柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 調べて居たら『吾妻鏡』の読下し文のサイトがあった。自分が使っている国立国文学研究資料館の「吾妻鏡データベース」の原文と多少読み方の違いがあるが、『吾妻鏡』の研究には最適のサイトである。以下、そのURLを紹介する。

  http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html

 ただ、『吾妻鏡』が今回の本題ではないので、なるべく早く『くぢらなみ』に復帰したい。

 

 今回は、兎に角時間が掛った。中世史は得意ではないが、ただこの時代に付いては、子供もの頃から父親に聞いた話だ。もっとも、テキストは頼山陽の『日本外史』なのだが、それに芳川英治の『平家物語』や『太平記』が加味されて、今でも父の声と共に耳に焼き付いている。父は、演説上手と評判だったが、大抵がこの辺りからの引用で、特に弔辞など、涙を流さぬ者はいなかったと聞く。そんな影響か、源平から南北朝に掛けて、よく勉強したものだ。今でも、『平家物語』、『愚管抄』、『太平記』は手元に在り、(『日本外史』も)、思い出したように読んでいる。今回は特に、女房殿の会社の図書、宮尾版『平家物語』と読んでいたので、何とも長い注釈になってしまった。

 

 ところで、「佐々木氏」は、近江国佐々木庄に住した所から「佐々木」を名乗るのだが、本姓は「木村」である事を知った。これは意外な事実である。余談だが、先頃、息子の親友である加藤大和君が家系図を持ち込んだのだが、彼の曾祖母が、仙台藩の藩儒・山崎闇斎の系譜・崎門学派の木村覚左衛門景盛に繋がる人であった事が判った。詳しくは把握していないが、どうも戊辰戦争の時、柏崎の在郷の人達は、町家(商家)が官軍に味方したのに反して、桑名藩に従い、仙台から函館まで従軍した経緯があり、その関係で先代から柏崎中鯖石の加藤家に嫁したのではないだろうか。実に興味ある事実である。

 

 さて次回だが、これがまた中世史に関わってくる。「里見氏」が登場するのだ。どうもしばらくは、中世史の勉強になるのだろう。

 容量の問題で、今回も分割する。

Best regards

『くぢらなみ』(9)の続き。

(3)「元暦元年十二月廿六日」の段に、→ 第二冊169頁5行目

 

 廿六日 辛巳(かのとみ) 佐々木三郎盛綱、自馬渡備前国兒嶋、

 (二十六日辛巳(かのとみ) 佐々木の三郎盛綱、馬より備前の国児島(こじま)を渡し、)

追伐左馬頭平行盛朝臣事。

()()(かみ)行盛朝臣(あそん)を追伐する事。)

今日以御書蒙御感之仰。其詞曰、

(今日、御書(ごしょ)をもって御感(ぎょかん)(おお)(こうむ)る。その(ことば)(いわ)、)

 自昔雖有渡河水之類、未聞以馬凌海浪之例、

  (昔より、河水(かすい)を渡すの(たぐい)有りといえども、未だ馬を以て海浪(かいろう)(しの)ぐの例を聞かず、)

盛綱振舞、希代勝事也、云々。

(盛綱が振る舞い、希代(きだい)勝事(しょうじ)なっり、うんぬん。)

 

(4)「元暦二年六月廿五日」の段に、→ 第三冊80頁6行目

 

 廿五日 丙子(ひのえね) 佐々木三郎盛経者、平家在世之程者、

(二十五日丙子(ひのえね) 佐々木三郎(もり)(つね)は、平家在世(ざいせ)()は、)

奉背源家、於事現不忠、而彼氏族城外之後、

 源家(げんけ)(そむ)(たてまつ)り、事に()て不忠を(あら)わす、しかるに()氏族(しぞく)(きがい)(のち)、)

奉追従、遂去年一谷戦、子息俊経討取越前三位通盛、訖。

追従(ついじゅう)(たてまつ)り、去年(きょねん)一ノ谷の合戦を()げ、、子息(とし)(つね)、越前の三位(さんみ)通盛を討ち取り、おわしむ。)

仍雖望其賞、令悪先非給之間、敢無御許容之處、

(よって、その賞を望むといえども先非(せんぴ)をにくましめ給うの間、あえて御許容(ごきょよう)無きの処、)

