柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前.

 

▲地勢 本村は刈羽郡の西端に位し米山山下の海岸に在り、北日本海に臨み其他の三方は皆山なり。

▲地質 輝石(きせき)安山岩(あんざんがん)及び其(しゅう)塊岩(かいがん)より成りし地にて角閃富士岩(かくせんふじがん)の露出する所もあり附近の地、往々燃土(ねんつち)を出す、日本書紀の集解越後国鯨波柿崎土人取地中土斫為尺許用為薪其引火如木云、明治三十三年の頃、米山石油会社にて鑿井せし時、堀出す

 

              右大臣 岩倉具視卿

  君が代は土も(まき)にたき添へて

      かまどの(けむ)り立まさりけり

 

(註1)輝石安山岩: 安山岩の中でも、斑晶(大きな鉱物結晶)として、ガラス質のケイ酸塩鉱物(輝石)を含む安山岩。因みに、安山岩は、アンデス山脈の多い事から英語では、「Andesite」と言い、そのアンデサイトも発音から「安山岩」と命名された。

(註2)集塊岩: 現在は、火山砕屑岩(さいせつがん)を言うが、当時は、浮石角礫(ふせきかくれきがん)(気泡を含み角のある礫状の堆積岩)の事を云ったようだ。

(註3)角閃富士岩: 角のある閃石(ケイ酸塩鉱物に類)を含む安山岩。因みに、富士岩は、明治16年、小藤文次郎によって命名された安山岩の東大系地質学者が用いた別称。因みに、小藤文次郎(1856-1935)は、現在の津和野藩(亀井家、島根県津和野)の生れで、藩校「養老館」で学んだ後、藩命で大学南校(開成学校、後に東京帝国大学)に派遣され、英語・理学を学び、東京帝国大学理学部地質学・採鉱学科の最初の卒業生で、ドイツ留学後、帝国大学教授となった。また、明治29年~30年『東京帝国大学一覧』の理科大学職員(13章1節)に、「ドクトル・フィロソフィエー(ライプチッヒ大学)、地質学・古生物学・鉱物学第一講座担任、理学博士理学士・小藤文次郎」とある。

 

全くの私事であるが、北海道における鉱山史の拘わりとして敢て書く。ご容赦。曽祖叔母(西のおばさんと呼んでいた)が嫁いだ西加二太(西家は、代々広島藩医)は、明治28年、採鉱及び冶金学科を卒業し、北海道の炭鉱開発(三井鉱山)に貢献した。子供の頃、西のおばさんが、毎年、札幌から避暑の為、別府に行く途中、実家である我家に滞在したのだが、その折、ウル覚えだが、小藤文次郎の名前を聞いた覚えがある。半世紀以上も昔の事で、津和野・山口・広島の西は、それぞれに関係があり、そんな事から津和野出身の小藤文次郎の話が出たのか、帝大の恩師として話が出たのか、その辺りの事は忘れてしまった。余談だが、札幌の中島公園は、戦前まで西の屋敷だったが、戦後、GHQに接収された。母は女学生の頃、そこのドーナツ池で双従姉弟たちとボート遊びをしたそうだ。私自身、北海道に行くと必ず西に寄った。伯父の葬儀の時は、大学生だったが、親の代理で親族代表として、また灘尾の名代で出席した。天候が悪く、確か雪が降っていたが、西本願寺別院で行われた葬儀は、町村道知事以下、各界の名士が出席した盛大なものだった。北海道の事で何度も行くことが出来なかったので、詳細な取材はしなかったが、現在の北広島には分家もある。一時期、北海道史を調べたのも、実は、そんな経緯があっての事だ。しかし、文献だけでは何ともし難く、歯科医をしている兄さんに電話した事もあるのだが、矢張り距離の隔たりは如何ともし難い。

 

(註4)燃土: 字義通り燃える土、原油を含む土。

(註5)日本書紀集解: 江戸時代中期、天明年間(1785年頃)の『日本書紀』の代表的注釈書。尾張藩士・河村秀根(ひでね)殷根(しげね)益根(ますね)親子によって著された。

(註6)以下の漢文: 大意、越後の国の鯨波や柿崎の住民は、地中から一尺くらい切り取った土を薪の様に使う。それは丁度、木に火を付ける様だ、うんぬん。、

 

 越後国鯨波柿崎土人取地中土、斫為尺、許用為薪、其引火如木云々

 (越後の国、鯨波、柿崎の土人、地中の土を取り、(はつ)って(あるいは、「きって」)尺と為し、(まき)為すを許す、その引火するや木の如し、うんぬん)

