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柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

 『柏崎』『花街風俗』を知る上で、重要な資料の存在を忘れていた。すなわち、三田村鳶魚(エンギョ)の『鳶魚江戸文庫』シリーズである。大体、この手の書籍は文庫本でもプレミアがつくことがある。そこで、最安値を探したところ、幸い二冊の関連文庫を見つけた。『江戸の花街』と『花柳風俗』である。二冊で、因みに、それぞれ送料を含め500円未満だった。先ず、『江戸の花街から読み始めたのだが、流石に鳶魚、視点が明確であり、参照した史料文献が広範囲だ。そこで、『柏崎』や『花街風俗』を比較すると、多分に異聞があるようだ。ただ、これらの比較を書くと、収拾がつかぬことになりそうである。と言う次第で、兎に角、『柏崎』を完了し、その後、検討することにした。

 

 さて、今回から、「娼妓の事」に入る。尚、凡例等は、前回までと変わらない。

 

「娼妓の事」(1)

 

開業 全問に源姓を迎え、後門に平族を送るとか、梅に従へ桜に靡(ナビ)くとか、嘘も実(マコト)も義理もなしとか、何れも皆娼妓の身の上を云うたものである。尚又浮草に比喩(タト)えられ、捨小舟に比べられ、或は男子の玩弄物とまで貶(ヘン)せられて居るが、其身の元を訊(タダ)せば可愛の娘、蝶よ花よと慈愛(イツクシ)まれた掌中の玉、箱入娘と呼ばれた身も過去の因果か現世の罪かで、籠中の鳥となるので、何れ種々な原因があるのである。

 父親の病気に要る、お薬代とは古風な型、又高利貸の強制執行の解除の為めの出稼とは当世式である。孰(イズ)れも表面は親の貧苦を救うの孝女として、世の同情を得て居るのである。偖(サ)て此娼妓になるに就ては、往昔は種々(イロイロ)な事を遣って居ったが、貸座敷遊女規則と言うものが、発布されてから一定された、夫れは父母兄弟の貧困状態及び水火災に罹り、生計困難に陥り、一時に多額の金を要する者を限って許可されたので、願書には親族連署し現在所の区長又は戸長押印の上、警察署に願出でしたので、年齢満十五歳であったが、三十一年一月には十六歳とせられ、次で三十三年十月内務省令で、十八歳に改められて。現今に及んで居る。此以前は許可と同時に免許鑑札を下附して、常に携帯させて居ったが、取締規則が一変して、なかなか容易でなくなった。

 出願するものは戸籍謄本、印鑑証明書、父兄の承諾書、娼妓稼の場所、娼妓となるの事由、前借金返済方法等の書類を一纏めとして、警察署に願出でると、警察署は其事由等を細密に調査して故なくば許可され、同時に駆黴院に就て、健康診断を行わしめて異状なければ、乃ち娼妓名簿に登録されるのである。

 

廃業 には左の如き区別がある、借用金皆済、客身受、自由廃業、営業停止、住替、

以上の如くなるが、此外に病死情死等によるものもある、是は父兄と楼主の談合で融和される。

(借用金皆済)とは、所轄警察署の許可を得たる清算方法の割合を以て、前借金の返済を了(オワ)ったものがする廃業である。

(客身受)落籍、根引と呼ばれるも身受の事で、氏無くして玉の輿に乗ると喩言(タトエ)にも言う如く、妓女としては無上の僥倖(シアワセ)なのであろう。先ず根引の客がつくと娼妓、楼主、客と金額其他の相談が整うと、楼主は親元の異存なき事を確めた上、名簿削除を申請し目出たく奥様或は妾宅の主となるのである。

 夫れで其楼を出るときには、朋輩女郎や、其他楼内の雇人等には、多少の留別(ハナムケ)をなし、又他の妓楼及び知己へは名入れの手拭抔(ナド)を披露に送る、尤も赤飯等を配ったこともあった様である。

(親元身受)此親元身受と云うのは、其者が病気で業に堪え兼ねるとか、或は他に縁付けなければならなぬことが出来たとか、又は兄弟などが死んで至急後継者にならなければならぬ抔と言う場合に、親或は親戚より、前借金の残額を整算して、廃業を要求するのである。

(自由廃業)と云うのは、明治三十三年九月六日警視庁令第三十七号を以て、三業取締規則中を改正して、自廃を許したが、其年十月二日に至り、内務省は省令第四十四号を以て、娼妓取締規則を一般に発布して、自廃の出来得る様にされた。

(営業禁止)其源因は、素より娼妓が自から招いた行政処分の結果である、普通と異り毛頭廃業の意なきものが、禁止の為めに廃業となるのである。其事由は種々あるが、明治三十三年六月二十五日、県令第五十五号を以て発布された貸座敷娼妓取締規則に違反した者の情状により、停止若しくは禁止されるのである。

(住替)俗に鞍替と言うので、其寄留所を転換するを言うのである。是にも種々あれど楼主、親元、娼妓、何れかの希望が源因で、甲地から乙地に転楼するのである。柏崎では今春同業者協議の結果、其土地内での住替は廃止してしまった。

 

 今回は、言葉の解説であるので注釈を省く。ただ、冒頭にも書いたように、三田村鳶魚の考えは、多少異なっていることを付け加える。特に、鳶魚が指摘しているのは、江戸期に於いては、「公娼」と云うものは実際には存在しなかった、という事なのだ。少々誤解を招きそうな表現だが、要は、「公に認められていたのは、場所」だと言うのである。最初読んだ時、どういう意味かと考えたのだが、よくよく思い返してみると、吉原などに妓楼を設ける事は、許可しているのだが、廓内では自治を行え、と云う事なのだ。その良し悪しは措くとして、廓内は、全くの別世界であり、娼妓個人の事は、ほとんど知られることはなかったようだ。言い換えれば、個人情報保護法のようなものだ。反して、明治以降になると、娼妓個人を縛ってしまったと言うのである。今回の内容でも判るように、娼妓は、その家族を含めて官に管理される状況になった。どうも、私見だが、三田村鳶魚は、その事を非難しているようにも取れるのだ。様々な意見もあるだろうが、一言付言しておきたい。

 

 また、長くなるので簡単に紹介するが、江戸時代、吉原の客は、時代を反映して、先ず幕府の高官や諸大名だったのだそうだ。そして、四代将軍綱吉の頃には、小普請組が幅を利かせた様だ。これは、当初は名君と云われた綱吉が、大規模な公共投資を行い、特に、橋などの普請が急増、結果として、幕府の建築・土木方である小普請組の懐が潤ったと云う事らしい。「小普請組」と云えば、時代を下ると、最も閑職だった幕臣で、映画やドラマにみる貧乏旗本や御家人の代名詞のような存在だ。初めて知る事実である。実に興味深い。また、廓文化が人のものになるのは、元禄以降、商人の力が台頭した頃に始まり、以後、武士の手に変えることはなかったと云う。但し、幕末は、所謂浪士が狼藉を働いた時代だと云う。どうも、この辺りから、廓の格式や仕来りが無視され、娼妓や芸妓の地位も揺らいだようだ。取りあえず、簡単に紹介したが、異説もあり、もう少し鳶魚などの文献を漁ってみたい。

 

Best regards

梶谷恭巨

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