属侍従公佐朝臣、頻依愁申之、募子息之功、

侍従(じじゅう)公佐(きんさ)朝臣(あそん)(ぞく)し、(しき)これを(うれ)(もう)すによって、子息の功に(つの)り、)

本知行所者可被沙汰付之申、有御契約、云々。

(本知行所(ちぎょうしょ)は、沙汰(さた)に付けらるべきの(よし)御契約(ごけいやく)有りと、うんぬん。)

 

 今回は、ここまで。

 

Best regards

承前。

 

 その前に、前回の『東鑑』あるいは『吾妻鏡』に関連して。『くぢらなみ』に出てくるのは、「治承四年十月二十三日」の所だが、次に続く文脈が、果たして『吾妻鏡』からの引用かどうか調べて見た。幸い、『吾妻鏡』は、「国立国文学研究史料館」に収録されており、「吾妻鏡データベース」が存在する。また原本には返り点等の読み下し記号があり、『くぢらなみ』の白文をより正確に読下すことが出来る。

 

 前後するが(本文の後に書いている)、取りあえず、件の個所を読み終えて、先の『くぢらなみ』の読下し文に間違いがある事が判った。ご容赦。長年、英語の翻訳をしてきたが、矢張り外国語である。それに反して、漢文も外国語と言えばその通りなのだが、矢張り子供もの頃から慣れ親しんできた所為か、長い空白があったにしても、取りあえず「返り点、レ」や「一、二、三」あるいは「上中下」の訓読記号がある分、余程読み易いと感じた。

 

 それで思うのでは無いが、最近は高校で、漢文はおろか古文さえ受験科目ではないと云うので、全く授業の無い学校もあるとか。明治維新前後、日本人が外国の文献を読み解いた背景には、漢学者のみならず広く洋学を志す者、医学を志す者や技術を目指す者が、予想以上に西欧の学問や技術を理解することが出来たのは、彼ら総てが、先ず基本としての漢文を学んでいた事のに在るのではないかと、は、私だけの考えだろうか。以前紹介した書道家の石川九楊氏が、その著書『書と文字は面白い』の中でも書いていたように、漢文、漢字の情報伝達量は、他に超越していると思うのである。要するに、文字の成り立ちを知れば、自ずから字義を推測することが出来るのだ。どうも、こうした基礎教育の欠落が、今の社会に反映されて居る様に思えて仕方がない。余談だが、ヨーロッパでも、昔は、ギリシャ語とラテン語は、学問の基礎に在った。(余談だが、昔、米国の大学の受験科目として、ギリシャ語・ラテン語・ヘブライ語の内の一教科が必須科目だった。)漢文と同じで、こうした古語の学習が、国際語になり、ルネッサンス以降のヨーロッパ世界、言い換えれば、文化や芸術の伝搬と発展に寄与したと思うのである。

 

 取りとめのない事を書いてしまった。ご容赦。さて、今回だが、後の加筆する事になるかも知れないが、取りあえず読下し文を紹介する事にする。丁度、『平家物語』(宮尾版を読みながら原本と比較していた)を読んでいたので、その辺りについても、比較したい。また、こうする事で、関甲子次郎など当時の柏崎の文化人の背景や原点を知ることが出来るのではないかと思うのだが。

 

尚、読下し文、◎付は、『くぢらなみ』に記載の名前。また、句読点や読みは、『吾妻鏡』の本文に従った。

 

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(1)「治承四年十月二十三日」の段に、→ 第一冊94頁7行目

 

 廿三日 壬寅(みずのえとら) 著于相模国府給、始行勲功賞、北条殿及

 (二十三日(みずのえ)(とら)、相模の国府に着き(たま)う、勲功の賞行われる。北條殿及び)

 信義(武田)

◎義定(安田、信義の弟)

 常胤(千葉)

 義澄(三浦)

 広常(平あるいは上総)

 義盛(和田)

 実平(土肥)

 盛長(安達)

 宗遠(土屋)

 義実(岡崎)

 親光(工藤)

 定経(吉田経房の子)

 経高(佐々木盛綱の次兄)

 盛経(稲沢)

 高経(足利)

 影光(加藤影員の子?)

