柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

柏崎の遊廓』

「一、花街の起り」

 柏崎花街を称して新と云うが、とは比較的他よりも新しいであるから、
其の称があるので、又長谷川三を総称したのである。天和検地の際には畑地であっ
たが、間もなく砂埋れの為めに一旦荒地に帰してしまった。それを元禄年中の代官長
谷川新五左衛門という人が、柏崎に在勤の時開拓して、屋敷請をしたのであるが、今
日の長、谷、川は此長谷川の名に因んで附けたものである。尤も世間で云う新
とは此長谷川三の事を云うのではなく、妓楼のある処を指して言うので、遂に今
日に至る迄、人の呼ぶ処となって居るのであるが、是れ或は大阪の新より伝え来っ
たものであろうか。そは兎に角、柏崎の遊廓は古来より扇にあった事は事実
で、天和の頃迄は扇の事を橋場と云て居たが、元禄の頃迄此処に用会所(役所)
があって、元禄十六年戸田家の郡代奉行所矢中多七郎の時に此役所を島移し
て、陣屋と称え、修復の入費は割で支出する事に決し、後貞享年中、旧扇役所の
家屋を修築して、稲葉家の御用会所と定められた、此頃内に飯盛の稍進化せるもの
を、駅場宿に置く事を許されたが、其後屋敷検査の為に大久保村に移されたとの事
である。

 尚お往昔吾が柏崎は馬継場として、有名な地で、毎年六月七日より一週間は祇園祭
礼で、加うるに馬市があって、附近なる天王新地より浜辺にかけて数百頭の馬匹
が係留された事は、今に古老の語る処である。寛政の頃火災の為めに、臨時に市場を
閻魔堂境内に移したが、地理の便なる処から、爾後市は年々閻魔堂境内に行わるゝ事
となった。其後柏崎の馬市は椎谷の馬市と合併することとなって柏崎の市は単に閻魔
市と称え、見世物を主とする市に化し今尚お年々盛んに行われて居るのである。尤も
他の説に因ると閻魔市と馬市とは全然別物であって天王新地の馬市は今日微かに残存
せる春日の馬市に化したものであると云う事である。要するに新の繁盛を来たすに
至ったのは、此馬市が与(アズ)って大に力あるのである。古来郷人は新を呼ん
で、馬捨場といって居るが、是れ即ち伯楽等が賭博或は遊女(飯盛)の為めに、財布
を空にして、所有の馬を手放すもの多い為めに、其名目を付けたのであるが、当時の
繁昌は実に驚くの外なかったそうである。

(註1)天和検地: 元和元年6月、「越後騒動」の決着がつき、翌元和2年4月末
から7月末まで、諏訪・松代・飯山・津軽四藩によって行われた惣検地の事で、明治
に至る迄、土地基本台帳とされた。(新潟県立文書館、古文書講座の解説参照)ま
た、この『元和検地帳』は、柏崎市立図書館の『柏崎の近世史料』に収録されてい
る。

(註2)長谷川新五左衛門: 元禄時代、柏崎は稲葉家・高田藩領。当時の藩主は、
稲葉正往(マサミチ、正道)であり、長谷川は、その代官であったと思われる。ただ
し、稲葉家の小田原時代あるいは天保年間の分限帳に「長谷川」の名前は無かった。

(註3)元禄十六年戸田家の郡代奉行所矢中多七郎: 戸田家は元禄14年、下総
佐倉藩から高田に移封、宝永7年、宇都宮に移封された。歴代最も石高が低く6万7
000石であり、治世には消極的であった。「郡代奉行所」とあるのは、「郡代」
と「奉行」を兼務していたという事か。因みに、職制から言えば、「郡代」の方が
上位である。

(註3)貞享年中、旧扇役所の家屋を修築して、稲葉家の御用会所: 時代錯誤が
あるようだ。貞享(ジョウキョウ)は、1684年から1687年(貞享4年)まで
続き、1688年に元禄に代わる。稲葉氏の高田治世時代は、貞享2年、小田原から
高田に移封、元禄14年(1701)、下総佐倉に移封された。余談だが、Wikipediaの
高田藩「稲葉正住の時代」に、佐倉への移封が元禄16年とあるが、これは明らかに
間違いである。

