柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

「雑事」(12)

昔の花街風俗 江戸の吉原では、昔、花魁の髪飾りは、花簪の外、前に七本後に六本
の鼈甲(ベッコウ)と、櫛二枚用いたけれど、直江津の中島では、後丈けは吉原通り
にして差支なきも、前髪には、琴柱形六本の外は用いしめず、又櫛は一枚を限って
あったとやら。柏崎の新にては旧女郎屋に限り、後髪に琴柱六本を許せども、前髪
には耳付の鼈甲さえ禁じ「しのぎ」と称する飾り気もないもの六本を用いしめた。但
し鼈甲外のものは自由であったそうである。此装飾は当業者には大切の法式で、吉原
直轄外の揚屋、又は遊行茶屋の後継者には、決して許さなかったとか。柏崎の貸座敷
で今尚お当時の髪飾の道具を保存して居る楼がある。夫から二十年前には、遊女の出
世栄誉を表する為めに涅歯(カネ、デッシ)を附けた事があった。

(註1)琴柱形六本: 「コトジ」と読む。琴柱簪(カンザシ)六本。

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(註2)耳付の鼈甲: 耳付鼈甲簪の事。

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(註3)しのぎ: 鎬(シノギ)形笄(コウガイ)の事。

http://www.jj-craft.com/collection/japan02/s/s_388.jpg

(註4)涅歯: 鉄漿(カネ)、お歯黒(貴族の用語)

(註5)遊行茶屋: ルビは、「ユウギョウチャヤ」となっているが、広辞苑では、
「遊行」を「ユウギョウ」とは読んでいない。推測するに、ここで謂う「遊行茶屋」
は、所謂「待合茶屋」の事ではないだろうか。

髷と髪結 髷は一般に島田と定まって居ったが、其中に種々(イロイロ)の区別が
あって、形入、前割り、なげ島田等各自の好む儘に結って居った。此髪を結ぶという
事は当時の妓女の一の勤めであったので、人手を煩わさなかったのである。維新後、
三條から女髪結が来たが前記の次第で、之を頼むものがなかったので、渡世になら
ず、空しく立ち去った事もある。

(註1)形入: 「カタイレ」とルビ。入れ髪とか「かもじ(添え髪)」とかを使っ
て、大きく膨らませる髪形の事か。

(註2)前割り: 「われしのぶ」、京の舞妓の髪形だが、この髪形か。

(註3)なげ島田: 「下げ島田」とも云うようである。

 上記三種類の髪形は、いずれも島田系と云われる髪形に属するのだが、実の所よく
分からない。

 この手の話には疎い。インターネットで調べて見たのだが、柏崎あるいは越後特有
の呼び名があったのだろうか、「なげ島田」以外は、ヒットしなかった。しかし、
髷・髪形の世界は、奥の深いことが判る。幾つかのサイトを横断的に見たのだが、矢
張り、美容に関するサイトが詳しいようだ。特に揚げるとすると、「ポーラ文化研究
所-ポーラ化粧文化情報センター」の「美のココロ」と言う連載コラムが、お奨めで
ある。因みに、URLは下記の通り。

 http://www.po-holdings.co.jp/csr/culture/bunken/reading/index.html

Best regards
梶谷恭巨

承前。

 

「雑事」(11)

 

外人の登楼 明治七八年の頃、米人某、吾が柏崎に泊せし時、日本のブイーナス(美人の神)と翠帳紅閨に一夜の夢を結んで見たいとの事で、某粋士は其燃ゆる思いに同情し、東奔西走、其敵娼(アイカタ)を求めたけれども、降る亜米利加に袖を濡らさじと許り、誰一人とて応ずる者がなかった。折柄侠気を以て其名を知られたる遊女八重本と云うものが、仮令(タトエ)西洋人ぢゃとて、鳥獣にもあらざれば、何の恐るる事かあると。拾円の花代にて一夜の春を売ったとか、是れ吾が柏崎青楼に外人の登楼した始めとの事である。

 

(註1)翠帳紅閨: 貴婦人の寝室

(註2)青楼: 高貴な人の住む家、遊女屋・妓楼、江戸では、官許の吉原遊郭を指した。

 

 さて、この米国人だが、明治7、8年と云う事になると、思いつく人物がいない。そこで、推測すると、米国人が柏崎を訪問した理由である。すなわち、一つ考えられるのが、石油に関係する人物である。最も有名なのは、ベンジャミン・S・ライマン(Benjamin Smith Lyman1835-1920)である。北海道開拓使の依頼で、北海道一円の地質調査をしたことは良く知られているが、ライマンが、油田の地質調査を始めたのは、明治9年5月からで、先の様に、7、8年と云う事になると、当てはまらない。それでは、柏崎に来る理由が外に在ったかと考えるのだが、思いつかない。柏崎の年表にも記載がない。

