柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 今回から、関甲子次郎の『くぢらなみ』を追ってみようと思う。何しろ冒頭から「題鯨波誌 小引」とあり、甲子楼主人こと関甲子次郎の、後に続く三漢詩の解題に始まる。少々自信がないが、取りあえず読下し文と注釈を付ける。誤りがあるかも知れないが、ご容赦。

 

 驚くのは、当時の柏崎の文人の高さである。他に平成16年に開催された『書物が語る近世柏崎の文人』(関矢隆)なども参考にしたが、このレジメ、いささか簡略に過ぎ、調べるのに一苦労した。ただ、文化講座で、こうした内容が講演された事には救いを感じる。いずれにしても、柏崎文人のレベルの高さを窺わせる『くぢらなみ』である事は付言したい。

 

因みに、『くぢらなみ』は、文中に在るように、明治45年に『柏崎華街志』の小田金平氏によって印刷された。尚、この書の表紙は、夏の蒼海ホテルからの海浜の風景である。また、同様に、広告の掲載が多く、『柏崎華街志』掲載の広告とは視点を違え興味あるものだ。その視点からも、広告に就いて追いたいのだが、そうなると、漢文が主体の様な『くぢらなみ』を読み解いて行く必要を感じ、今回から『くぢらなみ』に注釈を付けながら掲載する予定である。

 

 壬子六月初九甲子楼主人来訪

 (壬子(みずのえね)六月初九、甲子楼主人、来訪)

 偶琴斎訒斎両兄先在爲、主人探一冊子於懐袖、出以曰)

 (たまたま琴斎(きんさい)訒斎(じんさい)の両兄(さき)に在り、為に、主人、懐袖(かいしゅう)に一冊子を探り、出して以て曰く)

 余頃日編輯此誌、諸君謁爲勝區題一句

 (余、頃日(けいじつ)、誌を編輯(へんしゅう)す、諸君、謁して、勝區を題し一句を為せ)

時辰正報午、乃催小酌、談笑之問、分題鯨波三字爲韵

 (時辰(じしん)、まさに(うま)を報じ、すなわち小酌(しょうしゃく)(うなが)し、談笑の問、題鯨波の三字を分ちて(いん)す)

 各賦一絶、此日梅雨霏々、書窓晝暗

 (各賦一絶(かくふいちぜつ)此日(しじつ)、梅雨霏々(ひひ)として、書窓、(ひる)

 三人爲之排欝遺悶頗覚快適

 (三人、これが為に、排欝遺悶(はいうついもん)(すこぶ)る快感を覚ゆ)

主人又索書其由、乃惣卒走筆記之

(主人、また、その由を捜書(そうしょ)す、すなわち走筆(そうひつ)卒することなく、これを記す)

 

(註1)壬子六月初九:明治45年(1912)六月九日を意味するのか、尚、易の「初九」、初爻が陽である事。因みに、陰は「六」)

(註2)甲子楼主人:関甲子次郎の事。

(註3)琴斎:明治11年、明治天皇行幸の際の天顔奉拝者(謁見)である第五大区長(大久保)・小熊六郎の事か。

(註4)訒斎:元柏崎町長の丸田尚一郎の事か。

(註5)懐袖:和服だから懐や袖に冊子を入れて居たのだろう。

(註6)頃日:日頃と同義。

(註7)勝區:勝区は、景勝の地区、ここでは福浦八景の事。

(註8)時辰:時間の事。

(註9)小酌:小宴の事。

(註10)分題鯨波三字爲韵: この後に出る三人の漢詩の末韻が、題、鯨、波になっている。

(註11)各賦一絶: 三人は、各々七言絶詩を作っている。

(註12)此日:この日。

(註12)霏霏:雪や雨が絶え間なく降る様。

(註13)書窓:書斎の窓。

(註14)排欝遺悶:鬱陶しさを排し、作詩のもだえるが、気分は爽快である。

(註15)捜書:書物に捜す。

(註16)走筆:すらすらと書ける。

(註17)卒する:終わる。

 

 尚、注釈に就いては、出来る限り調べたのだが、不明な点も多く、御存じの方があれば、御教授頂きた。また次回は、本文に在る漢詩三首を紹介する。

 

Best regards

 前回、実は昨日、配信したのだが、FreeML.comがメンテナンスだったようで、今日の午後配信されたようだ。そんな訳で、今回は明日にと思ったのだが、面白い記事を見つけたので紹介する。

 

