柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

 

「雑事」(7)

 

白浪庵滔天 一度は支那革命党の首領と迄称えれれた、白浪庵滔天は、僅かに其身を浪花節界に投じ、諸国に興行をして居ったが、四十二年八月の頃、柏崎にも来て、の尽力を以て盛んなる興行を遣った。当時阿部楼に於て某有に招かれた事を雑誌『日本及び日本人』のよもや日記に書して置いた。曰く、

  「老妓豊松、宴席に侍る、曰う此間東京から俳諧のの先生の来られた時、当地の歌を所望されて教えて上げたが、貴君(アナタ)には其時教えなかったのを教えましょうと、得意の美声を張上げて歌う、歌に曰く、

    今のさアー、若衆はヤレー、

     焼山わらじの衆だとさアー、

      いつも目元がさア、かぎとヤレ、かぎとヤレー

  右は柏崎俗謡の一つ也、左の二節は、広大寺と称し、頼山陽の画の師なる如雲和尚の放埓を罵倒したるものなりと。

    新保さアエー、広大寺がヤレ、めくりこいてヤレー、まけたとさアー、

袈裟も衣も質にヤレ、おいたとさアー、

    お袈裟さアー、踊るならヤレ、板の間でヤレー、踊れよさアー、

     板の間響きでヤレ、三味やいらぬさアー、

 めくりこいてとは賭博を意味すと、淡如たる罵倒寧ろ愛す可し、而(シカ)して歌の調の平坦にして余韻ある、言うにいわれぬ妙味あり。

 

(註1)白浪庵滔天: 宮崎滔天の事。滔天に関しては、膨大な史料があるあるが、今の所、手が出せないのが実情である。

(註2)よもや日記: 『よもや日記』は、宮崎滔天全集第四巻に収録されている。しかし、しかし、柏崎市立図書館の蔵書になく、また古本についても調べて見た結果、全集揃いはあった。しかし残念ながら、全集はプレミア付、とても手の出せる価格ではない。そこで、バラ本を調べたが、第四巻だけが見つからなかった。この第四巻には、史料的価値のある日記等が収録されているようだ。また、滔天の自伝と云える『三十年の夢』には、浪曲師時代の事が詳しく書かれていない。しかし、柏崎との関わりに付いては、何とか調べたいと考えている。

(註3)広大寺: 「新保広大寺」という新潟県で広く歌われた踊歌であるようだ。インターネットで調べると、中魚沼郡下条村新保(現在の十日市)の禅寺広大寺の和尚が、門前で豆腐屋の若後家お市との馴れ初めが評判となり、流行歌として江戸中期頃には、江戸市中でも歌われていた、と云う。しかし、頼山陽との拘わりについては、今の所掴んでいない。ただ、幕末、頼三樹三郎が柏崎を訪れているので、その事が印象に残っていたのではないだろうか。

(註4)頼山陽: 膨大な史料があるので、省略する。ただ私事だが、最初に読んだ歴史書が『日本外史』であり、漢詩としては『泊天草洋』だった。

(註5)如雲和尚: 不詳。頼山陽に関わる事なので、追って調べたい。余談だが、私の祖父・湯浅唯一は、戦前、広島の頼山陽塾の塾長をしていた。しかし、私が生まれる前年、白寿を迎えて間もなく死去しているので、直接当時の事を聞くことは出来なかった。

 

 今回は、調べると事がなく、この程度で取りあえず終えることにしたい。

 

Best regards

梶谷恭巨


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