柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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毛利家第二世代

 

〇親廣 左近將監 遠江守 民部少輔 武蔵守 蔵人 正五位下
入道號蓮阿
鎌倉右府につかへ、右府事あるとき其悼にたえずして入道し、すでにして京畿の守護となり、承久三年官軍にくははり、北条義時をうたんとす。六月十四日、宇治勢田の戦ひ敗れしかば逐電す。
《鎌倉右府(実朝)に仕えていたが、実朝暗殺事件を憂慮して出家したが、この時、京畿(畿内あるいは近畿)を守護する立場にあり、承久3年(承久の乱、1221)、官軍(後鳥羽上皇)の北条義時追討に参戦するが、宇治勢田で6月14日の幕府軍に敗北し、落ち延びて身を隠した。》
【註】右府: 右大臣。この場合、源実朝のこと。

承久の乱: 鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。

【補注】『中鯖石村誌』には、親廣の後、佐房→佐泰(上田)と続くのだが、出典が不詳。ただ、藤原(洞院)公定による通称『尊卑分脈』、正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(また『諸家大系図』あるいは単に『大系図』とも呼ばれる)によれば、
●佐房(すけふさ)左近将監 尾張守 正五位下 →
 〇廣時 木之助 法名順阿(この家系は、長く続く。)
 〇隆元 修理亮 木工助(以下不祥)
 〇隆時 修理亮(以下不祥)
●佐泰(すけやす)上田太郎 →
 〇佐時 尾張守 從五位下(この家系は、次の代後不祥)
 〇長廣 弥次郎(この家系は、後二代続く。)
●泰廣(やすひろ)又太郎 (後、子(盛廣、泰元)の代まで記載、尚、この人物には、撰者が注目した以下のような記載がある)弘安八年十一月十七日奥州禅門合戦之時討死二十二歳
《弘安8年(1285)11月17日、奥州、禅門の合戦で討ち死にした。年22に歳》ところが、ここに問題がある。弘安8年11月17日の合戦とは「霜月騒動」であり、「禅門之合戦」とは正応6年(1293)4月22日に起った内管領・平頼綱(禅門)の乱である。この2つの事件は、得宗家北条氏を揺るがす事件なので都にも伝わったのだろうが、伝聞情報なので、洞院公定も勘違いしたのではあるまいか。あるいは、出版時(吉川弘文館)の誤植かも知れない。
 後年、旧萩藩編纂所の時山弥八の編纂した『もうりのしげり』に掲載された「毛利家系図」によれば、「久我(村上源氏、土御門)通親の猶子と為る」とある。余談だが、この弥八の父は、戊辰戦争・長岡藩との「朝日山の戦い」で戦死した奇兵隊の時山直八の子息である。また、吉田松陰の『松下村塾』で学び、松陰に「中々の奇男子なり、愛すべし」と評されたと云う。

〇時廣 蔵人 左衛門尉 從五位上 長井入道と號す。
關東の評定衆たり。

     今の永井信濃守直方が家祖、右近大夫直勝東照宮の仰せにより、平氏長田の流をあらため、時廣が流の氏を冒し、家號も永井を称す。その世系は下に見えたり。
《今(寛政年間)の永井信濃守直方の家祖(永井宗家第九代、大和新庄藩一万石第五代藩主)で、右京大夫・直勝(譜代、永井宗家初代、上野小幡藩一万七千石、常陸笠間藩三万二千石、次代尚政の時、下総古河藩七万二千石)は、東照宮(徳川家康)の命で、平氏系長田姓から改めて、大江時廣の系統の姓である長井としたが、この時、苗字も永井とした。その家系については、大江氏系永井氏(巻619)に続く。》
【補注】詳細は省くが、この家系に連なるのが、作家、永井荷風、三島由紀夫である。

〇正廣 初、宗光 宗元 判官代 掃部助 
寛永系圖、正廣に作る。那波を稱す。
【補注】那波姓は、上野国那波郡(現・群馬県伊勢崎市、佐波郡玉村町)に由来する。

〇女子 高(高階)刑部惟長が妻。
【補注】『尊卑分脈』には、刑部丞とあり、付記に「為足利庄依義兼申遣自右大将為御史奥州忍郡給之」とある。《内容としては、足利義兼のに従い奥州藤原氏討伐の功で右大将(頼朝)から奥州忍(信夫)郡の御史(地頭)に任命され、そこを領地として与えられた、という事か。》
 髙階惟長は源平合戦(治承・寿永の乱)では源氏に味方して、後に陸奥国信夫郡地頭職となり、大江広元の娘を妻とした。鎌倉時代に入ると高階氏は足利氏に仕え、高師泰・高師直兄弟の曽祖父である重氏の頃に名字を高氏と改めた。(ウィディペキア)

●季光 四郎 左近將監 蔵人大夫 安藝介 從五位下
入道號西阿
鎌倉右府につかへ、父廣元が所領の地所々にありといへども、相模國愛甲郡毛利の庄は本領たるによりて、季光これを領し、その地によりて毛利を稱し、關東評定衆の列たり。建保四年十二月十四日左近将監に任じ、五年二月八日蔵人に補し、四月九日從五位下に叙す。承久元年正月二十七日右府ことあるののち出家し西阿と號す。三年六月北条泰時にしたがひ一方の大將となりて大軍を率ひ京師を攻、淀芋洗等の要害をやぶる。寶治元年六月五日三浦若狭司泰村謀反して鎌倉の營を襲はむとす。季光軍兵を引率して營にまいる。季光が室は泰村が妹なり。鎧の袖をひかへていふ、今親戚のしたしみをすて、北条が權勢にくみしたまふはもののふの本意にあらずと、しきりにこれをはづかしむ。季光にはかに心變じて三浦が陣にくははり、終に敗軍して法華堂に入、泰村等とともに自害す。年四十六。室は三浦駿河守義村が女。
《季光は、鎌倉右府(実朝)に仕え、父の広元の領地があちこちに有ったが、相模国愛甲郡毛利庄が本領だったので、ここを自分の領地とし、この地名を取って毛利と称して、関東評定衆の一人となった。建保四年(1216)12月14日、左近将監に就任し、同5年(1217)2月8日、蔵人、同4月9日、従五位下に叙せられた。承久元年(1219)正月27日、右府(実朝)が公暁により暗殺され、その後、出家して西阿を号した。同3年6月、北条泰時に従い、一方の大将として大軍を率いて京都を攻め、淀、芋洗等の要害を陥落させた。(承久の乱)宝治元年6月5日、三浦若狭守泰村が謀反して鎌倉幕府を襲おうとした。季光は、兵を率いて幕府に向う。しかし、季光の妻は泰村の妹だった。その妻は、鎧の袖を引いて、「今、親戚の縁を棄てて、北条執権に味方するのは、武士としての本文ではあるまい」と、しきりに夫である季光を辱めた。季光は、ここにおいて決心を変え、三浦方に味方して幕府軍に破れ、法華堂に逃げ込んで、三浦泰村の一族郎党と共に自害した。享年46歳。》

〇女子 飛鳥井(藤原)宰相雅經が室。
【補注】『尊卑分脈』によれば、藤原雅経は、京極摂政・師実公流難波流の従三位・参議とあり、飛鳥井家の家祖である。師実公流伽羅は、花山院・大炊御門・難波の各流が生まれている。

〇女子 (中原)大外記師業が妻。
【補注】『尊卑分脈』によれば、中原師業(ものなり)は、大外記・正五位上とあり、中原氏の嫡流に連なる。

〇忠成 蔵人 左近將監 刑部少輔 從四位下 號海東判官
關東の評定衆たり。
【補注】『尊卑分脈』によれば、上記に記載のない官位として左衛門尉がある。また、「海東判官と号す」の他、「続古今・玉葉等作者」とある。また、孫・広茂(稲葉守、父は、美濃守・従五位下忠茂)に「新後撰(新後撰和歌集)・続千載(続千載和歌集)・続後拾(続後拾遺和歌集)・新千載(新千載和歌集)等之作者」とある事から和歌集に掲載された事が判るのだが、不祥。更にその子である廣房(左近将監。刑部少輔)も、「続千(続千載和歌集)・続後拾(続後拾遺和歌集)・新千(新千載和歌集)・新拾(新拾遺和歌集)等作者」とあり、親子供に歌人であったようだ。

〇尊俊 大僧都
【補注】この人物に関しては、不祥。

〇重清 右兵衛尉 伊賀守 水谷を稱す。
実は大藏大輔重保が男、廣元が猶子となる。
寛永系圖正五位下重清とし、水谷伊賀守某が猶子となるといふ。
《実は、大藏大輔・重保の子息で、広元の猶子となった。しかし、寛永系図では、正五位下・清重とあり、水谷伊賀守某の猶子となったとある。》
【補注】前世代の末娘「大蔵大輔・重保が女」の條を參照。

〇女子 寛永系圖に、贈内大臣義朝が室とせり。今の呈譜に重清が妹ありといへども、義朝が室たること詳ならずといふ。
《寛永家系図には、贈(没後に内大臣を追贈された)内大臣・義朝の正室としている。しかし、『寛政重修諸家譜』の編纂時に提出された家譜には、重清の妹だったとあるが、義朝の正室であったという事は、確かではない。》
【補注】「贈内大臣義朝」と云う記載は、『平家物語』(巻12)「紺掻之沙汰(こんがきのさた)」(日本古典文学大系・岩波書店)に「故左馬頭義朝の墓へ内大臣正二位を贈らる」とあるが、その註に、『尊卑分脈』にも「贈内大臣正二位」とあるが、明らかでない、とある。因みに、『尊卑分脈』には、「贈内大臣藤原義朝娶」とある。

〇女子 (藤原)大納言公國(寛永系圖、実國)が室。
【補注】『尊卑分脈』には、「権大納言藤原実国娶」とある。また、実国については、閑院公季流滋野井系に「実国、正二・権大納言、滋井と号す」とあり、その末流にも権大納言実国がある(もう一名あるが、これは官位等の記載が無く別人と思われる。しかし、「大納言公国(きんくに)」については、同書に藤原系6名の記載があるが、大納言とあるものが無い。

 

ここで、『毛利家文書』における関係文書を紹介する。ここに謂う『毛利家文書』とは、東京帝国大学文学部飼料研鑽掛(現在の東京大学史料編纂所)が編纂した『大日本古文書』に収録されたものである。尚、冒頭の漢数字は、同書に付けられた文書番号である。

【註】沙彌は、「沙弥(シャミ)」、出家して十戒は受けたが、まだ具足戒は受けていない男子の僧。出家したばかりで修行の未熟な僧の意味。
文永七年は、西暦1270年、時代は、亀山天皇、後嵯峨院(上皇)、将軍・惟康王、執権は、北条時宗で、元寇「文永の役」(文永11年、1247)の序章の時代である。
麻原は、現在の広島県高田郡現在の甲田町上小原・下小原付近。