 柏崎に就いて調べて居たら、『地方経営小鑑』と云う本があった。これは、明治43年3月(1910に内務省地方局が編纂したもので、各地方の取り組みなど300件の事例を紹介したものである。その中に、「柏崎図書館と巡回文庫」という記事があった。そう長くないので全文を紹介する。

 

 新潟県柏崎町に於ては、明治三十八年八月を以て戦捷(せんしょう)記念として図書館を創設し会員各自の年拠金と郡費の補助とによりて之を意地経営し来りしが、更に四十一年を以て巡回文庫を設け、郡内各村落へ配布して、閲覧者の便益を図りつゝあり。図は同図書館の前掲を写せしものなり。

(註1)戦捷記念: 日露戦争の戦捷(戦勝)記念の事。

(註2)郡: 刈羽郡。

 

 序の事だから、「巡回文庫」について検索すると、他に一件あった。これがまた新潟県なのである。こちらは、「新潟積善組合と巡回文庫」と云うものである。これも短いので紹介する。

 

 新潟積善組合の経営に係れる巡回文庫は、同組合が?に創立十周年記念の際、本県の篤志者にして且該組合の専務理事たる櫻井市作が私資を以て文庫十一個を製作し、之に多数の書冊を容れて、本組合に寄贈したるに始まり、組合にありては爾来盛に新刊の書冊を購入し、新に文庫の数を増加し、且特に専任図書事務員を置きて之が整理に当らしむ。此等の巡回文庫は、何れも順次県下の各郡を巡回して、今や一般に読書の趣味を与えつゝあり。

 

(註1)新潟積善組合: 明治30年(1897)設立。積善組合は、民衆への貯蓄推進と救済を目的に設立された公益機関。

(註2)創立十周年記念: 明治41年に巡回文庫を開始した。

(註3)櫻井市作: 新潟県の豪農。詳細は省くが、新潟県の砂防に尽力した人物で、著書に『新潟砂防史』(1913年刊)がある。

 

 因みに、この新潟積善組合巡回文庫について、研究している人がいた。筑波大学の卒業生であるようだ。2011年の卒業論文のサマリーは見ることが出来たのだが、こうなると本文も読みたいものである。よって、筑波大学図書館に問合せのメールを送った。閲覧が、出来ればダウンロードが、可能になれば幸いなのだが。それにしても、殆どヒットしないこの様なを研究する若い人が居た事に感激する。因みに、論題は『新潟県における積善組合巡回文庫の活動-報徳会との関係を考慮に入れて-』と云うものである。

 

 どうも横道ばかりに逸れるのだが、今回の巡回文庫あるいは積善組合には、益々興味が湧くのである。

 

 少々見辛いが掲載の写真も紹介する。上三葉が柏崎図書館関係。最下が積善組合巡回文庫。

 

 

 

 

Best regards

 柏崎市立図書館(ソフィアセンター)で、どうしても目を通したい文庫がある。関甲子次郎の『柏崎文庫』と中村藤八の『中村文庫』だ。何れも一部分だけ読んだ事があるのだが、これがなかなか膨大である。強いて言えば、聞き書きも多く、三田村鳶魚の『鳶魚江戸文庫』を髣髴させるものだ。

 

 仲々街に出る機会がないので、どうしてもデジタルライブラリーを探すのだが、柏崎にはなく、一部が新潟県立図書館デジタルライブラリーに収録されているのみ。これがまた、デジタルライブラリーと云うより、単にデジカメで撮影した代物。活字の時代に育った我々の世代以降で、御家流で書かれた資料を読むのは至難の業だ。

 

 例えば、中村藤八の聞き書きが、その一例、何しろ所々を拾い読みできる程度で、達筆の聞き書きに取り付く島もないのが実情だ。内容は、大体、地蔵堂とか貞心尼等に関する事らしいのだが、どうにも歯が立たない。

 

 例えば、下記のサイトをご覧いただきたい。デジタルライブらろーの題を見ると、「智譲尼聞取諸①」「明治四拾四年五月二十日 釈迦堂へ・・・」、「智譲尼聞取諸②」「盗人入リテ・・・」とある。

 http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/Archives/dcv/IndexServlet?mode=2&id=5416&r=0&x=0&y=0&uniq=1384156065491

 http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/Archives/dcv/IndexServlet?mode=2&id=5417&r=0&x=0&y=0&uniq=1384155677852

 

 因みに、『柏崎百年』から御両所を紹介すると、次のように書かれている。以下原文から。

 

