柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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第二項 越後国

 

 人皇四十代天武天皇時代ニ越国ハ古之乃三知乃久知古之乃三知乃奈加古之乃美知乃之利即チ越前越中越後ニ区分セラレ称シテ三越トイフ其越中ト越後トノ境界ハ現今ノモノト大ニ異ニス信濃川ハ両国ノ境界ニシテ以北ノ地ハ越後国タリサレバ現今ノ頸城ハ越中國ニ属シタルナリ而シテ北ハ沼垂磐船ハ勿論出羽ニ延ビタルナリ国郡志

〔人皇四十代・天武天皇時代に越国は古之乃三知乃久知古之乃三知乃奈加古之乃美知乃之利(こしのみちのくち、こしのみちのなか、こしのみちのしり)、即ち今のものと大いに異にす。信濃川は両国の境界にして、以北の地は越後国たりなれば、現今の頸城は越中国に属したるなり。而して北は沼垂・磐船(岩船)は、勿論、出羽に延びたるなり。郡国志に、〕

《神武天皇より40代・天武天皇時代(672-686)に、越国は、古之乃三知乃久知、古之乃三知乃奈加、古之乃美知乃之利(こしのみちの口、こしのみちの中、こしのみちの尻)に分れ、今の区分とは大分異なり、信濃川が二つの国の境になっていて、その以北が越後国になっていた。その為、今の頸城は越中国に属し、その北の沼垂と岩船は、必然的に出羽まで続いていた訳である。そのことは、『国郡誌』に次の様に書かれている。

 

  出羽国古属越後及陸奥蝦夷居住也ト
〔出羽国は、古、越後及び陸奥に属し、蝦夷、居住するなり、と〕
《出羽の国は、昔、越後と陸奥に属し、蝦夷が享受していた、と》

 

又日本書紀ニ

〔また日本書紀に〕

《また日本書紀に》

 

  和銅元年新建出羽郡運兵器於出羽柵奬征蝦夷也五年狄部悉定始建出羽国尋割陸奥置賜最上二郡ト
〔和銅元年、新に出羽郡を建て、兵器を出羽柵に運び、蝦夷を征するを奨めるなり。五年、狄部(テキブ)悉(ことごと)く定まり、始めに出羽国を建て、ついで陸奥を割って置賜(おきたま)、最上(もがみ)二郡を置く、と〕
《和同元年(708)、新に出羽郡を開設し、兵器を出羽柵に運んで、関市征討を進めた。五年(713)、北に異民族を平定して、初めに出羽国を設立し、次に、それを二分して、置賜と最上の二郡とした、と》

 

又続日本紀ニ

〔また続日本紀に〕

《また『続日本紀(ショクニホンキ)』に、(平安初期に編纂された勅撰史書で、菅原道真らにより延暦16年(797)に完成した。文武天皇元年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。)》

 

  和同五年割陸奥及越後置出羽郡ト
〔和銅五年(713)、陸奥及び越後を割り、出羽郡を置く、と〕
《和同5年(713)、陸奥と越後の一部を割き、出羽郡を置いた、と》

 

按ズルニ置賜郡ハ出羽国南方ノ大分域ニシテ最上川ノ上流ナリ最上ハ最上中流ノ称ナリサレバ割陸奥置賜最上二郡ト古書ニ見ユルヨリ推セバ最上川以北ハ陸奥国ニ属シ以南諸郡即チ田川郡出羽郡飽海郡ハ越後ニ属セルモノナランサレバ越後国ハ西南ハ信濃川ニ東北ハ最上川ニ境セシナリ

〔按ずるに、置賜郡は出羽国南方の大分域にして、最上川の上流なり。最上は最上中流の称なりざれば、陸奥を割いて、置賜・最上二郡と、古書に見ゆるより推せば、最上川以北は、陸奥国に属し、以南諸郡、すなわち、田川郡・出羽郡・飽海(あくみ)郡は越後に属せるものならん、されば越後国は西南の信濃川に、東北は最上川に境せしなり。〕

《編者の考えるところでは、置賜郡は出羽国の南の大部分を占め、最上川の上流に当る。最上と云うのは、最上川の中流域の名称だから、「割陸奥置賜最上二郡」と古書に在るのを見ると、最上川以北は陸奥国に属し、以南の諸郡は、すなわち田川郡、出羽郡、飽海郡は、越後に属していたようであり、その事から越後国は、西南は信濃川と、東北は最上川が国境となっていた訳である。》

 出羽国ノ建設ヲ見ザル凡ソ十年前大寶二年三月越中国内四郡ヲ割キテ越後ニ併ス四郡ハ史ニ具註ナシト誰(雖)モ地勢上頸城魚沼三島古志ノ郡ナルコト推定セラル

〔出羽国を見ざる、およそ十年前、大宝二年三月、越中国の内四郡を割きて越後にあわす、四郡は史に具註なしといえども、地勢上、頸城・魚沼・三島・古志の郡なること推定せらる〕

《出羽国が未だ成立していない大体10年前の大宝2年(702)3月、越中国の内の四郡を分離して越後に合併した。四郡の事が歴史書に明確に書かれている訳ではないが、地勢から推測して、頸城・魚沼・三島・古志の四郡であろうと思われる。》

 爾来明治ノ聖代ニ至ル迄一千三百年間越後彊域ニ大変ナシ唯天平十五年佐渡国ヲ越後ニ併セラレシガ天平勝寶四年旧ニ依リ佐渡国分立シタルノ変アリシノミ

〔爾来、明治の聖代に至るまで、一千三百年間、越後疆域(キョウイキ)に大変なし。ただ天平十五年、佐渡国を越後に併せられしが、天平勝宝(テンピョウショウホウ)四年、旧により佐渡国分立したるの変ありしのみ。〕

《それ以来、明治時代に至るまでの1300年間、越後の境域に大きな変化は無かったが、天平15年(743)に佐渡国を越後に合併したが、天平勝宝4年(752)、旧に戻って佐渡国が分立した事だけである。》

  続紀天平十五年以佐渡国併越後国天平勝寶四年十一月復置佐渡国
〔続紀、天平十五年、佐渡国をもって越後国に併す。天平勝宝4年十一月、また佐渡国を置く〕
《『続日本紀』の天平15年の項に佐渡国を越後と合併させたが、天平勝宝4年11月、また佐渡国を基に戻して設置した。》

 