 

(註7)米山石油会社: 明治31年2月、刈羽郡大洲村の小熊三郎(冒頭「鯨」作詩した小熊琴斎)、根立元松(鯨波村会議員、同郵便局長)、小山円蔵等数人が、後谷に試掘し、同12月、米山石油株式会社を設立そた。因みに、上総(かずさ)掘り(ぼり)で一号井を掘削したが失敗し、二号井で噴油(ふんゆ)した。これにより、株式が高騰、7円50銭が57円になったというから、驚きである。しかし、既に機械掘りが始まっており、明治39年には、長岡の宝田(ほうでん)石油吸収宝田石油も後に、日本石油と合併し、日本石油(後に帝国石油)となっていく。(『柏崎百年』参照)

(註8)右大臣岩倉具視: 周知の通り。歌に就いては、省略する。

 

Best regards

承前。

 

 段落ごとに(▼)、順次注釈を付けたいと思うのだが、何しろ漢文あり古文ありで難渋。更に、資料を調べると、更に厄介な問題が出て遅々として進まない。しかし、その過程で新たな発見(自分にとってだが)あり、実に愉快である。とまあ、そういう次第なので、呉解釈、読下しの文法的間違いなどあると思うが、ご容赦。

 

 

柏崎文庫中の鯨波村誌

 編者がが明治十七年以来、鯨波に就いて見聞せし事左の如し

 

▲村名 口碑に往古は桂波と言へり、一年鯨の大漁ありて村中富裕となりければ鯨波と改む云々、神明社(しんめいしゃ)由緒記(てん)(しょう)(らん)国主上杉公撃本間佐渡守之日越兵会難風于時、念此神明果無恙着岸此磯、乃大喜己挙鯨波於是書鯨波云々、康平三の越後国に鯨波と見ゆ、京都の聖護院門跡道興准后廻国雑記青海川笠島など打過ぎて鯨波といへる浜を行けるに折ふし鯨のしほを吹きけるを見て

 

  わきてこの浦の名に立つ鯨波

       くもるうしほを風も吹くなり

 

 十返舎一九の金の草鞋

 

  眞黒になって寄せくる大波は

       鯨波ともいふへかりける

 

(註1)神明社(しんめいしゃ): 伊勢神宮内宮を総本社とする神社。ここでは、鯨波の現・神明社の事。調べて見ると、柏崎には、鯨波の「神明宮(しんめいぐう)」、芋川の「神明神社」の外、柏崎市内に、15の「神明社」がある。これを地域的に見ると、先の二社を除き、柏崎市内に、石曽根、藤井、長崎新田、佐藤ヶ池、曽地新田、上大新田、下大新田、上輪新田、古町、野田の十社、西山に別山、黒部、北野の三社、高柳に門出、岡野の二社があるようだ。(神社検索サイトより)

(註2)由緒記: 各地のそれぞれの神明社に有るようだ。この場合は、「鯨波(くじらなみ)神明社(しんめいしゃ)由緒記(ゆいしょき)という事になるのだろうが、柏崎市立図書館で検索したが蔵書目録には無かった。あるいは、「柏崎文庫」に収蔵されているが、未整理の状態かも知れない。(著者である関甲子次郎が寄贈したのが「柏崎文庫」であり、引用しているのだから在るのは事実だろう。)

(註3)天正の乱: 天正年間、特に天正十年(1582)に上野・甲斐・信濃で繰り広げられた「(てん)正壬(しょうじん)()乱」の事と思われる。続く文脈から推測すると、越後国内でも内紛があったようだ。

(註4)国主上杉公: 時代的に推測して上杉景勝の事。

(註5)同上以下の漢文: 大意、越後の国主・上杉公が本間佐渡守を攻撃した時、越後の軍兵は時化にあった、この時、神明社に祈念したところ、果たして無事にこの海岸に着くことが出来た、そこで大いに喜び、「自分は鯨波に乗じた」と、ここ(神明社)に鯨波の名前を書いた、云々。

 尚、ここに言う「本間佐渡守」は、時代的に見て、佐渡本間氏第15代当主・本間泰高の事ではないだろうか。但し、羽茂(はもち)本間氏(現佐渡市羽茂町)の三代高貞・四代高頼が、上杉景勝に討たれているのが、羽茂姓を名乗っていたと思われるで、佐渡本間家(本間家本家)の事と思われる。

 

 国主上杉公撃本間佐渡守之日越兵会難風

 (国主上杉公、本間佐渡守を撃つの日、越兵、難風に会う)

