承前。
「雑事」(3)
緑楼主人 今は已(スデ)に故人となったが、若年の折、高田の太田八十吉、三館一郎等と江戸に遊びし当時、天下を騒がせし国事犯人赤井景輝等の連累者と疑われ事があったが、後年其景輝が辞世の
武夫(モノノフ)の心の奥は久方の
神より外に知るものなし
主人之を作り更(カ)えて
もののふの心の奥は待合の
女将(カミ)より外に知るものなし
以上。
(註1)緑楼主人: 本書にも登場した「緑屋」の流れをくむものと考えられるが、不詳。、
(註2)太田八十吉: 不詳。
(註3)三舘一郎: 不詳。ただし、下記のような文章があった。この文章は、関谷雄輔さんという方のサイトなのだが、氏はアップルを使用されているようで、サイトの一部が化けて表示されるので、前後の流れが判らない。取りあえず、紹介する。
1906(明治39年)5月、新潟県赤倉を気に入って温泉付きの土地を購入し、8月には山荘を完成させている。この際の事情については松本清張著「岡倉天心その内なる敵」の中で妙高高原町史編集者の談がある。それによると、・・・天心は越後高田へ家族旅行した。市内にかって伊能忠敬も測量の際に泊まった三国屋という旅籠があり、その屋の主人三舘一郎次と意気投合し、所有する赤倉の地を案内された。中国旅行の際に印象に残った風景とにているので天心は気に入り、即購入した。現地には三舘氏所有の料理屋「富貴楼」の建物があり、これの解体建材を利用して別荘「赤倉山荘」を建築した。・・・
最初購入した面積は約六千坪であったが、その後買い足したのか、数字の記録がないが地元では岡倉山と呼ばれたほどの面積を所有した。後に陸軍演習地として大部分が買収されたがなお六千坪が残ったという。
それほどの広大な土地を確保しようとした理由については、天心が美術院の拠点を東京から五浦よりむしろ赤倉に移すことを考えていた節もある。斉藤隆三著岡倉天心に以下のような記述がある。・・・その月に大観と春草を招き寄せ、赤倉の絶景を強調した。二人は部屋に戻ってから、「先生は相当赤倉に入れ込んでいる。明日の朝になればきっと美術院の赤倉移転を言い出すに違いない。そうなれば否応なしだ、逃げるにしかず。」と翌早朝、夫人には東京に急用が出来たと言い訳して、山を下り帰京した。・・・
だが、翌月の6月15日、天心は五浦に大観等4家族の住居建築を始めている。美術院の五浦移転をこと無く進めるために、赤倉移転を匂わしたかのしれない。
この岡倉天心の話は知っている。しかし、何処で見たのかが不明。恐らく、岡倉天心に付いて書いたことがあるので、その時に読んだのかもしれない。
尚、この文中にある「三国屋」は、確かに伊能忠敬が、第三次測量の時、享和2年(1802)10月4日、5日と宿泊し恒星測定を行っている。資料によると、「三国屋」は高田本陣で、主人の名前は、八郎左衛門である。また、文中に「三舘一郎次」とあるので、恐らく、本文中の「三舘一郎」に所縁の人物か、あるいは本人かも知れない。
(註4)赤井景輝: 不詳。
今回は、様々な角度で調べて見たが、何との歯が立たなかった。特に、「赤井景輝」と云う人物については、「天下を騒がせた国事犯」とあるところか、容易に見つけることができると思ったのだが、国立公文書館にも、もしやと考え、『江戸幕府日記』の慶応年間を調べて見たが、これは見当はずれで、内容が全く異なるものだった。
また、緑楼主人についても、やはり、花街の事だから、個人に係る事は、詳細を書くのに遠慮があったのだろう。
余談だが、先週、「SAYURI」という映画を見た。外国人(アーサー・ゴールデン)の書いた花街だが、意外に真実を捉えてると感じた。一段落したら原文「Memories of a Geisha」を読んでみよう。ところで、同時多発というのではないが、今朝は、NHKアーカイヴで「Forbidden Kyoto」というシリーズの「舞妓誕生」というのを放送していた。外国人の見た京都、この場合は、英国のファッション写真家が、普通では見ることのできない舞妓から芸妓誕生までを取材したものだった。今までにも、こうした偶然がよくあった。まあ、「シンクロニシティ(共時性)」を感じた次第だ。
ところで、今回は、「DELL」を使っている。このDELLは、i3の2GH、OSはUltimateなのだが、通常使用する「ThinkCentre」は、i7の3GH、OSはPro、しかもメモリーは4G積んでいるにも拘らず、DELLの方が早いのである。という次第で、現在、ThinkCentreは調整中なのだ。今のところ、エックスペリエンスは、最低のモジュールが4.5まで上げたのだが、それ以上にならない。因みに、DELLの場合は、3.3。何方かよい方法をご存じならご教授願いたい。
Best regards
梶谷恭巨