柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。 一応、「遊女屋の起り」の原文は今回で終了。次回以降から、「貸座敷の事」に入る予定。

 

「遊女屋の起り」(4)

 明治五年に至って実に一大打撃が加えられた。即ち抱女開放、女郎屋禁止という事になったが、此時の楼主の狼狽は一方ならぬもので倉皇他に転業したものも多くあった。。当時柏崎では是が為めに機屋(ハタヤ)の数が増加したと云う位である。

 同年七年頃に至って又々開業をなすことを許可せられて女郎屋を貸座敷と改称し、遊女を娼妓、芸者を芸妓と改め、妓楼の数もニ十軒と規定され、朱引地内を一定し、朱引地外に娼妓を出す事を禁じられてあったが、其取締は頗る緩慢なものであった。当時の妓楼名を示せば左の通りである。

 

 都屋 いろはや 山口屋 田邊 常盤屋 千鳥屋 越路屋 緑屋 小石川 酢屋

 月見屋 扇屋 桜屋 玉屋 千種屋 小池屋 河内屋 豊島屋 小島屋 高橋屋

 

等であるが爾後今日に至る迄又幾多の変遷を来した。今現今の楼名を示せば左の如くである。

 

 都屋 松美屋 玉屋 緑屋 越路屋 小石川 いろはや 若松屋 酢屋 高橋屋

 品川屋 桜屋 日野屋 小島屋 港屋 河内屋 月見屋 豊島屋 千種屋 山口屋

 

(註1)明治五年に・・・: 明治五年10月2日(1872年11月2日)の太政官布告第295号、「人身売買同様ノ所業ヲ禁シ娼芸妓年季奉公人一切解放」、通称「芸娼妓解放令」の事。以前紹介した明治5年の「マリア・ルス号事件」の影響で、不平等条約改正の意図もあり、人権問題解消の潮流の中で布告された。この第三に、「娼妓芸妓等年季奉公人一切解放可致右ニ付テハ貸借訴訟総テ不取上候事」とある。また関連するものとして、同年10月に「男女永年季奉公ノ儀ニ付伺」がある。

尚、詳細については、国立公文書館で、「年季奉公人」あるいは「人身売買」と「明治」のクロス検索によって、原本を見ることができる。因みに、URlは次の通り。(但し、ここで閲覧できるのは、試案と言うべきものである。)

 http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/MetDefault.exe

(註2)倉皇: 慌てふためく様

(註3)機屋: 柏崎は、越後縮緬の集積地であり、生産地であった。「越後の縮緬問屋」は、柏崎の織物問屋の通称として広く知られていた。時代は遡るが、藍沢南城の詩に、縮を織る娘たちの悲哀を謡った『絺女歌(チジョカ)』がある。昭和54年8月26日付けの『越後タイムス』に内山知也先生が『ちぢみ織る娘の嘆き』と題され、この訳詩を発表されている。各地で、機屋などの軽工業に遊女たちは従事したようだが、決して楽な仕事でないことが、この詩からも窺えるだろう。また、江戸安政の大地震の時、『乙卯(ヒノトウ)十月二日夜、江都地大震、五娼(アソビメ)尽死(乙卯十月二日の夜、江都の地、大いに震ひ五の娼尽く死す)』と云う詩がある。学者然たる南城先生も、遊女の死に思いを致すところがあったのかもしれない。

(註4)明治7年頃に・・・: 直接の案件は無かったが、明治6年12月10日、東京府知事・大久保一翁の東京市各区の誇張に対する通達大145号に「貸座敷渡世規則」全8条、「娼妓規則」全8条、「芸妓規則」全4条がある。恐らく、各県もこれに倣ったものと考えられる。その通達前文を挙げると、次の遠い。尚、原文は、漢文読下し文混在だが、便宜上、読下し文にして紹介する。

 「近来市各所に於て売淫遊女体の者、増殖しそうろうかに相聞き、第一風俗倫理を傷つけり、そのまま差置き難き筋に付き、今より吉原・品川・新宿・板橋・千住の五か所外に於て貸座敷屋並びに娼妓に紛らしき所業は決して相成らずそうろう、且つ貸座敷屋・娼妓・芸妓等の規則を別紙の通り、相達しそうろう條、この旨、きっと相心得うべき事。但し、根津の儀は兼ねて願い済み年限中に差置きそうろう事。明治六年十二月十日、東京府知事大久保一翁」とあり、その「貸座敷渡世規則」第二条に「渡世致したき者は願出、鑑札申し受けそうろう上、店頭に看板を揚ぐるべくそうろう、もっとも免許無きの場所にて営業相成らずそうろう事」、同様に「娼妓規則」「芸妓規則」にも、免許鑑札が必要とされている。先のように、この規則条文が、ひな形として各地に伝播したのではないだろうか。因みに、この規則条文も「国立公文書館」で閲覧できる。尚、URLは上記の通り。

(註5)朱引地: これが、後の「赤線」の由来と推測される。

 

 尚、下図は『柏崎』添付の当時の地図である。この地図の鵜川が西に突出している場所が「八坂神社」であり、東西を貫通するのが「本通」、はその通りに面した北側である。実は、私が柏崎に来た当初、仕事場と住居が、この扇辺りだったようなのだ。お恥ずかしい話、全く知らなかった。しかし、これも何かの奇縁であろう。

 

 

 今回で、「遊女屋の起り」は終わるが、次回、後に気付いたことや加筆する必要があるものを配信する予定だ。また、木島次郎さんが、『越後タイムス』の来週号から、「『柏崎』を読み解く」を連載されるそうだ。素稿を拝読したが、木島さんの真骨頂が如何なく発揮された文章だった。読者諸賢にも、一読されることをお薦めしたい。

 

Best regards

梶谷恭巨


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