 遠影(天野)

 影義(加藤影員の次男)

 祐茂(宇佐美、曽我兄弟の仇討で有名な工藤祐経の弟)

 行房(市河)

 影員入道(加藤)

 実政(宇佐美)

 実秀(大見)

 家義(飯田)

 

 以下或安堵本領。或令浴新恩、亦義澄為三浦介。

 (以下、或いは本領に安堵(あんど)、或いは新恩(しんおん)せしむ)

 

(註1)北条殿以下、25名の名が揚げられており、()内は、その姓を加筆した。いずれも、頼朝旗揚げの時の功臣で、特に石橋山の戦いに功績があったようだ。但し、調べて見ると史実かどうかは不詳とある。

(註2)『くぢらなみ』には、義定、盛綱とあるが、上記原文の通り、「盛綱」の名前はない。しかし、佐々木盛綱は、佐々木氏の当主であるので、

 

(2)「寿永三年二月二十七日」の段に、→ 第二冊107頁2行目

 

  廿七日 丙戌(ひのえいぬ) 近江国住人佐々木三郎成経(なりつね)参上。

 (二十七日(ひのえ)(いぬ) 近江の国の住人、佐々木三郎(なり)(つね)、参上す。)

子息俊経一谷合戦之時、討取越前三位、通盛、訖、

(子息(とし)(つね)、一ノ谷の合戦の時、越前三位(さん)通盛(みちもり)>を討ち取りおわんめ)

可預賞之由申之、於勲功者、尤所感也。

(賞に預かるべきの(よし)、これを申す、勲功に於いては、もっとも感ずる所なり。

但日來属平氏、殊奉蔑如(ないがしろ)源家之處、平氏零落都之後、

(ただし日頃(ひごろ)平氏に属し、殊に源家を(ないがし)にし処に、平氏都を零落(れいらく)するの後、)

始参上。頗非眞實志之由、被仰、云々。

 (始めて参上す、(すこぶ)る真実の志にあらざるの由、()せられ、うんぬん。)

 

 無料のブログを使用しているので、文字数制限があり、全文をアップロードすることが出来なかった。よって、続き(3)以降を分割して掲載する。

Best regards

承前。 今回は、大意と若干の注釈を加えたが、未だ不足の部分が多く、また誤解して居る所もあると思う。後に加筆、修正あるいは訂正を行う事になるだろうが、ご容赦。

 

▲領主

(一)佐々木氏鎌倉幕府の頃、佐々木盛綱越後を領す、一族孫四郎房綱を鯨波に置き桂山城を築き海岸一帯の鎮衛と為す、佐々木氏の先は宇多天皇の皇子篤實親王九代の後胤近江国の住人佐々木源三秀義なり、秀義源義朝の家隷と為り男子五人有り、太郎定綱、次郎経高、三郎盛綱、四郎高綱、五郎義清、何れも源頼朝創業の功臣なり、盛綱高綱は越後歴史に関係あり、(あずまかがみ)に、治承四年十月廿三日頼朝著相模国府給始被行勲功賞、其中に北條殿及義定盛綱等以下或安堵本領或令浴新恩云々、創業之功臣也、寿永三年二月廿七日、佐々木盛綱参上、子息俊綱一谷合戦之時、討取越前三位通盛、訖可給賞之出申之於勲功者尤所感也、元暦元年十二月廿六日、盛綱自馬渡備前国兒島、追伐左馬頭平行盛、朝臣今日以御書蒙御感之仰、先詞曰自昔雖有渡河水之類、未聞以馬凌海浪之例、盛綱振舞希代勝事也、元暦二年六月廿五日、本知行所者(江州)可被沙汰之由有御契約云々、文治五年、源頼朝奥州征伐の時、従軍す、餘目氏の記に秀衡いせいにふけり両国を公領とし越後のうかいよりこなたを知行し勅定をそむき云々、鎌倉追大殿御発向有て秀衡を退治し玉ふ云々、同年、佐々木盛綱、越後に封ぜらる、蒲原郡加地城に居る一族孫次郎房綱鯨波に居城(古址は村の南の澤御所の入の山上に在り隠くれこやばといふ所も有り)口碑に佐々木氏戦時用として国内所々に朱を多く埋めたりと、建久五年正月十四日、盛綱越後の産生鮭二尾を頼朝に献上す、志賀理斎の三省録に、頼朝菊川止宿の夜、佐々木盛綱が領所より鮭の楚割(すはやり)を取り寄せ、盛綱一切をこゝろみて其余りを和卓(おしき)に居へ、(こもの)にもたせ、頼朝の旅館へおくる、頼朝浅からず和卓のうらに自筆を染らる、