【補注】

毛利経光は、蔵人、右近将監、從五位下、入道して、寂仏という。
毛利時光は、四郎、修理亮、刑部少輔、從五位下、入道して、了禅という。

 

 時親当地ヲ去ルト雖モ尚一族ノモノ止マレルナラン

〔時親、当地を去ると雖も、尚、一族のもの止まれるならん〕

《時親は、当地・南庄を去ったが、一族は、尚、止まっていた様である》

【註】元徳二年は、西暦1330年、この年、後醍醐天皇、花園上皇、将軍は金沢貞顕、執権は北条守時。翌元徳三年には、南北朝に分れ、北朝は光厳(コウゴン)天皇になり、南朝は、後醍醐天皇、元号は元弘となる。
「懈怠」は、この場合、義務を怠る事。元は仏教用語で、その場合は「ケダイ」と読む。
祇園一切経会は、京都の祇園社(今の八坂神社)の一切経会。経典を書写、奉納する経供養として、平安期に恒例となった法会。季節は春。
関東御公事は、「関東公事」とも云い、鎌倉幕府が御家人に負担させた課役で、いわゆる御家人役の内、軍役以外の経済的奉仕義務をさす。

【補注】毛利孫太郎親茂は、初め「親茂」改めて「親衡(ちかひら)」、孫太郎、備中守、陸奥守、從五位下、入道して、宝乗と云う。

 

南條村東方ノ八石山余派ナル丘山ニ城の内ト称スル家アリ之レ其地ハ古城蹟ナルヲ以テ称ス其傍ニ一社アリ明治ノ初年其屋敷ヲ拡メントシテ一頭骨ヲ発掘ス藍澤南城先生ハ此古城址ヲ毛利経光公ノ築キシモノトノ説ヲ立テラレタルヲ以テ城の家ニテハ毛利玄蕃允経光毛利修理亮時親ト記セル位牌ヲ佛殿ニ安置シ以テ今ニ追弔スト

〔南條村、東方の八石山余派なる丘山に城ノ内と称する家あり。これ、その地は古城跡なるをもって称す。その傍らに一社あり。明治の初年、その屋敷を拡めんとして、一頭骨を発掘す。藍澤南城先生は、この古城址を毛利経光公の築きしものとの説を立てられたるをもって、城ノ家にては、毛利玄蕃允経光、修理亮時親と記せる位牌を仏殿に安置し、もって今に追弔すと〕

《南條村の東方にある八石山に連なる丘の上に、「城ノ内」と云う家がある。これは、この地域が古城跡であった事に由来する。その傍に神社がある。明治時代の始め頃、この境内を拡張しようとした所、ひとつの頭骨が発掘された。藍沢南城先生は、この古城址を毛利経光公が築いたという仮説を立てられので、「城の家」では、毛利玄蕃允経光・毛利修理亮時親と

銘記した位牌を作り、仏壇に安置し、今も追弔しているとの事である》

又口碑ニ毛利公ハ当地ヲ御立退キナサレタリトモイヘリ

〔また口碑に毛利公は当地を御立退きなされたりといえり〕

《また伝承によれば、毛利公は佐橋の庄を立ち退いたと伝えられている》

 

抑々毛利経光ノ在城年月不詳ナリト雖モ三浦泰時ノ北条氏ニ殺セラレ三浦氏ノ滅亡ハ寶治元年ナレバ経光ノ南荘ニ来レルモ其頃ト大差ナキヲ知ル殊ニ石川中村嘉平治氏ノ系譜ニ弘安五年三島郡鯖石庄善根館主毛利家云々ト寶治ト弘安トハ僅カ三十年ノ差ノミ以テ毛利ノ存スルナリ口碑傳説等多少ナキアラザレドモ口碑傳説ニハ年代ヲ缺キ前後ヲ混淆シ甚ダ不確実ナルノミナラズ奇怪ノ説ヲナシテ信ズルニ足ラザルモノ多シサレバコヽニ毛利氏ノ家譜(日本外史)ト関甲子次郎氏ノ編纂ニ関スルモノヨリ抜抄ス之レ又多少ノ疑惑ナキアタハズ然レド郷土史完成期日モ切迫シ余日ナケレバ其ハ他日ニ譲ラン殊ニ毛利氏ハ南朝ノ忠臣ナレバ其事跡ヲ明ニスルハ當村教育ノ為メニ切望スルトコロナリ

〔そもそも毛利経光の在城年月不詳なりといえども、三浦泰時の北条氏に殺せされ、三浦氏の滅亡は宝治元年なれば、経光の南荘に来れるも、その頃と大差なきを知る。殊に石川中村嘉平治氏の系譜に、弘安五年、三島郡鯖石庄善根館主・毛利家云々と。宝治と弘安とは、僅か三十年の差のみ。もって毛利の存するなり。口碑伝説等、多少なきあらざれども、口碑伝説には年代を欠き、前後を混淆(コンコウ)し、甚だ不確実なるのみならず、奇怪の説をなして信じるに足らざるもの多し、されば、ここに毛利氏の系譜(日本外史)と関甲子次郎氏の編纂に関するものより抜抄す。これまた多少の疑惑なきあたわず。然れども郷土史完成期日も切迫し、余白なければ、それは他日に譲らん。殊に毛利氏は南朝の忠臣なれば、その事跡を明らかにするは、当村教育の為に切望するところなり。〕

《もともと毛利経光が南條に居た時期は確かではないのだが、三浦泰村が北条氏によって殺されて三浦氏が滅びたのが宝治元年(1247)の事なので、経光が南荘(南條)に居住したのも、大体同じ頃だとは思われるが、注目すべきは、石川の中村嘉平治氏方に伝わる家系図に拠れば、弘安五年(1282)に三島郡鯖石庄善根の館の主である毛利家などとあり、宝治と弘安は、およそ30年位の差がある程度だから、恐らくこの時代に在住したのではないだろうか。伝承や伝説は多少あるのだが、これらには年代が明記されておらず、前後の関係が不明瞭で、とても精確な物とは言えず、怪しげな説も多く、信じがたいものが多い。そこで、ここでは頼山陽の『日本外史』による毛利氏の系譜と関甲子次郎氏の編纂した史料(『柏崎文庫』か)から抜粋したものを紹介する。ただ、多少の疑問もある。しかし、この郷土史(『中鯖石村誌』)の完成時期も迫っており、記載できる余白が少ないので、詳細については、またの機会に譲りたい。また、毛利氏は南朝の忠臣であるから、その事跡を明らかにする事は、当村の教育上も有益であり、出来る事なら、詳細にわたる村誌の調査研究と出版を望んでやまない。》

 

毛利氏ノ系譜

 

【補注】著者は、頼山陽の『日本外史』と関甲子次郎氏の、恐らく『柏崎文庫』を参照していると思われるが、系譜として集大成された堀田正敦の『寛政重修諸家譜』を参照したい。
 『寛政重修諸家譜』は、徳川家光の代に編纂された『寛永諸家系図伝』の続集にあたり、寛政年間(1789 - 1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集。(ウィキペディア參照)

 

〇大江廣元(以下、『寛永重修諸系譜』による。〇は兄弟姉妹。)
明經生 縫殿允 権少外記 少外記 安藝權介 天文博士
從五位上 因幡守 正五位下 明法博士 左衛門大尉 検非違使
兵庫頭 掃部頭 大善大夫 從四位上 正四位下 陸奥守
入道号覺阿(覚阿)
【註】明經生: 大学寮の本科である明経道の学生。

縫殿允: 律令制における中務省管下の女官人事・裁縫監督機関の官吏。大允(ダイジョウ)は従七位上、少允(ジョウジョウ)は従七位下。

少外記: 外記は、朝廷組織の最高機関・太政官に属した官吏。少外記(ショウゲキ)は、正七位上。權少外記は、その少外記の次官。

天文博士: 陰陽寮に設置された教官で天文道のことを 担当する。正七位下相当。

明法博士: 大学寮に属した官職の 一つ。令外官(律令に無い官職)。定員2名で、当初は正七位下相当。当時は、中原氏の世襲官職になって居た為、官位が正五位下だったと思はれる。

左衛門大尉: 左衛門府の判官であり、左衛門大尉(さえもんのタイジョウ)は、本来、従六位下の官位だが、平安時代末期、に官位の序列も乱れていた。

検非違使: 京都の治安維持と民政を所管したが、平安時代末期には、北面の武士の職種の様になった。

兵庫頭: 武器管理庫の長官。

掃部頭: 宮中の儀式の設営や清掃を所管する掃部寮の長官。

大膳大夫: 朝廷において臣下に対する饗膳を供する大膳職の長官。

国の守: 従来、安芸守、因幡守は、従五位下(權介は、次官の補佐官)、陸奥守は、従五位上の官位だった。


実は、藤原光能が男なり。母は某氏、掃部頭・中原廣季に再嫁せるの時、廣元、猶幼弱にして、兄・親能とともに母にしたがひ、廣季が家に養育せられ、これより中原氏となる。
《実際には、藤原光能(みつよし)の子息だと云われている。母の出自・名前は不詳だが、掃部頭だった中原広季と再婚し時、広元は未だ幼少で、兄の親能と共に母の連れ子として、中原広季の下で養育されれ、中原氏を名のる事になった。(余談、誰かの小説に、この時の様子が書かれていた記憶がある。)》
 『寛永系圖』に江廣元、本姓は中原なり。建仁中に姓をあらたむるか。正治の御下文に兵庫頭・中原といへり。元久年中、大江となる。中家の系図のごときは明法博士・廣季が四男なり。しかれども廣元は式部少輔・大江維光が子たるよし沙汰あるによりて姓をあらたむるがゆへかの流は大江なりといふ。今按ずるに寛永譜の文記者の按のごとくにして、その義を詳にせずといへども、しばらくここにのせて後勘の便とす。
《『寛永系圖』に江(大江)広元は、本姓を中原とあり、建仁年中(1201-1204)に姓を改めたのだろうか。正治(1199-1201)の下文に、兵庫頭・中原の名前が見え、元久年中(1204-1206)に大江と名のったようだ。また中(中原)家の系図では、明法博士・広季(ひろすえ)の四男となっている。しかし、広元は、式部少輔(シキブショウユウ)だった大江維光(これみつ)の子だから、上からの通達か何かで、姓を改めたのか、大筋では大江氏だと伝えられる。今、推測するのに、寛永譜(『寛永系圖』)の編者が考えた様に、その辺りは明記せず、しばらくはこのままにして、後の研究者の便宜を図る事にしよう。》
【補注】『毛利家文書』の冒頭(一)に、「鎌倉将軍家政所下文」があり、下記の様に書かれている。
  将軍家政所下 周防国安田保住人
    補任下司職事
     藤原為資
  右人、補任彼職之状、所仰如件、住人宜承知、勿違失、以上。
      建久四年四月十六日    案主 清原(実成)[花押]
  令大蔵丞 藤原(頼平)[花押]   知家事 中原(光家)[花押]
  別當前因幡守中原朝臣(廣元)[花押]
   散位   藤原朝臣(行政)[花押]
 ここにある「別当、前因幡守、中原朝臣」が、大江広元、すなわち中原姓を使っている。

