承前。
今回は、先週からのシステムの調整で時間がなく、「二、遊女の起こり」の中間の一部を紹介する。
「二、遊女屋の起り」(2)
尚お徳川時代になって、遊女に関する制度を定められ、元和三年、江戸吉原に花街を設置する事を許されたが、其当時国内の遊女業に向って夫々(ソレゾレ)制限を加える事となって、軒数其他抱女の事に至る迄、取締りの制度が設けられ、元締りの同意を得なければ決して開業する事は出来なくなった、其大元締と云うのは吉原で、国内各所の船着場に吉原の分廓と云う様なものが設けられて、越後では直江津の中島に設立されたのであるが、是等の関係から吾が柏崎の遊女業が直江津より更に分れ、且つ明暦三年の頃、直江津の妓楼から移住して来たものがあると云う事は旧記の証明する処であるそうだが、是は大に疑問とす可きである。併し柏崎に於て遊女業即ち駅馬宿を開いたものは他国よりの移住者に多かった事は確実であったに相違ない。兎に角第一に此時代に奉行所に知られたのは、実に左の五軒であったそうである。
瓢ヶ宅 小石川 大越 源ヶ宅 引手茶屋(八坂新地にあって佐藤と呼びたる者)
其後泰平の御代となって、人心遊惰に傾き逸楽に耽る者多く、淫風盛んになりたれば。僅々五六戸位のものにては到底、需要に応じ切れず、且つ直江津が高田藩に妓楼の開業願いを出して、容易に許可された故、是を幸機として柏崎にても妓楼を開業せんとするものは種々なる方法を講じて、其許可を得、間もなく続々として増加するに至ったのであるが、先ず其当時開業せしは
松坂屋 駒野 小島屋
などの遊女屋が殖えた。又桑名藩の陣屋が大久保に置かるゝ様になってからは、市中も漸く繁昌に赴き、従って遊里への客足も頻々となったが、当時冥加金を上納すれば揚屋として遊女業を開く事を許可されし故、茲(ココ)に又
緑屋 桜屋 扇屋 菊屋 高橋や 面高屋
等の六軒を増すに至った。
尤も此より以前に遊行上人が、各所を巡錫し、柏崎の一念寺に立寄られたる時、「遊行の宇加礼女(ウカレメ)宿」と云うものが同寺の附近に出来たが、遊行小路(今の小島屋小路)を其頃、浮見小路と名付け、茲に遊行茶屋と云うものが出来た。是を
豊島屋 島川屋
と云うたが、其後に至って又河内屋と云うのが増した。尚お現今の扇町巡査派出所の向いなる火防線は以前ナマネ小路と云うたが茲に
いろは屋
という一軒の遊女屋が増した。又此外に千種屋、玉屋、小池、山谷屋、丹保屋、井の岡屋、宮川、富士栄等の屋号も出来て、非常の繁盛を極めてとの事である。其他茶屋、揚屋、あかし宿等には、湯女(ユメ)又は白首の名を以て、抱え女を置くものもあったそうである。
又新町の以東に古旅籠屋と云うて行旅の客をのみ宿泊せしめたものが十七軒もあった。即ち、岩原、平田、天屋、新道屋、辰巳や、筆屋、本陣、花岡、みすや、海津、笠島屋、加賀屋、丁子屋、岩戸屋、長又、小町や、高波等であって、此旅籠屋には抱え女を置く事を許されなかったが、遊女は出入自由であった。
維新前迄の花柳界は仲々繁昌で、遊女の数は実に二百名もあったとの事である。多数の遊女屋の内にも一種の階級があって、女郎屋、揚屋、待合、飯盛屋等の区別を存して、仲には吉原の大元締とは何等の関係を有して居なかった者もある。
斯くの如く区別してあった為めに、常に競争反目を起し、公事訴訟を起して。大騒ぎを遣った事は珍らしからぬ処であった。
(註1)丹保屋(ニホヤ): 頭から店の名前を検索したのだが、最初にヒットしたのが「丹保屋」である。しかも予想外のところだ。「丹保屋」の文章が、「国文学研究資料館」にあった。しかも、興味深いのが、この資料の掲載欄が、「藩政/番方/武具方所管武具・火薬等購入制作・修復その他」の所にあるのである。年月日は明確でないが、一応紹介すると次の通り:
柏崎丹保屋新右衛門金銭受取証文[覚](蝋等代金2朱1貫650文につき)かしハザキ丹保屋新右衛門→上、(年月日)11月11日、横切紙・1通
とある。収録資料の前後関係を見ると、この項の多くは、幕末から明治初年のものだ。ここで注目するのは、宛先が「上」であること。おそらく、「桑名藩大久保陣屋」であろう。また、品目が「蝋等代金」とある事だ。確かに、陣屋での蝋燭の使用量は多かったかもしれないが、金2朱は如何にも多いように思われるのだ。まあそれは措くとして、「丹保屋」が、蝋などの雑貨を取り扱っていたことが知られる。しかし、他にインターネットでヒットするものはなかった。残念である。
また余談だが、記載氏名を見ると、長岡のものが多い。戊辰戦争の影響か、特に、長岡の星野太郎左衛門(星野陶冶)の名前がよく出てくる。実に興味深い。因みに、一例を挙げると、次の通り。
星野太郎左衛門金銭受取証文[覚](舶来筒3両1分銀2匁1分につき)星野太郎左衛門→松代様御役人衆中様 印「越後長岡星野陶冶」
とある。面白そうなので追求してみたいが、本代を逸れるのでまたの機会に。
(註2)宮川: 柏崎に宮川という地名も姓もある。
(註3)平田: 旅館としての登録はないが、錦町に「平田酒店」がある。場所的には、鏡町に近く、過っては、旅館だったのかもしれない。
(註4)天屋: 柏崎市西港町に「天屋」旅館が現存している。
(註5)本陣: 調べてみるが、「柏崎本陣」は見当たらなかった。ただ、北国街道柏崎宿は、現在の東本町あるいは諏訪町に在ったので、その辺りかもしれない。要調査。
(註6)海津: 柏崎に海津という姓はよくある。関連があるのかもしれない。要調査。
(註7)笠島屋: 笠島という地名、信越本線に笠島駅がある。海水浴場もあるところから、旅館もあるが、「笠島屋」は見当たらない。
(註8)丁子屋: 享保3年8月17日(1803年10月2日)、伊能忠敬の第4次測量隊が、柏崎大町問屋・丁子屋彦治郎方に宿泊、恒星測量を行っている。その前に鉢崎(現・米山町)に宿泊しているが、13日(10月28日)、伊能忠敬の病気が重く、潟町(上越市)田中権右衛門方に止宿、また雨・大風で、16日(10月1日)まで逗留している。翌18日(10月3日)、荒浜で小休止、宮川宿駅で昼食、天瀬(出雲崎)の京屋七左衛門方に宿泊、25日(10月10日)まで滞在、翌26日(10月11日)に佐渡に渡っている。詳細は省く。
(註9)岩戸屋: 岩戸屋は、300年以上続いた老舗。昭和61年1月31日閉業。私的な話だが、「岩戸屋」には思い出がある。友人の市川昌平氏と岩戸屋の娘・睦子さんが同級生で、何度かお話したことがある。彼女は、確か双子で、姉あるいは妹さんが、陸上競技の選手で早稲田大学に進学、国体でも活躍されたと聞いた。今、岩戸屋の跡地には、グリーンホテルが建っている。あの頃、もっと歴史について聞いておけばと、残念である。
今回は、本文に記載された遊郭と旅籠に関して調べてみたが、矢張りインターネットのみで、情報を収集するのは難しい。ただ、思わぬところに史料を見つけ、新たな展開になりそうな予感がある。特に、太字にした「丹保屋」と「丁子屋」は、恐らくもっと隠れて史料の存在を暗示するものがある。それに、「国文学研究資料館」の存在を知ったのは、大きな収穫だった。一見しただけであるが、幕末・明治の越後関連資料が、ここに集まっているとは、当に驚きである。
また、「瓢ケ宅」に関しては、十返舎一九の『金の草鞋』の事もあり、更なる資料を期待したい。それに、鵬斎関連の資料も、良寛との関係から、興味深いところなのだが、機会を待つことにしたい。
Best regards