 

 待居たる人の心もすはやりの

       わりなく見ゆる心ざしかな

 

大意:

 佐々木氏が鎌倉幕府に仕えて居た頃、佐々木盛綱(もりつな)が越後を領有していた。(盛綱は)一族の孫四郎房綱(ふさつな)を鯨波に配置し、桂山城(かつらやまじょう)を築いて海岸一帯を鎮守し防衛させた。佐々木氏の先祖は、宇多(うだ)天皇の皇子篤實(あつざね)親王の九代の後裔で、近江国の住人・佐々木源三秀義(げんぞうひでよし)である。秀義は、源義朝の家令となり、男子五人があった。(すなわち)太郎定綱(さだつな)、次郎(つね)(たか)、三郎盛綱、四郎高綱(たかつな)、五郎()(きよ)で、何れも源頼朝の(鎌倉幕府)創業の功臣だった。(特に)盛綱と高綱は越後の歴史に関係があり、『東鑑』に、治承(じしょ)四年(1180)十月廿三日、頼朝が相模の国府に到着し、勲功の賞を始められた、その中に北条殿と義定(よしさだ)や盛綱等以下、あるものは本領を安堵(あんど)され、またあるものは新に恩賞を受け、云々、創業の功臣とされた。寿永三年(1184)二月二十七日、佐々木盛綱が従軍し、その子息の俊綱が一谷(いちのたに)合戦の時、越前三位通盛(ちもり)を討ち取った。勲功に対する(恩)賞を給わるべき申し出に至ったのは、もっともな事だと思う。元暦(げんりゃく)元年(1184)十二月二十六日、盛綱は、自ら備前国児島を渡り、左馬頭(さまのかみ)・平行盛(ゆきもり)を追討し、朝臣である私は、今日、感状を頂いた(御書(ごしょ)(もっ)御感(ぎょかん)(おお)(こうむ)った)。感状には、昔から馬で川を渡るという話は聞いたことがあるが、海を渡ったという話は聞いたことがない。盛綱の行動は前代未聞の事だ(先詞に曰く、昔より河水を渡るの(たぐい)有るといえども、いまだ馬を以て海浪を凌ぐの例えを聞かず、盛綱の振る舞い稀代の勝事なり)と。元暦二年(1185六月二十五日、本領(江州、近江国)は、お約束の通りの沙汰が下されたそうだ(沙汰されるべきの由、御契約あり)うんぬん。文治五年の源頼朝奥州征伐の時は従軍した。餘目(あまるめ)氏の記録には、(藤原)秀衡が勢力を振るい、両国(陸奥と越後の事か)を公領と称して、天皇の定め(勅諚(ちょくじょう)越後のうかいより奥州まで占有したと。また遂に、鎌倉(幕府)の大殿(頼朝)は、軍勢を発して、秀衡を亡ぼされたと。同年、佐々木盛綱は、越後に領地を与えられ、蒲原(かんばら)加地城を本拠地とした。また一族の孫次郎房綱(ふさつな)は、鯨波を居城とした(城址は、鯨波村の澤御所(さわごしょ)の入りの山の上に在り、「隠れこばやし」と言う所もある)、口碑には、佐々木氏が、戦時用に越後国内の各地に、「朱(辰砂(しんしゃ)を埋蔵したと云う。建久五年(1194)正月十四日、盛綱は、越後の産物として鮭二匹を頼朝に献上した。志賀(しが)理斎(さい)の『三省録』によれば、頼朝が菊川に泊った夜、佐々木盛綱が、領地から鮭の楚割(すはやり)を取り寄せ、盛綱自身が調理して、余分なものを取り除き、和卓(おしき)に据えて、小者に持たせて、頼朝の宿に贈った。頼朝は、感激して和卓(おしき)の裏に次の様な歌を書かれた。

 

  待ちいたる人の心もすはしりの       (待って居る人の心も走り出すように)

        割なく見ゆるこころざしかな  (盛綱の志が理屈抜きで見えるようだ)

 

