柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 確か、理化学研究所は、今年で百周年を迎える。そこで、昨年から、柏崎と所縁の深い、大河内正敏博士の趣味の世界の著作など、デジタル化しようと考えていた。と言っても、小生が参照できるのは、国立国会図書館デジタルライブラリーだ。ただ、このライブラリー、単に撮影したものが紹介されるのみで、果たしてデジタルと言えるのか、と云う疑問がある。そこで、遅々として進まないのだが、『柏崎華街志』など入力し、出来る限り注釈など加え紹介して来た。

 今回は、先のような事情もあり、未だ中途なのだが、大河内博士の随筆の中、『味覺(味覚)』を順次紹介したい。尚、今回は、容量の都合から表紙~まえがき迄を掲載する。また、ルビに関しては、カタカナは原文通り、平仮名については、便宜上、加筆した。
 追伸、編集上は、ページ数など、整合性を取っているのだが、公開されたものを見ると、「バラバラ」になっている。どうも巧くいかない。ご容赦。

『 味覺』 
 
清美庵随筆

 友情社板

 はしがき

  大凡おおよそのものには標準があるが味覺みかくには標準がない。じつうまいと云ふものも人によっては大嫌いだと云ふ。鰻屋に行って蒲燒かばやきの出る前に、吸物や刺身が出ると不快に客もあれば、喜ぶ人もある。鮭は好きだがあんまり良い悪いは判らないと云ふ人もあるかと思へば、一滴も呑まないで味の鑑定に堪能な人もゐる。いや呑めない方が鑑定には良い。一品だけ好きなものをべたいとは食道樂しょくどうらくの云ふことだ、何品でもなる品数しなかずも量も多い方が好いとは大食家グールマンの云ふことだ。 標準のない味覺みかくは一人一人によってみんな違ってゐるが、ふるい文化(北)のくに發達はったつしてゐることだけはたしかだ。さうしてれると云ふことが、好き嫌ひの大きな分れみちである。だから戰亂せんらんに見舞はれて食料が不足するたびに、今迄利用されなかった、さうして榮養のあるものも、調理法によってはじつに旨い料理が發見されて來るのである。味覺随筆と云ったところで魚、鳥、肉の味覺だけだから結局は一人よがりの漫談に過ぎないが、巢鴨すがも獨房どくぼうひ物にあこがれのあま、書き留めたものをまとめたものが本書である。無論中には昭和の初め頃に書いたものを、少し書き直してならべて置いたものも交ってゐる。 

昭和二十一年秋
著者識

目次

 はしがき(著者)

 料理通グールメーと榮養料理                                              

甘藷かんしょ馬鈴薯ばれいしょ                                                 一五

野鳥の味                                                           二一

御狩塲燒(おかりばやき)                                                          三五

天ぷら                                                               四一

鮪のとろ                                                           五一

釣船の朝飯                                                       五九

江戸前の魚の味                                                六五

魚の養殖                                                           七五

雜感(ざっかん)                                                              八三

大鷭(おおばん)小鷭(こばん)                                                     九一

中金の豚鍋                                                        九七

銀の塔(ツール・ダルヂアン)                                               一〇五

巴里(パリ)の虫料理                                                   一一一

正陽樓(せいようろう)成吉斯干(じんぎすかん)料理                            一一七

甘味                                                                 一二五

羊の肋骨肉(チャップ)と愛蘭シチュウ                             一三一

ウィーナーシュニッツェルとアイスバイン     一三七

すき燒と火鍋子(ホウコウツ)                                            一四七

日本酒と合成酒                                               一六一

鰻とすっぽん                                             一七一

佛蘭西(フランス)の魚料理と牡蠣(かき)の養殖                   一七七

臓物料理                                                    一八九

味覺随筆                                                    二〇九

(しお)(もの)干物(ひもの)                                                  二二一

 

 

