柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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高志国ハ越国ト記ス其因詳カナラズ

〔高志国は越国と記す、その因詳らかならず〕
(高志国は越国と書くが、その理由はよく分っていない。)

越国ハ蝦夷ノ巣窟ニシテ鎮撫ニ力ヲ盡サンコト史蹟ニ明記セリ

〔越国は蝦夷の巣窟にして鎮撫に力を尽くさんこと史籍に明記せり。〕
(越国は、蝦夷の巣窟であり、その鎮撫に尽力した事が様々な歴史書に明記されている。)

 崇神天皇ノ九年ニ大彦命ヲシテ北陸路ニ遣ハサレタルハ正シク皇命ニ服従セザル蝦夷征服ノ目的ニシテ其子孫ハ多ク此ノ地ニ止マリテ教化ニ努メラレタルナリ

 〔崇神天皇の九年に大彦命をして北陸路に遣わされたるは正しく皇命に服従せざる蝦夷征服の目的にして、その子孫は多くこの地に止まりて教化に努められたるなり。〕
(第10代崇神天皇の9年〈88BC〉、大彦命を北陸路に派遣したのは、天皇の命令に従わない蝦夷の征服が目的であり、その子孫〈大彦命の子孫〉の多くは、この地に止まって、蝦夷の大和同化政策を進めて行った。)

 景行天皇ノ三十九年日本武尊ヲシテ東夷ヲ征セシメ給ヘル時尊ハ吉備武彦ヲシテ越国ニ遣シ尊ト美濃国ニ会セシム日本武尊ノ行ハ其以前竹内宿禰ノ北陸及東山諸国ノ巡視ノ実境報告ニ起因セバ此ノ時代ニ於テ猶一部ニ土族ハ勢力ヲ得テ跋扈セシナラン崇神天皇時代ニ久比岐国ヲ置カレ后凡ソ一百五十年ヲ経テ成務天皇時代ニ高志国深江国ヲ置カレ其国造ハ大彦命ノ子孫ナルコト史ニ見ユルヨリ推セバ当時代ニ於テハ大彦命ノ子孫繁栄シ華夷雑居ト云へ政治ノ統一モヤヽ整ヘタルモノヽ如シ

 〔景行天皇の三十九年、日本武尊〈やまとたけるのみこと〉をして東夷を征せしめたまえる時、尊は、吉備武彦〈きびのたけひこ〉をして越国に遣わし尊と美濃国に会せしむ。日本武尊の行は、その以前、竹内宿禰〈たけうちのすくね〉の北陸及び東山諸国の巡視の実境報告に起因せば、この時代において、なお一部に土族は勢力を得て跋扈〈バッコ〉せしならん。崇神天皇時代に久比岐〈クビキ〉国を置かれのち、およそ一百五十年を経て、成務天皇時代に高志国深江国を置かれ、その国造は大彦命の子孫なること、史に見ゆるより推せば、当時代においては大彦命の子孫繁栄し華夷雑居といえ、政治の統一も、やや整えたるものの如し。〕

(第12代景行天皇の39年〈110AD〉、日本武尊に東夷の征服を命じられた時、尊は吉備武彦を越国に派遣して美濃国で会合するように命じた。日本武尊の行った事は、その昔、竹内宿禰による北陸道及び東山道諸国の巡視の際の視察報告によるもので、この時代でもまだ、一部の蝦夷などは勢力を持っていて朝廷に従う様子は無かったようだ。また崇神天皇時代に、久比岐国が置かれた後、およそ150年経て、第13代成務天皇の時代〈131191AD〉に高志国と深江国が置かれ、大彦命の子孫が国造になった事が史書に記載されている事から、大和人と蝦夷が雑居していたのであろうが、大彦命の子孫が繁栄して、政治的には統一が保たれ、治安も維持されていた様だ。)

 皇極天皇元年越辺蝦夷数千人内附ノコトアリ尋イテ渟足石舟ノ二柵ヲ建テ辺塞ト為ス以テ蝦夷ノ恭順セルモノハ其罪ヲユルサレ然ラザルモノハ皆奥陸ノ地ニ払ハレ彼等ノ侵略ヲ塞ギシナラン是ヨリ僅五年ニシテ齊明天皇ノ後代柵養津刈ノ蝦夷数人ニ冠位ヲ授ケ冬ニ至リ内属朝献スルモノ多シ天皇ノ四年越後国阿部臣比羅夫舟師百八十艘ヲ率ヒテ蝦夷ヲ伐チ齶田渟代都加留三郡ノ蝦夷降ルコヽニ郡領ヲ定メ渡島ノ蝦夷ヲ召シ撫諭シテ帰ルト以テ越ノ蝦夷ハ勿論齶田渟代ヨリ都加留ノ蝦夷モ略ニ降附シ渡島(今ノ北海道ノ南部)ノ蝦夷ニ至ルマデ皇化ニフニ至ルコヽニ於テ越国モ隈ナク皇化ニ沿フヲ得タリト云フベシ爾後凡ソ三十年紀元一千三百三十三年天武天皇ノ御代越国分レテ三越トナル