(註1)篤實(あつざね)親王: 宇多天皇第八皇子・敦実親王の事。

(註2)東鑑: 鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻(あずま)(かがみ)』の事。

(註3)義定(よしさだ): 甲斐源氏の祖とされる源義光の孫・安田義定の事か。

(註4)越前三位通盛(えちぜんさんみみちもり): 平通盛の事。清盛の弟・教盛の嫡男。一ノ谷合戦での妻・小宰相(こざいしょう)とのエピソードは『平家物語』一章が割かれている。因みに、宮尾登美子の『平家物語』でも、通盛・小宰相の物語は、一つの山場になっている。

(註5)餘目(あまるめ)氏の記録: 『奥州餘目氏記録』がある。驚いたのは、検索して出てきたのが、米国ユタ州ソルトレーク市のユタ系図協会撮影のもので(マイクロフィルム、閲覧は現地のみ可)、それによると、原本は永正11年(1514)に書かれたもので、実在するのは写本であり、明治32年に追記とある。所蔵者は齋藤報恩会博物館図書部、内容は、「留守氏」及び「餘部氏」の系図であるようだ。因みに、齋藤家は、戦前(農地解放前)は、山県の本間家に次ぐ豪農で、財団の設立は、大正12年(1923)、当時の斎藤家九代目当主の斎藤善右衛門が私財300万円を投じて設立した。目的は学術振興だが、大学に研究費補助するなど、当時としては前代未聞の企てだったと。

(註6)越後のうかい: 不詳。

(註7)澤御所: 不詳。

(註8)隠くれこばやし: 不詳。

(註9)朱: 辰砂、硫化水銀。

(註10)志賀理斎の三省録: 葛飾北斎の門人・柳川重信の父で、志賀(しのぶ)(あざな)理斎号。江戸後期の儒学者、伊賀同心の家に生れた。『三省録』は、天保の頃かかれた。

(註11)菊川: 静岡県の菊川市の事か。

(註12)楚割(すはやり): 「すわやり」、魚を短冊状に乾した干物。

(註13)和卓(おしき): 折敷(おしき)の事か。(足の無い、有るのは善)白木の八寸盆様なものと思われる。ところで、この「おしき」と云う言葉が記憶に在った。中国地方、特に父の実家のある三次地方の神楽に「和卓(おしき)舞」というがあだ。私の家のある芸北地方と異なり、山陰特に出雲の影響を受けた神楽だと聞いている。

 

Best regards

試行錯誤の連続だが、今回から先ず「大意」を述べ、その後に注釈を附す形にしたいと思う。また、11ポイントでは、視力低下で読みづらいので、これからは12ポイントを使用する。

 

 ところで余談だが、昨日、ブログ版『柏崎通信』にジャンクでないコメントが届いた。2011年頃、調べて居た越後出身の北海道開拓者の足跡にに就いてだ。コメントがあったのは、『北海道立志編』から新潟県出身者の地域別分布など掲載した記事に対するもので、その中に揚げた一人が、どうも曽祖父であるようだ、と言うもの。それについて連絡したいと云うのだ。驚いて、久しぶりにブログを見ると、昨日の訪問者が150人近くあった。これも驚き。最近、『柏崎華街志』の掲載如何を考えて、アップロードしていない。早速、令嬢のメールを出したのだが、何だか、責任を感じてしまった。

 しかし、『北海道立志編』もそうなのだが、個人で調べるのには限界がある。当時は、北海道の野幌や江差などに問合せもしたのだが、回答を頂くのに、先ず肩書など看板が無いと云う障壁があり、更に個人情報保護法が阻害して、十の内に一つでも回答があれば良い方なのだ。そんな次第で、頓挫しているのが実情だが、コメントを貰うと、矢張り嬉しい。やる気も起る。

 

 まあそんなことで、今回の『くぢらなみ』も書く積りである。序に言うと、今回は紙数が少ないので安直に考えていたが、これ調べる中に、何とも圧縮された濃密なものである事が判ってきた。何しろ調べれば調べるほど、加速度的に量が増える。そんな訳で遅々として進まないが、ご容赦。

 

承前。

 