仁安三年十二月十三日、縫殿允(寛永系図、縫殿頭)となり、嘉應二年十二月五日、權少外記に任じ、承安元年正月十八日、博士、少外記となり、三年正月五日、從四位下に叙し、二十一日、安藝權介に任ず。治承四年、頼朝將軍の招きにより關東に下向し、後、相模國愛甲郡毛利庄を宛行はる。壽永二年四月九日、從五位下に叙し、元暦元年九月十一日、因幡守に轉じ、十月六日、あらたに公文所を置れしとき別當職に補せられ、着坐して政事を沙汰す。文治元年四月三日、正五位下に昇り、二年二月七日、肥後國山本庄をたまふ。是より先、行家、義經等を追捕すべきの命ありといへども、容易にこれを捕へ得ず。頼朝ふかくこれをうれふ。廣元議していはく、世、澆季にをよび、姦宄の徒、日々に多し。東海道は、幕府鎮撫したまへば、靜にして不慮のことなし。その他は道遠く坐りながらにして防禦しがたし。亂賊しばしば起りて、これを征せむには、毎兵勞して民弊ゆべきなり。國衙庄園に地頭を置れ、所にしたがひて追捕せしめむにはしかじとなり。頼朝大によろこび、則、奏してその議のごとく行はる。これよりしてをのづから兵馬の權みな幕府に歸せしかば、其功を賞せられて加恩の地をたまふ所なり。建久二年正月十五日、公文所をあらためて政所と稱し、はじめて吉書始め行はれしとき、廣元、猶別當職たり。二年(寛永系圖、四年とす。)四月朔日、明法博士ならびに左衛門大尉に任じ、使の宣旨をかうぶり、十一月五日、博士、検非違使を辞す。十二月十七日、後白河法皇より銀劔をたまふ。七年正月二十八日、兵庫頭に補せられ、正治元年十二月二十二日、大膳大夫直講師を辭し、かさねて掃部頭に任じ、又、大膳大夫に任ず。二年十一月十九日、從四位上に叙し、建保二年正月五日、正四位下に昇り、四年正月二十七日、陸奥守に任ず。六月十一日、廣元、狀を捧げて、廣元、掃部頭・廣季がもとにやしなはれしより、このかた中原氏を冒すといえへども、式部少輔・維光とかつて父子の義あるときは、をのづから継嗣の理にかなふ。その姓、大江に復し、たえたるをつがんとこふ。七月朔日、勅許あり。これより子孫相継て氏となす。(寛永系圖に關東にをいて頼朝兄弟の義に准じて源と號す。しかれども、氏、廣元一代なり。大官令と號すといふ。呈議に、廣元、鎌倉執務のとき、平氏の役をつとむる事あり。しばらく平氏を稱すといふ。いまだ親が是なることを詳にせず。よりて重記す。)五年十一月十日、出家して覺阿と號す。嘉禄元年六月十日(寛永系圖に十八日)、卒す。年七十八(寛永系圖に八十三)。法名、覺阿。

《仁安三年(1169)12月13日、縫殿允(寛永系圖では、縫殿頭)とあり、嘉応二年(1170)12月5日、権少外記に任じられ、承安元年(1171)正月18日、天文博士、少外記となり、同三年(1173)正月5日、従四位下に叙せられ、同21日、安芸権介に任じられた。治承4年(1180)将軍・源頼朝の招かれて関東に下向し、その後、相模国愛甲郡毛利庄を与えられた。寿永2年(1183)4月9日、従五位下に叙せられ、元暦元年(1184)9月11日、因幡守に転任し、同10月6日、新しく公文所が設置されると、その別当職に任命され、政事を所管し、裁決を下した。文治元年(1186)4月3日、正五位下に昇格し、同2年(1187)2月7日、肥後国山本庄(〈熊本県〉山本郡山本郷、東西山本庄がある)これより先、行家や義経等を追捕せよとの命令あったが、容易に捕縛する事が出来ず、頼朝は深く憂えていたが、廣元が評定の席で、「世の中は、既に澆季(ギョウキ、道義が廃れ乱れた世の中)になっていて、姦宄(カンキ、内外の乱れ、正義や道義に反する)の徒、すなわち悪人が日ごとに多くなたが、東海道は幕府によって鎮撫され、静かになって事故も起こらない。その他の地域は、遠方なので動かなければ、防ぐ事ができない。反乱がしばしば起きるが、これを制圧するには、その度に、兵は疲労し、民は疲弊する。そこで、国衙(国の役所)や庄園に地頭を配置して、その場所付近で、追掛けて捕まえるしかない。」と提言した。頼朝は大変喜び、直ぐに奏上して、評定の提言の通りに実行に移した。こうした事から、兵馬の権(軍隊を統帥する権力)は、みな幕府に集中したので、その功績を賞されて、更に領地を加俸される事になった。建久2年(1191)正月15日、公文所を改革して政所と謂う名称に変え、改名してはじめて「吉書始め(初めて出す政務上の文書を奏上する)」の際にも、広元は、依然として別当職だった。同2年(寛永系図は4年)4月1日、明法博士と共に左衛門大尉(さえもんのたいじょう)に就任し、勅使の宣旨によって、同11月5日、博士と検非違使の職を辞した。同12月17日、後白河法皇より銀製の剣が下賜された。同7年(1197)正月28日、兵庫頭に任じられ、正治元年(1199)12月22日、大膳大夫・直講師(じきこうじ?、天皇の侍講の事か?)は辞任したが、更に掃部頭に就任され、また大膳大夫に任命された。同2年(1200)11月19日、従四以上に叙され、建保2年(1214)正月5日、正四位下に昇り、同4年(1216)正月27日、陸奥守に任命された。同6月11日、広元は状を捧げて上奏し、「過って広元は掃部頭・広季に養育された時から今日までは中原姓を名乗って来たけれども、実父である式部少輔・維光とは、自ずから維光の跡継ぎとしての義理があるので、大江姓に戻って、絶えた実父の家を継ぎたい」と請願した。同7月1日、これに対して勅許が下り、この時から子孫は大江姓を継承して氏とした。(寛永系図には、関東では、頼朝兄弟の手前、源姓を名乗った事もあるが、源姓を名乗ったのは広元一代限りの事で、大官令と称していた。広元が鎌倉幕府の執務をしていた時、平氏の役職に就いた事があり、この時はしばしば平氏を名のった事があったが、親族がこの点を明らかにしていないので、そのまま記載する。)同5年(1217)11月10日、出家して覚阿と号した。嘉禄元年(1225)6月10日(寛永系図では18日)に没した。享年78歳(寛永系図には83歳)。法名は覚阿である。》
【補注】肥後国山本庄については、『東鑑(吾妻鏡)』に、「文治二年二月七日、今日、廣元賜肥後国山本荘〔広元、肥後国山本荘を賜る〕、是義經行家謀逆之間計申事等〔これ義経・行家の謀逆の間(奸)計と申す事など〕、始終符合〔始終符合し〕、殊就被感思食〔殊に、おぼしめしをかんぜられるに就き〕、被加其賞之随一也〔その賞の随一なりと加えられ〕」云々とある。

〇秀嚴 阿闍梨 僧都 左女牛若宮の別當たり

    【補注】左女牛(さめうし)若宮は、京都の若宮八幡宮の事。昔、左女牛小路に在った事から「左女牛八幡宮」とも云われた。因みに、阿闍梨・僧都である秀厳が、頼朝によって若宮神社の別當職に任じられたのは、本地垂迹説(神仏混淆)によるもの。

〇女子 田村伊賀守仲敎が女。

    【補注】『尊卑分脈』に、伊賀守仲教(なかのり)の祖父・藤原影頼(島田二郎・近藤武者・武者所、後、貞成)は大友・武藤氏の開祖、父・能成(武者所・左近将監、近藤太と称す)は、近藤氏の開祖。伊賀守仲教については余り記述が無いが、子・仲能(亀谷・評定衆・刑部大輔)とあり、孫の代で、二男・重輔(しげすけ、淡路守)が水谷を称した。

〇女子 
寛永系圖に、この女子の夫をいはずして、その子に豊前守能直を孫、左衛門尉親能が猶子、大友と號すといふ。大友譜を考るに、能道が母は大友四郎大夫・經家が女にして、頼朝將軍につかへ、一男をうむ。其男、後、斎院次官・親能が養子となり、豊前、前司・能直と名のるとみえたり。これによるときは、能直は頼朝の落胤たるがごとしといへども、その生母の父おなじからず。寛永の譜、其傳をつくさず。今の呈譜、この女子ありといへども、更に傳なきときは考るところなし。よりて大友譜の説をあげて後勘となす。
《寛永系図では、この女子の夫の事を採り上げていないが、その子に豊前守能直を孫、左衛門尉親能を猶子とし、大友姓を名乗ったとしている。しかし、大友家譜によれば、能道の母は、大友四郎大夫・経家の息女で、将軍・源頼朝に仕え、談志一人を生むとあり、その子は、後に斎院次官の親能の養子となり、前豊前守・能直と名乗ったとあるようだ。これに依る時は、能直は、頼朝の落胤(庶子)のように見えるが、その生母の名前が違っている。寛永系図は、その辺りの事を十分に書いていない。そこで、この寛政重修諸家譜では、女子があったと云うが、詳しい事が判らない以上、この伝承は採用せず、大友家譜の説を採用して、後の研究を待つ事にする。》
【補注】『尊卑分脈』によれば、能直(大友鎮西奉行・豊前守・従五位下)とあり、母として、「為斎院次官、中原改姓、但又帰当氏、云々」〔斎院の次官になり、中原姓に改めるが、また当氏に帰るなど〕あり、「親教の子」と書かれている。また、大江氏の系譜では、能直(豊前守・左衛門尉・親能猶子、大友と号し、鎮西守護)とある。しかしながら、管見、『尊卑分脈』を辿るのだが、例えば、「能直」の子は、一方では「親季」、大江氏系では「親直」とあり、また「親能」についても、見方が悪いのか、実の処、困惑している。

〇女子 大蔵大輔・重保が女。
【補注】大藏大輔・重保(しげやす)は、藤原式家(家祖・蔵下麻呂流)で、「従五位上・大藏大輔(甫)とある。また、子・重清は、「伊賀守・兵衛大夫・正五位下」とあり、また「為広元号水谷」とあるから、後に、伯父である広元の猶子となり、その後も子孫が続く所から、水谷氏の開祖となったと言えるのだろう。

 