 〔皇極天皇元年、越辺の蝦夷数千人、内附(ナイフ、服属)のことあり、尋(つい)で渟足(ぬたり)石舟(いわふね)の柵を建て、辺塞(ヘンサイ)と為す。もって蝦夷の恭順せるものは、その罪をゆるされ、しからざるものは、皆奥陸(陸奥?あるいは奥陸奥?)の地に払われ、彼等の侵略を塞(ふせ)ぎしならん。これより僅か五年にして、齊明天皇の後代(御代?)に柵養(きかう、陸奥の柵を作る〈役人〉)津刈(つがる)の蝦夷数人に冠位を授け、冬に至り、内属(=内附)朝献(チョウケン)するもの多し。天皇の四年、越後国の阿部の臣・比羅夫、舟師百八十艘を率いて蝦夷を伐(う)ち、齶田(あきた)渟代(ぬしろ、能代)都加留(つがる)三郡の蝦夷降る。ここに郡領を定め、渡島(おしま、北海道)の蝦夷を召(め)し、撫諭(ブユ)して帰ると、もって越の蝦夷は勿論、齶田、渟代より都加留の蝦夷も略(ほぼ)に降附(コウフ)し、渡島(今の北海道の南部)の蝦夷に至るまで、皇化に嚮(むか)うに至る。ここにおいて、越国も隈(くま)なく皇化に沿うを得たろと云うべし。爾後(ジゴ)、およそ三十年、紀元千三百三十三年、天武天皇の御代、越国分れて三越となる。〕
(第35代・皇極天皇元年〈642AD〉、越国辺境の蝦夷数千人が大和朝廷に服属したことがあり、ついで渟足(沼垂)石舟(岩船)の柵(要塞)を設け、辺境を守る要塞とした。そこで、蝦夷の内で恭順する者は、その罪を許され、従わなかったものは、皆、今の東北地方である陸奥に追放された、蝦夷による反乱を鎮圧することができた。これにより、その後わずか五年で、第37代・斉明天皇〈655AD〉の代に、柵養の津軽の蝦夷数人(書記に二人)に冠位を授けたところ、その冬には、服属するものが多くなった。斉明天皇4年、越後国の阿部比羅夫は、180艘の艦隊を率いて蝦夷を征討し、齶田(秋田)渟代(能代)都加留(津軽)三郡の蝦夷が降伏した。その結果、ここに郡の領域を定め、また北海道南部の蝦夷を呼び集め、大和朝廷に起伏する様に説得して帰ると、越の蝦夷はもとより、齶田、渟代、都加留の蝦夷も大方が帰順し、北海道南部の蝦夷までも、次第に大和朝廷に従うようになった。その結果、越国の全域が、大和朝廷に帰順したと云うことができるだろう。これよりおよそ30年、紀元1333年〈673AD〉、第40代・天武天皇の時代に、越の国を三つに分け、三越、すなわち越前、越中、越後の国が成立した。)

【註】

 吉田博士: 吉田東伍、(よしだ とうご、元治元年414日(1864519日) - 大正7年(1918年)122日)は日本の歴史学者、地理学者(歴史地理学)。新潟県出身(現:阿賀野市安田村)。「大日本地名辞書」の編纂者として知られる。日本歴史地理学会(日本歴史地理研究会)の創設者の一人。(ウィキペディア參照)
尚、「吉田東伍記念博物館」のURLは、次の通り。
  http://www.city.agano.niigata.jp/site/togomuseum/
また、評伝等については、『故文学博士吉田東伍先生略伝』を近代デジタルライブラリーからダウンロードできる他、千田稔著『地名の巨人 吉田東伍 - 大日本地名辞書の誕生』(角川叢書)などがある。

 神代巻: 『古事記』上巻の三、〔天照大神と須佐之男命〕

 「須佐之男命」以下: 原文・読下し文・現代語訳の三対訳を添付。(青空文庫參照)

 

 以上、尚、添付の『大日本地名辞書』(越後國)については、参考として添付した。また、添付ファイルは、容量等の制約からPDFファイルに変換して添付した。

 

『大日本地名辞書』(中巻)  吉田東伍

越後國

 凡例:赤字は注釈付、青字は管見、()は原文のまま、《》は原文中の出典〔〕、[]は原文のルビ、〔〕は便宜上付けた読みである。

越後國

 西は越中、西南は信濃、南は上野、東は岩代、東北は羽前、西北は海に至る、長さ六十里に上る大國にして、其奥羽の州界には大山脈あり、謂ゆる越後山脈是也。此國今十五郡(外に新潟市あり)に分ち、新潟縣治に属す。(北越とも云ふは南の越前の對稱也)

 越後は地形三大段と爲る、上越後、中越後、下越後なり、(北越軍記などの軍書に多く上郡、中郡、下郡と云ふ、卽是)頸城郡を上越後とす、其東頸城は高陵起伏して魚沼郡に連接するを以て、魚沼も上越後の内とす。米山以北を中越後とし、阿賀野川の北二郡を下越後とす。信濃川は魚沼幷に中越後を貫流し、大小の江水之と相依附して一大澤國を成す。上郡下郡に沼澤の變して低野土田と爲れる者多く、近世頗廣衍富賑の名あり。天正検地三十九萬石、慶安に至り四十五萬石の計数あり、後田野益開け、寶歴の比俗諺に百五十萬石髙の目ありと雖、稍誇大の嫌あり。

 

  送僧之越   鐡兜

  北陸連三越、群陽秋已藏、送君當此際、禮祖向其方、

  深洞聞熊語、寒嚴見佛光、七奇何必七、一雪壓歸裝

 

 越後和名抄古之乃美知乃之利と注し、延喜式七郡に分つ、是れ盖〔けだし〕和同五年以後の疆域と云ふ。中世三島郡を刈羽と改め、古志郡の西を分ち、山東[サントウ]と號し、沼垂郡を廢して蒲原郡に併せ、磐船郡を瀬波[セバ]と改む、其數舊に仍り七郡たり。近世山東を三島に改描し、瀬波を岩船に復古し、明治十三年頸城を東西中に、魚沼を南北中に、蒲原を東西南北に分ちしを以て合十五郡とす。而て和同以前の形勢を考ふるに、當時華夷雑居の境にあたり、謂ゆる邊遠國なり、延喜式に遠國と注し、俘囚料九千束を録す、殊に大同類聚方に蝦夷藥積聚の八劑を擧げて、越後國蝦夷等之傳方八箇と曰へり。大寶令に、

  凡邊遠國、有夷人雜類(義解云、謂夷者夷狄也、雜類者亦夷之種類也)之所應輸調役者、隨事斟量、不必同華夏、(義解云、謂中國也)