高志国ハ越国ト記ス其因詳カナラズ

〔高志国は越国と記す、その因詳らかならず〕
(高志国は越国と書くが、その理由はよく分っていない。)

越国ハ蝦夷ノ巣窟ニシテ鎮撫ニ力ヲ盡サンコト史蹟ニ明記セリ

〔越国は蝦夷の巣窟にして鎮撫に力を尽くさんこと史籍に明記せり。〕
(越国は、蝦夷の巣窟であり、その鎮撫に尽力した事が様々な歴史書に明記されている。)

 崇神天皇ノ九年ニ大彦命ヲシテ北陸路ニ遣ハサレタルハ正シク皇命ニ服従セザル蝦夷征服ノ目的ニシテ其子孫ハ多ク此ノ地ニ止マリテ教化ニ努メラレタルナリ

 〔崇神天皇の九年に大彦命をして北陸路に遣わされたるは正しく皇命に服従せざる蝦夷征服の目的にして、その子孫は多くこの地に止まりて教化に努められたるなり。〕
(第10代崇神天皇の9年〈88BC〉、大彦命を北陸路に派遣したのは、天皇の命令に従わない蝦夷の征服が目的であり、その子孫〈大彦命の子孫〉の多くは、この地に止まって、蝦夷の大和同化政策を進めて行った。)

 景行天皇ノ三十九年日本武尊ヲシテ東夷ヲ征セシメ給ヘル時尊ハ吉備武彦ヲシテ越国ニ遣シ尊ト美濃国ニ会セシム日本武尊ノ行ハ其以前竹内宿禰ノ北陸及東山諸国ノ巡視ノ実境報告ニ起因セバ此ノ時代ニ於テ猶一部ニ土族ハ勢力ヲ得テ跋扈セシナラン崇神天皇時代ニ久比岐国ヲ置カレ后凡ソ一百五十年ヲ経テ成務天皇時代ニ高志国深江国ヲ置カレ其国造ハ大彦命ノ子孫ナルコト史ニ見ユルヨリ推セバ当時代ニ於テハ大彦命ノ子孫繁栄シ華夷雑居ト云へ政治ノ統一モヤヽ整ヘタルモノヽ如シ

 〔景行天皇の三十九年、日本武尊〈やまとたけるのみこと〉をして東夷を征せしめたまえる時、尊は、吉備武彦〈きびのたけひこ〉をして越国に遣わし尊と美濃国に会せしむ。日本武尊の行は、その以前、竹内宿禰〈たけうちのすくね〉の北陸及び東山諸国の巡視の実境報告に起因せば、この時代において、なお一部に土族は勢力を得て跋扈〈バッコ〉せしならん。崇神天皇時代に久比岐〈クビキ〉国を置かれのち、およそ一百五十年を経て、成務天皇時代に高志国深江国を置かれ、その国造は大彦命の子孫なること、史に見ゆるより推せば、当時代においては大彦命の子孫繁栄し華夷雑居といえ、政治の統一も、やや整えたるものの如し。〕

(第12代景行天皇の39年〈110AD〉、日本武尊に東夷の征服を命じられた時、尊は吉備武彦を越国に派遣して美濃国で会合するように命じた。日本武尊の行った事は、その昔、竹内宿禰による北陸道及び東山道諸国の巡視の際の視察報告によるもので、この時代でもまだ、一部の蝦夷などは勢力を持っていて朝廷に従う様子は無かったようだ。また崇神天皇時代に、久比岐国が置かれた後、およそ150年経て、第13代成務天皇の時代〈131191AD〉に高志国と深江国が置かれ、大彦命の子孫が国造になった事が史書に記載されている事から、大和人と蝦夷が雑居していたのであろうが、大彦命の子孫が繁栄して、政治的には統一が保たれ、治安も維持されていた様だ。)

 皇極天皇元年越辺蝦夷数千人内附ノコトアリ尋イテ渟足石舟ノ二柵ヲ建テ辺塞ト為ス以テ蝦夷ノ恭順セルモノハ其罪ヲユルサレ然ラザルモノハ皆奥陸ノ地ニ払ハレ彼等ノ侵略ヲ塞ギシナラン是ヨリ僅五年ニシテ齊明天皇ノ後代柵養津刈ノ蝦夷数人ニ冠位ヲ授ケ冬ニ至リ内属朝献スルモノ多シ天皇ノ四年越後国阿部臣比羅夫舟師百八十艘ヲ率ヒテ蝦夷ヲ伐チ齶田渟代都加留三郡ノ蝦夷降ルコヽニ郡領ヲ定メ渡島ノ蝦夷ヲ召シ撫諭シテ帰ルト以テ越ノ蝦夷ハ勿論齶田渟代ヨリ都加留ノ蝦夷モ略ニ降附シ渡島(今ノ北海道ノ南部)ノ蝦夷ニ至ルマデ皇化ニフニ至ルコヽニ於テ越国モ隈ナク皇化ニ沿フヲ得タリト云フベシ爾後凡ソ三十年紀元一千三百三十三年天武天皇ノ御代越国分レテ三越トナル

