承前。 今回で一般論は終わりである。次回からは、柏崎の花街の沿革を紹介したい。
「土地と遊郭との関係」
花柳界の存亡は多く土地の盛衰に伴うものであって、土地の盛衰はまたやがて、花柳界の状態卜(ボク)し得られるとすれば、土地と花柳界との関係は実に深く且つ重きものがある。
昔随分盛んな遊里でも今は其俤(オモカゲ)を見る事の出来ない処がある。又昔寂寞なる処であっても今は土地と共に盛大になって居る場所もある。東京を江戸と云いし頃、吉原に遊郭が出来て、それが順次江戸の一大勢力をなして、三千の遊女が客を待つに至ったのである。
今全国各地の花柳界を見渡すに、東海、東山、四国、九州、北海道の端迄も要所々々には遊郭がある。仮令(タトエ)花柳界としての面目を具えて居らない迄も、芸妓に類似の酌婦、貸座敷類似の料理店は到る所に存在して居る。今是を太平洋沿岸と日本海沿岸とに比較して見ると太平洋沿岸は非常に盛んである。要するに花柳界の盛んなるは昔から海岸の地に多く、山間の方は余に振わない洋で、是を地方に徴するも海岸の方は小規模ながらも遊郭の様なものを具えて居るが、山間には少ない様である。と言うのは、海に瀕して居る土地は交通頻繁であって、凡(スベ)ての事業が繁盛に赴き、土地の制裁も備わって公娼も許され、芸妓も置かれるが、山間は然(ソ)うは行かない。故に多く私通が行われ、姦淫堕胎等種々なる罪悪が犯されて居るのである。
何れの県、何れの宿駅に於ても、往古の街道筋には規模の大小は扨置(サテオ)き必ず低唱浅酌の場所はあったので、是を吾が越後に見るも高田を去る事一里にして直江津、更に柏崎、出雲崎、寺泊、と殆ど其俤を見ぬ処はない。然し一廓をなして居る花柳界は都会の地に多いもので、明治三十八年の遊廓所在地は、
東京 静岡 岐阜 浜松 名古屋 四日市 和歌山 京都 大阪 堺 神戸
岡山 馬関 熊本 博多 長崎 広島 徳島 高知 若津 唐津 鹿児島 琉球
台南 台北 高崎 水戸 仙台 下の関 盛岡 尻内 青森 弘前 若松
福島 米沢 山形 秋田 甲府 長野 新潟 札幌 室蘭
等であったが、目下亦多少の増加を示して居るであろう。尤も遊郭は表面社会風教上に害を醸すことがあると言うので、市街より稍や離れたる場所に設立する事になって居るので、吾が新潟県の如きも直江津は火災後移転して一廓をなし高田又師団の新設と共に移転することとなったが、他地方も亦追々に此の趨勢を追わんとしつつあるのである。
今回は、特に注釈すべきこともないようだ。ただ、上記赤字で示したように、「馬関」すなわち「下関」と言えるのだが、後の「下の関」は別の地名であるようだ。そこで、調べてみたのだが、福島県二本松市に「下ノ関」という地名があるが、それらしき記載がない。順序からすれば、仙台と盛岡の間であるから東北地方かと思うのだが、所在地の順序に規則性があるようにも思えないので、この「下の関」、さて何処であろうと首を傾げる。
また、台湾の地名、台南と台北がある事に、明治42年と言う時代を感じる。
ところで、次回から本論である「柏崎華街」が始まる。そこで、彼方此方と資料を探していたら、明治44年(1911)に「桐油屋火事」というのがあったそうだ。『柏崎華街志』が発刊されたのが明治42年であるから、その後の事である。調べてみると、当時、「石油工場町」という町があったようで、そこが柏崎遊廓の中心であったようだが、この大火で、現在の「新花町」に移転したようだ。ところで、この「石油工場町」というのが、今一つ分からない。『柏崎華街志』から推測するに、「扇町」なども、一時期(石油産業最盛期)、に「石油工場町」に包括されていたのだろうか。この辺りは、「柏崎編」に入って追々調べることにしたい。
ところで、この年明治44年4月9日、東京吉原でも大火があった。何かの符号だろうか。
少々外れるのかも知れないが、例えば、長岡の場合、石油産業の勃興による石油成金の子弟問題が起っている。旧制長岡中学では、この為、明治39年に「長中騒動」というのが起り、当時好調であった坂牧善健辰は、その責任を問われた。当時の長岡新聞は「長岡中学の大珍事、坂牧校長の責任を論ず」と、石油成金との間で悶着を報じているのだ。結果的には、一時期、東郷平八郎の介入があったのか、沈静化を見たようだが、結局、坂牧善辰は、東郷元帥の推挙もあり、鹿児島県立第二中学初代校長として鹿児島県に赴任する事になるのである。これと同様な事件が柏崎で起ったとは聞かない。しかし、当時の事情を勘案すると、柏崎でも、石油成金は存在したに違いない。しかし、「長中騒動」のような事件が起こらなかった背景には、城下町であった長岡と町人の町であった柏崎の相違があるのだろうか。言い換えれば、武家支配による旧体制、(これは、戊辰戦争で相当に変化したとは思うのだが)、言い換えれば、倫理観あるいは価値観の劇的変化が長岡には生じたが、柏崎では、それらの移行が思いのほか、容易に推移したのかも知れない。それが、宝田(ホウデン)石油と日本石油の合併に際し、社名を「日本石油」にした原因ではなかったか。まあ、そんな事が思い浮かぶのである。
また、当時の事情を考えると、西欧的倫理観、特にキリスト教的倫理観が隆盛する時代でもあったと推測するのだ。すなわち、日本の伝統的価値観と西欧的価値観の拮抗する時代でもあった。その事が、今回の文脈にも窺われると思うのだが、さて私だけの印象なのだろうか。
更に言えば、編者が言うように、日露戦争による明治38年の高田師団(第13師団、後に仙台に移転)の新設がある。この年、4つの師団が新設された。第13師団は、その後、樺太→朝鮮→シベリアへと所在地移すのであるから、当時の日本海沿岸の事情が、今と大きく異なることも念頭に置かなければならない。敢言えば、駐屯地の問題は、今も昔も変わらないのだろう。如何に繕うとも、駐屯地には自然発生的に花柳界あるいは風俗業は生まれるものなのだが。余談。
いずれにしても、編者・小田金平が言うように、花街の盛衰は、土地との関係を、あるいは時代背景を抜きにしては語れない、と思うのである。
Best regards