とあるも越後幷に出羽陸奥の事を知らる。其邊夷を化服して郡國を建置せられし跡を探るに、神代に方り出雲の大國主命(大己貴神)の來臨せられしと傳ふる故跡は、實に頸城に存す、(沼川鄕幷に居多[コタ]神社)叉古志郡の名を遺すより推せば、其上古稱して廣く越國と云へる大域の奥區中心卽此。(古志郡の條参考)崇神天皇の時、大彦命の北陸道[こしぢ]を巡行したまへるは、越國蝦夷の化服したまはんが爲ににして、當時の夷酋を八掬脛〔ヤツカハギ〕と號す。

大彦命の事は崇神記に見え、古事記には其子建沼河別命の東方より巡りませる者と相津[アイヅ]に往遇ふと載せ、相津は後の會津なれば、越後より出て給へる王子の巡路自ら分明す。姓氏錄に「阿部氏遠祖大彦命、遣治蝦夷之時」(彌彦神社を參考すべし)とあれば、此越路[コシヂ]の巡行は征夷の爲なりし事も分明し、釋紀に見ゆる越後風土記の逸文「美麻紀(崇神)天皇御宇、越國有人、名八掬脛、其脛長八掬、多力太強也、是出雲之後也、其族類多」とあるは、又強援傍證たり。出雲之後と云へるは稍詳ならず、出雲風土記に大國主命が越の八口[ヤツクチ]を平定したまふ事を錄し、(岩船郡八口を參考)今も當國に出雲崎出雲庄の地名あれば、出雲と名づくる夷類も此地に居りしと信ぜらる、蓋出雲大神に從属せる部種の謂歟。大同方に「蝦夷藥、□□國蝦夷等之傳方、國俗普所知也、元者大己貴神〔おおなむちのみこと〕授之神方也」とあるも越後國にて、彼夷の出雲大神に授賜はりしは、頗由來あるを覺ゆ。

景行紀に「日本武尊曰、蝦夷凶首、咸伏其辜〔つみ、コ〕、唯信濃國越國、頗未從化【中略】於是、分道、遣吉備武於越國、令監察其地形嶮易及人民順不【中略】日本武尊【中略】出美濃、吉備武、自越出而遇之」云々、民夷雜居したりし情形その詞にあらはる。國造本紀を審按するに、崇神朝に先づ久比岐[クビキ]國に置かれ、成務朝に高志國と深江[フカエ]國を加へらる。皇極帝元年、越邊蝦夷數千内附の事ありて、尋〔つ〕いで渟足〔ヌタリ〕石舟の二柵を建てて邊塞と爲す、北陸の拓地此際に至り始めて阿雅 [アガ]北に及ぶ。

齊明帝の時、越國守阿部臣比羅夫舟師を率て蝦夷を伐つ、遂に飽田、渟足、津輕の三郡を建て渡島[ワタリ]の夷を招き、粛愼〔みしはせ、あしはせ〕を伐ちて還る、其事舊史に詳なり。而も後比羅夫援韓の軍に從ひ西海に赴き利あらず、前に収めし北海の夷郡は皆離畔〔離反〕したるごとし。天武帝の朝に北陸分れて三國(若狭佐渡を併せて五國)と爲り、久比岐、高志、深江の地に、頸城、魚沼、古志、蒲原の四郡家を置かれ、之を射水、砺波、新川等に併せて越中となす。(親不知の南北に渉れりと知るべし)沼垂磐船以北は卽越後國にして、田川郡、及び飽田、津輕等の夷境を羈縻す。(鼠關の南北に渉れりと知るべし)當時越中越後の境界は沼垂に在り、卽信濃會津の二水の海口是也。大寶二年三月、越中の四郡を割き越後に併す、四郡は史に具注せずと雖、頸城、魚沼、古志(三島は古志郡の分郡なるべし)蒲原の地たること、形勢を推考して之を知る。和銅元年九月、新に狄部に出羽郡を建て越後に属せしむ、五年九月に至り、田川以北を割きて出羽國と爲し、越後の疆域是より大變なし。

史に越後の字を始見せるは文武紀「元年十二月、賜越後蝦狄物各有差」とある是なり、然れども持統紀已に越前の国名ありて、天武帝朝の末に三越の區分ありしと考へらる、論北陸道の下に詳にす。文武紀三年、越後蝦夷一百六人賜爵有差、大寶三年、令筑紫七國及越後國、簡點采女兵衛貢之、但陸奥國勿貢、かくて元明紀に至り、和銅元年出羽郡を建て、翌年三月征夷の軍起る、「陸奥越後二國蝦夷、野心難馴、屡害良民、於是遣使徴發云々、佐伯石湯爲征越後蝦夷將軍、自兩道征伐、七月令諸國運送兵器於出羽柵、送于征狄所、又命越前越中越後佐渡四國、船一百隻送于征狄所、八月將軍佐伯石湯等事畢入朝」とこの征狄所は蓋出羽柵なり。五年九月、出羽國を置かるゝ時の奏議に「北道蝦夷、遠□阻嶮、實縦狂心、屡驚邊境、自官軍雷撃、凶賊霧消、狄部晏然、皇民無擾、誠望便乘時機、遂置一國、式樹司宰、永鎭百姓」云々。

天平十五年佐渡國を越後に併せられしが、天平勝寶四年、舊に依り佐渡分立す。

越後名寄云、越後は市振より府屋[フヤ]、凡八十有餘里、東南に高山聳えて陽氣を懸隔し、西北に海水を帯びて陰氣餘りある故、寒濕深し、仍て雪の降ること早く、峰には九月より頂白く、春に至り五月猶殘雪あり、土地は肥て草木繁茂すれど、秋には雨多く、稲を刈採るも乾燥せず、糓實堅からず。○北越雜紀云、慶長二年、上杉景勝分國、越後七郡、佐渡三郡、信濃之内四郡、出羽之内二郡、合十六郡、検地、《長上正言紀》當時凡百萬石、越後知行高四十五萬六千石、其後開發田圃、今時一百五六十萬石。

(按に、越後正保中六十一萬二千石、其郡別は、
十四萬千石頸城郡、六萬石魚沼郡、四萬九千石刈羽郡、五萬二千石三島郡
四萬五千石古志郡、二十一萬五千石蒲原郡、四萬九千石岩船郡
とす、聽濤閣雜載に詳なり)