 二十七年(明治)以降の出版活動も大正までに、二十氏二十九種目、三十五冊の図書に及ぶ。ここにも若い柏崎の誕生があった。

 特筆すべきは、関甲子次郎と中村藤八の人間味溢れる事績であろう。

 前者は著書出版もさることながら、フィールドワークを重ね、足で書いた史料豊富な「柏崎文庫」を今日に伝えている。

 後者は新進業界人として活躍しながら、街の新学徒に温かい庇護の手をさしのべ、郷土資料の集大成をはかり、保存に力を入れ、驚くばかりの量の、しかも貴重な「中村文庫」をわれわれのために残されている。

 

 とまあ、こんな具合に称賛している。しかし、惜しむらくはデジタル化されていないことだ。今は印刷のデジタルの時代だ。活字にするのなら、その前にデジタル化されているはず。それが、先の様にデジタル化とは名ばかりで、恐らく人口の大半を占める活字時代の人間には、その内容を知る事は難しい。これでは猫に小判である。しかも、この写真複写でさえ141件に過ぎないのだ。この県の文化行政はどういう事なのだろう。これでは、図書館の自己満足にしか過ぎない。市でも「古文書教室」なるものを行って居るが、それならそこで教材として、これら柏崎の至宝ともいえる文献のデジタル化をしては如何なものか。勉強にもなり実利にも通じる。どうも、文化行政は二の次の感がある。

 

 余談だが、体育協会の武道の部ではないが、問い合わせたところ、その歴史に関心を持つ人は皆無に等しいとの事だ。久しぶりにキルケゴール的に言えば、当に「必然性を忘れ、可能性ばかりに目を向ける、死に至る病」ではないのかと、残念で仕方がない。愚痴ご容赦。

 

 尚、参考の為に、二人に就いて、下は柏崎市のサイトからの転写した。

 

(せき) 甲子次郎(きねじろう) 

関 甲子次郎

 郷土の歴史や民俗を考える際、必ず目を通しておきたい基本文献があります。関の大著『柏崎文庫』です。郷土に関するおびただしい事項を、博覧強記の文献渉猟と豊富な実地調査による知見で解説した「郷土史の戸籍簿」だからです。
 関は元治元年(1864)、国学者であった関守雄の子、虎八の次男として新助町(現在の東本町)に生まれます。小学校中退後、家業の傍ら和学や漢学、温古学を独学、20歳から57歳までの37年間を費やし、毛筆で約5,000ページ全20巻、スクラップブック13輯の『柏崎文庫』を完成させます。まさにライフワークそのものでした。このほかにも『越後の婦人』『刈羽郡案内』『生田の旗風』など郷土史上の名著を数多く残し、大正15年に63歳で死去。菩提寺の妙行寺には、彼の偉業を称える筆塚が残っています。

(文:博物館 渡辺三四一さん)

 

中村藤八

 嘉永6年8月、旧高田村上方(柏崎市上方)の中村藤左衛門の長男としてうまれる。35歳の時、農業から商業へと「処世変更」をとげ、柏崎物産会社を創業する。その後海運業、倉庫業、石油販売などの経営にあたるかたわら、政党・選挙活動、鉄道敷設運動にも東奔西走する。また、文化的事業としては、生田萬の埋骨場の整備、後に中村文庫と称される郷土史料の蒐集に熱意を燃やす。
 藤八翁の「公益優先」の精神は大正7年12月、刈羽郡に「中村文庫」を寄贈したことにもよく表れている。このことを当時の山中新潟県立図書館長は「柏崎図書館蔵書分類目録」(大正10年3月刊)の序文に次のように書いている。
 『中村文庫の内容は翁が前後五十年間地方のため、自分の力に依って完全なる保存を図ってやりたいという侠気と周到なる用意と而して不断の努力とによって蒐集せられたものであってその苦心は曾つて斯道に経験ある人達以外には創造だもなし能わざる程度のものであったことは明らかなる事である。
 しかも蒐集家の多数は所謂珍蔵して自家の愛玩とし或は以て友に誇るの料とするのが常であるにもかかわらず、之を一括して図書館に提供し衆庶の研究材料とせられた翁の義侠と意気は実に敬服に値するものであると思う』
 しかし、藤八翁はこの序文を目にすることなく、寄付から2年後の大正9年3月に63歳で亡くなっている。