 〔皇極天皇元年、越辺の蝦夷数千人、内附(ナイフ、服属)のことあり、尋(つい)で渟足(ぬたり)石舟(いわふね)の柵を建て、辺塞(ヘンサイ)と為す。もって蝦夷の恭順せるものは、その罪をゆるされ、しからざるものは、皆奥陸(陸奥?あるいは奥陸奥?)の地に払われ、彼等の侵略を塞(ふせ)ぎしならん。これより僅か五年にして、齊明天皇の後代(御代?)に柵養(きかう、陸奥の柵を作る〈役人〉)津刈(つがる)の蝦夷数人に冠位を授け、冬に至り、内属(=内附)朝献(チョウケン)するもの多し。天皇の四年、越後国の阿部の臣・比羅夫、舟師百八十艘を率いて蝦夷を伐(う)ち、齶田(あきた)渟代(ぬしろ、能代)都加留(つがる)三郡の蝦夷降る。ここに郡領を定め、渡島(おしま、北海道)の蝦夷を召(め)し、撫諭(ブユ)して帰ると、もって越の蝦夷は勿論、齶田、渟代より都加留の蝦夷も略(ほぼ)に降附(コウフ)し、渡島(今の北海道の南部)の蝦夷に至るまで、皇化に嚮(むか)うに至る。ここにおいて、越国も隈(くま)なく皇化に沿うを得たろと云うべし。爾後(ジゴ)、およそ三十年、紀元千三百三十三年、天武天皇の御代、越国分れて三越となる。〕
(第35代・皇極天皇元年〈642AD〉、越国辺境の蝦夷数千人が大和朝廷に服属したことがあり、ついで渟足(沼垂)石舟(岩船)の柵(要塞)を設け、辺境を守る要塞とした。そこで、蝦夷の内で恭順する者は、その罪を許され、従わなかったものは、皆、今の東北地方である陸奥に追放された、蝦夷による反乱を鎮圧することができた。これにより、その後わずか五年で、第37代・斉明天皇〈655AD〉の代に、柵養の津軽の蝦夷数人(書記に二人)に冠位を授けたところ、その冬には、服属するものが多くなった。斉明天皇4年、越後国の阿部比羅夫は、180艘の艦隊を率いて蝦夷を征討し、齶田(秋田)渟代(能代)都加留(津軽)三郡の蝦夷が降伏した。その結果、ここに郡の領域を定め、また北海道南部の蝦夷を呼び集め、大和朝廷に起伏する様に説得して帰ると、越の蝦夷はもとより、齶田、渟代、都加留の蝦夷も大方が帰順し、北海道南部の蝦夷までも、次第に大和朝廷に従うようになった。その結果、越国の全域が、大和朝廷に帰順したと云うことができるだろう。これよりおよそ30年、紀元1333年〈673AD〉、第40代・天武天皇の時代に、越の国を三つに分け、三越、すなわち越前、越中、越後の国が成立した。)

【註】

 吉田博士: 吉田東伍、(よしだ とうご、元治元年414日(1864519日) - 大正7年(1918年)122日)は日本の歴史学者、地理学者(歴史地理学)。新潟県出身(現:阿賀野市安田村)。「大日本地名辞書」の編纂者として知られる。日本歴史地理学会(日本歴史地理研究会)の創設者の一人。(ウィキペディア參照)
尚、「吉田東伍記念博物館」のURLは、次の通り。
  http://www.city.agano.niigata.jp/site/togomuseum/
また、評伝等については、『故文学博士吉田東伍先生略伝』を近代デジタルライブラリーからダウンロードできる他、千田稔著『地名の巨人 吉田東伍 - 大日本地名辞書の誕生』(角川叢書)などがある。

 神代巻: 『古事記』上巻の三、〔天照大神と須佐之男命〕

 「須佐之男命」以下: 原文・読下し文・現代語訳の三対訳を添付。(青空文庫參照)

 

 以上、尚、添付の『大日本地名辞書』(越後國)については、参考として添付した。また、添付ファイルは、容量等の制約からPDFファイルに変換して添付した。

 

『大日本地名辞書』(中巻)  吉田東伍

越後國

 凡例:赤字は注釈付、青字は管見、()は原文のまま、《》は原文中の出典〔〕、[]は原文のルビ、〔〕は便宜上付けた読みである。

越後國

 西は越中、西南は信濃、南は上野、東は岩代、東北は羽前、西北は海に至る、長さ六十里に上る大國にして、其奥羽の州界には大山脈あり、謂ゆる越後山脈是也。此國今十五郡(外に新潟市あり)に分ち、新潟縣治に属す。(北越とも云ふは南の越前の對稱也)

 越後は地形三大段と爲る、上越後、中越後、下越後なり、(北越軍記などの軍書に多く上郡、中郡、下郡と云ふ、卽是)頸城郡を上越後とす、其東頸城は高陵起伏して魚沼郡に連接するを以て、魚沼も上越後の内とす。米山以北を中越後とし、阿賀野川の北二郡を下越後とす。信濃川は魚沼幷に中越後を貫流し、大小の江水之と相依附して一大澤國を成す。上郡下郡に沼澤の變して低野土田と爲れる者多く、近世頗廣衍富賑の名あり。天正検地三十九萬石、慶安に至り四十五萬石の計数あり、後田野益開け、寶歴の比俗諺に百五十萬石髙の目ありと雖、稍誇大の嫌あり。

 

  送僧之越   鐡兜

  北陸連三越、群陽秋已藏、送君當此際、禮祖向其方、

  深洞聞熊語、寒嚴見佛光、七奇何必七、一雪壓歸裝

 

 越後和名抄古之乃美知乃之利と注し、延喜式七郡に分つ、是れ盖〔けだし〕和同五年以後の疆域と云ふ。中世三島郡を刈羽と改め、古志郡の西を分ち、山東[サントウ]と號し、沼垂郡を廢して蒲原郡に併せ、磐船郡を瀬波[セバ]と改む、其數舊に仍り七郡たり。近世山東を三島に改描し、瀬波を岩船に復古し、明治十三年頸城を東西中に、魚沼を南北中に、蒲原を東西南北に分ちしを以て合十五郡とす。而て和同以前の形勢を考ふるに、當時華夷雑居の境にあたり、謂ゆる邊遠國なり、延喜式に遠國と注し、俘囚料九千束を録す、殊に大同類聚方に蝦夷藥積聚の八劑を擧げて、越後國蝦夷等之傳方八箇と曰へり。大寶令に、

  凡邊遠國、有夷人雜類(義解云、謂夷者夷狄也、雜類者亦夷之種類也)之所應輸調役者、隨事斟量、不必同華夏、(義解云、謂中國也)

とあるも越後幷に出羽陸奥の事を知らる。其邊夷を化服して郡國を建置せられし跡を探るに、神代に方り出雲の大國主命(大己貴神)の來臨せられしと傳ふる故跡は、實に頸城に存す、(沼川鄕幷に居多[コタ]神社)叉古志郡の名を遺すより推せば、其上古稱して廣く越國と云へる大域の奥區中心卽此。(古志郡の條参考)崇神天皇の時、大彦命の北陸道[こしぢ]を巡行したまへるは、越國蝦夷の化服したまはんが爲ににして、當時の夷酋を八掬脛〔ヤツカハギ〕と號す。