 

【註】

北越軍記: 雲菴 [][出版者不明]、 寛永20 [1643]、全十六巻、尚、別名『北越太平記』として、『越後史料叢書』第一編に収録、デジタルライブラリーからダウンロードが可能である。

鐡兜 : (テットウ)河野鐡兜、河野は<かわの>ともいう。江戸後期の医者、漢詩人、俊造と称し鐵兜はその号で秀野人ともいう。文政8年播州網干に生まれ幼にして学を好み神童と称された。医を業としたが、のち梁川星巖の門に入り、好く詩学に通じ全国各地に遊学し、遂に江戸に於いて家塾を開く。慶応343才にて没す。著書に「覆醤詩談」「鐵兜遺稿」等がある。引首印は「秀野」、「秀野人」の下に、白文の「越羆之印」、朱文の「夢吉」の落款印が押されている。(好古斎、http://kohkosai.com/index.htm 參照)
 掲載された五言律詩は、『鐡兜遺稿』上巻「五言律詩」(四十六丁)にある。試みに、読下して見る。
北陸連三越、群陽秋已藏、〔北陸、三越に連なり、群陽、秋
すでに蔵す〕
送君當此際、禮祖向其方、〔君を送る、まさにこの際たるべし、祖に礼して、その方に向う。〕
深洞聞熊語、寒嚴見佛光、〔深洞、熊語を聞き、寒嚴にして、仏光を見る〕
七奇何必七、一雪壓歸裝 〔七奇、何ぞ必ずや七、一雪、帰装を圧す。〕

和名抄: 『和(倭)名類聚集』二十巻本、十二「國郡部-北陸國」に記載

延喜式: (エンギシキ)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。(ウィディペキア參照)

疆域 : (キョウイキ)境域

大同類聚方: (ダイドウルイジュウホウ)は、大同3年(808年)53日に成立した日本最古の医学書。薬品の処方など各地に伝わる医方が収録された。全100巻。(ウィディペキア參照)

大寶令: 大宝律令(たいほうりつりょう)の事、701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令である。

義解: (ギゲ)、『令義解』(りょうのぎげ)とは、833年(天長10年)に淳和天皇の勅により右大臣清原夏野を総裁として、文章博士菅原清公ら12人によって撰集された律令の解説書。全10巻。この書物によって、大宝令・養老令が伝えられている。(ウィキペディア參照)

景行紀以下: 『日本書紀』「景行紀」〈冬十月壬子朔癸丑〉から赤字の部分を引用。尚、以後も同様の引用があるが、抜粋、省略など在り、全文の顕彰が困難なため、以後の顕彰は省略する。

冬十月壬子朔癸丑、日本武尊發路之。戊午、抂道拜伊勢神宮、仍辭于倭命曰「今被天皇之命而東征將誅諸叛者、故辭之。」於是、倭命取草薙劒、授日本武尊曰「愼之。莫怠也。」是、日本武尊初至駿河、其處賊陽從之欺曰「是野也、糜鹿甚多、氣如朝霧、足如茂林。臨而應狩。」日本武尊信其言、入野中而覓獸。賊有殺王之情王謂日本武尊也、放火燒其野。王、知被欺則以燧出火之、向燒而得免。一云、王所佩劒藂雲、自抽之、薙攘王之傍草。因是得免、故號其劒曰草薙也。藂雲、此云茂羅玖毛。王曰「殆被欺。」則悉焚其賊衆而滅之、故號其處曰燒津。亦進相摸、欲往上總、望海高言曰「是小海耳、可立跳渡。」乃至于海中、暴風忽起、王船漂蕩而不可渡。時、有從王之妾曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、王船欲沒、是必海神心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。」言訖乃披瀾入之。暴風卽止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。
爰日本武尊、則從上總轉、入陸奧國。時、大鏡懸於王船、從海路於葦浦、横渡玉浦、至蝦夷境。蝦夷賊首嶋津神・國津神等、屯於竹水門而欲距、然遙視王船、豫怖其威勢而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望拜之曰「仰視君容、秀於人倫、若神之乎。欲知姓名。」王對之曰「吾是現人神之子也。」於是、蝦夷等悉慄、則褰裳披浪、自扶王船而着岸。仍面縛服罪、故免其罪、因以、俘其首帥而令從身也。蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮。時舉燭而進食、是夜、以歌之問侍者曰、珥比麼利 菟玖波塢須擬氐 異玖用伽禰菟流
諸侍者不能答言。時有秉燭者、續王歌之末而歌曰、伽餓奈倍氐 用珥波虛々能用 比珥波苔塢伽塢卽美秉燭人之聰而敦賞。則居是宮、以靫部賜大伴連之遠祖武日也。
於是日本武尊曰、「蝦夷凶首、咸伏其辜。唯信濃國・越國、頗未從化。」則自甲斐北、轉歷武藏・上野、西逮于碓日坂。時日本武尊、毎有顧弟橘媛之情、故登碓日嶺而東南望之三歎曰「吾嬬者耶嬬、此云菟摩。」故因號山東諸國、曰吾嬬國也。於是、分道、遣吉備武
於越國、令監察其地形嶮易及人民順不。則日本武尊、進入信濃。是國也、山高谷幽、翠嶺萬重、人倚杖難升、巖嶮磴紆、長峯數千、馬頓轡而不進。然日本武尊、披烟凌霧、遙大山。既逮于峯而飢之、食於山中。山神、令苦王、以化白鹿、立於王前。王異之、以一箇蒜彈白鹿、則中眼而殺之。爰王忽失道、不知所出。時白狗自來、有導王之狀、隨狗而行之、得出美濃。吉備武、自越出而遇之。先是、度信濃坂者、多得神氣、以瘼臥。但從殺白鹿之後、踰是山者、嚼蒜塗人及牛馬、自不中神氣也。

 

