柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 しばらく一般論が続く。 ご容赦。 (尚、今のところ、平日に一段毎紹介する予定である。)

 

 さて、今回は、江戸吉原の沿革とでもいうべき段落である。実のところ、遊郭の知識など皆無に等しい。精々知っていると言えば、TVや映画の時代劇で、その一端を垣間見る程度だ。斯く次第で、当初は柏崎に関わる部分のみを、と思っていたのだが、改めて考えてみると、さて地理が分からない。柏崎に来てしばらくの間、友人のスナックの裏方などした時期がある。それがあるから、それなりに昔話を聞いた覚えはあるのだが、なにせ『柏崎が書かれたのは、明治42年(1909)であるから、既に百年以上昔の話だ。ましてや、地元生まれでもない異邦人だ。さて、どうしたものか、と思うのである。

 

 以前、『ある旧制中学校長の足跡』として、柏崎中学、確か第四代校長である羽石重雄を中心に取材した。九州は、出身地の福岡から熊本、長崎、本州に渡り、山口、大阪、新潟、そして初任地でもある長野へ。また柏崎長岡中学歴代校長について言えば、鹿児島から北は、山形、宮城に至る。勿論、教育を受けた東京もあるのだ。この場合は、案外、その取材が絞れたのである。先ず、明治の中等教育がテーマにある。それに、教育については、少なくとも予備知識がある。それでも、ミッシングリングを探す事が出来なかった。

 

 さて、今回の『柏崎』は、先のように予備知識が無いのである。実のところ、花柳界・遊郭に関する文献を読むのは初めての事と言ってよい。矢張り、編者である小田金平氏が、「凡例」でぼかすのも、花街は社会のり面という事だろう。しかも、その土地に深い拘わりを持っている。まあ、そんな次第で、写本の積りで『柏崎』を入力し、字句・出典に注釈を付けて、頭の中にイメージでも出来ればと考えた訳である。

 

 何とも言い訳がましいことになったが、今しばらく、ご容赦されたい。

 

「江戸吉原」

 慶長以前には江戸にも麹八丁目に十四五軒、鎌倉河岸に十四五軒、大橋(今の常盤橋)の内柳に廿軒余散在し居って、一定の遊廓と云うものはなかった。慶長十七年の頃、庄司甚右衛門というのがあって、良家の子弟の流連遊蕩する事を取締るに便利なる事、及び詐欺暴力等を以て誘拐せられたる婦女を保護するに便なる事、又大阪の残党の処々に潜伏するを吟味するに便利なる事の理由を以て、所々に散在する娼楼を一所に集合せん事を願い出で、元和三年漸く其許可を得たので、茸屋の内二四方を賜わり葭茅を刈払い、此処に一の遊廓を組織し、名附けて葭原と云うたのであるが、後に葭の字を吉と替えて吉原と云うに至った。其内の京へは元麹の妓楼、江戸へは元柳鎌倉河岸の妓楼、へは京の角(カドマチ)の妓楼が移住したものである。

 尤も此庄司甚右衛門と云う人は小田原の者で北條家の浪人であるが、天正十八年小田原城落城の後、江戸に来て、前に述べた柳に傾城屋を起てたのであって、吉原の沿革『洞房語園』の著者勝富が六代の祖である。此人は總(惣)名主となったが、其節五ケ條の申渡しがあった。

一、    傾城の外、傾城商売致す可からず、並(に)傾城園の外、何方(イズカタ)より雇来り候共、先々へ傾城を遣わし候事

一、    傾城買遊び候者、一日一夜より長留致すまじき事

一、    傾城の衣類、総縫い金銀の摺箔等、一切着せ申間敷(モウスマジキ)事、何地(イズチ)にても紺屋染用い可申事

一、    傾城家作普請等、美麗に不可致(イタスベカラズ)、役は江戸之格式通り、急度相勤可申(アイトトメモウスベキ)

一、    武士人体の者に不限(カギラズ)、出所慥(タシ)かならず、普請成者(フシンナルモノ)徘徊致し候わば、住所吟味致、弥々(イヨイヨ)以て普請に相見候わば奉行所へ訴出可申事

右之通急度相守可申もの也

 

 此吉原は其後日に月に繁昌したが、明暦二年其辺一帯御用地となりたれば、と三の地を一万五百両の移転料を賜わって、代地なる日本堤のしたに移ったのであるが、是れ即ち新吉原の由来である。遊女の数は寛保より天保の頃迄は二千人乃至二千五百人の間を往来し、安政以後は三千人を超すに至った。初は吉原の外に妓楼を設くる事を許さなかったが、後には次第に其禁制緩和となって、深川、本所、根津、音羽、三田、赤阪、田、麻布市兵衛、鮫ヶ橋堂前其他に十軒、二十軒の妓楼が出来たが、天保十三年の厳禁を見るまで、吉原に対して是を総称して岡場所と云うて居たのである。

 

(註1)吉原の沿革『洞房語園』の著者勝富が六代の祖: 『洞房語園』は、江戸中期の随筆、著者は、庄司道恕斎富勝で、庄司甚右衛門の子孫。享保5年(1720の自序が残っているが、本文には異本などあるようだ。

(註2)天保十三年の厳禁: 水野忠邦の「天保の改革」

 

 冒頭に書いた次第だが、一つ思い出したので、トリビア的記憶を。何で読んだのか定かではないが、(もしかすると、渡辺崋山と生田万の高崎塾でのエピソードか?)、高崎の旅籠の話ではなかったかと思う。越後出身の高崎の飯盛りが、待遇が約定と違うと、公文所に訴状を出したのだそうだ。驚いたのは、その訴状が自筆だったと云うのである。特に関東の裏の世界は、映画などで余ほど悪いイメージしかないのである。それこそ記憶が定かでないが、江戸時代のイメージを一変させるエピソードだと思った。そう、もしかすると、アーネスト・サトウに日記か、あるいは、渡辺京二の『逝きし世の面影』に引用された外国人の記事ではなかったか。だからと言って、負のイメージが払拭される訳ではないが、アンビバレンスを内在するのが、人であり社会だと思うのである。

 

Best regards

梶谷恭巨


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