佐橋庄下司職毛利経光ハ大江廣元ノ孫ニシテ佐橋庄南荘ニ住セルコトヲ日本外史第十二巻毛利氏ノ記ニ

〔佐橋庄下司職・毛利経光は、大江廣元の孫にして佐橋庄南荘に住せることを、『日本外史』第十二巻・毛利氏のきに、〕

《佐橋庄の下司職(地頭)の毛利経光は、大江広元の孫に当たり、佐橋庄南荘に住んでいたことが、頼山陽の『日本外史』第十二巻・毛利氏の條に、次の様に書かれている。》

 

 廣元、有五子、長子親廣、承久之役、属官軍、不知所終、第三子曰季光、為左近将監、食相模毛利荘、因氏焉、娶三浦氏、死其難、季光子経光出鎌倉、居越後南荘、経光子時親、復起為六波羅評定衆、足利尊氏滅六波羅、加賜時親、以安藝吉田及河内利田

〔(毛利氏は、大江廣元より出ず、中略)、廣元(源頼朝を関東に佐け、中略)、五子有り。長子・廣親、承久の役、官軍に属して、終る所を知らず。第三子を季光(すえみつ)という。左近将監たり、相模の毛利庄を食(は)む。因って、これを氏とす。三浦氏を娶(めと)り、その難に死す。季光の子・経光、鎌倉を出で越後南荘に居る。経光の子・時親(ときちか)、復、起ちて六波羅(ろくはら)の評定衆となる。足利尊氏、六波羅を滅ぼし、時親に加賜するに、安芸の吉田及び河内の利田(かがた)を以てす。(後略)〕

《広元には五人の子があった。長男・親広は「承久の乱(役)」(承久三年、北条義時が京都を攻めた戦。1221年)の時、官軍に所属して、止まる所を知らない程に奮戦した。三男を季光といい、左近将監(サコンのショウゲン)に叙せられ、相模国毛利荘(神奈川県愛甲郡、厚木市周辺)を領有した。それにより、氏を毛利とした。三浦氏の娘を娶ったが、「宝治合戦あるいは三浦氏の乱」(執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)65日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。)の時、三浦氏に連座して滅ぼされた。その時、季光の子の経光だけは、越後国南荘に居て難を免れた。経光の子の時親は、後に毛利氏を再興し、六波羅探題の評定衆になった。足利尊氏が、「元弘の乱」(元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。)で、六波羅探題を攻略した時、尊氏に属して功績のあった時親は、安芸国吉田莊と河内国利田(加賀田郷、現・大阪府長野市加賀田)を加増された。》

 

【註】左近将監:左近衛将監、左近衛府の三等官。従六位上相当。定員四名。

 

毛利経光ハ越後佐橋庄下司職ナルコト萬壽寺ノ記ニ見エ南庄ノ同義假借レモ見ルベキ南條村ノ現今ニ後レルヨリ推シテ南庄ハ佐橋庄ノ南部一帯ノ地名ナルコト疑ナシ殊ニ善根八石城主ノ毛利氏ナルコト当村古記録ニモ散見スルトコロナリ而シテ子時親復起為六波羅評定衆ヨリ経光ノ一族南庄ニ住セルコトヲ知ラル

〔毛利経光は越後佐橋庄の下司職なること萬壽寺の記に見ゆ。南荘の同義仮に借れも見るべき。南條村の現今に後れるより推して、南庄は佐橋庄の南部一帯の地名なること疑いなし。殊に善根八石城主の毛利氏なること、当村の古記録にも散見するところなり。しかして子・時親また起り六波羅の評定衆になるより、経光の一族、南庄に住せることを知らる。〕

《毛利経光は越後国佐橋庄の下司職になった事が、萬壽寺の記録『萬壽禅寺記』に記載されている。佐橋庄は南荘と同義と考えることができるだろう。今の南條村の現状から推測して、南庄は佐橋庄の南部附近の地名と考えて間違いない。特に、善根の八石城主である毛利氏だった事は、この村の舊い記録にも見られる。そこで、経光の子である時親が六波羅探題の評定衆になった事からも、経光の一族が南庄に居住したと推測される。》

 

【補注】「毛利経光は越後国佐橋庄の下司職になった事が、萬壽寺の記録(『萬壽禅寺記』)に記載されている」とあるが、『萬壽禅寺記』にそれらしき記載が無い。よって、この部分に関しては、保留とする。尚、『萬壽禅寺記』の全文の入力が終ったので、以下、改めて若干の注釈を加えて掲載する。

 

京城萬壽禪寺記(旧本真書躰)


本寺者郁芳門院追嚴道場、昔六條院也。郁芳諱媞子、白河上皇長女、右大臣顯房第一女、中宮賢子者聖母也。堀河帝者弟也。帝事郁芳以母儀。不以賢婦侍之。嘉保三年丙子今年十二月十七日、改元永長。)秋七月下澣(ゲカン、下旬)、郁芳不豫。八月二日大赦。祷平安也。夜有星隕。七日甲子暁登遐(トウカ、崩御)。二十一齢也。九日丙寅、上皇不任哀悼而落餝(ラクショク、落飾)。二十六日葬蓮臺寺側。永長二年丁丑、革郁芳遺宮為佛廬(ブツロ、仏のいおり)。俗称六條御堂。十月十四日供養。上皇出聖躬血書永劫護法願文。其文曰、世漸及澆季(ギョウキ、乱世・末世)雖属末法。不可改我此願。遠可期三會暁。我速證久品者、天眼鑿之。我暫留三有者、以怨念罸之。何世聖君非我後裔。誰家賢臣非我舊僕。一事一言違之背之。国主皇帝殊可加炳誡(ヘイカイ、いましめ)矣。永長二年十月十四日、自留手痕而表信。故曰御手印。藤原國明寄附江州田井郷而仰佛法。王法之庇廕(ヒイン、ひさしのかげ)。康和元年正月四日、六條院火。八月十二日、再造供養。平治元十月二十六日、因幡堂、河原院、崇親院、祇園離宮同時灾(サイ)。正嘉年中、十地上人、(又曰爾一上人、覺空禪師也。與其徒慈一上人。(賓覺禪師也。修淨土敎。慈一聞東福國師道風。徃扣其室。針芥相投。十地亦見國師遂領玄旨。二師棄教入禪。扁六條御堂曰萬壽禪寺。盖嘉暦三年、相模守平朝臣狀云、萬壽之題額、起最明寺之素意。弘長元年十一月二十四日、實覺禪師旌禪苑開堂之儀。翌日東福有賀狀。其略云、昨日無風雨難開堂。道德之至。随喜無極、於是實覺禪師、覺空禪師、爲兩開山。文永九年壬申十一月二十四日供養。同十年十月十二日火。元德二年庚午九月二十日、内親王崇明門院。(諱祺子。後宇多院皇女。聖母者永嘉門院。)新賜賓地。廣開紺園。此樋口東。高倉西。東洞院爲界也。元弘二年。(今年改元正慶)前住畊雲原之徒、紹臨奉朝命、就彼地。先建報恩精舎。奉安地藏尊容。修薦永嘉門院仙駕。(永嘉諱瑞子。中務卿宗尊親王女。嵯峨院孫女。後宇多猶子。嘉暦四年八月二十九日升遐(ショウカ、天子や貴人が死ぬる事)。四年者元德改元也。)崇明割尾州味岡本莊。充永嘉香燈。暦應三年庚辰、僧良悦附味岡新莊。六條萬壽與報恩合爲一寺。六條舊地、今號南院。報恩舊基、今曰琴臺。特爲郁芳仙祠。白河後宇多等同嚴追修。自永長上皇願文血書、宸衷(天子の心)之所感。寄田園於此寺者甚夥焉。弘長三年、關白殿下以泉州長瀧包富付與十地上人。建武五年、(暦應元年也。)一條殿下以長瀧彌富幷附之。弘安九年、室町院(後堀川皇女。)寄附江州田中莊。正和元年院宣。加州富積保爲祈禱賜之。貞治五年、寶篋(ホウキョウ、宝箱)相君以備前土師郷易越中佐味庄。又大小檀施洛中園地處々有之。明德四年、前住濟翁樹寄五條坊門朱雀窪田。充忌辰之茶湯。西京四段、綾小路室町、七條猪熊、六條高倉、又六條坊門萬里小路六條坊門高倉兩地、爲永觀都聞設浴之薪水、又禪通都聞施入銅錢壹陌緡、出其息爲開浴之設。至徳三年大内義弘梅窓居士歸附長門厚東郡吉部郷。爲浴僧之資。鹿苑大相國頒下鈞怙。爲季世證。此外有莊産田園被他剽略者、勢州木造庄、日置庄、三賀野庄、(小倭庄内幷八知山兩郷。)三箇庄、(三箇者庄名。)伊賀河合庄、柘植庄、長田庄院田、山田庄院田、越後佐橋庄、信州仁科庄、若州垣拔庄、丹波豊富庄、備前長田庄、江州羽田庄他。又五條堀川、六條坊門油小路、姉小路油小路、左女牛堀川、甲斐河五段、寺門西面楊梅路。此本志都聞冥福之地、一々契券(地券・手形・割符などの総称)、代々官苻(官符、太政官苻の略)、昭々焉。等持仁山相公、大執國柄、深信佛乘。殊興禪叢。令嗣寶篋相君、延文三年戊戌陞位於五山之列。至德初元甲子、鹿苑大相國遵先相君遺命。重降鈞帖(キンジョウ、公帖。禅宗寺院のうちの、五山、十刹、諸山などの官寺およびそれに準ずる寺院の住持任命の辞令)、定兩班位次。大方争議、不欲與之齒。大相國命南禪大淸、天龍德曵、建仁相山、東福天章、各寺西堂諸勤舊(勤旧、禅宗で知事、侍者、蔵主などの退職した者をいう)等。以連署、令定其班。遂無異論。至今受其賚(ライ、たまもの)。永德二年丁丑、大和國以寺産之契券官符雜亂紛冗而不便、點撿(点検)之。故提其綱要、命門眞權小府周清、連書一冊、準眞本。稱之曰靑表紙。自大相國以降、勝定、普廣、今大丞相。皆有花押。實爲家珍。永享六年甲寅二月十四日、六角堂、因幡堂、祇園離宮等、洛中人家、壱萬餘火、寺及其殃(オウ、わざわい)、蕩焉成墟、怪哉。與平治實相類。普廣相公、忝傾台恩。擢開山門葉邵外英。幹住持事、創中興業。同九年丁巳、捨播之安田東九條田園。洎罪譴籍没之財。而大殿山門丈室新成矣。法堂僧堂庫司浴室溷厠琴臺諸寮等、次第備矣。寶徳三年壬申、余與住持月谷諸老宿相謂曰、大小名利、大半有十境之名、未必天造地設、萬壽境中新撰十名、則可矣哉。即往前住天下大老東福景南和尚、請撰其名。和尚一々撰之。曰十地超關、大雄寶殿、新花更雨、枯木回春、東軒、南院、琴臺、鏡沼、三山神祠、千松客巡、乃結十境、以四韵一偈。曰、東軒虗谿包南院、海上三山常處開。夜月無心臨、鏡沼、暮雲有意傍琴臺、新華雨遂空談散、枯木春從冷坐囘。親禮大雄超十地、千松夾逕接方來。寶德壬申、孟秋日、前住當山景南英文、八十八歳、謹書、盖大雄寶殿、南院、琴臺者、不改舊名也。鹿苑竺雲和尚跋十境偈曰、寺必當有十境耶。十地寶覺、蓽路藍縷(ヒツロランル、とても苦労しながら仕事に励むこと、「篳路」は植物の柴を編んで作った、作りの粗い車、「藍縷」は破れるほど使い古した衣服。『春秋左氏伝』「宣公一二年」)之始、弘安辛巳以來、百七十餘歳之間住持者幾人、胡爲缺焉不爲之哉。不當必有十境耶。仍舊貫、如之何。々必改作今也。夫十者非自天而降、亦非從地而涌、蓋出當人之胸)次面竦一世之耳目。嚮者鼂夕于茲者、如唯識其面。而未知其名、而見其面。則靄然眉目(アイゼン・ビモク、気分などが穏やかでやわらいだ容姿)、驩爾心(カンジ・シンキョウ、喜びに満ちた胸中)頽壁毀垣(タイヘキ・キエン、崩れた壁と壊れた垣)、古松老柏(コショウ・ロウハク)、精氣一新、是所謂世必有非常之人。而後有非常之事也。夫或議之者、乃非常之元、黎民罹焉者也。然則自十地寶覺以降、遞代(テイダイ、代替わり)主盟者、可不謂之非常之人耶。無乃不遜(ゆずる)耶。肯首於大寂定中否。享徳貮禩(ニシ、二年)癸酉中秋、前南禪竺雲等連書。康正二年丙子上杉禮部挟豪權奪味岡庄、欲爲東征伐資糧、已入其地。一日莊舎四面軍聲、箭飛如雨、礫走如雷、禮部頓狂惶怖、將自殺、刃已犯膚、左右相救、還刃其救者而死矣。從軍之士開門闕。則寂無人聲。禮部急棄其庄。而不推自去。烏虖天乎神乎、未忘護法之勑(ライ、ねぎらい・いましめ)者甚驗矣。後世豪可爲鑑戒之。又琴臺側有石浮圖、其刻曰、弘長壬戌八月二日、古來稱曰彌富之塔、彌富初不知名字。寺莊長瀧彌富者、昔彼湯沐邑也。故假以名之。或云、郁芳之乳媼也。弘長壬戌、逝去。則與永長丙子相隔百六十七年、不足信之、弘長之刻。恐立塔之時耶。世俗傳説、郁芳者天下絶色。而無閨房之染、生信大乗、常持蓮經。故白河法皇自染宸翰、冩八軸授之。精進讀誦、手不釋巻、或時起一念淸淨之慢、魔伺其便、奪所持蓮經第八之軸去。爾來不豫而化矣。乳媼哀慕之餘、假觀音力、回邪歸正、托形於飛鳶護伽藍云、雖荒唐之説、宸翰蓮經、天下識也。惜乎隨永享之燼、不知燼耶。又奪耶。飛鳶者不曾去、如護者數日。若不見則或不祥也。自永長丙子至今寛正甲申、三百六十九年、郁芳事迹、開山行實、寺宇屮創、往々苦其難知、山中耆艾少長、相共請曰、和尚自七齢入此保社。適主丈室冝作傳記以貽將來、余謭才劣識、謙拒一ニ、固請不允、於是古老之説、街童之譚、寺庫契券、國朝載籍。一々攟摭(クンシャク、拾う)之、盖與當世大儒宗門耆衲(キノウ)、反復討論、面粗記顛末、後來博聞君子、庶幾補苴(つとに)遺漏、削正訛舛。則不亦善乎。

