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柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

「二、遊女屋の起り」(1)

 天正の頃、上杉遺臣の妻妾が糊口(クラシ)に窮して、銀五分を以て、一夜の春を
売った事があるが、其者を白ゆもじと云うて、五分小路(今の郵便局前の細い小路で
土紛五路)と云う処に居たのである。其後慶長年中に、国守松平上総介が福島城に居
られた頃、大久保石見守と云う寵臣があったが、此人が主となって、北國海道に駅亭
を設けて、是に飯盛女と云うを置いて、旅客の給仕や、偖(サ)ては密かに枕の塵を
払わせる事迄したのである。此石見守は佐渡の金山奉行を勤めて居たが、佐渡へ渡航
の往復には必ず柏崎に立寄っては、多くの婢女を集め、淫楽を恣にして、旅の鬱を慰
めて居たが、後愛妾の十二人も置いて、広壮なる館に住んで居たとの事であるが、間
もなく断絶したそうである。其後下の関より吾が柏崎に移住して駅馬宿を開いた瓢箪
屋(一説に大阪瓢箪より来たりと)と言うもの、至って通人であって、往来旅客の
取持ち方宜しく、瓢ヶ宅として遠近に知られ酌婦の如きものを置いて、益々繁昌に赴
いたので、其後是に做(ナラ、倣?)うものが続々出て来て、遂に今日の様な盛況を
見るに至ったのである。最も此瓢箪屋は京阪地方より移住し来ったものである事は確
実なるものと思われる。そ(鳥居の様な字だが、辞書にない)は瓢箪の目印看板を用
い、且つ瓢箪屋と云う屋号を附ける事は、京阪地方より始まったと云う事であるか
ら、兎に角前記の瓢箪屋なるものは下の関ではなく、大阪より来たものであろうと思
うのである。

(註1)上杉遺臣の妻妾が糊口(クラシ)に窮して: 上杉氏が米沢へ移封となるの
は、慶長6年(1601)であるから、「天正の頃、上杉の遺臣」と云うのは、天正6年
(1578)に起きた、謙信亡き後の相続争い「御館の乱」で、景勝に敗北した景虎の遺
臣という事であろうか。刈羽郡で言うと、景勝に与したのは、上条城主(上条政繁、
上杉氏)、赤田城主(斎藤朝信)、佐橋庄領主(北条高定、毛利氏)、安田氏当主
(安田顕元)等であるが、これら各氏は、中世からの習いで、親兄弟で家を二分し、
家名を残す訳だから、上杉の遺臣と云うのは、景虎に味方した同族の婦女子だったと
言う事だろう。

(註2)五分小路: イメージからすると「御粉」すなわち「白粉」ではないだろう
か。又、土紛とあるから、土ぼこりが立つ様な荒涼とした様子が見えるのだが、それ
は心情的なことで、寧ろやいだ雰囲気があったのではないだろうか。

(註3)国守松平上総介が福島城に居られた頃: 徳川家康の六男、天正20年
(1592)1月4日生まれ。母は茶阿局。妻は伊達政宗の長女・五郎八(イロハチ)
姫。元和2年(1616)7月6日、表向きの理由は様々だが、兄・秀忠により改易、伊
勢国朝熊に、更に飛騨国高山に配流され、寛永3年(1656)信濃国諏訪に流されて、
天和3年(1683)7月3日、諏訪高島城で没した。享年92歳。

 福島城は、上杉景勝の会津移封の後に城主となった堀秀治によって築城された。現
在の上越市港二丁目辺りと云われ、中世の国府・府中に相対する立地であったよう
だ。

(註4)大久保石見守: 大久保長安(ナガヤス)の事。天文14年(1545)、猿楽
(能)大蔵流を創始した猿楽師・大蔵大夫十郎信安の次男として生まれ、後に姓を土
屋と称し、武田信玄に仕え黒川金山などの開発を行ったが、武田家滅亡後、その技術
を買われ徳川家康に仕えた。その後、大久保忠隣(タダチカ)の与力として、甲斐国
の再建に努め、更に関ヶ原の戦い後、大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役、
甲斐奉行、石見奉行、美濃代官、とんとん拍子に出世して、慶長8年、家康が征夷大
将軍に叙任されると、長安自身も従五位下石見守に任じられ、家康の六男・松平忠輝
の附家老となる一方、佐渡奉行、勘定奉行、老中に上り、更に伊豆奉行を兼任した。
鉱山あるいは土木技術に長じ、且つ計数に明るかった所謂「出来る男」だった訳であ
る。しかし、権力が集中し、「出る釘は打たれる」の習いの如く、家康の寵を失う
と、職責を次々と罷免され、不幸も重なって、慶長18年、卒中の為に死去。死後、
更に、不正蓄財の嫌疑を掛けられ、子の内、男子は全て処刑され、長安の遺体は掘り
返されて、首を切られ、駿府城下の安部川に晒された。映画や小説では、悪人役の代
名詞とも云われたが、その真実は、詳らかではない。また、大久保長安が柏崎に滞在
した、と云う出典が分からない。

 この文脈だけでは、当時の柏崎の状況が読み取れないが、江戸時代、鉢崎(今の米
)が幕府直轄領で、関所が設けられた事から推測すると、戦国時代から宇佐美氏
の城下であった柏崎が、交通の要衝であった事が窺える。ただ、江戸初期中期の紀行
文など当たるのだが、今のところ、江戸後期寛政の頃(1789~1801)に、京の医師・
橘南谿が著した『東遊記』しか見当たらない。因みに、『東遊記』中、新潟に関する
記述は、以下の通り。

 名立崩れ(13)、米山(14)、佐渡わたり(22)、親不知(23)、七不思議
(34)、葡萄嶺雪に歩す(40)、新潟(42)、竜の鱗(48)、蚌珠(ボウジュ、河真
珠のことらしい、49)、登竜(54)、舞楽(63)、鍛冶屋敷(88)、姫川波浪
(89)、春日山(90)、空穂舟(95)、土を薪にす(101)、の16件の収録があ
る。因みに、記載のある土地を現在の県で言うと、京都、神奈川、東京、愛知、静
岡、滋賀、福井、石川、富山、岐阜、長野、新潟、山形、秋田、宮城、岩手、青森、
北海道のほぼ全域に亘り、段数は104であるから、越後に関する記載は多い方であ
る。尚、()内の数字は、東洋文庫『東西遊記』(平凡社)の第一巻『東遊記』の段
番号である。また、越後に記事に、遊女や遊郭に関する記載は見当たらなかった。

Best regards
梶谷恭巨
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