 少々方針を変えようと思う。先ず、「宇佐美氏」の段をその儘に(一部制札の処を読下しを試みたが)紹介する。これを見て頂くをお分かりの通り、調査しなければ不明な点が多い事だ。加えるに、活字の潰れ等あり、特に白文の部分は、便宜上句読点を加えたが、何とも読解できない部分がある。更に、ここで挙げられている『枇杷島村志』についても、当時は間違いなく存在したのであろうが、柏崎市立図書館(ソフィアセンター)の蔵書を検索しても見当らないのだ。著者である関甲子次郎は、その後、蔵書を「柏崎文庫」として刈羽郡(柏崎町)に寄贈しているのだから、もしかすると、図書館の未整理の文献の中に在るのかも知れないが、いずれにして、近代デジタルライブラリーや「日本の古本屋」等、思いつく処を当っても、矢張り見当たらない。

 

 この儘行くと、何だか考証学の様なことになり、とても短時間で検証する事は難しい。そこで、この『くぢらなみ』の検証は追々進める事にしたいのである。ただ、今回の「宇佐美氏」段、出てくるのが、「今川氏」関連で興味を覚える。

 

 と云うのが、既に三十年以上も昔の事だが、柏崎に住み始めた当初、友人に自転車を借り、何日か掛けて周辺を散策した事があるのだ。その時、実は思わぬ発見をした。随分昔の事で、また不慣れな土地の事で、その場所が何処なのか定かではないのだが、とある農家の蔵に「赤鳥」の家紋を見つけたのだ。予備知識は、図書館である程度知れべていたが、これには驚いてしまった。「赤鳥」と言っても、余りご存意ではあるまいが、この家紋、実は、今川氏の別紋なのである。寧ろ旗印と言った方が良いのかも知れない。

 

 今回、『くぢらなみ』を読んで(この段)、今川氏との関係を知った訳だ。しかし、文脈からは、寧ろ今川氏とは、敵味方の関係である。尚更、「赤鳥」の所以に興味が湧く。先にも書いたように、「家紋」をよく知る人でもない限り、「赤鳥」の家紋が今川氏所縁の家紋である事を知る人は少ないのだ。これも随分前の話だが、古老にも、また図書館にも尋ねた事があるのだが、知る人は居なかったと記憶する。それに、不慣れな土地であった事もあり、その場所の記憶にないので調べようがない。(地道に調べればよいのだろうが。)しかし、「赤鳥」を蔵の白い漆喰の壁に見た時の驚きは、今も鮮明なのである。

 

 斯く次第で、関心がある分、中々先に進めない。しかし、本来、明治前後から昭和初期辺りをテーマとしている。そんな訳で、追々調べる次第になってしまった。ご容赦。

 

 ただ付け加えると、キケロは、「本の無い家は、魂の抜けた身体のようなものだ」と言ったそうだが、(ただし一説では、キケロの言葉ではないようだが)、歴史の忘れた地方は、アイデンティティを見失った死に至る病人の様なもので、結局は自己矛盾の内に衰微するのではないかと思う次第だ。まあそんな思いで進めていきたい。

 

 因みに、キケロの引用だが、次の様な記事がある。

 

 A room without books is like a body without a soul. 

This is best known from refrigerator magnets long distributed by Amazon.com, but also appears in other media.  As with the above quotation, no specific source is ever given, and dates are inconsistent.  Here the origin appears to be very lose paraphrase rather than pure fiction .