 『中村藤八は高田村上方の産。明治初年改進党の組織せららるるや逸早く之に参加し、党を支持すること熱烈。有力者の後援を得、柏崎に移りて物産売捌所を開き図にあたる。今の駅前石油業中村商店はその後身。晩年山田八十八郎、松本徳聚等を顧問とし郷土史料を蒐集し、一括して柏崎に寄付す。図書館内中村文庫は即ち是れ。性闊達「此の藤八は死ぬまで活きている」の言で有名。政党の重鎮でありながら、県会、国会議員とならざりし所に味あり。大正9年没、68歳。』(「柏崎人物誌」より勝田加一著)

 『この中村藤氏の蔵書寄付については、早くから識者の間に問題となっていたが、当時、この蔵書類の寄付を受けてもこれを収納するための建物を必要とするということで郡会に異論があったのである。そしてこの情勢を察知した中村藤八氏は、蔵書類の寄付とともに建物の必要なことを感じ、飯塚弥一郎、西川藤助氏ら各方面の協力を得て大正7年文庫を建築し、刈羽郡へ寄付したのである。』(「柏崎市立図書館六十年史」より)

中村藤八肖像

中村藤八肖像


中村文庫

 大正7年12月、中村藤八氏から刈羽郡に一括寄贈された文庫。現在は当館3階の中村文庫室に保管されている。
 約3,000点の図書、古文書、軸、器物などからなる。内容は各分野に及び、郷土研究に欠かせぬ貴重な資料を数多く含む。寄贈された当時は長岡市の互尊文庫と並び称せられたという。中でも貞心尼の関係資料は良寛研究者に早くから注目され、藤八翁の慧眼は高く評価されている。
 また、藤八翁は出版物にとどまらず、自身の聞き書き、写し書き、新聞スクラップ、土器片、古文書なども蒐集の対称としている。その内容も実に多岐にわたり、総体として中村文庫は地域研究の礎となっている。
 なお、中村文庫土蔵は昭和40年代、旧図書館の新築時に取り壊されたがその看板は現在も当館の3階中村文庫室の前に掲げられている。日本石油創始者内藤久寛の揮毫により欅の1枚板に彫り込んだものである。数十年の風雪に耐え往時の姿を今に伝えている。

貞心尼関係資料
 図書館所蔵の貞心尼直筆資料10点のうち、2点を除きすべて中村文庫のものである。中でも「蓮の露」は市の文化財に指定され、大切に保管されている。
 また、貞心尼の弟子智穣尼から中村藤八が直接聞き取り、書き留めた書類や貞心尼のよき理解者山田静里翁等の書画なども残されており、良寛・貞心尼研究の貴重な資料となっている。

 山田八十八郎関係資料
 『とくに注目すべきこととして、柏崎の郷土史家山田八十八郎氏の著作が全部保存されてあることである』(「柏崎市立図書館六十年史」)とあるように、刈羽郡長をつとめ中村藤八の資料収集を助けた山田八十八郎の著作、使用した机、落款等を多数保存する。

 生田萬関係資料
江戸末期の飢饉に貧した柏崎で、陣屋に切り込んだ生田萬中村文庫には萬書の神代文字の額、萬と妻鎬の和歌短冊など、萬の関係資料も数点であるが含まれている。短冊は市立博物館で見ることができる。

寄付当時の中村文庫と群会議員

寄付当時の中村文庫と群会議員

現在の中村文庫室内部

現在の中村文庫室内部

 

 

Best regards

 前回の続きの様なものだが、『柏崎百年』には驚くことが多い。『近世先哲叢談』(正上下・続上下は)、江戸期に於ける学問の系譜を調べた時に最も参考にした本だ。ところが、内容ばかり見て、その著者に目を向けて居なかった。実は、『柏崎百年』を読んで、松村春風と操が同一人物であることを知ったのだ。何とも間の抜けた話である。

 

 一時、藍沢南城について調べて居た事があるのだが、そこから、南城の父・北溟の師である折衷学の片山兼山を調べ、更に、その関係から折衷学に関わる人物、例えば、「寛政の三博士」である古賀精里、柴山栗山、尾藤二洲らを芋づる式に辿ったものだ。その時に、参考にしたのが、東条琴台の『先哲叢談』であり、その流れで『近世先哲叢談』に至った。結果としては、『江戸期に於ける学際ネットワーク』なる人物関係図を作成する事になった訳だ。ただ、未だに完成していないのも事実なのだが。

 