   寛正五年龍集(リュウシュウ、一年)甲申佛歓喜日

                  住持天佑梵嘏(テンユウボンカ、室町時代の僧。臨済宗、京都天竜寺の雪心周安の法をつぎ、万寿寺住持となる。寛正(かんしょう)五年(1464)同寺の寺誌「京城万寿禅寺記」をあらわした。語録に「万寿語録」がある。)謹記  

    右萬壽禪寺記依無類本不能挍合(コウゴウ、比べ合わせる)

 

【註】味岡荘: 『荘園志料』(上巻)第三編「近国二」の尾張国春部郡に「味岡本荘」と「味岡新荘」の記載がある。先ず、その本文を引用する。
 康和三年(北朝・永徳三年、1383)の院庁下文に見えて、当時白河院御領なりしが如し、其の後、元弘中(北朝・元徳三年~正慶二年、建武の新政で年号統一「建武」となる、1331-1334)崇明門院は、本荘を割きて、萬壽寺に寄附し、永嘉門院香燈料に充て、興国元年(北朝・暦応三年、1340)、僧・良悦は、新荘を以て萬壽寺に寄進せり、康正(1455)の頃は、萬壽寺は新荘のみ領して、本荘は嵯峨・大慈寺領となりたるが如し、今郡中熊野荘内南北外山村の辺りと云う。
【徴證】に、『朝野群載(巻四)』、『萬壽禅寺記』(本文)の引用があり、また「尾州味岡荘段銭」に、五貫八十文、嵯峨大慈寺領(康正二年)、「尾州味岡新荘段銭」に、八貫二百六十文、萬壽院領、「尾州味岡段銭」に、一貫五百文、伊勢平左衛門尉殿、同「尾州味岡段銭」に、一貫五百文、伊勢彦左衛門尉殿、の記載がある。

 

【補注】上杉礼部: 『史料綜覧』(第八巻)後花園天皇、将軍・足利義政、康正二年(1456)十二月の條に、「上杉朝廣、味岡荘ヲ横奪シ、軍資ヲ徴セントシテ果サズ」(『京城萬壽禅寺記』、『諸家系図纂』)とある。また『系図綜覧』(国書刊行会編・大正4年)下巻「関東管領・上椙(すぎ)山内・扇谷(おおぎがやつ)両家及庶流伝」の系図に拠れば、高藤8代後の頼重の次男・重顯の傍系だが、後に関東管領と為る憲顯の父・顯定の養子になっている事から、憲顯との関係に疑問が残るが、今のところ不祥である。

 

  

 

経光ノ一族南庄ニ住セルコトヲ知ラル

〔経光の一族、南庄に住せることを知らる〕

《経光の一族が、南庄に住んだ事が知られる》

 

第二項 鯖石庄(佐橋庄)

 

 東鑑文治二年注進状ニ越後国荘園廿三ノ内三島郡ニ属スルモノ佐橋庄六条院領比角庄穀倉院領宮川庄前斉(斎)院領大神庄仝上ノ四トス

〔東鑑文治二年、注進状に越後国荘園二十三の内、三島郡に属するもの佐橋庄(六条院領)比角庄(穀倉院領)宮川庄(前斎院領)大神庄(同上)の四とす。〕
《『東鏡(吾妻鏡)』吉川本の第五巻、文治二年三月十二日の注進状(下記参照)に、越後国の荘園23か所(下記引用部を計算すると、25カ所である)の内、三島郡に属するもの佐橋庄六条院領(『吾妻鏡・吉川本』では刈羽郡)、比角庄穀倉院領(先と同様、刈羽郡)、宮川庄前斎院領『吾妻鏡・吉川本』には見当たらない)、大神庄同上(先と同様、刈羽郡)の四か所としている。因みに、三島郡と記載のあるのは、吉河庄(高松院領)波多岐庄、また古志郡としたものは、大島庄(殿下・近衛基通領)、志度野岐庄(二位大納言家領)がある。》
※「宮川庄」について、先の様に『吾妻鏡』には、「宮川庄」の記載がない。また、国学院大学日本史研究会(文学博士・藤井貞文監修)の『吾妻鏡』地名索引』(『新訂増補国史大系本・吾妻鏡』底本)にも「宮川庄」の記載はない。

 

【註】東鑑: 『吾妻鏡』、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。(ウィキペディア參照)
文治二年: 西暦1186
注進状: 日本中世の古文書の一様式。ある事柄の明細を記して注進(報告)した文書。冒頭を〈注進〉と書き出し、書止めを〈右、注進如件〉などと結び、その一通で完結した文書として機能した。注進状は、しばしば注文と呼称され、書式も共通する部分が多いが、相違点は、注文が手控えのメモや副進文書を意味した点にある。また、請文(うけぶみ)、つまり命令に対する単なる復命の報告書とは異なって、下位者、下位機関の職務上の独自権限や積極的な調査にもとづき、一定の主張をこめて提出される。(平凡社世界大百科事典參照)
 以下、『越佐史料』と『吉川本・吾妻鏡』より引用する。但し、〈〉内は、『越佐史料』が『吾妻鏡』から省略した部分である。尚、この部分、以前に引用系挿しているが、便宜上、再掲する。

『越佐史料』第一巻、文治二年丙午 紀元千八百四十六年(1186年)
二月大盡(中国太陽暦の十二気暦で三十日)己酉(キユウ、つちのととり)
是月、旨ヲ頼朝ニ下シテ、後白河院宮以下諸領ノ幕府分国越後等ニ在ルモノ、乃貢未済ヲ催促シム

『吉川本・吾妻鏡』六 文治二年三月十二日、庚寅(コウイン、かのえとら)、〈(第五巻に記載)小中太光家為使節上洛、是左典厩賢息、二品御外姪、依可令加首題服給、被献御馬三疋長持被納砂金絹等、二棹之故也、又〉関東御知行国々内、乃貢米未済荘々、召下家司等、注文被下之可加催促給之由云々、今日到来。
  注進三箇国庄々事
下総、信濃、越後等国々注文
下総国(省略)
信濃国(省略)
越後国(尚、「荘」は、版本によって「庄」とある。)
 院御領(後白河上皇)              大槻荘(南蒲原郡)
 上西門院御領(結子内親王) 福雄荘(西蒲原郡)
 高松院御領(妹子内親王)   青海荘(西頚城郡)
 鳥羽十一面堂領             大面荘(南蒲原郡)
 新釈迦堂領預所中御門大納言 小泉荘(岩船郡)
 東大寺                            豊田荘(北蒲原郡)
 六條院領(六條天皇)、一條院女房右衛門佐局沙汰
                            
佐橋荘(刈羽郡)
 殿下御領(近衛基通)              白河荘(北蒲原郡)
 殿下御領                   奥山荘(北蒲原郡)
 穀倉院領                   比角荘(刈羽郡)
 前斎院御領(頒子内親王)、預所前治部卿
                            
宇河荘(刈羽郡)
 殿下御領                   大島荘(古志郡)
 八條院御領(暲子内親王)   白鳥荘(刈羽郡)
 高松院御領                 吉河荘(三島郡)
 金剛院領、堀河大納言家沙汰 加地荘(北蒲原郡)
 賀茂社領                   石河荘(南蒲原郡)
 院御領(後白河上皇)預所備中前司信忠
                            
於田荘(中魚沼郡上田荘)
 鳥羽十一面堂領、預所大宮大納言入道家
                            
佐味荘(中頸城郡)
 六条院領、預所讃岐判官代惟繁
                            
菅名荘(中蒲原郡)
                            波多岐荘(三島郡)
 殿下御領、預所播磨局              紙屋荘(中蒲原郡)
 二位大納言家領(三位源定房か?)
                            
