日、癸酉、若君御前御生髪也、前武州着布衣被令參仕給、毛利蔵人泰光、左衛門大夫定範以下、父母兼備諸大夫候侍(侍候)、所役師員朝臣、基綱等奉行之、毎事不被召付雜掌、為将軍家御沙汰、殊及結構之儀云々」
〔十七日、癸酉(キユウ)、若君御前の御生髪也、前武州、布衣を着し参仕を令せられたまい、毛利蔵人泰光、左衛門大夫定範以下、父母兼備の諸大夫さぶらう。所役は、師員朝臣、基綱など、これを奉行し、事毎に雑掌を召し付けられず、将軍家の御沙汰を為し、殊に結構の儀に及ぶ云々〕
《17日癸酉(みずのととり)、若君御前(四代将軍・藤原頼経の子・頼嗣?)の髪置の儀式が行われた。前武州(北条泰時は、嘉禎4年に武蔵守を辞任している)は布衣を着て、参仕(参上して仕える)するよう命じられ、毛利蔵人泰光、左衛門大夫定範(藤原定範)以下、両親を伴った諸大夫が参上した。諸務は、師員朝臣(中原師員、評定衆・前摂津守)、基綱(後藤基綱、前佐渡守)などが、奉行した(取り仕切った)。事ごとに雑掌(訴訟や年貢・公事を行なう職務)を命じられたのではないが、将軍家の命令を実施し、特に政策や計画の事までも任された等々。》
仁治2年(1241)11月4日、
寛元元年(1243)7月17日、
宝治元年(1247)6月22日、

 

●經光 蔵人 右近将監 從五位下 入道號寂佛
寛永系圖廣元が兄とす。三浦泰村が亂に經光所領越後國にありて謀反のことにあづからず。よりてかの與黨の沙汰にをよばれずみづからの領知越後國佐橋庄南條安藝國吉田庄等を安堵す。

〇師雄 大外記 從五位下

〇女子 花山院内大臣師継が室。

〇女子 北條相模守時頼が室。


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