越後名寄: (えちごなよろ)全32巻、丸山元純著、16871758 江戸時代中期の医師。貞享(じょうきょう)4年生まれ。京都でまなび、郷里の越後(えちご)(新潟県)三島郡で開業、のち寺泊にうつる。かたわら史料、口碑をあつめて「越後名寄(なよせ)」をあらわした。宝暦8年死去。72歳。(コトババンク參照)

北越雜紀: 不詳。

長上正言紀: 不詳。

 

 高志国ニ通ズル道ヲ高志道ト称スルコト猶阿波道ノ阿波国ニ於ケルガ如シ然ルニ後変遷シテ其沿道ノ地方ヲモ高志国ト称スルニ至リ遂ニハ高志道ト高志国トヲ混合シテ称スルニ至ル之日本海沿岸陸地ヲ総称シテ高志国トナス所以ナリ高志路ヲ一ニ北陸道ト称セルハヤヽ後ノコトニシテ天武天皇海内ヲ分チテ七道観察使ヲ置カルヽニ起リタルカ国郡沿革考

  天武天皇十四年九月東山東海以下六道ノ使者ヲ置カレシ時獨リ北陸道ノミ見エズ此時未ダ分道セズ猶東山ニ属セシナルベシ持統天皇紀ニ始メテ越前ノ名見ユレバ蓋シ天武天皇ノ末諸国ノ境界ヲ定ムルノ日始メテ越国ヲ分チテ三国トナシ十四年ノ後北陸道ヲ定メ置カレタルナルベシ

 〔高志国に通ずる道を高志路と称すること、なお阿波道の阿波国におけるが如し、然るに、後、變遷してその沿道の地方をも高志国と称するに至り、遂には高志国と混合して称するに至る。これ、日本海沿岸陸地を総称して高志国となす所以(ユエン)なり。高志路を、一二北陸道と称セルは、やや後のことにして、天武天皇、海内を分ちて、七道観察使を置かるるに起りたるか、『国郡沿革考』に、
 天武天皇十四年九月、東山・東海以下六道の使者を置かれし時、ひとり北陸道のみ見えず、この時、未だ分道せず。なお東山に属せしなるべし。持統天皇紀に始めて越前の名見ゆれば、けだし天武天皇の末、諸国の境界を定むるの日、始めて越国を分ちて三国となし、十四年の後、北陸道を定め置かれたるなるべし。〕

 (高志国に通じる道を「高志道」と称したのは、丁度、阿波国で阿波道と呼んだのと同様で、その後、沿道の地方を高志国と言うようになり、とうとう高志道と高志国を混同してしまい、この日本海沿岸の地方を総称して「高志国」と言うようになった訳である。また高志路を一説には北陸道と云うのは後の事で、天武天皇が統治する地域を分けて七道観察使を置かれたのが始まりだと『国郡沿革考』に次のように書かれている。
 天武天皇十四年九月、東山・東海以下六道《東山、東海、北陸、山陽、山陰、南海、西海の七道》に使者を置かれたのだが、北陸道についての記載はなく、この時は未だ「道」としての「北陸道」は明確に定義されておらず、東山道に属していたのではないか。持天皇統紀(日本書紀・巻第三十)に初めて「越前」と云う名があるので、天武天皇時代の末期頃、諸国の境界を定めた日に、初めて越国を三国に分け、十四年後に、北陸道が制定されたように思はれると。)

【註】

 七道観察使: 日本では、平安時代最初期の797年頃、地方行政の遂行徹底を狙う桓武天皇により、地方官(国司)の行政実績を監査する勘解由使が設置された。勘解由使は国司行政を厳正に監査し、地方行政の向上に一定の効果を上げていた。しかし、806年(大同元年)、桓武天皇が崩御すると、後継した平城天皇は政治の刷新を掲げ、同年6月、その一環として勘解由使を廃止し、新たに観察使を置いた。観察使は当初、東山道を除く六道(東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)ごとに設置され、六道観察使とも呼ばれた。また、観察使は議政官の一員である参議が兼任することとされていた。観察使は、参議に比肩しうる重要な官職だった。翌807年(大同2年)、東山道および畿内にも観察使が置かれた。併せて、参議を廃止して観察使のみとした。観察使による地方行政の監察は、精力的に実施されていたようで、『日本後紀』には、各観察使が民衆の負担を軽減するため、様々な措置を執っていたことが記録されている。 810年(弘仁元年)、前年に譲位した平城上皇と嵯峨天皇の関係が悪化していく中、同年6月、嵯峨天皇は、観察使を廃止して参議を復活する詔を発令した。これにより観察使は4年間の歴史を終えた。(ウィキペディア參照)

 国郡沿革考: 塚本明毅が「東京地学協会報告」に寄稿した『日本国郡沿革考』の事と思われる。

   尚、『中鯖石村史』の著者である北村三山は、本名、貞作と云い、明治28年当時は、刈羽郡加納尋常小学校訓導兼学校長であった。尚、当時の月報は6円だったようで、これは現在の額に換算すると、3万円前後であり非常に薄給であった事が判る。そして、この『中鯖石村誌』が書かれた当時は、17・8年後の事だ。当時、書籍や雑誌などは、きわめて高価なものだった事を考えると、一般庶民には程遠く、図書館を利用するとしても、それ相応の知識を必要とする。因み、当時の刈羽郡立図書館の概要は下記の通り。
   創立 : 明治39年
   蔵書数: 3465部、8290冊
   利用数: 大正四年現在、延総数6841人、一日平均21人余、年間閲覧冊数8280冊
   (詳細は、添付ファイル參照)
 こうした状況を考えると、著者・北村三山氏の学識の広さ・深さが知れる。しかも、刈羽郡立図書館の蔵書目録『蔵書分類目録(分冊一・二)』(所謂、中村文庫)にも雑誌の記載がないのであるから、(恐らく、雑誌は個人の購読物という考えがあったのかも知れな)、執筆に当っても、大変な苦労があったのではないだろうか。
 更に驚くのが、『日本国郡沿革考』が、「東京地学協会報告」に記載された記事と謂う事である。実際、国会図書館のデジタルライブラリーで、この報告書を捜したところ、第三巻のみが現存している。要するに該当する論文の掲載誌は見当たらないのだ。その著者である塚本明毅の現存する著作を捜しても、該当する論文の存在は確認できるが、原文が見当らない。言い換えると、余程関心が無ければ、先ずこの論文には行き当たらないのだ。よって、当に敬服すると言うほかないのである。
 因みに、塚本明毅に関しては、その略伝が存在するので、その一例を添付する。

