柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
[239] [238] [237] [236] [235] [234] [233] [232] [231] [230] [229]

承前。

 

「雑事」(11)

 

外人の登楼 明治七八年の頃、米人某、吾が柏崎に泊せし時、日本のブイーナス(美人の神)と翠帳紅閨に一夜の夢を結んで見たいとの事で、某粋士は其燃ゆる思いに同情し、東奔西走、其敵娼(アイカタ)を求めたけれども、降る亜米利加に袖を濡らさじと許り、誰一人とて応ずる者がなかった。折柄侠気を以て其名を知られたる遊女八重本と云うものが、仮令(タトエ)西洋人ぢゃとて、鳥獣にもあらざれば、何の恐るる事かあると。拾円の花代にて一夜の春を売ったとか、是れ吾が柏崎青楼に外人の登楼した始めとの事である。

 

(註1)翠帳紅閨: 貴婦人の寝室

(註2)青楼: 高貴な人の住む家、遊女屋・妓楼、江戸では、官許の吉原遊郭を指した。

 

 さて、この米国人だが、明治7、8年と云う事になると、思いつく人物がいない。そこで、推測すると、米国人が柏崎を訪問した理由である。すなわち、一つ考えられるのが、石油に関係する人物である。最も有名なのは、ベンジャミン・S・ライマン(Benjamin Smith Lyman1835-1920)である。北海道開拓使の依頼で、北海道一円の地質調査をしたことは良く知られているが、ライマンが、油田の地質調査を始めたのは、明治9年5月からで、先の様に、7、8年と云う事になると、当てはまらない。それでは、柏崎に来る理由が外に在ったかと考えるのだが、思いつかない。柏崎の年表にも記載がない。

 

 それでは逆に、明治7、8年当時、米国人の為に東奔西走する粋人とは誰かと云う事になる。強いて挙げるならば、星野藤兵衛と云う事になるのだが、明治11年、明治天皇行幸の折に、弟と息子が、盟友でもあった近藤芳樹に窮状を訴え、復路、柏崎で、従四位下を遺贈され、千円を下賜されているくらいだから、粋人と言うには疑問がある。それに、星野藤兵衛は、国学者であり、近藤芳樹は、何らかの形で、廃仏毀釈に関わっていると思われるところから、外国人という事になると抵抗があったのではないだろうか。

 

 この問題は、今後も追い掛けて行く積りだが、先の様に、疑問ばかりが残ってしまった。

 

Best regards

梶谷恭巨


コメント


コメントフォーム
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード
  Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字


カウンター
プロフィール
年齢:
76
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
最新コメント
[04/17 梶谷恭巨]
[04/17 まつ]
[03/21 梶谷恭巨]
[11/18 古見酒]
[07/10 田邊]
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
フリーエリア
最新トラックバック
バーコード
ブログ内検索