柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 承前。

  尚、原文史料には、候文の

読み下しを加えた。

「遊女屋の起り」(3)

 其後明治二巳年民政局より遊女の取調べ方を指達されたのであるが、今其書上書を
記せば左の通りである。

 飯盛人書上帳

 五人小石川惣吉   五人千種屋徳之丞  一人若松屋八十郎 一人大越屋伝三郎

 二人半宅屋杢右衛門 十一人緑屋与平   四人松原屋藤七  二人常盤屋吉九郎

 三人千鳥屋當右衛門 三人瓢わ宅屋安之助 一人小高屋民吉  一人五宅屋又六

 二人桜屋竹三郎   六人高橋屋吉右衛門 三人小池屋藤助  四人小嶋屋平左衛


 一人松原屋松三郎  一人駒野屋林兵衛  九人扇屋佐兵衛  一人日吉屋吉兵衛

 一人河内屋庄兵衛  三人いろはや平二郎 二人松坂屋吉太郎 計廿三軒、七十二


 右ハ飯盛人数書上ゲ候様被仰付候に付キ即取調ベ書上候処前書ノ通リニ御座候以上

(右は飯盛人数書上げそうろう様仰せ付けられそうろうに付き、即ち取調べ書上げそ
うろう処、前書の通りにご座そうろう)

   明治二巳年八月

            年行司  長  又六

            同    同   徳之丞

            同    扇  藤助

            同    同   吉右衛門

            御会所年寄

                 山田仁右衛門

            大庄屋  宮川  才策

 民政局 御役所

 尚ほ是が状況の取調べを受けて、左の如く届けをなす。

  御尋ニ付キ乍恐以書附奉申上候(お尋ねに付き恐れながら書付をもって申上げそ
うろう)

  一當方飯売女濫觴之義(一つ、当方飯売女、濫觴の義)

往古ハ遊女又茶屋女ト唱ヒ人数定モ無之候処(往古は遊女または茶屋女と唱え人数の
定めもこれ無くそうろうところ)

寛政四子年領主ヨリ御改革アリテ新古旅籠屋中一軒ニ付キ飯売女二人宛置キ可申旨被
申附候処

(寛政四年子年、領主より御改革ありて、新古旅籠屋中、一軒に付き飯売女二人宛、
置き申すべき旨、申し付けれれそうろうところ)

文化十一戌年ヨリ方ニ奉公筋無之候而ハ不相成旨ニテ宿馬八疋新古旅籠屋中ニテ相
抱ヒ宿役相勤候得共御用宿相勤候者飯売女差置キ候義ハ不相成候義に付キ飯売女名前
貸借リ同居等勝手次第ト申規定ニ相成

(文化十一年戌年より方に奉公筋これ無くそうろうては、相成らざる旨にて、宿馬
八疋の新古旅籠屋中にて相抱え、宿役相勤めそうらえども、御用宿相勤めそうろう者
は、飯売女差置きそうろう義は、相成らずそうろうに付き、飯売女名前の貸し借り同
居等、勝手次第と申す規定に相成り)

文政十亥年ヨリ都(スベ)テ飯売女差置キ候者宿場十五疋相抱ヒ宿役相勤メ候事ニ相
成リ候へ共追テ馬持仲間ニテ差支筋有之候ニ付キ改正致シ馬代金冬飼料継馬餘荷等都
而宿馬入用ノ半金出金ノ事ニ相成リ格別方助成ニモ相成リ候義ニ御座候尋ネニ付キ
乍恐以書附此段申上候以上

(文政十年亥年より、すべて飯売女差置きそうろう者は、宿場十五疋相抱え宿役相勤
めそうろう事に相成りそうらえども、追って馬持ち仲間にて差支えの筋、これ有りそ
うろうに付き改正致し、馬代金、冬飼料、余荷等、すべて宿馬入用の半金出金の事に
相成り、格別方助成にも相成りそうろう義にご座そうろう尋ねに付き恐れながら書
附をもってこの段申上げそうろう、以上)

  明治二巳年

            山田仁右衛門

            小熊 嘉市

            宮川 才策



 以上の書上帳に因ると寛政以前迄は遊女又は茶屋女と唱えて、人数抔(ナド)の制
限もなかったのであるが、其後改正された、新古旅籠屋中に飯売女二人宛を置く事に
定められ、税金の代りに馬代金と云うものを納めたのであるが、此後又変遷して、人
数の制限抔もなくなってしまい、且つ遊女抔と唱えたのであろう。最も長に在る女
郎屋を新々旅籠屋と云い、扇に在るのを新旅籠屋と称えて、且新々旅籠屋へは高田
藩などより護送される罪人の軍鶏籠(トウマルカゴ)を順番を以て泊めたのもので
あって、又新旅籠屋へは浪人などを泊めたものであるとの事である。

(註1)年行司: ネンギョウジ、江戸時代、一年交代で勤めるあるいは株仲間の
役員。この場合、名前から推測すると、遊女屋の株仲間あるいは今風に言えば組合の
役員と云うことであろうか。

(註2)長・扇: 現在の柏崎市西本3丁目。大正4年7月25日、長・扇
・大一部、五坊一部が統合されて本二丁目になり、その後昭和40年10月
1日に、本一丁目・本二丁目一部・八坂。鵜川一丁目一部・島
部・納屋下一部・八坂の下一部が統合されて、西本三丁目になった。因みに、先
の号で挙げた「長谷川」からとったと云う「長」「谷」「」の内、「谷
「川」は、本一丁目から西本三丁目になった。このには、八坂神社の他、専
念寺、浄興寺、西入庵、香積寺、観音寺、一念寺などのほか、神社仏閣が多く、一見
の観がある。

(註3)濫觴: ランショウ、物事の起り

 「書上書」には、例えば、新々旅籠屋とか新旅籠屋の区別など興味ある事実が多々
あるが、調べるのに少々時間がかかりそうだ。よって、今回は、ここで終わるが、次
回でこの項が終わるので、改めて検証し、注釈など加えたい。

Best regards
梶谷恭巨

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