承前。 前回に続いて、「遊女の起源」の残りを紹介する。尚、終段は用語の説明であるので注釈を省略した。次回は、「土地と遊郭との関係」を紹介し、その次から愈々「柏崎の遊廓」に入る。
是を見ても其繁盛の状を知るに足るのである。公任卿の和漢朗詠集には遊女を詠じて、倭琴緩調臨潭月唐櫓高推入水煙とあり、中御門宗忠卿の中右記には熊野與比和君同船追一舟中指二笠発今様曲付船漸過神崎之間とあるのを見れば、遊女は傘を指しかけて船に上り、今様を歌い倭琴を掻き鳴らし、鼓等を打ち鳴らしたものの如く、これと共に春を売り枕席に侍ったのは勿論の事である。前記遊女記にも莫不接牀第施慈愛と云い、中右記前の続に相公迎熊野與州招金壽羽林抱小最下官(宗忠卿自身を云う)自本此事不堪仍帰自沈寝る(了)とあるのを見ても明らかなる次第である。
(註1)公任卿: 藤原公任(キントウ)の事。康保3年(966)~長久二年1月1日(1041年2月4日)、平安時代の学者で、藤原氏全盛の関白太政大臣・藤原道長の子・教通の女婿、その嫁す時に贈答されたのが『和漢朗詠集』と伝えられる。時代的には平安末期、村上天皇の時代であった。
(註2)倭琴緩調臨潭月、唐櫓高推入水煙: 冒頭「倭」は、「和」だが、古写本には「倭」とするものもあるようだ。読み下すと下記の通り、
和琴は緩く調べて潭月に望み、唐櫓(カラロ)は高く推して水煙に入る。
和琴は、『倭名抄』の注に「体は筝(ソウ)に似て短少、六弦有り、俗に倭琴の二字を用う」(読み下しにした)とある。潭月の「潭」は、水が淀んで深いところであり、「潭月」は、その「潭」に移る月の事。唐櫓(カラロ)は、唐様式に作られた櫓の事。
大意は、その遊女は、水の深みに映る月に向かって、和琴を奏でる、また唐櫓は高く、水煙に入るは、何ともエロチックな表現である。まあ、読者諸氏の想像に任せるとしよう。
(註3)中御門宗忠卿: 平安後期の公卿。藤原北家(藤原氏嫡流家)中御門流、権大納言藤原の宗俊の長男で、従一位右大臣を任じた藤原宗忠の事。丁度、今読みかけの『平家物語』の平忠盛事件に関係が深い。
(註4)中右記: 藤原宗忠の日記。
(註5)熊野與比和君同船、追一舟中指二笠、発今様曲、付船漸過神崎之間: 熊野はこの和君と同船し、一舟を追って中指二笠、発するは今様の曲、付船は漸く神崎を過ぎるの間(ここは、付船は漸く過ぎる神崎の間、と読んでもよいかもしれない)
(註6)莫不接牀第施慈愛: 前回註を参照。 (牀第に接し、慈愛を施さざることなかれ)
(註7)相公迎熊野、與州招金壽、羽林抱小最、下官(宗忠卿自身を云う)自本此事不堪、仍帰自沈寝る(了): 相公は熊野を迎え、与州は金寿を招き、羽林は小最を抱き、下官は本よりこの事に絶えず、よって(すなわち)帰り自ら沈み寝了す。尚、「る」とあるのは「了」の間違えであろう。
又遊女の外に、傀儡と云うものがあった。傀儡とは人形の事である。後世の山猫舞わし、手品使いなどの如く、旅から旅を人形を舞わしめ放下など為(シ)歩きたる婦女等に始まった名称で、水辺にあるを遊女と云い、陸駅にあるを傀儡と唱えたのであるが、爾来星移り物替り其区別も自(オノズカ)ら混合して、一般に遊女と称えるに至った。偖(サ)て此遊女傀儡は其住所に水箔と山駅の別こそあれ、何れも旅客往来の津駅にのみ住居しておったと云う事である。
(註8)放下: 室町時代から近世に見られた雑芸で、ジャグラーの芸に話芸を加えたようなものか。