大彦命の事は崇神記に見え、古事記には其子建沼河別命の東方より巡りませる者と相津[アイヅ]に往遇ふと載せ、相津は後の會津なれば、越後より出て給へる王子の巡路自ら分明す。姓氏錄に「阿部氏遠祖大彦命、遣治蝦夷之時」(彌彦神社を參考すべし)とあれば、此越路[コシヂ]の巡行は征夷の爲なりし事も分明し、釋紀に見ゆる越後風土記の逸文「美麻紀(崇神)天皇御宇、越國有人、名八掬脛、其脛長八掬、多力太強也、是出雲之後也、其族類多」とあるは、又強援傍證たり。出雲之後と云へるは稍詳ならず、出雲風土記に大國主命が越の八口[ヤツクチ]を平定したまふ事を錄し、(岩船郡八口を參考)今も當國に出雲崎出雲庄の地名あれば、出雲と名づくる夷類も此地に居りしと信ぜらる、蓋出雲大神に從属せる部種の謂歟。大同方に「蝦夷藥、□□國蝦夷等之傳方、國俗普所知也、元者大己貴神〔おおなむちのみこと〕授之神方也」とあるも越後國にて、彼夷の出雲大神に授賜はりしは、頗由來あるを覺ゆ。

景行紀に「日本武尊曰、蝦夷凶首、咸伏其辜〔つみ、コ〕、唯信濃國越國、頗未從化【中略】於是、分道、遣吉備武於越國、令監察其地形嶮易及人民順不【中略】日本武尊【中略】出美濃、吉備武、自越出而遇之」云々、民夷雜居したりし情形その詞にあらはる。國造本紀を審按するに、崇神朝に先づ久比岐[クビキ]國に置かれ、成務朝に高志國と深江[フカエ]國を加へらる。皇極帝元年、越邊蝦夷數千内附の事ありて、尋〔つ〕いで渟足〔ヌタリ〕石舟の二柵を建てて邊塞と爲す、北陸の拓地此際に至り始めて阿雅 [アガ]北に及ぶ。

齊明帝の時、越國守阿部臣比羅夫舟師を率て蝦夷を伐つ、遂に飽田、渟足、津輕の三郡を建て渡島[ワタリ]の夷を招き、粛愼〔みしはせ、あしはせ〕を伐ちて還る、其事舊史に詳なり。而も後比羅夫援韓の軍に從ひ西海に赴き利あらず、前に収めし北海の夷郡は皆離畔〔離反〕したるごとし。天武帝の朝に北陸分れて三國(若狭佐渡を併せて五國)と爲り、久比岐、高志、深江の地に、頸城、魚沼、古志、蒲原の四郡家を置かれ、之を射水、砺波、新川等に併せて越中となす。(親不知の南北に渉れりと知るべし)沼垂磐船以北は卽越後國にして、田川郡、及び飽田、津輕等の夷境を羈縻す。(鼠關の南北に渉れりと知るべし)當時越中越後の境界は沼垂に在り、卽信濃會津の二水の海口是也。大寶二年三月、越中の四郡を割き越後に併す、四郡は史に具注せずと雖、頸城、魚沼、古志(三島は古志郡の分郡なるべし)蒲原の地たること、形勢を推考して之を知る。和銅元年九月、新に狄部に出羽郡を建て越後に属せしむ、五年九月に至り、田川以北を割きて出羽國と爲し、越後の疆域是より大變なし。

史に越後の字を始見せるは文武紀「元年十二月、賜越後蝦狄物各有差」とある是なり、然れども持統紀已に越前の国名ありて、天武帝朝の末に三越の區分ありしと考へらる、論北陸道の下に詳にす。文武紀三年、越後蝦夷一百六人賜爵有差、大寶三年、令筑紫七國及越後國、簡點采女兵衛貢之、但陸奥國勿貢、かくて元明紀に至り、和銅元年出羽郡を建て、翌年三月征夷の軍起る、「陸奥越後二國蝦夷、野心難馴、屡害良民、於是遣使徴發云々、佐伯石湯爲征越後蝦夷將軍、自兩道征伐、七月令諸國運送兵器於出羽柵、送于征狄所、又命越前越中越後佐渡四國、船一百隻送于征狄所、八月將軍佐伯石湯等事畢入朝」とこの征狄所は蓋出羽柵なり。五年九月、出羽國を置かるゝ時の奏議に「北道蝦夷、遠□阻嶮、實縦狂心、屡驚邊境、自官軍雷撃、凶賊霧消、狄部晏然、皇民無擾、誠望便乘時機、遂置一國、式樹司宰、永鎭百姓」云々。

天平十五年佐渡國を越後に併せられしが、天平勝寶四年、舊に依り佐渡分立す。

越後名寄云、越後は市振より府屋[フヤ]、凡八十有餘里、東南に高山聳えて陽氣を懸隔し、西北に海水を帯びて陰氣餘りある故、寒濕深し、仍て雪の降ること早く、峰には九月より頂白く、春に至り五月猶殘雪あり、土地は肥て草木繁茂すれど、秋には雨多く、稲を刈採るも乾燥せず、糓實堅からず。○北越雜紀云、慶長二年、上杉景勝分國、越後七郡、佐渡三郡、信濃之内四郡、出羽之内二郡、合十六郡、検地、《長上正言紀》當時凡百萬石、越後知行高四十五萬六千石、其後開發田圃、今時一百五六十萬石。

(按に、越後正保中六十一萬二千石、其郡別は、
十四萬千石頸城郡、六萬石魚沼郡、四萬九千石刈羽郡、五萬二千石三島郡
四萬五千石古志郡、二十一萬五千石蒲原郡、四萬九千石岩船郡
とす、聽濤閣雜載に詳なり)

 

【註】

北越軍記: 雲菴 [][出版者不明]、 寛永20 [1643]、全十六巻、尚、別名『北越太平記』として、『越後史料叢書』第一編に収録、デジタルライブラリーからダウンロードが可能である。

鐡兜 : (テットウ)河野鐡兜、河野は<かわの>ともいう。江戸後期の医者、漢詩人、俊造と称し鐵兜はその号で秀野人ともいう。文政8年播州網干に生まれ幼にして学を好み神童と称された。医を業としたが、のち梁川星巖の門に入り、好く詩学に通じ全国各地に遊学し、遂に江戸に於いて家塾を開く。慶応343才にて没す。著書に「覆醤詩談」「鐵兜遺稿」等がある。引首印は「秀野」、「秀野人」の下に、白文の「越羆之印」、朱文の「夢吉」の落款印が押されている。(好古斎、http://kohkosai.com/index.htm 參照)
 掲載された五言律詩は、『鐡兜遺稿』上巻「五言律詩」(四十六丁)にある。試みに、読下して見る。
北陸連三越、群陽秋已藏、〔北陸、三越に連なり、群陽、秋
すでに蔵す〕
送君當此際、禮祖向其方、〔君を送る、まさにこの際たるべし、祖に礼して、その方に向う。〕
深洞聞熊語、寒嚴見佛光、〔深洞、熊語を聞き、寒嚴にして、仏光を見る〕
七奇何必七、一雪壓歸裝 〔七奇、何ぞ必ずや七、一雪、帰装を圧す。〕