▲驛傳 往古五里駅伝の一なり、即ち柿崎・鯨波・椎谷等なり、厩牧舎に凡諸道須置駅毎三十里(六町一里)置一駅若地勢阻険及無水草処随便安置不限里数云々、五駅便覧(はっさき)三里鯨波一里柏崎三里宮川一里椎谷とあり、慶長九年諸道に一里塚を築く、元標江戸日本橋なり鯨波の一里塚は今二十三夜塔の建てゝある所なり、柏崎下町へ一里、柏崎より田尻村一里塚へ一里、慶長五年五月六日上杉遺民乱の時、見附の古城山に立て籠りし蔵王堂義俊捕縛せられて府中へ送らるゝ途中鯨波駅にて創傷の為めに苦死す、慶長十六年駅路改正柏崎宿場と為る、六月領主松平上総介忠輝公の有司大久保石見守より宿馬の定書を問屋下條へ渡す、下條家の由緒書に貞治二年より問屋並に庄屋役勤め申候と見ゆ、享保年中版の廿四輩記八崎に(泊有り茶屋あり)越後の関所あり、鯨波迄三里、これを米山三里と云ふ、峠八ッ有、坂道にて難所なり、鯨波(泊り無し茶屋なし)明和九年二月当村昔より宿場を勤て年々疲弊するを以て問屋兼庄屋下條豊蔵仮庄屋唯右衛門外組頭四人百姓惣代新左衛門等刈羽郡一町六十八ヶ村を相手取り駅馬入費補助金の訴訟を起す、領主松平越中守の領地内蒲原郡大肝煎佐久間長右衛門岩船郡佐藤辰左衛門魚沼郡酒井忠之助等の取扱にて事済となる、当村山有り海有れども安賃銭を以て宿場役を勤来りしを以て明治維新の頃は疲弊困窮し従て人気あしかりしが近年駅馬廃さられて民風も淳朴と為り家計も追々富裕と為るに至れり、陸路の記に戊辰の役に官軍桑名の軍を破りし所なり其時鯨波の駅はやけたりとぞ。

 

大意:

 昔、(律令制によって定められた)五里駅伝の一つである。すなわち柿崎・鯨波・椎谷などがそれで、そこの厩舎や牧場で「およそ各街道には三十里(六町を一里として、約118㎞)毎に駅を置き、もしくは地勢が険しいか水や草地が無い処ならば一駅を置き、里数に限らず便不便に随って置いたそうだ。『五駅便覧』によれば、鉢崎から鯨波までが三里、鯨波から柏崎までが一里、柏崎から宮川までが三里、宮川から椎谷までが一里とあり、慶長九年(1604)には、諸街道(東海道・東山道・北陸道)に一里塚を築き(修理もしている)、基準点を江戸の日本橋とした。鯨波の一里塚は今の二十三塔の建って居る所にあり、そこから柏崎下町まで一里、柏崎から田尻村の一里塚まで一里ある。慶長五年(1600五月六日の「上杉遺民の乱(上杉遺民一揆)」の時、見附の古城山に立て籠もった蔵王堂義俊(?)が捕縛されて府中(今の上越市高田)へ送られる途中、鯨波駅で(創)傷の為に苦しんで死んだ。慶長16年の駅路改正では、柏崎が宿場になった。その6月、領主の松平上総介忠輝公の有司(官吏)大久保石見守より宿馬の定書が問屋であった下條氏に渡された。下條家の由緒書に「貞治(じょうじ)2年(1363より問屋並びに庄屋役を勤め申し候」とある。享保年中の版『二十四輩記(二十四輩順拝記?)』に八崎に(宿屋なし茶屋あり)越後の関所があある。鯨波まで三里(約12㎞)あり、これを米山三里という。峠は八カ所あり、坂道で難所である。鯨波(宿屋無し茶屋無し)は明和9年(177211月16日より安永に改元)2月、当村は、昔から宿場を勤めてきたので疲弊した事から、問屋兼庄屋役の下條豊蔵、仮庄屋の唯右衛門ほか組頭四人、百姓惣代の新左衛門らが、刈羽郡の1町66村を相手取って、駅馬の経費や補助金について訴訟を起したが、領主の松平越中守の領地内の蒲原郡大肝煎・佐久間長右衛門、、岩船郡の佐藤辰左衛門。魚沼郡の酒井忠之助らの仲裁で解決した。当村は山有り海有りだが、安い賃金で宿場役を勤めて来たので、明治維新の頃には疲弊困窮し、(旅人には)人気があったが、近年、駅馬の制度が廃止になり、(宿場役も無くなったので)、住民の気持ちも昔の様に純朴になり、また家計も段々と裕福になった。(尚)、『陸路の記』に、戊辰戦争の時、官軍が桑名藩の軍を破った所だが、その時、鯨波の駅(宿場)は焼けてしまった、とある。