于時念此神明果無恙着岸此磯、

 (時に、この神明に念ず、果たして恙なく、この磯に着岸す)

乃大喜己挙鯨波於是書鯨波、云々

(すなわち大いに喜び、己、鯨波に挙り、ここに於て鯨波と書し、うんぬん)

(註6)(こう)(へい)三年: 1060年、後述する道興准后は室町時代の人なので、出典は不明だが、何らかの文献に記載があったのではないだろうか。

(註7)聖護院門跡道興准后(みちこうじゅんごう): 聖護院は、京都左京区聖護院の本山修験宗総本山。道興准后(1430-1527)は、第28代門跡、関白・近衛房嗣(このえふさつぐ)の子。

(註8)廻国雑記(かいこくざっき): 『廻国雑記』は、道興准后が著した紀行で、文明19年(1487)頃、完成した。以下は関係部分の抜粋。

 

柏崎市】

柏崎を過ぎけるに、秋風いと烈しく吹きければ、 

   おしなべて秋風ふけば、柏崎

いかが、葉もりの神はすむらむ

柏崎市青海川、笠島、鯨波】

あふみ川、かさ島など打ち過ぎて、鯨なみといへる浜を行きけるに、折節鯨の潮を吹きけるを見て、 

わきてこの浦の名にたつ鯨波

曇るうしほを風も吹くなり

柏崎市安田、山室、小国町三桶、川西町木落】

やすだ、山むろ、みをけ、しぶ川、大井、きおとしなど打ち過ぎて、うるし山をこゆとて、 

   初秋の露にぬるてふうるし山

今一しほぞ、風も涼しき

壷池といへる里にしばし休みて、或人に遣しける俳諧うた、

あぢ酒をすすむる人もなき宿に

水のみわくや。壷池の里

これより、くつぬぎといへる里を過ぎ侍るとて、我も亦、あしをやすめて立ちぞよる水かふ駒の、沓ぬぎの里

ふくろふといへる里にて、ねざめに思ひつつけける、

   此の里のあるじかほにも名のるなり

深き梢のふくろふの声

あひまた、湯の原、などいふ所を分け行き侍りけるに、道のほとりの尾花を眺めやりて、

すむ水はありともみえぬ池の原

尾花さわぎて、高き波かな

此の原をうち過ぎて、なぎなた坂といへる所をこえ侍るとて、またある同行にいひかけ遣しける俳楷歌、杖をだにおもしといとふ、山越えて薙刀坂を手ぶりにぞ行く

 

(註8)十返舎一九の金の草鞋: 『諸国道中金の草鞋』の十四、柏崎の後。原文注釈を書きたいところだが、崩し文字で判読できない。いつも思う事だが、江戸時代の人は、これでよく読めたと思う。しかも、強いて言えば、仮名交り草書体であり、版木を彫るにしても、落款を彫る自分としては、余程技巧が必要だと思うのだが。

 

Best regards

承前。尚、原文では旧漢字あるい旧仮名使いが使用されているが、便宜上、当用漢字あるいは現代仮名使いに変更し、また読み易くする為、句読点及び記号を付け加えた。

 

『くぢらなみ』

柏崎

        関甲子次郎編

 

▲新潟県越後国刈羽(かりわぐん)鯨波(くじらなみ)(むら)は《(きゅう)鯨波(くじらなみ)河内(こうち)()()三字(さんあざ)合併村名》戸数二百三十三戸、人口千六百十九人、地價金五万四千二百九十円、地租二千四百廿四円九十四銭五厘にして村民大富無けれど極貧も無し。

 

(註)鯨波(くじらなみ)河内(こうち)()(): この三字に関して、鯨波は置くとして、大正三年の『新潟県刈羽郡地価持一覧』では、「河内」は「川内」、「東の輪」は「塔之輪」と変わっている。関甲子次郎は、何かしら意味あって、例えば、昔の当て字を意識して使ったのかも知れないが、今の所、それを確認する資料を見つけて居ない。

因みに、『新潟県刈羽郡地価持一覧』中、以後登場する人物を見ると、字「鯨波」の地価持ち筆頭は、中村太市(1,863円、村会議員)、以降順次揚げると、保坂栄助(1,180円)、中村一雄(893円)、土屋作兵衛(793円、村会議員)、龍泉寺(661円)、佐藤三左衛門(652円)、早津慶助(647円、村会議員)、下條慶之亮(599、村長・漁業組合理事)、妙智寺(502円)、田村唯右衛門(480円)、以下、助役の保坂竹治(230円)、村会議員・田村庄三郎(205円)が見られる。