和名抄: 『和(倭)名類聚集』二十巻本、十二「國郡部-北陸國」に記載

延喜式: (エンギシキ)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。(ウィディペキア參照)

疆域 : (キョウイキ)境域

大同類聚方: (ダイドウルイジュウホウ)は、大同3年(808年)53日に成立した日本最古の医学書。薬品の処方など各地に伝わる医方が収録された。全100巻。(ウィディペキア參照)

大寶令: 大宝律令(たいほうりつりょう)の事、701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令である。

義解: (ギゲ)、『令義解』(りょうのぎげ)とは、833年(天長10年)に淳和天皇の勅により右大臣清原夏野を総裁として、文章博士菅原清公ら12人によって撰集された律令の解説書。全10巻。この書物によって、大宝令・養老令が伝えられている。(ウィキペディア參照)

景行紀以下: 『日本書紀』「景行紀」〈冬十月壬子朔癸丑〉から赤字の部分を引用。尚、以後も同様の引用があるが、抜粋、省略など在り、全文の顕彰が困難なため、以後の顕彰は省略する。

冬十月壬子朔癸丑、日本武尊發路之。戊午、抂道拜伊勢神宮、仍辭于倭命曰「今被天皇之命而東征將誅諸叛者、故辭之。」於是、倭命取草薙劒、授日本武尊曰「愼之。莫怠也。」是、日本武尊初至駿河、其處賊陽從之欺曰「是野也、糜鹿甚多、氣如朝霧、足如茂林。臨而應狩。」日本武尊信其言、入野中而覓獸。賊有殺王之情王謂日本武尊也、放火燒其野。王、知被欺則以燧出火之、向燒而得免。一云、王所佩劒藂雲、自抽之、薙攘王之傍草。因是得免、故號其劒曰草薙也。藂雲、此云茂羅玖毛。王曰「殆被欺。」則悉焚其賊衆而滅之、故號其處曰燒津。亦進相摸、欲往上總、望海高言曰「是小海耳、可立跳渡。」乃至于海中、暴風忽起、王船漂蕩而不可渡。時、有從王之妾曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、王船欲沒、是必海神心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。」言訖乃披瀾入之。暴風卽止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。
爰日本武尊、則從上總轉、入陸奧國。時、大鏡懸於王船、從海路於葦浦、横渡玉浦、至蝦夷境。蝦夷賊首嶋津神・國津神等、屯於竹水門而欲距、然遙視王船、豫怖其威勢而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望拜之曰「仰視君容、秀於人倫、若神之乎。欲知姓名。」王對之曰「吾是現人神之子也。」於是、蝦夷等悉慄、則褰裳披浪、自扶王船而着岸。仍面縛服罪、故免其罪、因以、俘其首帥而令從身也。蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮。時舉燭而進食、是夜、以歌之問侍者曰、珥比麼利 菟玖波塢須擬氐 異玖用伽禰菟流
諸侍者不能答言。時有秉燭者、續王歌之末而歌曰、伽餓奈倍氐 用珥波虛々能用 比珥波苔塢伽塢卽美秉燭人之聰而敦賞。則居是宮、以靫部賜大伴連之遠祖武日也。
於是日本武尊曰、「蝦夷凶首、咸伏其辜。唯信濃國・越國、頗未從化。」則自甲斐北、轉歷武藏・上野、西逮于碓日坂。時日本武尊、毎有顧弟橘媛之情、故登碓日嶺而東南望之三歎曰「吾嬬者耶嬬、此云菟摩。」故因號山東諸國、曰吾嬬國也。於是、分道、遣吉備武
於越國、令監察其地形嶮易及人民順不。則日本武尊、進入信濃。是國也、山高谷幽、翠嶺萬重、人倚杖難升、巖嶮磴紆、長峯數千、馬頓轡而不進。然日本武尊、披烟凌霧、遙大山。既逮于峯而飢之、食於山中。山神、令苦王、以化白鹿、立於王前。王異之、以一箇蒜彈白鹿、則中眼而殺之。爰王忽失道、不知所出。時白狗自來、有導王之狀、隨狗而行之、得出美濃。吉備武、自越出而遇之。先是、度信濃坂者、多得神氣、以瘼臥。但從殺白鹿之後、踰是山者、嚼蒜塗人及牛馬、自不中神氣也。

 

越後名寄: (えちごなよろ)全32巻、丸山元純著、16871758 江戸時代中期の医師。貞享(じょうきょう)4年生まれ。京都でまなび、郷里の越後(えちご)(新潟県)三島郡で開業、のち寺泊にうつる。かたわら史料、口碑をあつめて「越後名寄(なよせ)」をあらわした。宝暦8年死去。72歳。(コトババンク參照)

北越雜紀: 不詳。

長上正言紀: 不詳。

 

 高志国ニ通ズル道ヲ高志道ト称スルコト猶阿波道ノ阿波国ニ於ケルガ如シ然ルニ後変遷シテ其沿道ノ地方ヲモ高志国ト称スルニ至リ遂ニハ高志道ト高志国トヲ混合シテ称スルニ至ル之日本海沿岸陸地ヲ総称シテ高志国トナス所以ナリ高志路ヲ一ニ北陸道ト称セルハヤヽ後ノコトニシテ天武天皇海内ヲ分チテ七道観察使ヲ置カルヽニ起リタルカ国郡沿革考

  天武天皇十四年九月東山東海以下六道ノ使者ヲ置カレシ時獨リ北陸道ノミ見エズ此時未ダ分道セズ猶東山ニ属セシナルベシ持統天皇紀ニ始メテ越前ノ名見ユレバ蓋シ天武天皇ノ末諸国ノ境界ヲ定ムルノ日始メテ越国ヲ分チテ三国トナシ十四年ノ後北陸道ヲ定メ置カレタルナルベシ