 

 それでは逆に、明治7、8年当時、米国人の為に東奔西走する粋人とは誰かと云う事になる。強いて挙げるならば、星野藤兵衛と云う事になるのだが、明治11年、明治天皇行幸の折に、弟と息子が、盟友でもあった近藤芳樹に窮状を訴え、復路、柏崎で、従四位下を遺贈され、千円を下賜されているくらいだから、粋人と言うには疑問がある。それに、星野藤兵衛は、国学者であり、近藤芳樹は、何らかの形で、廃仏毀釈に関わっていると思われるところから、外国人という事になると抵抗があったのではないだろうか。

 

 この問題は、今後も追い掛けて行く積りだが、先の様に、疑問ばかりが残ってしまった。

 

Best regards

梶谷恭巨

承前。

 

 今回は、先に紹介した「剣の山観月会」の嵐渓の添え書きしたと云う絵を紹介する。ただ、何とも達筆なので、全文を読むことが出来ない。ご容赦。尚、お分かりの方があれば、ご教授願いたい。因みに、嵐渓は、絵の中央、芸妓の踊に拍子を取っているようだ。

 

 ところで、今回は、柏崎を訪ね登楼したという米国人の事を書く予定だったが、仲々該当する人物に行き当たらない。序に言うと、アーネスト・サトウが、鉢崎(現在の柏崎市米山で船を雇い柏崎の鯨波に着いている。それが、明治13651880)の事だ。この事に関しては、以前『柏崎通信』で紹介している。また、同11年には、イザベラ・バードが、新潟を訪問している。それに依ると、当時新潟には、18人の外国人が居たそうだ。慶応3年(1867)、サトウが英国公使パークスと共に軍艦で新潟に立ち寄っており、その当時の外人数が4名であったというから、新潟が開港されて後の発展ぶりが知れよう。そんな訳で、柏崎に来た米国人も直ぐに判ると思ったのだが、簡単ではなさそうだ。

 

 

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梶谷恭巨

承前。

「雑事」(10)

剣の山の鑑別会 文久元年八月廿六日、書画の展覧会を妙行寺に於て開かれた。当時
県下中の風流雅人が集まって来たが、彼の石黒男爵抔も列席された。会が終って後、
星野藤兵衛の邸宅剣野山に於て、観月会の催しがあったが、此際千代、若葉、松吉、
八ッ橋などと云う妓が絃鼓を弄して杯盤の間を賑わしたそうである。其時間斎坊と云
う人が兼て用意の絖地(ヌイヂ)に集りし男女廿有余人を描いたが、画家嵐渓が夫れ
に山色月光草樹を添えた。夫れが松の山の田邊家に愛蔵されてある。

 最も此嵐渓と云う画家は三條の人で、柏崎に滞留中は戯れて遊女の半襟などに画を
書いた事があるそうで、今でも其遺物が沢山残って居るそうである。

(註1)妙行寺: 「旅ナビ柏崎」というサイトに、次の様な紹介文がある。

 文永11年(1374)の創立で、慶長2年(1597)地震のため翌年「法修山妙行寺」と「海
岸山大乗寺」を合併して「海岸山妙行寺」となり番神から現在の西本へ移転しまし
た。創立となった文永11年、佐渡への流罪を許された日蓮上人は寺泊へ向かう途中、
暴風にあい番神の地へ着岸しました。ここで一夜を過ごした日蓮上人の教えにより、
真言宗大乗寺の住職慈福法師は、日蓮宗に改宗し、日心の法号を与えられました。慶
応4年(1868)の戊辰戦争では、本堂が官軍の本陣となり、本堂内には現在でも官軍兵
士の「らく書き」が残っています。

 多少コメントを付け加えると、日蓮宗の人々は、柏崎を聖地の一つと考えていると
聞いたことがある。特に、創価学会では、民俗学者でもある初代会長・牧口常三郎が
柏崎市荒浜の出身であることから、「牧口記念館」を設立している。因みに、牧口常
三郎は、札幌農学校出身で、新渡戸稲造の門下であり、民俗学者・柳田國男と共に、
「郷土会」を設立した創始者のひとりである。著者として有名なのは、『人生地理
学』がある。この『人生地理学』が、新渡戸稲造などに、広く読み認められ、北海道
から上京。八王子の小学校校長の傍ら、困窮する農民の為、「創価教育学会」を設立
し、その子弟の教育に尽力した。宗教的問題から、牧口常三郎が何かしら世に出ない
事は、残念である。