 

高志国ハ越国ト記ス其因詳カナラズ

〔高志国は越国と記す、その因詳らかならず〕
(高志国は越国と書くが、その理由はよく分っていない。)

越国ハ蝦夷ノ巣窟ニシテ鎮撫ニ力ヲ盡サンコト史蹟ニ明記セリ

〔越国は蝦夷の巣窟にして鎮撫に力を尽くさんこと史籍に明記せり。〕
(越国は、蝦夷の巣窟

第六章 「沿革」

第一節 「新潟縣」

 

 新潟県ハ封建時代ノ越後ノ国佐橋国ヲ併合シタル新称ナリ越後国ハ和名抄古之乃美知乃之利ニシテ太古ニアリテハ高志越ト称セルコト明ナリ元ヨリ往古ノコトハ知ル由ナケレドモ新潟県ノ沿革ヲ明カニセント欲セバ高志越後ノ変移ヲ挙グルニアラン之余ガ越後新潟県ノ三項ヲ設ケ記載スル所以ナリ

 《新潟県は、封建時代の「越後国」と「佐橋国」を合せた新しい名称である。越後国は、『和名抄』では「古之乃美知乃之利」(こしのみちのしり)といい、更に昔では、「高志」「越」という名称であったことは確かである。もっとも、昔の事で確かな事を知る事は出来ないが、新潟県の歴史を明らかにしようと思えば、「高志」「越」の変遷を調べつ事が必要だろう。この事が、筆者が越後・新潟県を三項目に分けて記載する理由である。》

【註】

  佐橋国: 文脈からも、「佐渡国」の誤り。誤記あるいは誤植であろう。

和名抄: 「和名抄」は通称。和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。(ウィディペキア參照)
倭名類聚鈔 20巻の解題/抄録(以下、近代デジタルライブラリー參照)
 源順著の漢和辞典。10巻本とそれを増補した20巻本があり、20巻本は漢語の名詞を天地部より草木部まで32部、249門に分類配列し、出典、音注、説明、和名を注記した、一種の日用百科辞書である。室町までの古写本が多く伝わるが、版本としては元和3年(1617)に那波道円が校訂刊行した20巻本の古活字本が出、以後、慶安元(1648)、万治21659)、寛文71667)、寛文11、貞享51688)と整版本がでるが、すべて道円の校訂本である。当該本は寛文7年村上勘兵衛の版で、慶安元年本の版木を使用した後印本である。全巻にわたり、本居宣長の校合本と古写本で校合した生川春明の書入れがある。(岡雅彦)(2016.2

古之乃美知乃之利: (こちのみちのしり)万葉仮名による読みの表記。

高志: (こし)出典『古事記』

越 : (こし)出典『日本書紀』、他に「越洲(こしのしま)の表記。

古志: (こし)出典『出雲国風土記』神門郡の条。

 

第一項 「越国 高志国」

 

越国ト書ニ見ユルハ崇峻天皇時代以降ニシテ其以前ハ高志国ト記セルモノヽ如シ古事記ノ水垣ノ宮段

  此之御世大毘古命遣高志道中略罷行高志云々

ト見ユ而シテ其高志国ハ今ノ越後国地方ヲ指示セルナラン

 (「越国」と書物に書かれるのは、崇峻天皇時代より後の事で、それ以前は、「高志国」と書いていたようだ。『古事記』の「水垣の宮」の段に
   〔此の御世、大毘古命は高志道に遣わし、[中略]、「罷行高志」云々〕
と書かれている。そこで、その「高志国」は、今の越後国地方を示しているのだろう。)

 【註】

 崇峻天皇: 崇峻天皇(すしゅんてんのう、欽明天皇14年(553? - 崇峻天皇5113日(ユリウス暦5921212?))は、第32代天皇(在位:用明天皇282日(58799? - 崇峻天皇5113日(5921212?))。諱は泊瀬部(はつせべ)、即位前は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と称した。『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある。(ウィキペディア參照)
尚、崇神天皇以降、「越国」の出典については不詳。『日本書紀』では、「大日本根子國牽天皇 孝元天皇(第八代)」の項に、「越国造」として名前が見える。
 「大日本根子國牽天皇、大日本根子太瓊天皇太子也。母曰細媛命、磯城縣主大目之女也。天皇、以大日本根子太瓊天皇卅六年春正月、立爲皇太子、年十九。七十六年春二月、大日本根子太瓊天皇崩。
元年春正月辛未朔甲申、太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。是年也、太
丁亥。
四年春三月甲申朔甲午、遷都於輕地、是謂境原宮。

六年秋九月戊戌朔癸卯、葬大日本根子太瓊天皇于片丘馬坂陵。
七年春二月丙寅朔丁卯、立欝色謎命爲皇后。后生二男一女、第一曰大
命、第二曰稚日本根子大日々天皇、第三曰倭迹々命。一云、天皇母弟少男心命也。妃伊香色謎命、生太忍信命。次妃河靑玉繋女埴安媛、生武埴安命。兄大命、是阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫國造・越國造・伊賀臣、凡七族之始祖也。太忍信命、是武宿禰之祖父也。
廿二年春正月己巳朔壬午、立稚日本根子
大日々尊、爲皇太子、年十六。
五十七年秋九月壬申朔癸酉、大日本根子
牽天皇崩。」

 古事記水垣ノ宮ノ段: 『古事記』中巻-2からの部分的引用。前後の関係が分らないので、その部分を上げ、該当部分に読下し文を付す。尚、読下し文は、本居宣長『古事記伝』に準拠した。