 

(註1)五里駅伝: 律令の「駅制」と「伝馬制」から成る「駅伝制」の事と思われる。しかし駅制では原則として30里(律令における里単位、約16㎞)で約四里だが、この場合は、慶長6年(1601に東海道を53駅と定めた事に由来するのものか、あるいは、「五機七道」から、もしかしたら縁喜を担いで、「五里」としたのか、いずれにしても一般的にそう云われていたのではないだろうか。

(註2)漢文の個所: 大意にて省略。

(註3)五駅便覧: 『五駅便覧』は江戸期、幕府道中奉行所で正徳年間(1711-1716)に編述されたもの。史料としては、『日本交通史料集成』第三輯(国際交通文化協会、昭和13年刊)に収録されている。監修者は、樋畑(ひばた)正之助(雪湖)、調べたところ、郵政博物館の生みの親でもあるようだ。因みに、この箇所の出典は、佐渡道の内、中山道通りにある。

(註4)慶長九年・・: この年、徳川家康は、伏見から江戸に帰った。大意ににも書いたが、この時の諸街道とは、東海道・東山道・北陸道の三街道であったようで、恐らく、大阪冬の陣・夏の陣を見越しての事か。

(註5)慶長五年五月六日上杉遺民乱、・・・: 一般的には「上杉遺民一揆」と云う。石田光成と呼応して、上杉景勝・直江兼続が家康に対して臨戦態勢を取るが、春日山の堀直政が通牒し、五月、家康は諸大名に会津出兵を命じた。見附の蔵王堂義俊については、調べて似たが詳細不明。いずれにしても、府中、即ち春日山の堀直政の所へ連行される途中、蔵王堂義俊は不詳の為、没した。因みに、この蔵王堂義俊と思われる人物は、丸田氏一族の誰かかも知れない。この人物、『上杉分限帳』も当って見たが見つからない。関甲子次郎が敢て名前を挙げているので、出典が何処かに在る筈なのだが。ご存知の方があれば、御教授願いたい。

(註6)慶長16年駅路改正: 調べたが駅路改正については不明。ただこの年10月28日(西暦1611年12月2日)、慶長三陸地震が起こり、大津波で多数の死傷者が出た。また、これに先立ち、8月21日(西暦、9月27日)慶長会津地震が起こり、山崎新湖が出現した。この地震により阿賀野川が堰き止められ大洪水も発生している。こうした事情が駅路改正に影響したのだろうか。

(註7)6月領主松平・・・・: 出典不詳。大久保石見守は、大久保長安の事。佐渡金山等の開発で知られている。また、2年後の傾向18年4月には、「大久保長安事件」が起こり、大久保一族は族滅する。いずれにしても、大久保長安は謎の多い人物で、今でも隠し金山や埋蔵金でしばしばTVなどにも採り上げられている。因みに、柏崎の「大久保陣屋」は、大久保長安に由来すると云われる。

(註8)下條家の由緒書: 詳細不詳。

(註9)廿四輩記: 大意の中でも書いたように、『二十四輩順拝記』あるいは『親鸞聖人二十四輩順拝記』の事。因みに、「二十四輩」とは、親鸞聖人の二十四人の高弟の事。因みに、これには、大峰貫道本と西村七兵衛本があり、大峰本、前後二巻は、「近代デジタルライブラリー」に収録されている。依って、詳細は省略する。

(註10)陸路の記: 近藤芳樹の著。明治11年の明治天皇北陸行幸の際、侍従として随った国学者・近藤芳樹が書いたもので、読み方としては、「くぬがじのき」と読む。以前、近藤芳樹あるいは星野藤兵衛の所で採り上げたので省略する。

 

 以下、注釈を付けたいところだが、手持ちの史料あるいはインターネットの検索によっても、問屋・庄屋の人名がヒットしない。検索の方法を考えて改めて調べて見るが、取りあえず今回はこの辺りで止め、追々調査して、改めて紹介する。

 

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1947/05/18
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柏崎マイコンクラブ顧問
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