弥彦荘(西蒲原郡)
 二位大納言家領             志度野岐荘(古志郡)
 前斎院御領                 大神荘(刈羽郡)
 上西門院御領、預所木工頭   中宮

右注進如件
                            
文治二年二月 日

 

 

 佐橋庄タルヤ其区域明ナラズト雖モ六条院ノ領地タルコト左古記録ニヨリ一層明確ナリ

 〔佐橋庄たるやその区域、明らかならずといえども、六条院の領地たること、左古記録により、一層明確ナリ。〕

《佐橋庄は、その場所がはっきりと判っているとは言えないが、六条院の領地であった事だけは、前掲の史料からも、更に明確になった。》

 

 東鑑文治二年ノ条ニ六条院領佐橋庄一条院女房右衛門佐局沙汰云々トアリ又萬壽寺記ニモ佐橋庄ハ其寺領タリト

〔東鑑、文治二年の条に六条院佐橋庄一条院女房右衛門佐局沙汰云々とあり、また萬壽寺記にも佐橋庄はその寺領たりと。〕

《『東鑑(吾妻鏡)』の文治二年の条に「一條院女房右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね)沙汰」と云う記載があり、また『萬壽寺記』にも佐橋庄は萬壽寺の寺領であるとある。》

 

【註】萬壽寺記: 『萬壽禪寺記』あるいは『京城萬壽禪寺記』
以下、『群書類従』(第15輯「釋家部」第431巻)より全文を引用する。

京城萬壽禪寺記(旧本真書躰)
本寺者郁芳門院追嚴道場、昔六條院也。郁芳諱媞子、白河上皇長女、右大臣顯房第一女、中宮賢子者聖母也。堀河帝者弟也。帝事郁芳以母儀。不以賢婦侍之。嘉保三年丙子(
今年十二月十七日、改元永長。)秋七月下澣(ゲカン、下旬)、郁芳不豫。八月二日大赦。祷平安也。夜有星隕。七日甲子暁登遐(トウカ、崩御)。二十一齢也。九日丙寅、上皇不任哀悼而落餝(ラクショク、落飾)。二十六日葬蓮臺寺側。永長二年丁丑、革郁芳遺宮為佛廬(ブツロ、仏のいおり)。俗称六條御堂。十月十四日供養。上皇出聖躬血書永劫護法願文。其文曰、世漸及澆季(ギョウキ、乱世・末世)雖属末法。不可改我此願。遠可期三會暁。我速證久品者、天眼鑿之。我暫留三有者、以怨念罸之。何世聖君非我後裔。誰家賢臣非我舊僕。一事一言違之背之。国主皇帝殊可加炳誡(ヘイカイ、いましめ)矣。永長二年十月十四日、自留手痕而表信。故曰御手印。藤原國明寄附江州田井郷而仰佛法。王法之庇廕(ヒイン、ひさしのかげ)。康和元年正月四日、六條院火。八月十二日、再造供養。平治元年十月二十六日、因幡堂、河原院、崇親院、祇園離宮同時灾(サイ)。正嘉年中、十地上人、(又曰爾一上人、覺空禪師也。與其徒慈一上人。(賓覺禪師也。修淨土敎。慈一聞東福國師道風。徃扣其室。針芥相投。十地亦見國師遂領玄旨。二師棄教入禪。扁六條御堂曰萬壽禪寺。盖嘉暦三年、相模守平朝臣狀云、萬壽之題額、起最明寺之素意。弘長元年十一月二十四日、實覺禪師旌禪苑開堂之儀。翌日東福有賀狀。其略云、昨日無風雨難開堂。道德之至。随喜無極、於是實覺禪師、覺空禪師、爲兩開山。文永九年壬申十一月二十四日供養。同十年十月十二日火。元德二年庚午九月二十日、内親王崇明門院。(諱祺子。後宇多院皇女。聖母者永嘉門院。)新賜賓地。廣開紺園。此樋口東。高倉西。東洞院爲界也。元弘二年。(今年改元正慶。)前住畊雲原之徒、紹臨奉朝命、就彼地。先建報恩精舎。奉安地藏尊容。修薦永嘉門院仙駕。(永嘉諱瑞子。中務卿宗尊親王女。嵯峨院孫女。後宇多猶子。嘉暦四年八月二十九日升遐(ショウカ、天子や貴人が死ぬる事)。四年者元德改元也。)崇明割尾州味岡本莊。充永嘉香燈。暦應三年庚辰、僧良悦附味岡新莊。六條萬壽與報恩合爲一寺。六條舊地、今號南院。報恩舊基、今曰琴臺。特爲郁芳仙祠。白河後宇多等同嚴追修。自永長上皇願文血書、宸衷(天子の心)之所感。寄田園於此寺者甚夥焉。弘長三年、關白殿下以泉州長瀧包富付與十地上人。建武五年、(卽暦應元年也。)一條殿下以長瀧彌富幷附之。弘安九年、室町院(後堀川皇女。)寄附江州田中莊。正和元年院宣。加州富積保爲祈禱賜之。貞治五年、寶篋(ホウキョウ、宝箱)相君以備前土師郷易越中佐味庄。又大小檀施洛中園地處々有之。明德四年、前住濟翁樹寄五條坊門朱雀窪田。充忌辰之茶湯。西京四段、綾小路室町、七條猪熊、六條高倉、又六條坊門萬里小路六條坊門高倉兩地、爲永觀都聞設浴之薪水、又禪通都聞施入銅錢壹陌緡、出其息爲開浴之設。至徳三年、大内義弘梅窓居士歸附長門厚東郡吉部郷。爲浴僧之資。鹿苑大相國頒下鈞怙。爲季世證。此外有莊産田園被他剽略者、勢州木造庄、日置庄、三賀野庄、(小倭庄内幷八知山兩郷。)三箇庄、(三箇者庄名。)伊賀河合庄、柘植庄、長田庄院田、山田庄院田、越後佐橋庄、信州仁科庄、若州垣拔庄、丹波豊富庄、備前長田庄、江州羽田庄他。又五條堀川、六條坊門油小路、姉小路油小路、左女牛堀川、甲斐河五段、寺門西面楊梅路。此本志都聞冥福之地、一々契券(地券・手形・割符などの総称)、代々官苻(官符、太政官苻の略)、昭々焉。等持仁山相公、大執國柄、深信佛乘。殊興禪叢。令嗣寶篋相君、延文三年戊戌陞位於五山之列。至德初元甲子、鹿苑大相國遵先相君遺命。重降鈞帖(キンジョウ、公帖。禅宗寺院のうちの、五山、十刹、諸山などの官寺およびそれに準ずる寺院の住持任命の辞令)、定兩班位次。大方争議、不欲與之齒。大相國命南禪大淸、天龍德曵、建仁相山、東福天章、各寺西堂諸勤舊(勤旧、禅宗で知事、侍者、蔵主などの退職した者をいう)等。以連署、令定其班。遂無異論。至今受其賚(ライ、たまもの)。永德二年丁丑、大和國以寺産之契券官符雜亂紛冗而不便、點撿(点検)之。故提其綱要、命門・・・

 

 

 承保二年白河天皇京都六条ニ造営シテ移御皇后ト為シ禅位ノ後仍仙洞タリト拾芥抄ニ見エ又百練抄中左記ニ永長元年皇女郁芳門院媞子薨ず上皇落飾宮ヲ棄テテ佛宇ト為ス萬壽寺之ナリ永享六年回禄シテ廃ス院ハ上皇ノ御在所ノ称ナリ又転ジテ上皇御身ヲ申シ奉ル語ニモ用イラレ以テ白河上皇ノ御領地タルヲ知シル然ルニ六条内裡(裏)ハ転ジテ寺トナルニ及ビ寺領トナレルナリ

〔承保二年(1075)、白河天皇、京都六条に造営して移御(イギョ、天皇・上皇・皇后などが他所へ移ること)し皇居と為し、禅位の後、よって仙洞(上皇の御所)たりと、『拾芥抄(シュウカイショウ)』に見え、また『百練抄(百錬抄)』中、左記に永長元年、皇女郁芳門院媞子(イクホウモンイン・テイシ)薨ず、上皇落飾、宮を棄てて仏宇となす。萬壽寺、これなり。永享六年、回禄(カイロク、火災)して廃す。院は上皇の御在所の称なり。また転じて上皇御身を申し奉る語にも用いられ、もって佐橋は、白河上皇の御領地たるを知る。然るに六条内裏は転じて寺となるに及び寺領となれるなり。〕

《承保2年(1075)、白河天皇は、京都六条に新に御所を建てて皇居(六條内裏)としたが、応徳3年(1086)、堀河天皇に位を譲り上皇になったので、ここが上皇の御所である仙洞(六條院)となったと、『拾芥抄』に記載がある。また『百練抄』の「永長元年」の項、左記(同年の詳細が左記)に、皇女である郁芳門院媞子の逝去に伴い、上皇は出家して、御所を廃し、改めて萬壽禅寺とした記載があり、永享六年には、上皇の御所が火災で焼失、上皇の御所を意味するとともに、上皇自身を表すのが「院」である事から、佐橋庄が、白河上皇の領地である事が判り、更に六條内裏が焼失して萬壽禅寺になった事から、寺領となったものである。》

 

【註】『拾芥抄』: 中世日本にて出された類書(百科事典)。城中下全3巻。元は『拾芥略要抄』とも呼ばれ、『略要抄』とも略されていた。
 問題の個所は、『拾芥抄』あるいは『略要抄』(洞院公賢撰・吉川弘文館・明治39年刊)の上巻第27「本朝世系年立部」に「72代・白河天皇十四〈在位14年、但し現在の歴史年表では12年間〉(貞仁〈諱、さだひと〉、延久尚一〈1073、後三條天皇の退位後およそ一年〉、承保三〈1074~〉、承暦四〈1077~〉、永保三〈1081~〉、應德三〈10841087〉)とある。また、同書中巻第20「諸名所部」に「六條
内裏 北六條坊門、南六條二町、(西)東洞院、東高倉二町、萬壽禪寺是也。」とある。
 しかしながら、現時点で、本文記載の部分に該当する記載が見当らない。
 『百練抄』: 公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書。鎌倉時代後期の13世紀末頃に成立したとみられる。編著者は不詳。百練抄とも書く。書名は唐の詩人白居易の「百練鏡」に由来すると考えられ、当初は「練」の字が用いられていたが、江戸時代以後に「錬」の字が用いられるようになった。
 引用の個所は、『百錬抄』(国史大系第14巻『百錬抄・愚管抄・元亨釈書』経済雑誌社編・明治34年刊参照)第五巻・堀川院(永長・承徳)の永長元年(10956)(
嘉保三年十二月十七日改元。依天變〈変〉也。)の八月七日に、「郁芳門院崩。(廿二。上皇一女。今上同腹姉。)九日、上皇御出家。依哀傷郁芳門院御事也。〔郁芳門院の御事を哀傷(アイショウ)するによってなり。〕」、また「承徳元年(1097)九月十四日、以郁芳門院御所、改佛閣。今日供養。〔郁芳門院御所をもって、仏閣と改める。〕」更に、「康和元年(1099)正月四日、六條院焼亡。(前郁芳門院居、今爲佛閣。)」とある。