 

 関心がる方は、探してみるのも一興かと。

  

承前。

 

三)宇佐美氏 上杉家の頃は枇杷島城主宇佐美氏の采地(さいち)たり、宇氏の事は枇杷島村志に詳記す、永禄六年上杉家臣川田豊前守長親、左の制札を建つ

 

 右於鯨波観音堂邊、伏關東出陣之軍勢、四壁竹木剪採與云々、甚曲次第也、所詮自今以後堅令停止之、若此旨有違犯單者不嫌甲乙人可被處罪科由被仰出者也、仍執達(しったつ)如件

 永禄六年十二月              豊前守(華押)

 

 (右、鯨波観音堂辺りにおいて、関東を伏するの出陣の軍勢、竹木を四壁にするに、剪採にくみし云々。甚だ曲がる次第なり。所詮、今より以後、堅くこれを停止せしめ、もしこの旨違反ある?者は、甲乙人を嫌わず、罪科を処せられるべき由、仰せ出あらるるものなり、なお執達くだんの如し。)

 

 此河田もと今川義元の兄花倉の良眞法印の小姓にて河田八雲といへり義元の近臣菅西角兵衛なるもの良眞を打ちしかば八雲怒りて菅西を殺し今川家を逃亡して上杉家に仕へ追々立身して禄七千貫を領し越中国松倉城に居れり宇佐美氏歿落後、天正六七年、上杉家の両公子家督争ひの頃は、上杉年譜に天正七年二月十四日、佐野清左衛門に(旗持山の砦を守る景勝方也)景勝より御書を賜ひ景虎が與黨青海川圖書助と伝者を引付且又鯨波小屋をも引付へき由、爰元よりも人数遣さるべきと雖も、近日軍事繁多なれは其元地下人なりとも召連れ此儀相叶う二月廿五日旗持将士菱沼藤七、佐野清左衛門に御書を賜ひ両士計策を廻し、鯨波地方を味方に引付るの由、其功尤も等輩に超越す、其上枇杷島の地へも行をなすへき旨、痛快の手段なり去なから少の人数にて卒爾の行あれは如何あらんか、尤思慮あるべし下口の様體其聞へなき條、切に注進すへき旨仰遣はさると見ゆ。

  

Best regards

梶谷恭巨

 今回は、「里見氏」の関わりであったが、調べて見ると、『南総里見八犬伝』やその映画化などで広く知られている事から安易に考えていたのだが、これが実に難しい。一つには、後に書く「天文の内乱」で嫡流が滅びた事もあるのだろうが、何せ、源平の争乱、鎌倉幕府の相克、北条氏の滅亡、南北朝時代と戦乱の続いた上に、室町後期になると、内紛がおこり、戦国時代には事実上滅亡するのだから、どう見ても断片的で、調べれば調べるほど、一読の関係など時代的にも不確かで、兎に角、謎の多い一族一統なのだ。

 

 著者である関甲子次郎も、その辺りの事があり、短い文章で最後には「略す」と書いている。反面、こうした謎の多い氏族であるが故に、ロマンも掻き立てられるのだろう。滝沢馬琴が二十数年の歳月をかけて『南総里見八犬伝』を著したのも、そうしたロマンを感じたからではないだろうか。いずれにしても、その経緯から里見氏に連なる家系は全国に及び、それぞれに興味深い伝承と共に、続いているようだ。例えば、「正木氏」についても、里見一族から派生した一族で、今までは、広島の「正木氏」を広島の歴史とは何となく孤立した存在だと考えていたのだが、どうも南北朝時代にその源がある様に思えてきたのだ。即ち、毛利氏との因縁である。この辺りの事を書くと止め処がないので、何れ機会を見て書こうとは思うのだが、(我が家の歴史を書いた『家史談叢』では若干触れたが)、どうも本論から外れそうなので、今回もこの程度に留め置きたい。

 

 いずれにしても、今回の『くぢらなみ』、流石に関甲子次郎翁と感服する次第である。インターネットの無い時代、これだけの事を書けるのは、その教養・学識が群を抜いているのだ。柏崎市民は、温故知新ではないが、もう一度、先人たちの業績を見直すべきではないかと、改めて思う次第である。

 

 少々心残りだが、次回は、「宇佐美氏」に移る。ざっと見ても、何だか時間が掛りそうに思える。嘆息。

 

承前。

 

