柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

 

「歌舞の師匠」

 

 天保年中、千歳と云うもの三味線を一ヶ月三百文で教え、其弟子におとかと云うものがあって、飯盛女の器用なるものは此両人から、技芸の伝習を受けた。其後、文久の頃、江戸牛込横寺の生れで磐津文字太夫と云う者が、何う云う因縁で柏崎に来たものか、遊行小路に遊芸を指南して居たが、此文字は柏崎花柳界の遊芸鼓吹の為めには与って力があった。続いて久吉というものが来たが、此者は後ちに日吉屋と云う遊女屋を開業したが、戊申の役に流弾に当って死んで終ったとの事である。また踊には大工の福蔵、幇間には内山庄五郎抔と云うものがあった。夫れから松之助と云う者来り、長岡より柴田屋、音羽屋来り、何れも遊芸の指導に勤めたものである。尚お東京より幇間三八と云う者が来て大いに賑わした事もある。目下は元小石川楼の芸妓三代松と、昨年新潟より女(ジョ)と云う者、大に此道の為めに勉めて居る。

 

(註1)常盤津文字太夫: 文久の頃、柏崎に来たと云う事から推測すると、四代目文字太夫か五代目と謂う事になる。しかし、四代目は、文化元年(1804)生れで文久2年8月8日(186291日)に没したと生没が明確であり、しかも晩年は初代常盤津豊後大掾を名乗っているから、文久頃に柏崎に来た可能性が薄い。そうすると、五代目常盤津文字太夫と謂う事になる。この五代目は、文政5年(1822)生れで明治2年2月29日(1869410日)に没している。初め清元琴太夫と名乗っていたが、芸を見込まれ四代目常盤津文字太夫の養子になり、天保8年(1837)に四代目常盤津小文字太夫を襲名、文久2年、四代目の死により五代目文字太夫を新明したが、故あって離縁。その後、六代目常盤津兼太夫を襲名した。この「故あって」が何なのは判らないが、柏崎に都落ちする原因にはなりそうに思える。強いて言えば、その後、五代目常盤津兼太夫の死によって、文久元年(1861名跡が途絶えていた兼太夫を襲名して六代目兼太夫となったのではないだろうか。何かしら曰くありげで興味深い。

(註2)幇間三八: 幇間(ホウカン、太鼓持ち)の三八が実際誰なのか不詳だが、明治30年頃の三遊亭圓朝作の『松と藤芸妓の替紋』(後、明治30年に読売新聞に連載された『雨後の残月』)に清元三八という幇間が登場する。もしかすると、この話が喧伝され「三八」という尚名乗った東京の幇間が来柏したのかも知れない。未だ通信が不便な時代、起こりうる話ではないだろうか。

 

 今回の話は、調べて見ると存外面白い話を内包している。明治初期には、花柳界が盛況の時代であったようで、その事が、大正2年に発刊された安藤せん子著『紅灯情話二代芸者』の中にも見える。また、前回紹介した『新・御宿かわせみ』の中にも、そうした状況を背景にした名無しが載っている。時代の変わり目には、このほかに、新興宗教も盛んになるものだが、こうして花柳界など調べていると、表面に出ない社会現象など、実に興味深い。

 

 最近に出る事も殆どないので伝聞に過ぎないが、紅灯の明るさは、柏崎盛衰の指標ではないかと思えるのである。

 

Best regards

梶谷恭巨


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