柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

 

「雑事」(6)

 

俳星碧梧桐 四十二年六月の頃、我が北越の各地を行脚し、柏崎にも立ち寄られたが、当時雑誌『日本及び日本人』続一日一に書して曰く、

  越後は言う迄もなく美人国である。其の中にも新潟、岩室、寺泊、地蔵堂等を美人の産地とする。それらの地方は、地図上越後の腹部、丁度臍の辺に当るのも奇だと言えば奇だ、殊に新潟を始め寺泊、地蔵堂など水の悪さは驚くべきで、炊ぎ水は多く買ってをるような有様である。京美人に鴨川を連想する例からいうと、大きに勝手が違う。是も一奇とす可きである。

  上越では高田、柏崎、下越では新潟、新発田を中心にして、俳句は到処に確信されつつある。之を一昨年の冬に比すると、長岡を除外にして殆ど別人の観がある。越後は美人国と云う外、今や俳諧国を建設しつつある。

  三階節と米山甚句は柏崎が本場で、オケサは出雲崎が本場で、甚句と追分は新潟が本場で、ヤラシャーレは直江津があるそうな。外に新潟甚句、岩室拳等も特殊のものである。越後はやがてまた歌謡国である。

  概して言えば信濃人には油断のならぬ所がある、越後の人には心安だて過ぎる処がある。彼と対するのは主客的で、是に接するのは家族的である。地勢上からいうても、前者は山の如く、後者は川に似てをる。固より多くの除外例はあるが、僅に一国境を越えた許(バカ)りで、其差は著しく身に訴える。

  柏崎辺には、今頃とれる牡蠣がある。身も大きく味も美である。此の辺では冬季に牡蠣という感じはない。夏に限るという。思うに、冬は波浪の洗い為め、採取することが出来ぬ。漁業の習慣上、夏を主とするようになったので、夏牡蠣の外、河豚も亦た此頃に限るという。

  きのう、きょう、あすは閻魔市というて、柏崎の一年中最も雑鬧(ザットウ)する日であるという。金魚、植木、木綿売りなどが、大道に店を張ってをる様子は、東京の縁日と大差はない。東京で毎夜約十箇所もある縁日の賑いが、柏崎では一年一度しかない、とすると、柏崎は東京の三千六百五十分の一に当るなどと思う。

 

(註1)俳星碧梧桐: 河東碧梧桐、本名は秉五郎。 明治6年(1873)2月26日~昭和12年(193721日、松山藩士・藩校「明教館」教授・河東坤(静渓)の五男として生まれた。正岡子規の6歳下、秋山真之の5歳下で、松山での様子は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』に詳しい。後、高浜虚子を誘って、正岡子規の門下となり、「子規の門下の双璧」と云われるが、従来の伝統を守る高浜虚子と対立し、自由律俳句の指導者的存在となる。

(註2)日本及び日本人: 『日本及び日本人』は、明治40年(1907)1月1日~昭和20年(1945)2月まで出版された言論誌。主宰は三宅雪嶺。詳細は省略。

(註3)続一日一信: 「一日一信」は、当初、新聞『日本』に掲載されたが、三宅雪嶺が、雑誌『日本人』と新聞『日本』の伝統を継承するとして、『日本人』を『日本及び日本人』と改名した後、同誌に「続一日一信」として継続掲載した。これは、河東碧梧桐が、芭蕉の『奥の細道』を擬し、明治39年8月6日に東京の自宅を出発、全国行脚の旅に出た時の日記であり、後に『三千里』と題して、昭和12年に出版した。しかし、長岡滞在中に、母親が脳溢血で倒れたととの報せがあり、「十四年前父の病床に侍することの出来なかった身は、せめて母の為めに薬餌の労をとりたいと思うのである」と、旅程を断念、12月12日、長岡で昼は、詫状等書き、夜送別の宴が張られ、翌13日、帰宅している。

(註4)引用文について: 『三千里』には、同一文章の掲載がない。ただ、12月4日の記事に、「越後の歌には甚句があり、オケサがある」とある。しかし、美人に付いての記載は、11月22日、佐渡の小木で、「小木は美人の産地だけに淫風は殊に荒んでをる。云々」がある外、通読した限り見当たらない。また、同様に、柏崎に関する記載は、先の甚句云々のみだ。よって、この件に関しては、再度調べるとして、「続1日一信」に掲載されたが、『三千里』では省略されたのかもしれない。ただ、『三千里』は、当に旅日記であり、かなり細々したことも書かれているので、判断に苦しむ所である。因みに、『三千里』全二巻は、昭和12年三月、東京の春陽堂書店より発刊されたものである。

 

 以上、河東碧梧桐に関する項目だが、先の様な事情で検討する必要がある。そこで、『三千里』に関しては、新潟入り後の日程を追って、別に紹介したい。と言うのも、一読する限り、実に興味深い、あるいは当時の事情を知る上で、史料的に重要と考えるからである。

 

 余談だが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んで、当時の状況にそれなりのイメージを持ったのだが、河東碧梧桐に関して調べ、また別に読んだ史料などと相まって、何かしらイメージが鮮やかになった感がある。視点の位置が変わると、平面的に見えた風景が、鳥瞰図の如く立体感を以て展開するのを実感した次第だ。

話は変わるが、昨日、辻邦生の『フーシェ革命暦』の第一部を読み終わった。フーシェの回想録の形をとって描かれたフランス大革命も、先と同じような感覚で見えてくる。何しろ、第一部だけで二段500ページを越える大作。示唆する処の多い作品だった。これについても、後日、感想など書きたいと思っている。

 

Best regards

梶谷恭巨


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