柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 承前。

「娼妓の事」(2)

駆黴院 市通りを離れて、塵埃少く高燥閑静の地に位置して、其家屋は東南に面
し、北は一眸千里の日本海であるから、随って気温の差は少なく、加うるに其眺望が
病者を壮爽ならしむるに適して居るから、病院としては頗る佳良なのである。

 院長は齋藤邦一郎、篠田脩斎、吉岡仁一郎、乾玄治、入澤親影の諸氏を経て現今は
花柳病、婦人科、外科を以て刀圭界に重きをなす今井多三氏で、朝夕よく院内を見
廻って整理をされるので、本県での成蹟は二三位にあるそうである。

 其上に芸娼妓裁縫学校が、棟を隣して居るから、自然に薫化せられて退院後、進ん
で教を受ける様になる。

検黴方法 永山県令の明治十四年十月発布された処によれば「歌舞遊女ノモノ梅毒ニ
感染スルトキハ駆梅院ノ治療受ケ自宅ニ於テ療養スベシ」とあったが、平素健康の時
には駆梅院で附与する検査札を携帯して居って、一週一回の検査に有毒のものがあれ
ば、此札を引揚げて、同時に駆梅院からは、黒塗り板に胡粉で書いた(横曲尺三寸ノ
竪一尺ノ札ニ何月何日ヨリ梅毒治療中氏名)という書式で標札を渡し其戸外に揚げし
めて、全癒すると之を駆梅院に返納したものである。

 入院治療は院費で支出し、食料寝具日用品は自弁であったけれども、貧困のものは
其事実を詳記し元締(モトシマリ)連印、戸長の保証書を以て願出ずれば、時宜に
よっては、院費で支給された、其後漸次(ダンダン)改められて、現今は進んで一週
間二回の検黴となり病気の者は猶予なく入院治療をさせるので自宅治療と云うものは
殆どない様になった。加えて寝具は備附けられて、洗濯や消毒に怠らぬ。食事は楼主
側で日毎に運んで居るから、いつとなく競争の姿に移ったので充分の給養である。

 全治退院するときには被服等は蒸汽消毒に附し、食器などは煮沸消毒を行うから非
常に安全なものになったのである。

玉代と数 幾つ玉とか線香何本とかいう事は、妓楼から定めたのではない。是れは明
治二三年頃から、客の方から競り上げた結果、今日のように幾つ花と定むる便利が生
じたのである。最も通(カヨイ)で仕切った事もあるそうである。今其玉代の大要を
示せば、始め六百二十五文であって、次がニ朱と百(十三銭五厘)、夫れから付け立
てと云うて、飲食を加えてニ朱と二百五十となったが、漸々(ダンダン)値上げして
二十五銭となり三十銭となった。現今は昼夜を五期(一期二時間の定め)に分けてあ
る、其一回の玉代は五十銭、一夜中なれば揚げ切りと云うて三回、即ち一円五十銭で
ある。昼間は二回で、尚お外にちらしと云うて一玉の半額でお目見えする事が出来る
のである。

年期金 女郎の年季に就ては、種々な定め方がないでもなかったが、維新前まで一般
に行われたのは、六七歳の頃から手に附けるのであって、年期金、売買値段は極々僅
少なる端金にすぎなかった。

 二三の例を挙ぐれば、彼の名妓扇吉は扇屋へ十年の年期で二両で売られ、又小石川
の松浦と云う名妓は、最も美人であった為めに高価とのことであったが、其額は僅か
に四両であったとやら、今から見ると一寸信じられぬことである。

身受金の相場 三浦屋高尾のように、黄金を山に積んでも承知せぬのは別として、
那身受けならば、百両から三百両の間、先ず二百両が上等の部であったそうである。

初客の所望 遊客の所望により、廓内より顔見世に出る場合には、一席に数十人が居
並ぶことがあるが、新女郎屋の抱え婦(オンナ)は必ず閾(シキイ)を隔てて下座し
なければならなかったそうである。

 以上。

 この項は、これで終わるが、何とも複雑な心境である。ところで、こうして読み解
く内に、どうも明治の文明開化と云うものが大いに関係しているのではないかと云う
思いに駆られる。以前にも紹介した渡辺京二の『逝きし世の面影』が、浮かんでくる
のだ。文明文化が急変する時代、安定した社会で培われた価値観あるいは倫理観は急
変する。安定した社会には、その安定の要因である伝統や文化、更に言えば、格式や
掟が人々の行動規範となっていたはずである。そこで、三田村鳶魚の『江戸の花街
を参照してみると、彼の視点が窺える文章がある。

 「成り立たぬ人身売買」以降の数節に、それが見られる。簡単に説明すると、大阪
落城の翌年、元和二年十月には、既に人身売買を禁止する「法度」が発布されてい
る。要約すると、売買した者は、共に売り損買い損の上、売られた者は自由、更に、
この売買が「拘引(カドワカシ)」の場合は、売り主は成敗(死罪)とされている。
また、元和五年十二月の「法度」では、更に詳細で厳格なものになり、「人之売買口
入人の事」として、「かどわかしは売り候時の口入は、死罪たるべし」と明確化して
いる。

 また「年季制限」も、社会状況により変化するが、元和二年十月の法度では、「年
季三年に限る」、寛永三年四月には「男女抱置年季之事」として、十ヵ年に制限し、
十ヵ年を過ぎれば曲事(法律違反)としている。しかし、この延長には、先のように
社会状況があったようだ。すなわち、飢饉があり、大量の人々が江戸に流入し、「三
年の年期」では、寧ろ奉公人あるいは雇人が困窮したという理由がるようだ。その後
も、十五年に延びるのだが、それとは別に、年季奉公の上限、女は25歳、男は30
歳を上限とする慣例が出来たようだ。その例が示されている。これは、明治の池田新
太郎少将と云う人の岡山の郡中法度というもので、以下の様に書かれている。

「今より譜代とて取候者なりとも、男は三十、女は二十五を切て、主人とえい有付、
或は暇を出し候様に申付べく候、今迄取違い候者は、十五より内から取候者は十五
年、十五より上から取候者は十年にて、出し申すべく候、他国へ売遣し候者は、法を
背き、過銭首代に請返し、親類方へ多く返し遣すべく候」とあるようだ。興味深いの
は、「過銭首代に請け返し」と云うところである。

 こうした例から見ると、先にも書いたように、江戸期における政治が単に「上意下
達」のみではなかったことが窺えるのだ。これは余談だが、NHKで「タイムスクー
プ」とか云う一種SF、タイムトラベル的歴史考察の番組を放送したが、その中で、
「落武者狩り」あるいは「かどわかし」を取材した内容のものがあった。戦国時代、
男は首を取られ敵陣に売られ、女はかどわかされて売られたと云うのだ。勿論、衣類
や甲冑などの武具は、余得と云う事である。この落武者狩りは農民の副業だったのだ
から、驚きでもあるが、強いて言えば戦国時代の農民の知恵、生きる手段でもあった
のだ。

 どうも単純に読み解けないようだ。未だ読み込みが不十分で、読者の誤解を招く事
を危惧するのだが、兎に角、史料として紹介することを、ご了承頂きたい。

Best regards
梶谷恭巨

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