「崇神天皇」
 御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也。此天皇、娶木國造・名荒河刀辨之女刀辨二字以音遠津年魚目目微比賣、生御子、豐木入日子命、次豐鉏入日賣命。二柱。又娶尾張連之祖・意富阿麻比賣、生御子、大入杵命、次八坂之入日子命、次沼名木之入日賣命、次十市之入日賣命。四柱。又娶大毘古命之女・御眞津比賣命、生御子、伊玖米入日子伊沙知命伊玖米伊沙知六字以音、次伊邪能眞若命自伊至能以音、次國片比賣命、次千千都久和此三字以音比賣命、次伊賀比賣命、次倭日子命。六柱。
此天皇之御子等、幷十二柱。男王七、女王五也。故、伊久米伊理毘古伊佐知命者、治天下也。次豐木入日子命者、上毛野君、下毛野君等之祖也。妹豐鉏比賣命者、拜祭伊勢大神之宮也。次大入杵命者、能登臣之祖也。次倭日子命。此王之時、始而於陵立人垣。
此天皇之御世、病多起、人民死爲盡。爾天皇愁歎而、坐神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰「是者我之御心。故以意富多多泥古而、令祭我御前者、神氣不起、國安平。」是以、驛使班于四方、求謂意富多多泥古人之時、於河之美努村、見得其人貢進。
爾天皇問賜之「汝者誰子也。」答曰「僕者、大物主大神、娶陶津耳命之女・活玉依毘賣、生子、名櫛御方命之子、飯肩巢見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古。」白。於是天皇大歡以詔之「天下平、人民榮。」卽以意富多多泥古命、爲神主而、於御諸山、拜祭意富美和之大神前。又仰伊迦賀色許男命、作天之八十毘羅訶此三字以音也定奉天神地祇之社。又於宇陀墨坂神、祭赤色楯矛、又於大坂神、祭黑色楯矛、又於坂之御尾神及河瀬神、悉無遺忘以奉幣帛也。因此而
氣悉息、國家安平也。
此謂意富多多泥古人、所以知神子者、上所云活玉依毘賣、其容姿端正。於是有神壯夫、其形姿威儀、於時無比、夜半之時、儵忽到來。故相感共婚共住之間、未經幾時、其美人妊身。爾父母恠其妊身之事、問其女曰「汝者自妊。无夫何由妊身乎。」答曰「有麗美壯夫、不知其姓名、毎夕到來、共住之間、自然懷妊。」

是以其父母、欲知其人、誨其女曰「以赤土散床前、以閇蘇此二字以音紡麻貫針、刺其衣襴。」故如教而旦時見者、所著針麻者、自戸之鉤穴控通而出、唯遺麻者三勾耳。爾卽知自鉤穴出之狀而、從糸尋行者、至美和山而留神社、故知其神子。故因其麻之三勾遺而、名其地謂美和也。此意富多多泥古命者、神君・鴨君之祖。

又此之御世、大毘古命者、遣高志道、其子建沼河別命者、遣東方十二道而、令和平其麻都漏波奴《自麻下五字以音》人等。又日子坐王者、遣旦波國、令殺玖賀耳之御笠。《此人名者也。玖賀二字以音。》
〔またこのみよに、大毘古命(おおひこのみこと)をば、高志の道に遣わし、その子(みこ)建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)をば、東方(ひむがしのかた)十二道(とおまりふたみち)に遣わして、その麻都漏波奴(まつろはぬ)人どもをことむけやわさしむ。《麻より下五字は、音を以てす》、また日子坐王(ひこいますのみこ)をば、旦波国(たにはのくに)に遣わして、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)《これ人の名なり。玖賀二字は音を以てす》をとらしめたまいき。〕
故大毘古命、罷往於高志國之時、服腰裳少女、立山代之幣羅坂而歌曰、
〔故(かれ)大毘古命、高志国(こしのくに)に罷(ま)りいます時に、腰裳(こしも)着(け)せる少女(おとめ)、山代(やましろ)の幣羅坂(へらざか)にたてりて、歌いけらく、〕
古波夜 美麻紀伊理毘古波夜 美麻紀伊理毘古波夜 意能賀袁袁 奴須美斯勢牟登 斯理都斗用 伊由岐多賀比 麻幣都斗用 伊由岐多賀比 宇迦迦波久 斯良爾登 美麻紀伊理毘古波夜、
〔こはや みまきいりひこはや みまきいりひこはや をのかをを ぬすみしせむと しりつとよ いゆきたかひ まへつとよ いゆきたかひ うかかはく しらにと みまきいりひこはや〕
於是、大毘古命思恠、返馬、問其少女曰「汝所謂之言、何言。」爾少女答曰「吾勿言、唯爲詠歌耳。」卽不見其所如而忽失。
〔ここに、大毘古命あやしとおもいて、馬を返して、その少女に、「汝(いまし)が謂(い)えること、何(いか)いうこととぞ」と問いたまえば、おとめ、「あれものいわず。ただ、歌をこそうたいつれ」と答えて、行方も見えず、たちまちに失せにき。〕
故大毘古命、更還參上、請於天皇時、天皇答詔之「此者爲、在山代國我之庶兄建波邇安王、起邪心之表耳。《波邇二字以音》伯父、興軍宜行。」卽副丸邇臣之祖・日子國夫玖命而遣時、卽於丸邇坂居忌瓮而罷往。於是到山代之和訶羅河時、其建波邇安王、興軍待遮、各中挾河而、對立相挑、故號其地謂伊杼美。今謂伊豆美也。爾日子國夫玖命乞云「其廂人、先忌矢可彈。」爾其建波爾安王、雖射不得中。於是、國夫玖命彈矢者、卽射建波爾安王而死。故其軍悉破而逃散。爾追迫其逃軍、到久須婆之度時、皆被迫窘而、屎出懸於褌、故號其地謂屎褌。今者謂久須婆。又遮其逃軍以斬者、如鵜浮於河、故號其河謂鵜河也。亦斬波布理其軍士、故號其地謂波布理曾能。《自波下五字以音》如此平訖、參上覆奏。

