柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 今回から本文に入る。 しばらくは一般論あるいは概説である。柏崎の事を早く知りたい向きもあるだろうが、今少しのご猶予を。 尚、カッコ内の読みは、便宜上付けたものである。

 

「我国の花柳界」

 

 多数の妓楼を一定の地域内に集合したものを遊郭と云うのであるが、公娼を取締るには散娼式と集娼式との二つあって、遊郭組織は集娼式の一つである。欧州諸国の内でも伯林(ベルリン)は専ら散娼式で、巴里(パリ)は散娼式と集娼式とを併用して、共に遊郭と云うものはないとの事である。其他地方の小都府に於ては、往々遊郭式に則(ノット)るものがあるけれ共、美の設備をして、人目を惹く事を禁ぜられて居る。我国でも一廓をなして群集すると云う事は、将軍の時代迄はなかった。尤(モット)も以前に猿源氏の草紙に、五條東の洞院に大傾城(オオケイセイ)屋があって、遊君三十七人許(バカ)り出で立たせと云う事があるが、是とても此の処に、大なる傾城屋があったと云う迄の事で軒を並べて一廓をなして居たと云う様な事はない。就中(ナカンヅク)一廓の鼻祖は往昔太閤の家臣に原三郎左衛門と云うものがあって、太閤出駕には必ず御供を勤めたが、或時太閤秀吉が仰せられたには、予天下を掌握してより以来国富み民栄うる事、其限りを知らず、此時に当りて、如何なる雑人原にても、我内にあるもの心に望み思う事あらば申す可しとの上意があった。曾(タマタ)た太閤洛陽万里小路を御通過の時、矢張件(クダン)の三郎左衛門が御供の内に罷(マカ)り居たが、其頃此万里小路二條辺は道の両側に柳の並木があって、実に青々たる千條の緑を垂れて居たので、俗に此処を柳の馬場と呼做(ヨビナ)したのである。太閤の御馬が恰(アタカ)も此処へかかりたる時、三郎左衛門、公の馬前に跪(ヒザマズ)いて申上ぐるよう

『恐れながら、私内々存ずる旨あり、遊女を抱え集めて、洛中に傾城屋を建て、格子局(ツボネ)を飾り、糸竹の調べに歌舞を尽し、衆人を慰めて、京師を賑いにいたしたく、且は国家安泰の瑞相になり申す可き歟(カ)』

と言上した。

 元より太閤は色を重んずるから直ちに許された、間もなく三郎左衛門は此処に粗末ながら仮屋をしつらえ、暖簾(ノレン)をかけわたして傾城屋をこしらえたが、此事を聞ける都の内、諸所に散在して居た傾城屋共が馳集まって三郎左衛門の手下に属し、屋敷を受取り、家を普請して、瞬く間に立派な遊郭を作り上げた、時に天正十七年である。尤も此の三郎左衛門は、太閤の馬の口取であった、是によって、傾城屋の異名を轡(クツワ)と云う説があるが、三郎左衛門が馬の口取であたっと云う事は慥(タシ)かでないから、轡と云うのも疑わしい。尚お孝、悌、忠、信、礼、義、廉、恥の八正を忘るるものの入り込む処であるから忘八屋と云う異名もあるが、何れが真なるか判別しない。兎に角遊女が一廓内に集合して妍を競い、栄を争うたのは此時より始まったのであるが、徳川時代には非常に遊郭組織が発達して寛文年中、全国に公娼許可を得しもの二十五ヶ所に及んだとの事である。今其所在地を洞房語園に拠って記せば実に左の如くである。

 

 第一  京の島原            第二  山城国伏見夷

 第三  伏見           第四  近江国大津馬場

 第五  駿河国府中弥勒      第六  武蔵の国新吉原

 第七  越前国敦賀六軒      第八  同 三国松下

 第九  同国今庄新         第十  大和奈良鴨川

 第十一 和泉国境北高洲      第十二 同 境南津守

 第十三 摂津国大阪瓢箪      第十四 同 兵庫磯

 第十五 佐渡国鮎川(相川)山崎町 第十六 石見国塩泉津稲

 第十七 播磨国室小野       第十八 備後国鞆有磯

 第十九 安芸国広島太多海(忠海) 第二十 同 宮島新

 第廿一 長門国下ノ関稲荷     第廿二 筑前国博多柳

 第廿三 肥前国長崎丸山      第廿四 薩摩国樺島田

 第廿五 薩摩国山鹿野

 

 其後日に月に増加して、今日に在っては全国を通じて、実に四百余ヶ所も出来て居るが、実に其増加の速やかなるには驚かざるを得ない。而して芸娼妓の増加も偉大なるもので、明治三十七年度末に於ける全国の調査は

 娼妓  四万二千百七十八名

 芸妓  二万六千二百二十六名

に達して居ったが、当時は日露戦役の影響で、師団兵営所在地に所謂軍妓の増加著しく、芸妓は比較的減少して居ったとの事である。今日では亦多少の増加を示して居るであろう。

 就中吾が国に於ける遊郭の嚆矢(ハジメ)は京の島原を始め江戸の吉原、大阪の新等で、今此(イマココニ)日本三大遊郭の沿革を記し、併せて遊郭の出来ぬ前の事は、白拍子、遊君、遊女、傾城と云う名の下に一々項目を挙げて記述する事にする。

 

 以上、「我国の花柳界」の内、前半を記した。

 

(註1)原三郎左衛門: 不詳。 この話は、江戸中期の国学者・入江昌喜、享保7年(1722)~寛政12年(1800)の『久保之取蛇尾』に書かれているようである。また、太閤に願い出たのは、原のみではなく、当時浪人をしていた林又一郎(後の歌舞伎役者・林又一郎の名跡)と共に願い出たようだ。林又一郎の作った「扇屋」は、その後も子孫によって継承され幕末まで続いたそうだ。

(註2)太多海: 現在の広島県竹原市忠海

 

 今回は、特に注釈・解説もほとんどないと思う。 尚、25遊郭の所在に関しては、インターネットで調べるのも一興かと。

 

Best regards

梶谷恭巨


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