柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

 

「芸娼妓の年中行事」

 

一月元旦 総ての客は断って、朝まだきより三々五々打連れて祇園社(八坂神社)弁財天(香積寺境内)遠くは番神淡島等に詣でる、一年の身の安全にても祈るのであろう。

同 二日 弾初め(別項に詳し)

同 七日 九萬九千日此日一日神社に詣でれば九萬九千日に向うと言うである)、夜の十二時を報ずるや吾れ遅れじと起き出でて鎮守八坂神社に風雪を冒(オ)して参詣する。殊に当日は古来より附近村落の信者が参拝するの風習があって、裙絡繹(コウクンラクエキ)、快晴の折は時ならぬ花を見るの想いがある。

同 十四日 小年(コトシ)と言うて各々祝膳に就て(サン)を傾く。

新年宴会 毎年一月の廿四日、五日頃、貸座敷新年宴会を開くのであるが、此日は楼主始め一般出席して、線香及び玉数売上げ高の勝れる者に夫々授賞され、尚お会場に掲示するのである。

六月十五日 柏崎閻魔市の事とて芸妓また綾羅(ウスモノ)をまとうて三々五々各隊をなし、多くは腕車(ワンシャ)を連ねて参拝するのである。

七月十日 祇園祭典の最も賑う日ならば各楼の紅裙又揃いの浴衣を新調して八坂社に詣でる。此祭礼は十四五年前から煙火(ハナビ)を揚げて、一入(ヒトシオ)賑いを添えて居る。奉納煙火の過半数は芸娼妓の寄附で、彼等も又二六時中崇拝せる神様のこととて各自競うて七寸玉を番附面に表し、揚げ具合を見て密かに其の年の運不運を占って居る。

八月十五日 盂蘭盆とて廓内の芸妓は素より雛妓(スウギ)に至る迄、盛装を凝らして、各々主家の墳塋に参拝する。是は他に見ざる習いで、何れも常住坐臥家族的趣味を有して居る事が証される。

十二月二十五日 裁縫学校精勤者の賞書授与式を挙行するので署長又臨席し楼主及び芸娼妓に対し奨励的訓示がある。

十二月三十一日 越年なので戸毎に技芸を尽して杯を挙げ、此日丈けは無礼講として楼主又顧みざれば、謡うあり、笑うあり、実に他界の夢にだも見る能わざる賑いである。

 

(註1)弾初め: ヒキゾメ、管弦の弾き初めの事。

(註2)番神: 日蓮宗三大霊場の一つ番神堂がある。

(註3)淡島: 淡島山、淡嶋神社がある。

(註4)九萬九千日: この日に観音様にお参りすると九万九千日お参りしたご利益があるという日。明治の廃仏毀釈で、「本地垂迹」(神仏混交)が否定されたが、京都八坂大社は、牛頭天王(薬師如来)の他、波利采女(十一面観音)を本地としたことから、末社である柏崎八坂神社も、この祭礼を引き継いだのではないだろうか。尚、越後では、(佐渡は激しかったが)、廃仏毀釈による仏閣仏像の破壊は少なかった。

(註5)紅裙絡繹: 紅裙は、紅いもすそ、転じて芸妓の意で、絡繹は、往来の続く様。即ち、芸娼妓が連なって参拝した情景。

(註6)小年: 中国では春節の始まり。ここでは、所謂「小正月」の事だろう。

(註7)盞: 玉杯。

(註8)腕車: 人力車の事。

(註9)煙火: 自分は広島出身なので、最初、「花火師」の事を「煙火師」と云われた時、その意味が理解できなかったが、この辺りでは「花火」を「煙火」と言うのが一般的らしい。

(註10)雛妓: 見習い芸妓、すなわち所謂「半玉」の事。

(註11)墳塋: 墳、塋共に墓の意。文中のルビが、「フンケイ」となっているが、「フンエイ」が正しい。

(註12)常住坐臥家族的趣味: 「常住坐臥」はいつも位の意味なので、いつも家族的な趣があった。

(註13)裁縫学校: 『越後タイムス』2006811日の記事に次の様な紹介がある。以下、記事原文引用。

「三宮、古見野両女学校中心に ふるさと人物館で 柏崎女史教育のあゆみ展」

  女子裁縫練習場開設を祝う大道長安の書

 柏崎ふるさと人物館では9月18日まで、夏季企画展「柏崎女子教育のあゆみ」を開催している。慶応元年に三宮茂子が開いた裁縫指南所(後の三宮女学校)に始まる、柏崎の女子教育の歴史をたどる展示だ。

  明治以前の女子のための裁縫塾開設は全国的にみても例が少ないという。裁縫指南所は明治39年に学校組織となり、柏崎裁縫女学校に改称、三宮茂子の後を継いだ登喜子は、昭和10年に校名を「三宮裁縫女学校」に変更。終戦目前の昭和20年に閉校となるまで、女性の自立、地位向上に貢献した。

  一方、丸山樹山が明治24年に開設した柏崎女子裁縫練習場は、大道長安の「救世教」を背景とし、明治33年には古見野女学校として学校組織化、2代目貞の「古見野実科女学校」、3代目中の「柏崎高等実践女学校」と変遷、4代目節は高等専修学校としての認可を得た。同校は昭和63年、約100年にわたる歴史を閉じた。

  企画展は、多くの写真や記録、書簡、思い出の記などで、「サングさん」「コミノさん」と呼ばれた両校のあゆみを紹介している。中でもわが国女子教育の先駆者として名高い下田歌子が柏崎中学校初代校長・渡辺文敏に宛てた書簡は、この企画展準備中の昨年、渡辺校長の孫から寄贈された貴重なものだ。下田は明治32年と33年の二度にわたって来柏。柏崎における女子教育の振興に大きな影響を与えた。

 

 今回興味深いのは、7月10日の「祇園祭礼」の記載である。即ち、今年も先週開催された「柏崎まつり・大花火大会」の始まりに、深く花街が関係していた事だ。浅学、私は、この事実を全く知らなかった。

 

 もしかすると、この事実を市民が知れば、(私自身は、印象を一変したのだが)、祇園祭あるいは花火大会に対するイメージを一新し、柏崎の歴史そのものを再考させる契機となるのではないだろうか。

 

Best regards

梶谷恭巨


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