故、大毘古命者、隨先命而、罷行高志國。爾自東方所遣建沼河別與其父大毘古共、往遇于相津、故其地謂相津也。是以各和平所遣之國政而覆奏。
〔かれ、大毘古命、先のみことのまにまに、高志の国に罷(まか)りいましき、ここに東(ひむがし)の方よりまけし建沼河別(たけぬなかわわけ)、その父大毘古命と共に相津(あいづ、陸奥国会津郡)にゆきあいたまいき。かれ、そこを相津という。ここを以て各(おの)ももまけつる国の政(まつりごと)むけて、かえりことまおしき。〕
爾天下太平、人民富榮。於是、初令貢男弓端之調、女手末之調。故稱其御世、謂所知初國之御眞木天皇也。
〔かれ、あめのした、たいらぎ、おおもたから、富さかえき。ここに、はじめて、男のゆはずのみつぎ、女(おもな)のたなすえのみつぎを、たてまつらしめたまいき。かれ、その御世をたたえまつりて、はつくに知らしし、みまきのすめらみこととまおす。〕
又是之御世、作依網池、亦作輕之酒折池也。
〔また、この御世によさみの池を作り、また、かるのさかおりの池を作らしき。〕
天皇、御、壹佰陸拾捌。御陵在山邊道勾之岡上也。
〔すめらみこと、みとし、ももちまりむそじやつ、みはかは、やまのべのみちのまがりのおかのへにあり。〕

 尚、「あおぞら文庫」に次のような訳文があるので、参考の為に転写して添付する。該当する『古事記』のURLは、次の通り。
 https://www.aozora.gr.jp/cards/001518/files/51732_44768.html

 

 また、『古事記』の原文には種々あり、読下しも様々なので、取り敢えず、デジタルライブラリー所蔵の本居宣長の『古事記伝』を参照したが、判読の困難な個所もあり、必ずしも正確とは言えない。よって、関心のある人は、岩波文庫版等を参照されたい。

 

 古志郡ハ実ニ其遺号ト知ラルベシ元ヨリ区劃不明ニシテ只現今ノ古志郡ヲ根トシテ其地方ノ称ナラン

〔古志郡は実にその遺号と知られるべし。元より区画不明にして、ただ現今の古志郡を根として、その地方の称ならん。〕
(古志郡の呼称は昔から残っているものだが、境界などは全く不明で、今は古志郡を基とした、その地方の名称になっている。)

 

 高志国ノ起因ニツキテハ吉田博士は高志国ハ夷種名ヨリ出デ国名ニ移レル如シ神代巻
須佐之男命高志之八俣ノ遠呂智年毎ニ来喫フナル云々

此ノ一語ヲ以テ未ダ俄カニ種名トモ地名トモ判定シ得ザレドモ或ハ然ランカト例ヲ引キ述ベラレタリ

 〔高志国の起因につきては、吉田博士は、高志国は夷種名(イシュメイ)より出で、国名に移れる如し。神代の巻、

  須佐之男命(すさのおのみこと)、高志の八俣(やまた)の遠呂智(おろち)、年ごとに来、喫(くら)うなる云々(うんぬん)。

この一語をもって、いまだ俄(にわ)かに、種名とも地名とも判定しえざれども、あるいは然(し)からんと、例を引いき述べられたり。〕

(高志国の発祥については、吉田東伍博士が、高志国は原住民の名前から出たもので、後に国名に使われるようになった様だとし、「神代巻」に、「須佐之命、高志のやまたのおろち・・・」とあり、この「高志」の一語によって、単純に、種族名あるいは地名と判断する事は出来ないが、もしかすると、そうではないかと、史料から例をあげて論述されている。)

言葉が足りなかったように思うので、多少の補足をしたい。

 前回、単に「おやじの自慢話」と書いたのだが、要するに、皆さんのお話を聞き、それを了解の上で、関係文献などを調べ、掲載が可能であれば公開したいのである。否、寧ろ公開すべきではないかと考えるのである。
 因みにこのブログ版『柏崎通信』は非公開であり、コメントについても、掲載の可否を確認している。もっとも、コメントに関しては、時々ではあるが、意味不明のものがあり、セキュリティ上も問題があるので、確認して公開している次第である。
 例えになるかどうか分らないが、昔書いた『ある旧制中学校長の足跡』の様に、公開文献と電話や手紙、あるいはメールの交換で、事実関係を確認して書いたものだ。ただ残念なのは、個人情報保護法以来、なかなか門戸が開かれず、子孫お方の存在は確認できたのだが、取材が出来ず結末を書くことが出来なかった事だ。
 とまあ、その様な事で、「おやじの自慢話」を明治維新の後に各地で行われた「史談会史料」の様なものに出来ればと考えるのである。ただ、現実の問題として、難しいだろうとの予感はある。

Best regards

 「史談会」、特に維新後の明治初年における「史談会」の流行を調べてきた。

 そこで結論、歴史を、しかも人物史を追う上で重要なのが「日記」である。一般的に、と云うよりは、西欧には日記文学と謂うものが無いそうだ。その日記に着目したのが、ドナルド・キーン先生なのだが、日記が文学として存続する理由は何かと考えてしまった。

 「日記」と改まって言えば、先の様に文学論だが、自分としては、そう思わない。

 自慢話が残る事、誰もが輝ける瞬間があった。それを文章として誰かが残す。それが重要ではないか?

 そこで思う。自慢話を聞きたいのである。
 このブログで多くに人としあった。英国からエリス島まで、アルバータからキャンベラまで、一般的に言えば縁も所縁も無い人々の歴史の調査を依頼された事がある。

 それだけに、歴史を調べる時の原則である、人そのものの心情、それが「おやじの自慢話」ではないだろうか?

 暮れに思い付きで書いたので、誤字脱字など大変失礼しました。修正して、改めて啓挿します。

Best regards


 



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