 その一つである『近世先哲叢談』は、柏崎出身で柏崎小学校の京都をしていた松村操が、上京し文筆活動を始めて(明治10ねん)、最も脂がのった明治30年代(出版は明治13年)に書かれている。因みに、『近世先哲叢談』に掲載された人物は、正編で22人、この中には、先の「寛政の三博士」のほか、頼山陽一家や菅茶山、水戸の藤田東湖や会澤正志、野々村竹田、安井息軒などが上げられ、続編には、藍沢南城の師である皆川淇園、佐藤一斎、これも柏崎と縁が深い「安政の大獄」に連座する藤森弘庵などが揚げられている。

 

 因みに、『近世先哲叢談』は、漢文である。この本は、「近代デジタルライブラリー」に収録されているので何時でも閲覧は可能。余談だが、ダウンロードして気づいたのだが、正編続編の表題が入ら代っているので、例えば、正編の下は続編の上の様に、注意が必要である。

 

 また、「近代デジタルライブラリー」には、この外、松村操の代表的な著作が収録されているので、興味ある方は、一見。因みに、収録されているのは、重複もあるが全部で72件。例えば、『人間万事金の世の中:金もうけ金ため百ヶ条』などは、当時の世相を知る上で、実に興味深い本である。

 

 いずれにしても、明治10年とは言え、一人の出版数としては、恐らく最多に近いのではないだろうか。兎に角、驚きである。余談だが、『藍沢南城、詩と人生』の著者・内山知也先生が、湯島聖堂の確か理事長になられるのも、こうした背景があるのではないだろうか。

 

 今は、高校でも、古文・漢文は見捨てられた科目になって居る様だ。ドナルド・キーン先生ではないが、これだけの背景を持つ柏崎でさえ、日本文学は廃れようとしている。よそ者の私が言うのも何だが、実に残念な事だ。何とかならないものだろうか。

 

Best regards

 例に因って芋づる式に調べて居たら、関甲子次郎の『くぢらなみ』に行き当たった。明治45年に出版された鯨波村誌」とでも言うべき本だ。ご存知の方もあろうが、鯨波は、戊辰北越戦争の最大の激戦地の一つだ。NHKの大河ドラマ『八重の桜』で言えば、猛将・佐川官兵衛が激戦を繰り広げた処である。

 

 まあ、この『くぢらなみ』については置くとして、『柏崎百年』によれば、明治年中に柏崎で出版された書籍が、59冊もあるのだそうだ。同書に随って、幾つか挙げて見ると、明治32年(1899)、池田多作が『小栗判官二度たいめん』、『宮本佐門誉物語』、桑山直二郎が最初の『柏崎町鑑』を出版している。因みに、『柏崎町鑑』は一部15銭であったそうだ。横道に逸れるが、早速、『柏崎町鑑』を探してみた。サイトは、「日本の古本屋」である。明治32年版は、何とプレミアがついて4四万円に近く、その後、明治38年に出版された同書改訂版は、二万円に近い価格で販売されていた。これは当然手の届く範囲ではない。近代デジタルライブラリーで調べて見たが、残念ながら登録されていなかった。いずれ市立図書館で閲覧しなければならないだろう。

 

 実は、そこで『くぢらなみ』を見つけたのだ。さて、続けると、当山亮道が『古事記通解上中下』を、翌33年には、関甲子次郎が『柏崎三十番神堂の記』を著している。更に、関甲子次郎に就いて言えば、明治35年、以前引用した事もある『越後の婦人』、更に翌年には『生田の旋風』を発刊しているのだ。また、最大の地作と云えば、一種の地誌・史料集あるいは年代記ともいえる『柏崎文庫』全20冊がある。

 

 今の所、他との比較が出来ないので、この明治期の出版数が多いのかどうか、確実な事は言えないが、管見として言えば、驚くべき数字ではないだろうか。

 

 柏崎市立図書館(ソフィア・センター)で、こうした書籍はどれくらいデジタル化が進んでいるのだろう、気になって来る。以前、別の史料の事で問い合わせた時、ある程度、と云う事だったが、広報などを見ても、その気配を見いだせない。言い換えると、『柏崎百年』による明治32年から大正までの二十八年間に出版された59冊は、最優先でデジタル化を進めるべきではないかと思うのである。

 

 何しろ、昭和44年に出版された『柏崎百年』ですら、そこに登場する人物の為人や足跡を追う事が難しいのだ。少なくとも、早い時期にデジタル化が出来れば、よそ者である私のような物好きがいるとも限らないのだ。

 

 先日、木島さんと話したのだが、明治の「史談会」の如きものを、実施すべきではないかと思うのである。今ならまだ、三田村鳶魚の著作の如き、柏崎の事物誌を掘り起こすことが出来るのだが。

 

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