 〔高志国に通ずる道を高志路と称すること、なお阿波道の阿波国におけるが如し、然るに、後、變遷してその沿道の地方をも高志国と称するに至り、遂には高志国と混合して称するに至る。これ、日本海沿岸陸地を総称して高志国となす所以(ユエン)なり。高志路を、一二北陸道と称セルは、やや後のことにして、天武天皇、海内を分ちて、七道観察使を置かるるに起りたるか、『国郡沿革考』に、
 天武天皇十四年九月、東山・東海以下六道の使者を置かれし時、ひとり北陸道のみ見えず、この時、未だ分道せず。なお東山に属せしなるべし。持統天皇紀に始めて越前の名見ゆれば、けだし天武天皇の末、諸国の境界を定むるの日、始めて越国を分ちて三国となし、十四年の後、北陸道を定め置かれたるなるべし。〕

 (高志国に通じる道を「高志道」と称したのは、丁度、阿波国で阿波道と呼んだのと同様で、その後、沿道の地方を高志国と言うようになり、とうとう高志道と高志国を混同してしまい、この日本海沿岸の地方を総称して「高志国」と言うようになった訳である。また高志路を一説には北陸道と云うのは後の事で、天武天皇が統治する地域を分けて七道観察使を置かれたのが始まりだと『国郡沿革考』に次のように書かれている。
 天武天皇十四年九月、東山・東海以下六道《東山、東海、北陸、山陽、山陰、南海、西海の七道》に使者を置かれたのだが、北陸道についての記載はなく、この時は未だ「道」としての「北陸道」は明確に定義されておらず、東山道に属していたのではないか。持天皇統紀(日本書紀・巻第三十)に初めて「越前」と云う名があるので、天武天皇時代の末期頃、諸国の境界を定めた日に、初めて越国を三国に分け、十四年後に、北陸道が制定されたように思はれると。)

【註】

 七道観察使: 日本では、平安時代最初期の797年頃、地方行政の遂行徹底を狙う桓武天皇により、地方官(国司)の行政実績を監査する勘解由使が設置された。勘解由使は国司行政を厳正に監査し、地方行政の向上に一定の効果を上げていた。しかし、806年(大同元年)、桓武天皇が崩御すると、後継した平城天皇は政治の刷新を掲げ、同年6月、その一環として勘解由使を廃止し、新たに観察使を置いた。観察使は当初、東山道を除く六道(東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)ごとに設置され、六道観察使とも呼ばれた。また、観察使は議政官の一員である参議が兼任することとされていた。観察使は、参議に比肩しうる重要な官職だった。翌807年(大同2年)、東山道および畿内にも観察使が置かれた。併せて、参議を廃止して観察使のみとした。観察使による地方行政の監察は、精力的に実施されていたようで、『日本後紀』には、各観察使が民衆の負担を軽減するため、様々な措置を執っていたことが記録されている。 810年(弘仁元年)、前年に譲位した平城上皇と嵯峨天皇の関係が悪化していく中、同年6月、嵯峨天皇は、観察使を廃止して参議を復活する詔を発令した。これにより観察使は4年間の歴史を終えた。(ウィキペディア參照)

 国郡沿革考: 塚本明毅が「東京地学協会報告」に寄稿した『日本国郡沿革考』の事と思われる。

   尚、『中鯖石村史』の著者である北村三山は、本名、貞作と云い、明治28年当時は、刈羽郡加納尋常小学校訓導兼学校長であった。尚、当時の月報は6円だったようで、これは現在の額に換算すると、3万円前後であり非常に薄給であった事が判る。そして、この『中鯖石村誌』が書かれた当時は、17・8年後の事だ。当時、書籍や雑誌などは、きわめて高価なものだった事を考えると、一般庶民には程遠く、図書館を利用するとしても、それ相応の知識を必要とする。因み、当時の刈羽郡立図書館の概要は下記の通り。
   創立 : 明治39年
   蔵書数: 3465部、8290冊
   利用数: 大正四年現在、延総数6841人、一日平均21人余、年間閲覧冊数8280冊
   (詳細は、添付ファイル參照)
 こうした状況を考えると、著者・北村三山氏の学識の広さ・深さが知れる。しかも、刈羽郡立図書館の蔵書目録『蔵書分類目録(分冊一・二)』(所謂、中村文庫)にも雑誌の記載がないのであるから、(恐らく、雑誌は個人の購読物という考えがあったのかも知れな)、執筆に当っても、大変な苦労があったのではないだろうか。
 更に驚くのが、『日本国郡沿革考』が、「東京地学協会報告」に記載された記事と謂う事である。実際、国会図書館のデジタルライブラリーで、この報告書を捜したところ、第三巻のみが現存している。要するに該当する論文の掲載誌は見当たらないのだ。その著者である塚本明毅の現存する著作を捜しても、該当する論文の存在は確認できるが、原文が見当らない。言い換えると、余程関心が無ければ、先ずこの論文には行き当たらないのだ。よって、当に敬服すると言うほかないのである。
 因みに、塚本明毅に関しては、その略伝が存在するので、その一例を添付する。

第三項 新潟縣

 

 徳川末代ニ於ケル越後国ハ高田新発田長岡村上村松與板清崎黒川椎谷三日市峯岡ノ十一藩ノ提封ト幕府ノ支管下ニ依リ佐渡国ハ幕府ノ直轄ニ係ル今明治ニ入リ現今ノ新潟縣ニ至ルマデノ変異ヲ記ス

〔徳川末代にける越後国は高田・新発田・長岡・村上・村松・与板・清崎・黒川・椎谷・三日市・峰岡の十一藩の提封と幕府の支管下により、佐渡国は幕府の直轄に係る。今明治に入り現今の新潟県に至るまでの変異を記す。〕

《幕末の頃の越後国は、高田(譜代、酒井家15万石)・新発田(外様、溝口家、約10万石)・長岡(譜代、牧野家、約14万石)・村上(譜代、内藤家、5万石)・村松(外様、堀家、3万石)・与板(譜代、井伊家、2万石)・清崎(糸魚川、親藩、松平家、1万石)・黒川(譜代、柳沢家、1万石)・椎谷(譜代、堀家、1万石)・三日市(譜代、柳沢家、1万石)・峰岡(三根山、譜代、1万1千石)の11藩が領内の総てと、幕府の支配地(例へば、小千谷)があり、また佐渡国は、幕府の直轄領であった。ここで、明治以降、今の新潟県に至るまでの変遷を記載する。》

 