(註4)屋敷検査: 家は、間口の幅で課税されたというから、その間口を調査
したという事か。

(註5)大久保村に移された: 白河藩松平家(久松系)時代の寛保2年(1742)
に、扇陣屋から移転。因みに、同松平家が、桑名に移封されたのは、文政6年
(1823)で、柏崎を含む越後領は、引き続き飛び領として支配された。

(註6)祇園祭礼(社): 大正11年刊の『越佐案内』によれば、「湊天王社は、
和那祇神社とも称し、鵜川の東岸に在りて柏崎の鎮守なり。境内眺望に富、遥に佐渡
を望み、北には椎谷の観音岬、南には下宿の番神が鼻相対して海中に突出し海水の湾
入する処、夜に入らば漁火島嶼に連亘し、夏季納涼の絶景地なり。」とある。ここで
云う「湊天王社」あるいは「和那祇神社」が、所謂「祇園社」あるいは「八坂神社」
と思われる。その境内で、開催された八坂神社の大祭「祇園祭」が、今の「祇園まつ
り」の発祥。また、大正15年刊の『柏崎案内』には、「此境内は眺望絶景の地で最
近八坂霊泉組合を組織して広壮な浴場と貸間が出来ている。」尚、この件に関して
は、柏崎市のサイト(下記)「柏崎の水」に詳しい。

  <http://lib.city.kashiwazaki.niigata.jp/siraberu/mizu/145_1.pdf>
http://lib.city.kashiwazaki.niigata.jp/siraberu/mizu/145_1.pdf

(註7)寛政6年、天王新地:牛頭天王を祀った天王社前の砂浜を市川与一左衛門が
開発したので、天王新地と称された。寛政鑑に天王門前18件とある。その後、祇園
社が遷宮されたので祇園新地、八坂神社と改称後は八坂新地と称された。明治20
年、柏崎の一部となり、以後、大正4年まで通称名となる。(『角川日本地名大
辞典(旧地名編)』)

(註8)閻魔堂: 同上『越佐案内』によると、「有名な閻魔堂は駅よりに入り北
二丁の地に在り、閻魔王の座像三尺余、泰広王婆鬼、何れも木彫にして運慶作なりと
云う。閻魔市は毎年六月十日より十六日迄にして十五六の両日最も賑いを呈す。堂は
聖武天皇神亀三年(726)の建立にして、側いに芭蕉の句を彫れる碑あり」とある。

(註9)春日: 明治22年(1889)の村制施行に伴い槙原村に、明治34年
(1901)に日吉村と合併して西中通村に、戦後一部分離して、昭和29年にすべて柏
崎市に編入された。故に、当時の春日は、西中通村大字春日ということになる。因み
に、江戸時代、高崎藩主安藤重長の次子重広が明暦3年(1657)に本藩から7000
石を分地され旗本になり、その内5000石が越後国刈羽郡内にあり、春日に陣屋を
置いた。余談だが、文政年間、一揆が起るほどの悪政があり、「春日には嫁をやる
な」とまで云われた。余談だが、春日に隣接する平井村も安藤領であったが、安政5
年3月、小千谷の算学者・佐藤雪山と弟子でもあった『三元素略説』を著した広川晴
軒が、一揆後に代官に起用された高野六大夫に依頼され、田畑の測量を行っている。

 今回から柏崎の事になった訳だが、知らぬ事の多さに驚く。閻魔堂の閻魔王座像等
が運慶の作と伝えられているとか、境内に、芭蕉の句碑があるとかである。 芭蕉
は、柏崎人の対応が悪いと、柏崎を飛び抜けて柿崎に泊まったと云われているから、
柏崎に場所の句碑がある、あるいはあったとは思わなかったのである。付け加える
と、先に挙げた『越佐案内』によると、刈羽郡には、柏崎高浜村、石地、下宿
村、枇杷島村、高柳村の、二四村あった事が分かる。現在、刈羽郡には刈羽村一村
しかない。地名が、合併などで変遷しているので、今後、その確認に時間を取られそ
うだ。古地図も探しているのだが、今のところ見つからない。これも難題を投げ掛け
そうだ。

 いずれにしろ、これから先、調べることが多くなりそうである。今回も、調べる時
間に多くを費した。まあ、致し方あるまい。

Best regards

梶谷恭巨

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