(二)里見(さとみ) 南北朝の頃、新田家の一族里見氏の領下たり、文化中の書上帳に新田一族里見烏山の人々領知云々と見ゆ、烏山氏は此邊に関係無し、里見氏の事は水上村志に詳記し、こゝには略す。

 

(註1)里見氏: 里見氏は、新田(よし)(しげ)の長男・義俊を開祖とする新田氏の庶流の一つ。新田(よし)(とし)(里見太郎)が、上野国碓氷郡里見郷(現在の群馬県高崎市里見)に住した事から「里見」姓を名乗った。越後里見氏は、義俊の二男・(よし)(きよ)が上野国那波郡(なはごうり)田中村に住し、田中姓を名乗った。田中義清は、越後に領地を得た。(ちな)みに、この田中氏の末裔が千利休云われる。また、義俊の嫡子・義成(よしなり)里見氏二代目当主)の次男・義継が越後国波多岐(はたき)荘(中魚沼郡)大井田(おおいだ)郷(現在の新潟県十日町市)に所領を得、「大井田(おおいだ)」姓を名乗り、三男・時成(きなり)烏山時成(からすやまときなり))も波多岐(はたき)荘に所領を得、「烏山(からすやま)」を姓とした。後に出る「烏山」はこの系譜か。里見義胤(よしたね)は、鎌倉末期、元弘(げんこう)元年(1331)に起きた「元弘の乱」で、北条氏が滅びた「鎌倉の戦い」に新田(よし)(さだ)に従い功があって「越後守護代(しゅごだい)」になった。

江戸後期、天保の頃、発刊された有名な滝沢(曲亭(きょくてい))馬(きん)の『南総里見八犬伝』は、室町時代を舞台とした伝奇小説。

(註2)新田家: 新田氏は、河内源氏の源(よし)(くに)が、上野国足利庄(現在の群馬県足利市)を開墾し、足利と称した。その長男・()(しげ)が庶子であった為、新に新田郡(にったごうり)現在の群馬県太田市及びみどり市、新田郡(にったぐん)は、2006年に消滅)に住し、新田姓を名乗ったのが始まり。因みに、新田(よし)(しげ)を祖先とした徳川家康は、江戸幕府(征夷大将軍)を起す際、義重に「鎮守府(ちんじゅふ)将軍(しょうぐん)」の官位を追贈(ついぞう)した。

(註3)文化中の書上帳: 「書上帳」は、領主に対して提出された上申書の類。具体的に書かれていないので調べようがないのだが、文政二年(1819)の柏崎「諸値段書上帳」と云うものがあるようだ。

(註4)里見烏山: ここは「里見流烏山氏」と解釈すべきだろう。そこで、「烏山氏」だが、断片的な史料はあるようだが、判然としない。当初、那須烏山、即ち栃木県烏山市に関係すると考えたのだが、この那須烏山は、里見流烏山氏とは関係がないようだ。そこで一つ面白いと思うのが、現在の千葉県館山市南条に在ったと云う「南条城址」別名「烏山城址」だ。この南条城を築いたのが、里見氏の一門である烏山時明とある。ただ、一説には、時明の孫に当る時貞とあるが、いずれにしても、この地が、烏山氏の発祥に地と云えるのではないだろうか。また、天文二年(15337月に起きた「天文の内乱」で滅んだ里見義豊の正妻・一渓院が、烏山時貞の娘であり、悲劇的最後を遂げた事などあり、もしかすると、滝沢馬琴は、この辺りの事情を踏まえて『南総里見八犬伝』を書いたのかも知れない。

(註5)水上村志: 柏崎市立図書館に蔵書はなく、『水上村志』については不詳。「水上村」について調べて見ると、中頸城郡に存在し、昭和29年に合併によって新井市(現在は妙高市)に編入されている。尚こちらは、「みずかみ」と読む。(地元関係者の方からコメントを頂き、修正しました。)