また字「川内」を見ると、筆頭に内山亀吉(1,056円、村会議員)、次いで根立才治郎(1,053円)、栃堀東吉郎(1,006円、村会議員・栃堀東吉郎の事と思われる)、根立郡平(954円、青年倶楽部会長・根立順平の父親か)、瀬下良助(659円、収入役)、根立源松(452円、村会議員・郵便局長の根立元松の事と思われる)、長昌寺(415円)、以下根立の名前が続く。

更に字「塔之輪」では、渡辺庄兵衛(1,178円)、渡辺兵三郎(814円)、中村万蔵(409円)、と続き村会議員・漁業組合監事の中村吉太郎(343円)の名前がある。

 

一、鯨波村役場 字鯨波に在り村長・下條慶之亮、助役・保坂竹治、収入役・瀬下良助、書記・田村子之吉、村会議員・土屋作兵衛、中村太市、田村庄三郎、根立元松、中村吉太郎、早津慶助、栃堀東吉、内山亀吉

二、鯨波尋常小学校 校長・猪俣音吉、男女学生貮百二十七人

三、在郷軍人七十四人 分会長・小田十平、分会員三十四人

四、鯨波村駐在所 柏崎警察署第十一管区鯨波駐在所巡査・笹木栄蔵

五、鯨波郵便局 局長・根立元松、電信電話の設けあり。

六、鯨波駅停車場 駅長・村田酒造雄

  鯨波駅より重なる地へ三等乗客賃金

   柏 崎   五銭  直江津  三五銭

   長 岡  四三   高 田  四一

   三 條  六五   長 野 一〇六

   新 潟 一〇五   高 崎 一八九

   柿 崎  一七   上 野 二五三

七、鯨波倶楽部 会長・土屋忠知、副会長・関順助、会員五十一名

八、川内青年倶楽部 会長・根立順平、副会長・栃堀吉松、会員二十五名

九、鯨波漁業組合 理事・下條慶之亮、監事・中村吉太郎、組合員四十餘名

十、鯨波水産貯魚組合 代表者・根立元松

十一、主要物産統計類 左の如し

   米   一、七五一石  大豆     七五石  麥    三〇〇石

   大根  六、四〇〇貫  里芋  二、五〇〇貫  甘藷 三、ニ〇〇貫

   木炭  一、二〇〇貫  薪材 四六、六〇〇貫  挽材   九〇〇坪

   木材    一六五貫  海藻    三〇〇貫  貝類 一、五〇〇貫

   魚類 二九、四八三貫  繭      二三石

              (以下明治四十五年五月現況調査)

 

 今回は、鯨波の地誌である。そこで、富裕の関係と村内の役職あるいは人間関係が推測されると考え、『地価持一覧』を揚げて見た。当地の出身でないので、親族関係あるいは勢力関係が判らないが、それでも、当時の村内の人間関係など推測させるものがあるように思える。また、統計資料も興味深い。

 

 尚、次回は、「柏崎文庫中の鯨波村誌」から始める。

 

Best regards

先ず、最初に御断り。
 長年お世話になった『忍者ブログ』が無料の範囲を越えた様で、次号をアップロードできない様だ。何度か試したが、巧くいかない。
 『柏崎余話』は、16回書いているのだが、難しくなった。本来なら、下記冒頭の部分だが、
 『くぢらなみ』から少々外れる。と言っても、全くの横道ではなく、「題鯨波」n漢詩の作者を調べて居て面白い人物に行き当たったのだ。

 

 漢詩の二番目、「鯨」の作者である小熊琴斎が、実は『柏崎日報』の小熊三郎である事を知らなかった。そこで、縦断的に小熊姓を調べたのだが、ここで、「小熊虎之助」と云う人物が見つかった。時代的には、多少のずれがあるが、出身地が現在の柏崎市大洲である。ところが、調べていくととんでもない人物である事が判った、何と「超心理学」の世界なのである。

 

 ここに、日本超心理学会の会報に掲載されていたのだ。因みに、超心理学を英語ではパラサイコロジーという。丁度この掲載号に大谷宗司氏の『小熊先生と日本の超心理学』をいう小論があるので少々長くなるのだが、今NHKの大河ドラマ『八重の桜』にも登場する帝大総長・山川健次郎、妖怪博士と云われた井上円了(来迎寺)などが登場するので紹介する。また、この章論を読まれると判るのだが、我国の超心理学小史としてよく纏まっている。 