傾城、其名の因って来る所は、前漢書に武帝の時李延年が歌に、北方に佳人あり、絶世にして独り立つ、一度(ヒトタビ)顧り見れば人の城を傾け、二たび見れば国を傾くとあるに依る、之れ李延年が妹の李夫人を称せしものであって、傾城の名爰(媛)に於て始まったものである。蓋(ケダ)し其始めは美人の称であったのを、今は転じて遊女の称となった。日本に於でも大永年中、既に傾城局の券書と云うものあって遊女を傾城と云う事、寛文より甚だし云々と奇異雑談集に見えて居る。又当国の傾城は奉公勤め短く、紋日なく、栄(サカ)りもさのみ過ぎざる程に、年明く故に、仕舞好、京師吉原の如きは、身代高く、勤めも十三年、其上佳節、祝日、洛外の祭会式等皆紋日として、其日空ければ、身揚りし借金と成(ナリ)、年季に加る故、二十八九、三十迄も勤めれば、盛りはいつか過て、大夫天神麗か仕りしも気色少く、果は茶屋、風呂屋に落行猶もはうれて、曾宇加の類に成行あり最もひんなく哀れなり云々、と某書に見える。
(註9)『前漢書』: 『漢書』、班固・斑昭(班固の妹)等によって編纂された前漢を記した歴史書。
(註10)武帝: 前漢第七代皇帝。
(註11)李延年: 武帝の宦官で、歌舞を能くし、寵を得たが、李夫人の死後、族誅された。
(註12)『奇異雑談集』: 江戸初期の怪談集。
(註13)当国: 越後の事と思われる。
(註14)紋日(モンビ): 江戸時代、官許の遊廓の隠語で、五節句等の特定の日に遊女を休む事を許されず、客は祝儀を弾まなければならなかった、その日。
吾が北越地方海岸通りの遊女屋にては、今日娼妓を子供衆(遊女を児供と云いし事某書に見ゆ)と云い、傾城と呼ぶ事を、娼妓を侮蔑したものの様に思うて居る。
遊君 とは平安朝の末より鎌倉時代に亘りて遊女の称であるが、源平盛衰記に大江定基、三河守に任じて赤坂の遊君力寿に別れて云々。又曽我物語和田義盛の詞に都の事は限りあり、田舎にては黄瀬川の亀鶴手越の少将、大磯の虎にて、海道一の遊君ぞかしなど見え、其他此時代の著書に遊君と云う事が多く見える。
白拍子 の名の因って起ったのは平家物語にある、有名な祇王祇女が嚆矢(ハジメ)かとの事である。最も是は白拍子の上手としてあって、遊女とは言えない。併(シカ)しながら同じ文中に京中の白拍子、祇王が事のめでたきようを聞きて羨やむものあり、妬むもあり、羨むものは、あなめでたの祇王御前のさいわいや同じ遊女とならば、誰れも皆あのようにこそありたけれ云々と云う事があるから其実同一のものであったのであろう又此祇王祇女等の母刀自も白拍子とある。且我朝に於る白拍子の始まりは、昔鳥羽院の御宇に島の千鳥、和歌の前、かれら二人が舞い出したりけるなりとあるから、白拍子は、祇王祇女以前に既にあったものに相違なく、悉く遊女とは思われない。始め水干立烏帽子白鞘を佩たる女の舞姿、男舞と云うて居ったが、源平頃には白鞘巻の刀並に烏帽子を脱し、単に水干のみにて舞いしより白拍子の名が起ったとの事である。
尚お又徒然草には例の義経の静御前、其母磯野禅師、又は亀菊などより始まると云うてある。
歌舞妓 名古屋山三郎と云うもの、出雲の巫女くにと云えるに通じ、くにに刀を差させ頭を包みて早歌を教え舞わせければ、是を歌舞伎といったそうである。又林道春の説に此歌舞妓の始まりしは慶長十九年の頃と云うて居る。
以上、「遊女の起源」を終わる。
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