しかし、国立歴史民俗博物館の「れきはくデータベース」で、村名「水上」で検索すると、全件数14件、内越後関係は2件のヒットがあり、共に読みは「みずかみ」、「越後国苅羽郡」で、旧領名「桑名藩分」旧県名「柏崎県」旧高「351.521」、旧領名「大光寺除地」旧県名「柏崎県管下」旧高「4.794」とある。因みに、数値は「石」である。

 

Best regards

梶谷恭巨

承前

(註20)建保三年十月: 1213年(丁酉(ひのととり)

 『吾妻鏡』に、

 十日 乙未 越後国撿斷事、守護人相共、可致沙汰之旨、西念承畢。

 (十日 乙未(きのとひつじ)  越後国(えちごのこく)検断(けんだん)の事、守護人(しゅごに)相共に、沙汰(さた)致すの旨、西念承り(おわ)んぬ。)
(註21)西念: 佐々木盛綱の法名。後に「法善」とあり、どうも判然としない。そこで、別史料を調べていると、『山形県立米沢女子短期大学紀要』(第43号)に佐々木紀一氏による「佐々木氏勲功伝承と『平家物語』」という論文があり、そこに、宇都宮佐々木氏の系図として、明応(1492年~1501)本『佐々木系図』に次の様な抜粋がある。

 (盛綱)「号加地三郎兵衛尉、佐々木三郎」「本名秀綱、住相模俣野、備前児島渡了」「伊予讃岐守護」「法名西念」

 どうもこれ以外には、「西念」の記載は見当たらないようだ。こうして見ると、私には何だか盛綱と云う人物が何にも居る様に思われる。兎に角、佐々木氏が、柏崎と関係があった事は事実だろうが、全く途方に暮れてしまう。 

(註22)正應六年: 1293年(庚巳(かのえみ))、この年、85日改元して、永仁に代る。

(註23)礎明山松岸寺: 現在の群馬県安中市ある曹洞宗の寺院。
面白い事が書いてあったので、そのURLを。

 http://guntabi.web.fc2.com/annaka/matugan.html

(註24)柏崎光圓寺: 現在の光円寺、
新潟県柏崎市東本町にある真宗大谷派の寺院の事か。序に言うと、本町通り「ホンジェ」の裏にある様なのだが、今まで気が付かなかった。また、インターネットで検索したが「光円寺」に関する基本情報も殆どなかった。
(註25)越前橋立眞宗寺: 現在の真宗寺、
福井県鯖江市鳥羽町にある浄土真宗本願寺派の寺院の事か。

 ただ、『本願寺史料研究所報』(1995年6月刊、第12号)によると、次の様な文章がある。

 『文政由緒書』によると、開基の佐々木盛綱は、近江国佐々木に居住したさ佐々木義秀の三男で、相模秦野に転じて源頼朝に属し、さらに越前今立郡方上庄橋立村に居住した。承元元年(1207)に親鸞が越後左遷の途上で止宿すたので信者となり、共奉して越後に至って出家し、法名を光実坊法善と称した。やがて橋立村に戻って真宗寺を建立し、阿弥陀如来像・上宮太子像を安置するが、正元元年(1259)七月二日に往生した。法善の木像は讃。名ともに親鸞の筆とされている。