 

 鯖石川ノ称ハ鵜川(右川)左川と対称セラレタルニ起リタル由ナルガ當地方ニ魚類ノ化石ヲ産シ方俗鯖石ト呼ビタルヨリ其音類スルニヨリ遂ニ左川ヲ鯖石川ニ転称シタルモノカ萬壽寺記ニ寺領越後国佐橋荘下司職毛利経光地出化石俗称鯖石ト而シテ鯖石ヲ産セルハ經光ノ時代ニアラズシテ古キ昔日ノコトナラン吉田博士佐橋ヲ一ニ鯖石ト作リ鯖石川ヨリ来レルヲ述ベタリ或ハさばいしノい略サレさばしト為リ遂ニ佐橋ト當字シタルモノナラン佐橋庄ハ北條南條ヲカケテ当地ヲ併セ称セルコトハ石川中村氏ノ家譜ニ三島郡鯖石庄善根八石云々弘安五年ト明記セラレタルヨリ北條専称寺及安田ニ遺レル古記録ニ照ラシ明確ナリ而シテ北條鹿島神社棟札ニ米山東刈羽郡佐橋庄北條郷云々天正十三年トアリ戦国時代ニ入ルモ猶庄名ヲ附称シタルノミナラズ文化年間ニ於ケル加納村ノ書上状ニモ刈羽郡久野木郷鯖石庄加納村ト添ヘ加ヘタリ之俗称ト雖モ以テ当地方ハ昔ノ佐橋庄園地タルヲ証スルニ足ル

〔鯖石川の称は、鵜川(右川)、左川と対称せられたるに起りたる由なるが、当地方に魚類の化石を産し、方俗、鯖石と呼びたるより、その音、類するにより、遂に左川を鯖石川に転称したるものか、萬壽寺記に寺領・越後国佐橋莊、下司職(ゲシシキ、平安末期から中世にかけて荘園の現地で荘務をつかさどる地位)毛利経光、地出化石、俗称鯖石と、而して鯖石を産せるは、経光の時代にあらずして、古き昔日のことならん。吉田博士、佐橋を一に鯖石と作り、鯖石川より来れるを述べたり。あるいは「さばいし」の「い」略され「さばし」と為り、遂に佐橋と当て字したるものならん。佐橋庄は北條・南條をかけて当地を併せ称せることは、石川・中村氏の家譜に、三島郡鯖石庄善根八石云々、弘安五年と明記せられたるより、北條・専称寺及び安田に遺れる古記録に照らし明確なり。而して北條・鹿島神社棟札に米山東、刈羽郡佐橋庄北條郷云々、天正十三年とあり、戦国時代に入るも、猶、庄名を附称したるのみならず、文化年間における加納村の書上状にも、刈羽郡久野木郷鯖石庄加納村と添え加えたり。これ俗称といえども以て当地方は昔の佐橋庄園地たるを証するに足る。〕

《鯖石川の呼称は、鵜川すなわち右川と対して左川と呼んだ事に起因していると云われるが、この地方では、魚類の化石が出土し、この辺りでは「鯖石」と呼ぶ事もあり、その発音が「左川」とよく似ている事から、次第に転化して、左川を鯖石川と呼ぶようになったと思はれる。『萬壽寺記(萬壽禅寺記)』(前記參照)に寺領、越後国佐橋莊とあり、後代の地頭である下司職だった毛利経光が、出土した化石、すなわち俗稱である鯖石を地名に用いたと云うが、化石である「鯖石」が出土したのは、経光の時代の時代ではなく、それよりも随分と昔であったようだ。吉田東伍博士は、佐橋を先ず「鯖石」とし、「鯖石川」に由来すると述べているが(【註】參照)、これは「さばいし」の「い」が省略され「さばし」となり、更に転化して「佐橋」と当て字したものだと思われる。佐橋庄は、北條から南條を合せて呼ばれている事は、北條の専称寺や安田に残る古文書などからも明らかであり、またこの事は、北條の鹿島神社の棟札にも、米山の東、刈羽郡佐橋庄北條郷など、天正十三年と書かれており、戦国時代に入ってからも、庄名を付けて呼んでいるばかりか、江戸中期にあたる文化年間の加納村の書上状にも、刈羽郡久野木郷鯖石庄加納村との添え書きが見える。この事は、俗称とは言え、この地域が佐橋庄園であった事を証明しているという事が出来るだろう。》

 

 【註】吉田博士、云々: 吉田博士、すなわち吉田東伍博士の事。続く文章は、『大日本地名辞書』中巻「越後国・刈羽郡」の「佐橋(サバシ)」の項(中巻・2025頁中段)を参照したと思はれる。以下、原文。

 旧庄名にて、又鯖石に作る。北條・南條などを本とし、近地を籠めたる私田の号なりしを知る。水名に起ると雖(いえども)、本来此辺に出る魚類化石を方俗鯖石と呼ぶに因る。東鑑、文治二年の條に「六條院領佐橋庄、一條院女房右衛門佐局沙汰」とあり、又萬壽寺記(群書類従本)にも佐橋庄は其寺領たりしこと見ゆ。其下司職は大江廣元の孫毛利経光の家へ伝え、謂ゆる毛利氏、北條氏、石田氏、安田氏など皆其佐橋庄地頭の裔孫に出ず。当国にて名高き旧家とす。

【補注】『荘園志料』(清水正健編・昭和8年・帝都出版社刊)は、上下二巻、全国の荘園を網羅した上下2300頁を越える大著であり、荘園研究の重要な資料である。当然のことながら、この大著が参照された訳ではないが、参考の為に、当該部分を紹介する。出典部分は、下巻・第十七篇「遠国三」越後国(1916P)三島郡の佐橋荘(1919P)。以下、引用。
佐橋荘(サハシ)文治二年の記に見えて、六條院領なりしが、後には萬壽寺領となれり、今刈羽郡に鯖石荘存す。
徴證 東鑑曰、文治二年三月十二日、云々。(
下文大槻荘條)〇毛利家文書曰、云々、文永七年七月十五日。(安芸吉田莊條)〇龜山院凶事記曰、云々、嘉元三年七月廿六日。(備前長田荘條)〇毛利家文書曰、云々、応安四年三月廿一日。(安芸吉田莊條)〇萬壽禅寺記曰、有荘産田園、被剽略者、越後国佐橋荘。
 因みに、この三島郡に挙げられた荘園は、石井荘(北野社領、出雲崎石井町)、比角荘(穀倉院領)、宮河荘(前斎院領、宮川)、鵜河荘(「興国二年、上杉朝定、荘内安田條上方を、丹波国安国寺に寄進す」とある。枇杷島諸村)、小国保(長岡市小国)、赤田保(刈羽村赤田)、埴生保(「保内に鎌倉覚音寺領有り、今其の所在明ならず」とある。余談だが、息子が通う大学(旧鍼灸大学)のある京都府南丹市を通る京都縦貫自動車道に綾部・安国寺ICがある。

 

佐橋庄下司職

第三節 中鯖石村

 

 中鯖石村ハ明治三十四年町村大分合ヲ施行セラレタル時善根加納秋津ノ三村併合シタル新称ナリ延喜式ノ三島郷ニ含マレ封建時代ハ佐橋庄ノ一部タリ今荘園地ノ起因ニ筆ヲ起シ佐橋ノ庄ヨリ逐次各字沿革ヲ記セントス

〔中鯖石村は、明治34年、町村大分合を施行せられたる時、善根・加納・秋津の山村併合したる新称なり。延喜式の三島郡に含まれ、封建時代は佐橋庄の一部たり。今、荘園地の起因に筆を起し、佐橋の庄より逐次各字沿革を記せんとす。〕

《中鯖石村は、明治34年の町村大分合が施行された時、善根・加納・秋津の三か村が合併してできた新しい名称である。昔は、延喜式の三島郡に含まれ、封建時代は佐橋庄の一部だった。今回は、その時代の荘園の成立理由から始め、佐橋の庄の由来より、順次、それぞれの字の沿革について述べて行きたい。》
【註】明治三十四年の町村大分合: 明治4年(1871)4月4日、「戸籍法」が制定され、区制(大区・小区)・戸長制が施行された。その後、区の再編は何度かの変遷を経て、明治6年7月、柏崎県が新潟県に統合された後、明治9年、全県25大区となり、善根・加納は第5大区小十区に編入された。その後、何度かの再編があり、明治34年に中鯖石村が誕生した。
 因みに、この時の「明治三十四年町村合併理由書」によると、「秋津・加納・善根、以上三ヶ村は、更に森近・南条のニヶ村を加え五ヶ村合併を主張すと雖も南条・森近の二村は地勢上、本区域に合併するの可ならざるのみならず現に此の三ヶ村行政組合をなし居るものにして新に他町村を加うるの要なきものとす。」とある。

 

第一項 荘園(庄園)

 神武天皇倭国ヲ平定シ給フニ臨ミ國家ヲ統一センガ為メ地方ヲ区画シテ国トス国ニ大小ノ名アリ又県邑村(アガタムラフレ)等ノ称謂アリ県ハ小国ニ比スベク邑村ノ大ナルオノハ小国県ニ仝シ而シテ国造県主ヲ国及ビ県ニ邑村ニハ邑君村長ヲ置カレタリト雖モ必ズシモ相統属セルモノニアラズ是レ公民公田ナリ然ルニ是ニ反シ臣連ヨリ以下品部伴緒(ホムツベトモノヲ)ヲ分チテ朝廷ニ奉事セシム所謂戸(姓氏)是ニシテ此ノ氏姓ハ各占住ノ地アリテ一国造邑君等ノ領有ト交錯セルモノナリ之柳々私田ノ始メニシテ遂ニハ王公諸臣等多ク山沢ヲ占メ民ト利ヲ争フ因テ孝徳天皇改新ノ詔ヲ下シ法度ヲ拡張シテ始メテ海内ヲ混一シテ諸郡ヲ建テ郡邑ノ大小ヲ分チテ国司郡領ヲ置キ国郡ノ制コヽニ見ルベキアリ然レドモ公田ハ六年ニシテ官遷シ野山ヲ新ニ開墾シタルモ年限ヲ定メ官ニ納ムルノ制ナレバ開墾ニ力ヲ尽スモノナリ戸口漸ク其食乏シキヲツグ故ニ聖武天皇ノ天平十五年詔シテ田土ノ開墾ヲ奨メ私有ヲ聴サル大化以来ノ政治流弊連ニ至リ国郡統一ノ旧制度将ニ破レントス