官廳設置年月              官廳

明治元年 四月 十九日      越後国ニ新潟裁判所ヲ置ク

仝      二十四日      佐渡国ニ佐渡裁判所ヲ置ク

仝    六月  三日      新潟裁判所ヲ改メテ越後府ト為ス

仝    七月二十七日      越後国ニ柏崎県ヲ置ク

仝    九月  二日      佐渡裁判所ヲ改メテ佐渡県ト為ス

仝    九月に十一日      越後府ヲ改メテ新潟府ト為ス

明治二年 二月  八日      再ビ越後府ヲ置ク

仝      二十二日      新潟府ヲ改メテ新潟県トス

                          柏崎佐渡二県ヲ廃シテ越後府ニ合ス

仝    七月 二十日      再ビ佐渡県ヲ置ク

仝      二十七日      越後府ヲ改メテ水原県トナシ新潟県ヲ廃シ之ニ合ス

仝    八月二十五日      水原県ヲ割キテ復タ柏崎県ヲ置ク

明治三年 三月  七日      水原県ヲ廃シテ再ビ新潟県ヲ置ク

仝    十月ニ十二日      長岡藩ヲ廃シテ柏崎県ニ併ス

明治四年 七月 十四日      十藩ヲ廃シテ県ト為ス是ニ於テ二国分レテ十三県ト為ス

仝   十一月 二十日      十三県ヲ廃シテ更ニ新潟県柏崎県ヲ越後国ニ相川県ヲ佐渡ニ置ク

明治六年 六月  十日      柏崎県ヲ廃シテ新潟県ニ併ス

仝 九年 四月 十八日      相川県ヲ廃シテ新潟県ニ併ス以テ現今ニ至ル

 

置県以来ノ長官及旧藩主ヲ左ニ挙グ

旧藩主 新潟県勢概覧ニヨル

        姓名         備考

村上  子爵 内藤信正       維新後の村上藩知事は、第九代藩主(最後の藩主)信美(のぶとみ)であり、信正と云う名前は、維新前後には見当たらず、何らかの誤認ではないかと思われる。

新発田 子爵 溝口直正       第十二代藩主、「子爵」とあるが、「伯爵」の誤り。因みに、直正の長女・久美子は、大倉財閥・男爵・大倉喜八郎嫡子・喜七郎夫人である。また余談だが、子息・直亮(なおよし)夫人・須美子は、御三卿・田安家・徳川達孝(さとたか)の長女で、德川宗家・第十六代家達(いえさと、家達は田安家の出)の姪である。

長岡  子爵 牧野忠篤       長岡藩牧野家第十五代当主、初代長岡市長

椎谷  子爵 奥田直紹       村松藩第十一代藩主・堀直賀(なおよし)の長男・直紹(なおつぐ)、第十三代椎谷藩主・之美(ゆきよし、最後の藩主)の養子となり家督を相続した。姓が「奥田」であるのは、堀家の旧姓で、廃藩置県の時、奥田系堀氏三家(須坂・椎谷・村松)が奥田姓に復姓した為。

三日市 子爵   柳澤徳忠      三日市藩柳沢家第八代藩主、夫人は奥田直紹の祖父・直休(なおやす)の長女(大伯母)。

清崎  子爵   松平直静      糸魚川清崎藩第八代藩主・直静(なおやす)、越前福井藩松平家の分家。明石藩第七代藩主・松平斉韶(なりつぐ)七男

黒川  子爵   柳澤光邦      第八代藩主。高家旗本・武田信之の六男。黒川藩七代・光昭(みつてる)とは従兄弟。

村松  子爵   奥田直暢      第十二代藩主・直弘の嫡子・直暢(なおのぶ)、奥田直紹(なおつぐ)は叔父。

高田   子爵   榊原政敬      第六代藩主、実は、第三代藩主・政令(まさのり)三男。

峯岡  子爵  牧野忠良      長岡藩牧野家分家(三根山藩)。宇和島藩第八代藩主・伊達宗城(むねなり、幕末の四賢君)七男。因みに、この家は代々養子が多く、次代健之助は、三井総本家(北家)第八代高福(たかよし)の次男・三井八郎次郎の六男である。

與板  子爵   井伊直安      彦根藩井伊家第十三代藩主・井伊直弼(大老)の次男。

 

長官

任官年月                  姓名          備考

明治  四年十一月   県令   平松時厚     公卿・子爵。

明治  五年 五月  県令   楠本正隆     肥前大村藩士、男爵、大久保利光の腹心と言われた。後、東京府知事。

明治 十八年 四月  県令   永山盛輝     薩摩藩士、男爵。

明治 十九年 七月   知事  

明治二十二年十二月   知事   仙田貞暁     (せんだ・さだあき)、薩摩藩士、男爵、広島県の県令、同県知事後、新潟県・和歌山県・愛知県・京都府・宮崎県知事を歴任。

明治二十四年 四月  知事   籠手田安定   (こてだ・やすさだ)、平戸藩士、剣術家(心形刀流と一刀正伝無刀流の免許皆伝の腕前を持ち、山岡鉄舟から一刀流正統の証の朱引太刀を授けられた)、滋賀・島根県知事の後、新潟県知事。

明治二十九年 二月  知事   浅田徳則     京都出身、地方官吏から官僚、外交官、政治家。神奈川・長野県知事を経て新潟県知事、広島県知事。

明治三十 年 四月  知事   勝間田稔     長州藩士、内務官僚。愛知県令、同知事、愛媛・宮城県知事を経て新潟県知事。

明治三十三年 一月   知事   千頭清臣     (ちかみ・きよおみ)土佐出身、教育者、内務官僚。栃木・宮城県知事を経て新潟県知事、鹿児島県知事。

明治三十三年 九月   知事   柏田盛文     薩摩出身、慶応義塾卒、政治家、官僚。第四高等学校長、千葉・茨城県知事を経て、新潟県知事。

明治三十六年 二月   知事   阿部 浩     南部出身(原敬と幼馴染)、内務官僚、政治家。群馬・千葉・富山県知事を経て、新潟県知事、東京府知事。

明治四十 年 一月  知事   伯爵清棲家教 (きよす・いえのり)、伏見宮第十五皇子。山梨・茨城・和歌山県知事を経て、新潟県知事。

明治四十五年 三月   知事   森 正隆     米沢出身、内務官僚、政治家。茨城・秋田県知事を経て、新潟県知事、宮城・滋賀県知事。

 