 とあるが、問題点もかなりある様で、信頼性は低いと書かれている。
 以上の事から推測すると、柏崎の光圓寺は、親鸞配流の折、
高田に住した事から、後に高田派と言われる寺院の一つで、親鸞あるいは佐々木盛綱と何かしら直接の関係があったのかも知れない。しかし、本願寺史料研究所の文献に「光圓寺」の記載を見ることは出来なかった。
(註26)和漢三才圖繪(わかんさんさいずえ): 『和漢三才図絵』(10581冊)は、江戸時代中期に出来た謂わば日本の百科事典である。
(註27)(ほう)(ぜん): 佐々木盛綱の別、法名。註25の史料によれば、先ず法名を「法善」と称した事になる。
(註28)(とし)(つな): 佐々木俊綱。現在の大阪府茨木(いばらき)市目垣にある浄土真宗本願寺派の寺院「佛照寺(ぶっしょうじ)」の寺伝に、「勝光坊西順」によって建立とあえり、実は、この「西順」が、佐々木俊綱のことで、「承久の乱」(1221)の後、高野山にで勝光阿闍(あじゃ)()と称し、その後、常陸(たち)国稲田で親鸞に帰依し、親鸞ち伴に帰京、先の茨木に佛照寺を建立したとある。
 因みに、この時の「囲碁の会」の相手である工藤祐経は、「曽我物語」の敵役として有名である。しかし、最近では『曽我物語』も、歌舞伎ファンでもない限り、知る人が少なくなった。私は、子供の頃、父からよく聞いたので今でも記憶しているのだが。
(註29)太郎兵衛(ひょうえ)信實(ぼぶざね): 文脈から言えば、「盛綱」の孫に当る訳だが、他の史料によると、盛綱の嫡男とある。越後国加地庄を継ぎ、盛綱の功に依り備前国守護、後、加地氏の祖となる。その子孫は、揚北(あがきた)衆」として上杉氏に従がった。余談だが、「(あがきた)衆」は、「柿崎衆」と共に、初期、謙信の越後統一の障害でもあった。
(註30)越後及び備前兒島(こじま): 越後国加地庄(現在の新発田市東宮内)と現材の岡山県倉敷市児島。
(註31)承久(じょうきゅう)の役: 「承久の乱」、承久三年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して起こした。幕府に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐(おき)海士(あま)隠岐島、現在の島根県隠岐郡海士(あま)町)に配流された。因みに、後鳥羽上皇は、壇ノ浦で二位尼(平清盛の妻・時子)と共に入水した「安徳天皇」の異母弟。
(註32)河匂(かわわ)八郎家賢(いえかた): 『吾妻鏡』の承久三年529日(第14151行目に、次の様な記載がある。

 廿九日 壬子(みずのえね) 雨降、佐々木兵衛太郎信實、兵衛盛綱法師等、相従北陸道大将軍、朝時、令上洛。爰阿波宰相中将、信成卿亂逆之張本、家人河匂八郎家賢、腰瀧口季賢後胤、引率伴類六十余人、籠于越後国、加地庄、願文山之間、信實追討之訖。関東士、敗官軍之最初也。相州、武州等、率大軍上洛事。今日達叡聞、云々。院中上下消魂、云々。
 (二十九日 辛子(かのとね) 佐々木兵衛尉(ひょうえのじょう)信實(のぶざね)(ひょうえ)盛綱(もりつな)法師(ほうし)等、北陸道大将軍、朝時(ともとき)、に相従い、上洛せしむ。ここに阿波(あわ)宰相(さいしょう)中将(ちゅうじょう)が、信成卿、乱逆の張本、家人河匂(かわわ)八郎家賢(いえかた)瀧口季賢(すえかた)後胤(こういん)伴類(ばんるい)六十余人引率越後国(えちごのくに)加地(かじ)(しょう)願文山(がんもんやま)(こも)間、信實追討。関東の士、官軍をやぶるの最初なり。相州、武州(とう)大軍を率いて上洛の事。今日(きょう)叡聞(いもん)に達すと、うんぬん。)

