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柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

 「雑事」(4) 

一九先生 文政天保の頃、十返舎一九が北越漫遊に来たが、其道程(ミチノリ)は高田より柏崎、長岡、出雲崎、新発田等を経て会津に出て帰国された。当時吾が柏崎の遊女が如何にして其嫖客(ヒョウカク)に接して居たかを見るに、一九が著した「金の草鞋」に左の如く書いてある。 

  夫より柏崎に至り、金子九兵衛(旅館屋)という方に泊る、此の処至って繁昌の処にて、遊女もあるし相宿の人々と打連れて、瓢宅(娼館)という茶屋に至りて、大騒ぎに楽しみける

  三階節うら「ちょいと御意見申そうなら、髪をー島田にいうより、心を島田にしやんとても、

 コリャしゃんともて、しゃんともて

  客「こいつは縮一反踊りなくした。仕方がない、もう一反踊りなくしてやろう有興(うま)い有興い、有興いから皆なが笑って呉れねへければ始まらねいや、なすびのねへァかねのねへァだ、俺(オラ)が国の鰌(ドジョウ)屋は。皆乃公(オレ)が弟子だ、

女郎「ヤトセヤトセ、こうして踊って居るが、何よりかおもしろい、どうぞ此踊をいいたてに、誰れぞ抱へて呉れぬか、給金は要らぬ、其代(カワリ)酒を一日に五升づつ呑ませて呉れると、夫れで何にも希望(ノゾミ)はないが、同じならば給金もたんと欲しい。

 三階節うた「○○すりゃ孕むと覚悟せよ、蕎麦屋ァ蕎麦屋の爺(オヤジ)が辛(カラミ)にするとて卸させる、やとせやとせ。

 こうも余程踊は下手の横好だぜ、踊は木印さまが一番手に入れたものだのし。 

と見えた、尚お此時一九先生は、狂歌をニ首作って、瓢宅の主人に示した。 

  おもしろや将棋の駒の瓢宅に

       なりこむとはや金の勢ひ

  其頃は五月(サツキ)ならねど餅の名の

       柏崎にて夜を更(フカ)したり 

 瓢宅の主人又文藻に富んで居たとの事であるが即座に左の如き返歌を送った。 

  将棋ばん駒に撰(エラ)みはなけれども

       ふのなりきんはありがたくもなし 

下図は、『金草鞋』第十四編、柏崎の図


序に、鯨波の図も付け加える。

 

 内容については、特に注釈をしないので、読者諸氏にお任せする。ただ、少々付け加えると、『金草鞋』第十四編は、本文とは逆回りで、冒頭が会津若松で、高田で終わっている。 

 十返舎一九の『金の草鞋』については、以前何度か紹介したが、何しろ読解に一苦労。かなの崩し文字一覧表と見比べながらの解読だが、これが又一筋縄ではいかない。内容は、十返舎一九らしい諧謔があり、実に面白いなのだが、何とも歯が立たないのが事実である。これらは、近代デジタルライブラリーに所蔵されているので、興味ある方は、挑戦してみてはいかがだろう。


線香代を定めたる人 明治七年貸座敷業の許可となるや、時の有力家西巻永一郎氏と云うが、娼妓の玉代を三十銭、芸妓揚代を一夜四十銭と定めたそうであるが、是れ柏崎に於て、娼妓よりも芸妓の線香代の高くなった初めである。尤も此時芸妓は、線香一本(凡一時間)十銭と云う時間制をも決定し始めたのである。 

(註1)西巻永一郎: 明治11年8月の郡区村編成法により、同年8月二十日、新潟県第五大区副長・第五小区及び第六小区長に任命されている。因みに、この時の大区長は、山田八十八郎、『柏崎刈羽物語』の著者として知られる当時の代表的文化人でもあった。

 

柏崎の蜀山人 を以て任じて居た、勝田の老人は仲々の豪遊家であったそうであるが、当時の名妓を読み込んで作られた狂歌がある。

 

  若葉かし文字文字せずとはや小稲

      いくら云うてもきかぬやつはし

 

(註2)蜀山人: 大田 南畝の事。寛延二年三月三日(1749419日)~文政六年四月六日(1823516日)、御家人、江戸中期(天明の頃)を代表する文人。

(註3)勝田の老人: 勝田は、現柏崎市高柳門出字勝田の事か。大正3年版『新潟県刈羽郡地価持一覧』(1914年刊)を調べると、門出の豪家は、村田家(分家と思われる家も多い)と中村家だが、詳細は不明。余談だが、高柳には「旦那」が多かったそうだ。例えば、高柳岡野の村山家の庭園「貞観園」は有名。

(註4)「文字」「小稲」「やつはし」: 名妓と言われた娼妓。この中で、「文字」は、後段「柏崎の名妓」の「扇蝶」に、幕末の豪商、勤皇家で、近藤芳樹と親交を持ち、北越戦争では私財を傾けて官軍を支援した星野藤兵衛が、「扇蝶」を落籍し、中山道から京阪に観光した件があるが、そこに「文字太夫」という名妓と、四谷の渡辺金八、料理人の森山文蔵を従者として伴ったとある。文中にも「名妓」とあるから「文字」は、この「文字太夫」のことであろう。また、関甲子次郎(甲子楼主人)著『越後の婦人』(明治355月刊)の名妓に関する記事を調べて見たが、三組かの名妓の写真の中に、先の三名妓は掲載されていなかった。余談だが、この書に掲載された名妓は、「柏崎柳巷の美」に、千種屋つる子、月見亭とよ子、越路屋歌吉、都楼おきみ・えん子、「越路の雪」に、高田大黒屋大吉、同和田屋亀子、三條大塚楼千代松、新潟小川屋安子、三條玉屋たづ子、「柏陽遊里の艶」に、河内楼ちよ子、千種屋みね吉、都屋うめ子、品川楼たけ子・ちえ子、「趙痩楊肥」に、直江津塩谷楼萬歳、出雲崎金秀楼小いし、長岡小村屋きん子、糸魚川佐々楼なみ子の写真が掲載さえれている。

尚、「趙痩楊肥」とは、「痩せ型の趙飛燕と豊満型の楊貴妃を比べた」言葉。写真が、と言うよりも本その物の経年により、劣化してよく見えないが、恐らく、当時の越後における「美人」の典型であったのだろう。また、名前を挙げたのは、社会の裏面に生きた女性たちの存在に敬意を払っての事である。

 

 今回は、二項目を紹介した。また、関甲子次郎の『越後の婦人』を紹介したが、今後も、史料を探し、注釈に順次紹介し、比較検討を行っていきたい。

 

Best regards

梶谷恭巨

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