 

13/11/29 日本超心理学会―超常現象・超能力を科学するヒーリング,予知,気功,テレパシー,透視をバイオや脳科学で実,研究

j-spp.umin.jp/japanese/archives/history.html 5/8(掲載誌)

 興味ある人は確認して欲しい。


前回から『くぢらなみ』を始めたのだが、表紙など紹介しなかったので、本文までの広告等を転写して紹介する。

 

表紙「くぢらなみ」の蒼海ホテルは、最近まで営業していたようだが、人伝に聞くと、現在は廃業あるいは休業だそうである。実は、先日、このホテルに関して、地域の口コミサイトにコメントを書こうと思った。しかし、もしもの事があればと一応確認を取ろうと、蒼海ホテルに電話してみたのである。ところが、発信音はするのだが、何度かけても出る気配がないのである。そこで、何かの序に徒友人に聞いて見たら、「だめらしい」と云うのである。これには驚いてしまった。『柏崎華街志』の「雑事」で紹介したように、このホテルは、日露戦争・日本海海戦の戦捷後、地元新潟の希望で、東郷元帥と上村第二艦隊司令長官が越後来訪の折、柏崎に立寄った際、歓迎会を行ったところである。『柏崎華街志』には、その時、柏崎の花街の綺麗所が舞踊りで歓迎した模様が掛れていた。當時、日本海側でも屈指のホテルだったようで、多くの著名人や文人も宿泊したホテルだった。それが時代の波とは言え、廃業に追い込まれるとは。

 

 私は、柏崎に来た当初、友人のご両親が経営していた番神の浜茶屋「あけぼの」の厨房を十年近く手伝ったことがある。それだけに、当時の事が思い出される。柏崎港から番神、鯨波へ抜ける海岸通は、それこそ、駐車場を求める車が渋滞を起こすくらいで、客の呼び込みも盛大なら、浜辺も芋の子を洗うと云う表現通りで、昼食時にでもなると、浜茶屋は何処も超満員、厨房は火の車で、私などは火口を4つも見ているのだから、一日が終わるころには、手や腕が至る処火傷だった。例えば、ラーメンなど、優に300杯に近く、私の見るイカ焼き、丼もの、チャーハン、サザエのつぼ焼きなども、注文を捌くのに手いっぱいで、はて幾つ作ったのか覚えていない程だったのだ。因みに、臨海学校も盛んで、「あけぼの」は、東京教育大付属の休憩所にもなっていたから、その何日かは「てんやわんや」大騒動で、泊りお客の夕食に朝食、その仕込みで寝る暇もなかった。初めの頃は、それに夜の店の厨房にも入っていたし、合間に家庭教師もしていたから、今にして思うと、夏場には何キロもやせたもので、良くできたものだと我ながら感心してしまう。

 

 とまあ、三十数年前の柏崎は、原発の建設と相まって、今の人には想像もできない繁栄の時代だった。それが、何時の頃から衰退を始めたのか。確かに原発景気もあっただろう。しかし、当時の浜茶屋の賑いは、それ以前から、もしかすると明治の頃から続いたもので、原発景気の影響は少なかったように思えた。勿論、柏崎の繁華街が、特に夜の街は、原発景気で沸き立っていたのは事実だったが、それが、長岡に出て十数年、柏崎に帰って見れば、火の消えたような有様だった。

 

 長岡当時は、歴史を訪ねて県内を回ったものだが、柏崎に還って、改めて歴史の切り口を変えようと思ったのも、その時の状況が切っ掛けだったのではないかと、思ったものだ。そんな経緯があったので、江戸後期辺りまで遡って歴史を調べ始めて既に二十年近くなるのだ

 

 しかし、それにしても、今回の蒼海ホテルの話、なにかしら重要なものが消えて行くのではないかと、傍目から見て危惧するのだ。私は、何時までも旅の人かも知れないが、息子には生れ故郷である。子供為にも、ミシンリングを作りたくない。そんな訳で、私は書くが、どうも近現代の歴史を書くには、地元の人に躊躇を見る。この地元心理が続く事を危惧はしても、どうにもならない。

 

 柏崎に限らず地方都市の抱える問題のようにも思える。読者諸賢、少なくとも祖父母の時代までは、何とか後世に伝えませんか、まあそんな思いを感じている。

 

 

 

 

 

 

「山紫水明」壬子初夏、葦〇(渕の行書体ではないかと思うのだが不明)、落款は「晴耕」

 

 

Best regards



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1947/05/18
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