 とある。また調べて見ると、「河匂氏」は、藤原秀郷の流れをくみ、奥州藤原氏(藤原三代)と縁戚関係あったとある。また、神奈川県中郡二宮町山西に、「川勾神社」があり、先の『吾妻鏡』の建久三年(119289日に項に、頼朝が北條政子の安産を「二宮河匂大明神」に祈願し、神馬を奉納したとある。この事が如何に「河匂氏」と関わるのか不明だが、戦乱の時代、親兄弟が敵味方に別れ家を残す事を第一義と考えた事から、「河匂氏」も家を二分して官軍と鎌倉方に分れたのかも知れない。
(註32)北条越後守朝時: 第二代執権・北條義時の二男。母は、比企(ひき)朝宗(ともむね)の娘で正室の「姫の前」だが、建仁三年(1203)の「比企(よしかず)の乱」により比企氏が滅亡、両親が離婚した。名越に住した事から、名越朝時と云われ、名越氏の祖となった。NHKの大河ドラマ『草燃ゆる』では、「姫の前」を坂口良子が、北条義時を渡辺謙が、比企能員を佐藤慶が演じている。(頼朝は石坂浩二、政子は岩下志麻)余談だが、比企氏は、先の河匂氏と同様、藤原秀郷流だ。
(註33)薩摩の乃木大将: こらは明らかに、作者の誤解である。日露戦争、二百三高地の戦いで有名な乃木希典は、長州藩士(支藩の長府藩士)乃木希次の三男として、嘉永二年(18491111日、江戸の長府藩上屋敷で生まれた。
(註34)頼朝の石塔: 新発田市岡田の法音寺大日堂五輪塔の事。現在、新発田市指定有形文化財に指定されている。因みに、詳しくは、下記URLで。

 http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/6011865.html
 
 Best regards
梶谷恭巨

承前。以下、本文。 

 建久五年秋、盛綱越後に故六條判官為義の末子護念上人の在る事を執奏(しっそう)す、正治元年正月、頼朝薨後(こうご)、盛綱(ちはつ)して入道西念と號す、三年居城を子(のぶ)()に譲り四方に遊歴す、(けん)(にん)元年(がんねん)四月、上州(じょうしゅう)磯部(いそべ)に在り、たまたま越後に於て(じょう)氏の遺族(すけ)(もり)額御前(はんがくごぜん)等亂を起す、幕府盛綱に命じて之れを討たしむ、盛綱越後に来って城氏を平ぐ、菊池(きくち)(よう)(さい)前賢故實(ぜんけんこじつ)に入道西念が馬を飛して越後に来るの画有り、東鑑に建仁三年十月廿六日と、元久二年七月廿六日、盛綱の京都(けいと)に在りし事見ゆ、健保三年十月十日、越後国撿斷事守護人相共可致沙汰之旨、西念承畢云々、正應(せいおう)六年卒す、墓は上州磯部礎明山松岸寺に在り、柏崎光圓寺(こうえんじ)佐々木氏と越前橋立眞宗寺(しんしゅうじ)は此西念に因縁ありという、西念、和漢三才圖繪(わかんさんさいずえ)法善(ほうぜん)と號すと見ゆ、盛綱の子(とし)(つな)世す、太郎兵衛(ひょうえ)信實(のぶざね)跡目を()ぐ、此信實は十五歳の時、鎌倉御所に於て圍碁(いご)の會有り、工藤左衛門尉祐経(すけつね)の無禮を怒りて祐経の顔に碁子をうちつけ御勘氣を蒙りたる事有り、長じて父の功に依り越後及び備前兒島を領有す、承久(じょうきゅう)の役、官軍河匂(かわわ)八郎(いえかた)加治の願文山に立て籠りしを破り、北條越後守朝時(ともとき)に從い上洛せり、寛元(かんげん)元年七月廿六日、六十八歳にして卒す、子孫徳川氏の初期迄連續せり、一説に薩摩の乃木(のぎ)大將の先祖は盛綱の末にて越後の乃木村に住せしものなりという、乃木村何れの地にや、盛綱の弟四郎高綱(たかつな)は宇治川合戰にて梶原と先陣を(あら)ひし逸事(いつじ)あり、晩年剃髪して(しゃく)(りょう)()(ごう)、法を親鸞(しんらん)に聽けり、高綱在越の時、蒲原郡(かんばらぐん)加地庄(かじしょう)岡田村(おかだむら)に源頼朝公佐々木四郎高綱謹建と書せし高三尺二寸幅一尺三寸の石塔を建てたり