(註2)石黒男爵: 石黒忠悳の事。石黒忠悳に関しては、『柏崎通信』に何度か書
いたの省略するが(ブログにも掲載)、管見すれば、私立医科大学の創始者でもある
長谷川泰と共に、幕末・明治における我国の医療史におけるキーパーソンの一人と考
えるのだ。また、子息・忠篤は、先に書いた「郷土会」の創設者のひとりであり、
「農政の神様」と称された近代農業の改革者のひとりである。また、以前に紹介した
が、芹沢光治良の『人間の運命』の黒田課長のモデルである。

(註3)星野藤兵衛の邸宅剣野山: 現在の剣野小学校とその裏山にあった星野藤兵
衛の別邸。通称、「御殿山」と云う。星野藤兵衛については、既に何度か書いている
ので省略する。ただ付け加えると、星野藤兵衛の墓所は、先に出た「妙行寺」にあ
る。

(註4)間斎坊: 不詳。

(註5)絖地: (ヌメヂ)、日本画に使われる絹布。

(註6)嵐渓: 長谷川嵐渓の事。文化11年、三條の会津屋吉右衛門の長男として
生まれ、16歳の時、大槻盤渓に師事、20歳で江戸に出て、春木南湖に南画を学
び、天保4年には、仙台の菅井梅関に師事したが、36歳の時、父吉右衛門が死去、
帰郷して五十嵐川畔に居を構え、嵐渓釣徒と号した。門下に、村山半牧や本間翠峰は
どを輩出した。慶応元年没、墓所は、弥彦線北三条駅に近い真言宗宝塔院にある。

(註7)松之山の田邊家: 現十日市松之山の浦田口の田邊家の事だろう。知らな
かったのだが、明治9年に大荒戸と云うところに石油製油所が建設され、明治30年
には松之山石油株式会社が設立されている。明治38年、石油掘削が開始されると、
温泉が自噴した。これが松之山温泉の初めであろう。長岡の三郷屋温泉と似た経緯が
あるようで面白い。大正9年、松之山水力電気(株)が設立された年、田邊家は「泉
源及び土地等の総てを売却した」という記事があるが、その経緯については書かれて
いない。余談だが、松之山には能舞台があり、息子が狂言を習っていた関係から、野
村万作・萬斎師親子の舞台を見に行ったことがある。もう何年前になるだろうか。

 今回は、最も関心のある事項だった。もっと調べて見たいのだが、どうも時間がか
かりそうである。

Best regards
梶谷恭巨

承前。

 

「雑事」(9)

 

番附と値段附 天保以前に出来たものであって『諸国遊所見立角力(ショコクユウショミタテスモウ)並に値段附』と云うて、恰かも相撲の番附の様に出来て居るものが某書に見えた。

 新潟遊郭は前頭の第一番で、値段は二分より段々とあった。

  直江津(今)は二段目前頭の三番目で、値段は十匁。

  柏崎は二段目の終尾で値段は七匁五分であった。

以上は東の方で、西の方には、

  出雲崎が二段目の終尾で、値段は七匁七分

とあって、此外に越後の遊郭は出て居なかった。

 

(註1)『諸国遊所見立角力並に値段附』: 幾つか現存しており、国会図書館の蔵書目録に在るようだが、判り易いので、徳島県立図書館が所蔵している。この古文書詳細情報を挙げると、次の通り。

 古文書番号: サカイ01569000

 家名   : 酒井家文書

 旧蔵地名 : 美馬郡つるぎ(半田

 標題   : 諸国遊所見立角力並ニ値段附

 作者名  : 浪花わた正(筆)

 宛者名  : (空白)

年代   : 天保8酉ノ年

形態   : 枚

材質   : 紙

寸法   : (縦)471mm(横)351mm

種類   : その他

備考   : (空白)

 

因みに、この古書は、今年の3月2日、オークションで3600円で落札されている。また、調べて見ると、新潟郷土史コミュニティというFacebookサイトに、この古文書を扱った記録がある。いずれにしても、遊郭や遊女に関する記事は、思っていたよりも多いようだ。しかも、視点が様々である。

 

 どうも無粋な人間としては、コメントのしようがない項である。しかし、文化の根源には、「遊び」がある。花街の歴史・風俗は、今在る社会あるいは文化を考察するのは、避けて通れない道であろう。兎に角、横道に逸れず続けていきたい。

 

Best regards

梶谷恭巨



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