〔神武天皇、倭国を平定し給うに臨み、国家を統一せんが為め、地方を区画して国とす。国二大小の名称あり、又県邑村(あがた・むら・ふれ)等の称謂(呼び名)あり。県は小国に比すべく、邑村の大なるものは小国、県に同じ。しかして国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)を国及び県に、邑村には邑君(むらぎみ)、村長(むらおさ)を置かれたりといえども、必ずしも相統属(トウゾク)せるものにあらず、これ公民公田なり。然るにこれに反し、臣連(おみ・むらじ)より以下、品部伴緒(ほむつべ・とものを)を分ちて朝廷に奉事せしむ、所謂(いわゆる)戸(姓氏)これにしてこの氏姓は各占住の地ありて、一国造・邑君等の領有と交錯せるものなり。これ柳々(?)私田の始めにして遂には王公諸臣等、多く山沢を占め、民と利を争う。因て、孝徳天皇改新の詔を下し、法度を拡張し、始めて海内を混一して、諸郡を建て、郡邑の大小を分ちて、国司・郡領(郡司の内、大領・小領の総称)を置き、国郡の制、ここに見るべきあり。然れども公田は六年にして官遷し野山を新に開墾したるも、年限を定め官に納むるの制なれば、開墾に力を尽くすものなり。戸口漸く多く、その食乏しきをつぐ。故に聖武天皇の天平十五年、詔して田土の開墾を奨め、私有を聴さる。大化以来の政治流弊連に至り国郡統一の旧制度将(まさ)に破れんとす。〕

《神武天皇は、倭国を平定した際に、国家を統一する為、地方を区画に分け国と定めた。その国には大小の名称があり、また県(あがた)・邑(むら)・村(ふれ)等の呼称があり、県は小国に相当し、邑や村の大きなものは小国や県と同じである。そこで、国には国造、県には県主、邑村には邑君・村長を配置されたけれど、必ずしも、それぞれに所属するのではなく、全て国に属す公地公民である(私有を認めない)。しかしながら、臣連より下位の品部(、しなべ)伴緒(とものお)などの部の人々の一部を朝廷の労務に当てさせた。いわゆる「戸」は、・・・・(以下略)》

◎この部分に関しては、文脈から先にも挙げた栗田寛著『荘園考』(大八洲学会刊・明治21年(1888))からの引用、あるいは抄訳の感がある。しかし、現在の読者には難解な部分も多く、また一般論の記述であり、よって、当時の考察に近いものとして、昭和10年(1935)前後に出版された岩波書店の『岩波講座日本歴史』第10巻(蘆田伊人著「本邦地図の発達」第5節「荘園図」)によくまとめられた文章があるので、該当する箇所を抄訳引用し、訳注に換えたい。以下、引用。但し、抄訳現代文。

「三 田図」
 初めて我が文献に現われ、しかも国家が令を下して、これを作製させた地図は、孝徳天皇、大化二年八月の詔勅に基き、諸国を各国の疆域(境域)境界を調査し、書面および図にして提出させたのが、恐らく初めの事だろう。こうして、官はその図を基に国県の名称を定め、次に築堤・穿溝・墾田(造るべき堤や溝、耕すべき田)を指示できるように考へ、その国の山川平野の地形をある程度まで詳細に把握できるようになった。しかし、大化改新の主要な目的の一つは、従来の土地私有を公有に改め、戸籍を作り「班田の法」を制定する事にあったから、こうして提出された地図の目的は明らかで、この図によって各国の班田施行の政策を定め、班田が完了した。(中略)
 班田と田図・田籍は並行して作製されなければならないもので、班田の図ができれば、その町段および四至(東西南北の境界)を詳細に記録した田図・田籍三通を作り、一通は官に提出し、他はそれぞれの国に保管した。これらは、令と式によって定められた。しかし、班田には、班田にする前に、その土地を測量し、区分けして、班田ごとの正確な位置を指示する必要があった。これがいわゆる「條里制」が制定された理由である。すなわち、條里制と班田法と田図の関係は三位一体の関係であったが、完了するのには相当の時間が掛った。

「四 国郡図」
(前略)その頃の国々と後の国々とは大分違ったもので、ただ漠然と一地方を著した者だった。これが大化の新政で初めて戸数を単位とした境域が制定され、天武天皇の時になって、区分が終り、その後、和同・養老の分合改廃を経て、漸く今日のような国郡の状況になった。(中略)
 元明天皇の和同六年五月、風土記の編纂・提出の詔勅が下されたが、この時には、どう言う訳か、図の提出の命は無かった。しかし、この時の詔勅では、諸国郡郷の名称を好字に改める事と、当時、公用として最も重要であった諸国の銀銅彩色等の産品の調査が優先されたのではないだろうか。
 その後、およそ二十五年、聖武天皇の時代になって、地方機関の整備と共に、中央集権が確立する一方で、天皇が仏教に帰依し、各国への金剛明経や仏像の頒布を経て、天平十三年に国分寺創建の詔勅を下した。また、これより先の天平十年八月二十六日、諸国に国郡図の作製の詔勅を下した。

 「五 荘園図」
大化の改新は、従来私有だった土地を公有とし、官人には食封または布帛(フハク、織物)を、百姓には班田の制を施行して口分田(クブンデン、班田法に基づいて公民に分け与えられた田地)を与え、更に官人には職官(職務と官位)に応じて職田を、位の高い親王・諸王・諸臣には位田を、また勲功のあるものには功田(コウデン)または賜田などを給与したので、初めは離職や死去の時、これを収公または半減するなど規定通りに行われていたが、この複雑な土地に関する制度を、人口が増え続ける百姓と、移動が絶えない官人に適切に施行する事は困難になり、私田と公田の区別が不明確になり、それが原因で田地が荒廃するようになった。大宝律令では公私田が三年間荒廃したままであれば、官の許可を得れば借りて耕す事が出来たが、収穫が見込まれるようになる、私田は三年で地主に還り、公田は六年で官に返納する事になっていた為、安心して開墾するものが居なくなり、権力者たちは、未開墾の山野を求めて占有するようになった。そこで、元明天皇の和同四年十二月、こうした山野の占領が禁止され、こうした土地の開墾にも総て官許をを必要とすると云う詔勅が下された。その結果、増え続ける百姓は益々貧困となり、元明天皇の養老七年四月、更に開墾令を発して、新に開墾するものは三代限り、既に開墾された土地を利用するものは一代限りと定められた。しかし期限が近くなると、また百姓は意欲を失い田地の荒廃が進む。そこでまた、聖武天皇の天平十五年五月、この「三世一身の法」は改められて、開墾地の永久私有を認める詔勅が下された。こうして「班田の制」が有名無実のものとなり、荘園の成立へと続くのである。

【註】品部: 大化前代の品部は古訓に〈しなしなのとものを〉とあることから〈しなべ〉を学術用語として採用。また〈とものみやつこ〉という古訓もあることから〈ともべ〉ともいう。この品部については次の二つの考え方がある。(1)部の総称。複数の部に対する呼称。(2)大和朝廷に仕える伴造(とものみやつこ)の管理下におかれた職業部(馬飼部、鍛冶部(かぬちべ)など)と名代(なしろ)を合わせたもの。物資を貢納したり、朝廷に上番して労役に従事した。
伴緒: とものお、令制前、一定の職業に従事して大和政権に仕える人々。(→品部)

 

 荘園ハカク開墾セル其地ヲ賜ハリタル田ヲ別業トセルニ起リ賜田ヨリ来ルアリ功田ヲ朝ニ返シ奉ラズシテ私有シタルアリ神社仏寺ニ寄附田アリ荒地ヲ賜ハリ開墾シタルヨリ権門勢力家恣ニ公民ヲ駆役シ開拓ヲツトメ愈々其私ヲ営ムママ私墾田日ニ多ク此ノ庄田ハ国衛ノ治ニアラザレバ賦税モ軽ク調庸ノ務モナケレバ百姓之ヲ利トシテ課役ヲ遁ルヽ為メニ勢力家ノ民トナリテ公田ヲ営マズ専ラ庄園ヲ耕スコヽニ新立ノ庄園益々多ク延喜以後ニ及ビ頽勢已ニ支ヘ難ク私田私民大ニ興リ国家ハ遂ニ土地人民ヲ失フニ至ル

〔荘園は、かく開墾せる、その地を賜りたる田を別業(なりどころ、別荘)とせるに起り、賜田より来るあり、功田を朝廷に返し奉らずして私有したるあり、神社仏寺に寄附田あり、荒地を賜わり開墾したるより、権門勢力家、恣(ほしいまま)に公民を駆役し開拓をつとめ、愈々(いよいよ)その私を営むまま、私墾田、日に多く、この庄田は国衙(コクガ)の治にあらざれば、賦税も軽く、調庸の務もなければ、百姓これを利として、課役を遁るるために、勢力家の民となりて、公田を営まず、専(もっぱ)ら庄園を耕す。ここに新立の庄園、ますます多く、延喜以後に及び、頽勢すでに支え難く、私田・私民、大いに興(おこ)り、国家は遂に土地人民を失うに至る。〕
《荘園は、このように開墾され、その土地を下賜され所の田を「別業(別荘)」とした事に由来し、その中には、賜田(下賜された田)に由来し、功田(功績により下賜された田、あるいは、文脈から「公田」の誤り)を朝廷に返還せずに私有した事によるものあり、神社や寺院に寄贈された田に由来するもの、また荒地を下賜され開墾した事に由来するものがあるが、権力者たちは、勝手にこれらの土地を公民(朝廷に所属する民)を使って開拓を続け、私有化した私墾田が益々多くなった結果、こうした庄田が国の役所の管轄外になった為、税金も軽くなり、調庸(貢物と労役)も無くなった。こうなると、百姓(この場合、公民)は、税金も労役などの無い貴族や寺社の荘園の方が良いと、もとの土地(公田)を逃げ出して、進んで権力者の荘園を耕す民と成った。こうして、新に発生した荘園が、段々多くなり、延喜頃からは、この危機的な状況を回復する事が困難になり、朝廷に属さない私田や私民が増大し、国家(朝廷)は土地も人民も失う結果となった。》

 

 庄ヲ領スルモノヲ領家マタハ領主本所ナドト云フ当地方ハ京都萬壽寺領佐橋庄タルコト古記録ニ照ラシテ明ナリ

〔庄を領するものを領家または領主・本所などと云う。当地方は京都・萬壽寺領佐橋庄たること古記録に照らして明かなり。〕
《庄園を領有するものを領家あるいは領主または本所などと呼ぶ。この地方は、京都の萬壽寺の領有する所で、佐橋庄というが、この事は昔の記録を調べると明確である。》



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