 (註1)建久五年: 1194年(甲寅(きのえとら))
(註2)六條(ろくじょう)判官(ほうがん)為義(ためよし): 源為義、祖父が八幡太郎義家、義朝の父、頼朝の祖父。
(註3)()(ねん)上人: 義朝の弟、頼朝の叔父。また、盛綱の母親が為義の娘であるから盛綱の叔父でもある。
(註4)執奏(しっそう): 取り次いで奏上する事。「伝奏(でんそう)」と同義。
(註5)正治元年正月: 1199年(己未(つちのとひつじ))、建久十年、4月27日改元で、「正治」となる。
(註6)薨後(こうご): 亡くなって後。参考、「薨去」
(註7)薙髪(ちはつ): 髪を剃り落す事。
註8)三年居城: 正治三年(1202)、居城とは加地(かじ)城の事。現在の新発田市東宮内辺りあった。
(註9)(のぶ)(さね): 盛綱の嫡男、後に加地(かじ)氏と称し、加地氏の開祖となる。
(註10)建仁元年四月: 1201年(辛酉(かのととり)
(註11)上州磯部: 現在の群馬県安中市磯部。磯部温泉がある。
註12)城氏: 越後に栄えた豪族。越後平氏。「建仁の乱」、建仁元年(1201)の正月23日から5月にかけて、城長茂ら城氏の一族が起こした反乱。因みに、兄・資永(すけなが)は、平宗盛から木曽(源)義仲の追討を命じられたが、急死する。結果的には、木曽義仲の大勝となり、平家衰亡の端緒となった。
(註13)資盛(すけもり): 城資盛、資永(すけなが)の嫡男。
(註14)板額御前: 城資国の娘、資永・長茂の姉あるいは妹。女武者として巴御前と並び称される。「建仁の乱」で負傷し鎌倉に送られるが、その武者ぶりに感銘した甲斐源氏の浅利義遠が妻として貰い受け、甲斐の国で亡くなったと云う。
(註15)菊池容斎: 本名、武保、容斎は号。幕末から明治初期の日本画家。
(註16)前賢故実: 『前賢故実』は、菊池容斎により江戸後期から明治にかけて刊行された伝記集(全十巻20冊)。後年、容斎の孫・九九螭武久により、「有職故実」の一巻が加えられ『考証前賢故実』として出版された。因みに、『前賢故実』は、近代デジタルライブラリーに収録されている。因みに、「入道西念が馬を飛して云々」は、『前賢故実』巻の8「佐々木盛綱」の章にある。
(註17)東鑑: 前出『吾妻鏡』
(註18)建仁三年十月: 1203年((みずのと)()

 『吾妻鏡』に、

廿六日 辛酉(かのととり) 京都飛脚三着申伝、去十日、叡岳堂衆等、以金子山為城郭、群居之間、同十五日、差遣官軍、

依被攻之衆等退散、云々。葛西四郎重元、豊嶋太郎朝経、佐々木太郎重経以下官軍、三百人為悪徒被討取訖。

(二十六日 辛酉 京都の飛脚三着して申し伝う、去る十日に、叡岳の堂衆等、金子山(かねこやま)を以て城郭と為す、群居の間、同十五日、官軍を差し遣わす。これを攻められるによって、(どう)(ゅう)等退散す、云々。葛西の四郎重元、豊嶋太郎朝経(ともつね)、佐々木太郎重経(しげつね)以下の官軍。三百人、悪徒を為すに討ち取られ(おわ)んぬ。)

 とあるが、これに続く二十六日の記載に盛綱の記載はない。


 (註)の総てが掲載できなかったので、次回に。

Best regards
梶谷恭巨



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