第二項 越後国

 

 人皇四十代天武天皇時代ニ越国ハ古之乃三知乃久知古之乃三知乃奈加古之乃美知乃之利即チ越前越中越後ニ区分セラレ称シテ三越トイフ其越中ト越後トノ境界ハ現今ノモノト大ニ異ニス信濃川ハ両国ノ境界ニシテ以北ノ地ハ越後国タリサレバ現今ノ頸城ハ越中國ニ属シタルナリ而シテ北ハ沼垂磐船ハ勿論出羽ニ延ビタルナリ国郡志

〔人皇四十代・天武天皇時代に越国は古之乃三知乃久知古之乃三知乃奈加古之乃美知乃之利(こしのみちのくち、こしのみちのなか、こしのみちのしり)、即ち今のものと大いに異にす。信濃川は両国の境界にして、以北の地は越後国たりなれば、現今の頸城は越中国に属したるなり。而して北は沼垂・磐船(岩船)は、勿論、出羽に延びたるなり。郡国志に、〕

《神武天皇より40代・天武天皇時代(672-686)に、越国は、古之乃三知乃久知、古之乃三知乃奈加、古之乃美知乃之利(こしのみちの口、こしのみちの中、こしのみちの尻)に分れ、今の区分とは大分異なり、信濃川が二つの国の境になっていて、その以北が越後国になっていた。その為、今の頸城は越中国に属し、その北の沼垂と岩船は、必然的に出羽まで続いていた訳である。そのことは、『国郡誌』に次の様に書かれている。

 

  出羽国古属越後及陸奥蝦夷居住也ト
〔出羽国は、古、越後及び陸奥に属し、蝦夷、居住するなり、と〕
《出羽の国は、昔、越後と陸奥に属し、蝦夷が享受していた、と》

 

又日本書紀ニ

〔また日本書紀に〕

《また日本書紀に》

 

  和銅元年新建出羽郡運兵器於出羽柵奬征蝦夷也五年狄部悉定始建出羽国尋割陸奥置賜最上二郡ト
〔和銅元年、新に出羽郡を建て、兵器を出羽柵に運び、蝦夷を征するを奨めるなり。五年、狄部(テキブ)悉(ことごと)く定まり、始めに出羽国を建て、ついで陸奥を割って置賜(おきたま)、最上(もがみ)二郡を置く、と〕
《和同元年(708)、新に出羽郡を開設し、兵器を出羽柵に運んで、関市征討を進めた。五年(713)、北に異民族を平定して、初めに出羽国を設立し、次に、それを二分して、置賜と最上の二郡とした、と》

 

又続日本紀ニ

〔また続日本紀に〕

《また『続日本紀(ショクニホンキ)』に、(平安初期に編纂された勅撰史書で、菅原道真らにより延暦16年(797)に完成した。文武天皇元年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。)》

 

  和同五年割陸奥及越後置出羽郡ト
〔和銅五年(713)、陸奥及び越後を割り、出羽郡を置く、と〕
《和同5年(713)、陸奥と越後の一部を割き、出羽郡を置いた、と》

 

按ズルニ置賜郡ハ出羽国南方ノ大分域ニシテ最上川ノ上流ナリ最上ハ最上中流ノ称ナリサレバ割陸奥置賜最上二郡ト古書ニ見ユルヨリ推セバ最上川以北ハ陸奥国ニ属シ以南諸郡即チ田川郡出羽郡飽海郡ハ越後ニ属セルモノナランサレバ越後国ハ西南ハ信濃川ニ東北ハ最上川ニ境セシナリ

〔按ずるに、置賜郡は出羽国南方の大分域にして、最上川の上流なり。最上は最上中流の称なりざれば、陸奥を割いて、置賜・最上二郡と、古書に見ゆるより推せば、最上川以北は、陸奥国に属し、以南諸郡、すなわち、田川郡・出羽郡・飽海(あくみ)郡は越後に属せるものならん、されば越後国は西南の信濃川に、東北は最上川に境せしなり。〕

《編者の考えるところでは、置賜郡は出羽国の南の大部分を占め、最上川の上流に当る。最上と云うのは、最上川の中流域の名称だから、「割陸奥置賜最上二郡」と古書に在るのを見ると、最上川以北は陸奥国に属し、以南の諸郡は、すなわち田川郡、出羽郡、飽海郡は、越後に属していたようであり、その事から越後国は、西南は信濃川と、東北は最上川が国境となっていた訳である。》

 出羽国ノ建設ヲ見ザル凡ソ十年前大寶二年三月越中国内四郡ヲ割キテ越後ニ併ス四郡ハ史ニ具註ナシト誰(雖)モ地勢上頸城魚沼三島古志ノ郡ナルコト推定セラル

〔出羽国を見ざる、およそ十年前、大宝二年三月、越中国の内四郡を割きて越後にあわす、四郡は史に具註なしといえども、地勢上、頸城・魚沼・三島・古志の郡なること推定せらる〕

《出羽国が未だ成立していない大体10年前の大宝2年(702)3月、越中国の内の四郡を分離して越後に合併した。四郡の事が歴史書に明確に書かれている訳ではないが、地勢から推測して、頸城・魚沼・三島・古志の四郡であろうと思われる。》

 爾来明治ノ聖代ニ至ル迄一千三百年間越後彊域ニ大変ナシ唯天平十五年佐渡国ヲ越後ニ併セラレシガ天平勝寶四年旧ニ依リ佐渡国分立シタルノ変アリシノミ

〔爾来、明治の聖代に至るまで、一千三百年間、越後疆域(キョウイキ)に大変なし。ただ天平十五年、佐渡国を越後に併せられしが、天平勝宝(テンピョウショウホウ)四年、旧により佐渡国分立したるの変ありしのみ。〕

《それ以来、明治時代に至るまでの1300年間、越後の境域に大きな変化は無かったが、天平15年(743)に佐渡国を越後に合併したが、天平勝宝4年(752)、旧に戻って佐渡国が分立した事だけである。》

  続紀天平十五年以佐渡国併越後国天平勝寶四年十一月復置佐渡国
〔続紀、天平十五年、佐渡国をもって越後国に併す。天平勝宝4年十一月、また佐渡国を置く〕
《『続日本紀』の天平15年の項に佐渡国を越後と合併させたが、天平勝宝4年11月、また佐渡国を基に戻して設置した。》



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