柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

「位置及び附近の風景」(1)

 柏崎の遊郭はの西端に在って、大に二軒、扇に十二軒、に六軒を有し、
民家と雑居はして居るが、兎に角一廓をなして居ると言うても宜(よ)い。北は洋々た
る日本海に面し、南は米(べい)峰(ほう)、黒姫、八石の諸山に対して、附近の眺望の
絶佳なる事は他に余り見る事が出来ない処である。今其風景を紹介すれば左の通りで
ある。

(註1)大・扇・長: 共に現在の西本三丁目辺りで、本通の北側に、一
目から大・扇・長と続いていた。余談だが、先日友人が来訪した際、訪ねて
見たところ、現在の扇は、越後交通柏崎営業所辺りを云い、旧扇とは、全く別の
所だった。

(註2)米峰: 通称「米山さん」、米山の事。

 八坂神社 初め和那(わな)美(み)水門(みなと)祇園神社と称え、慶雲四年疾疫流行
の際、班(はん)幣(へい)ありし社との事である。明治五年二月社号を改称して、同年
柏崎県より村社に列せられた。明治六年社格を廃せられたけれ共、又々明治四十一年
村社に列せられる事となった。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴命(おお
なむちのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)で相殿は健南方命(たけみな
かたのみこと)である。境内は広く、丘あり、芝生あって、又運動機の設備がある。
其風向の明媚なる事は絵も及ばぬ位で、北方遥かに展開せるを以て、夏季の納涼には
最も宜く、例年七月七日より一週間の祭があって、近郷近村は素より郡内の信者奉賽
(ほうさい)するもの陸続絶えず、殊に有者及廓内の奉納に因る烟火(はなび)は年一
年と其技術が巧みになって、昼夜を別たず、数日に亘って、他郡各地幾萬の観客を誘
引するのは、実に稀有の盛典である。尚お附近に劇場の設備もあれば、此自然の風景
と相俟(あいま)って芸娼妓の慰安になる事は多大である。

  人中に落つる煙火の小屑哉

(註1)慶雲四年疾疫流行: 707年、慶雲は5月から始まるが、「この年から3
年間、水旱・飢餓が続き、百姓多く死亡する」と『岩波日本史年表』にある。

(註2)班幣: ルビには「はんへい」とあるが、正しくは「はんぺい」で、意味
は、広辞苑によると、「祈年祭(としごいのまつり)。新嘗祭などのために、一定の
日にあらかじめ幣帛を諸神に頒(わ)けること」とある。同様に、「幣帛」は「神に
奉献する物の総称」とある。

(註3)大己貴命: 大国主神の別称。

(註4)櫛稲田姫命: 大国主の后神で、恵方(一年の福)を司る。

(註5)健南方命: 大国主の御子神で、諏訪大社に祀られている。

(註6)烟火: 煙火と同じ。こうして見ると、昔の花火は「けむり」が多かったと
謂う事だろうか。

鵜川尻 「越路なる鵜川に鮎の棲むものをたかのに雉子(きじ)のなかぬものかは」な
ど古歌にも見えて居るが清澄の水潺々(せんせん)として流れ、春は雪解けを湛(たた)
え、秋は蘆(ろ)荻(てき)の根を洗うなど、多く見るべからざるの勝景である、然も其
川尻からは、小船に棹(さおさ)して遠く番神、福浦、鯨波の奇勝を探る事が出来る。

 落雁に妓楼の窓の絃洩(も)るゝ

(註1)鵜川尻: 鵜川河口。川尻は、川の下流あるいは河口の事。

(註2)潺々: 浅い川を水がさらさらと流れる様。

 極楽寺の桜花 幽邃(ゆうすい)閑雅(かんが)、古松老柏、鬱乎(うっこ)として茂
り、掲載には数樹の桜があって、其爛漫たる満開の好時季に、嬋娟(せんけん)たる美
妓を拉(らつ)して曳杖(いうじょう)するもまた一興である。

 はな筵春雨なんど踊らせむ

(註1)極楽寺: 鵜川西岸の若葉帳に在り、昔から「大久保の桜」と呼ばれる桜の
名所。観経と涅槃像の曼荼羅が有名。

(註2)幽邃閑雅: 幽邃は、景色などが奥深く静かな様。閑雅は、淑やかで優雅な


(註3)鬱乎: 草木の盛んに茂る様。

(註4)嬋娟: 容姿の艶やかで美しい様。

(註5)曳杖: ルビ?、エイジョウと読むべきか。引き杖のこと、転じて、引き
ずって行く事。

 今回も、「八坂神社」の祭礼、「祇園祭」の事が出てきた。この記事を読むと、今
よりももっと盛んであったことが窺える。また、当時の景観の素晴らしさが思い浮か
ぶのだが、今の柏崎はどうなのだろう。

Best regards
梶谷恭巨

承前。

 

柏崎の廓言葉」

 

何れの遊郭でも、其言語に普通と異(チガ)って居る点がある様であるが、柏崎い於ける廓内の言葉を紹介すれば左の通りである。

 

「廓内の部」

ためにかかります(是は玉代、線香代のかわりめの時)、貰い切り(揚げ切り)、あばァ(下女)、ちらし(一寸お目見え)、踊子(禿(かむろ))、内がかり(楼主より諸経費を負担する妓)、()ものもち(常着其他を所持する者)、自分持(全部妓の負担になる者)、はだか(内がかりに同じ)、やまだし(始めて娼妓となる者)、ひまもらい(呼戻す事)、東京のしょ(東京の客)、大阪もん大阪の客)、叱られます(情夫のお惚気(のろけ))、言へ付けますで(同)、浮気もんが(お転婆の事)、こうかつだぜ((けち)なるを指して)、猫なかせ(大喰者(おぐいもの))、いけすかんが(気に入らぬ)、へなちょこ(嘲る事)、鼻たらし(鼻下(びか)(ちょう))、あつべろん(そうでない事)、しゃれこき(美装)、人の人(己の情夫)、姐さん(老妓)、やまのとっさん(猿)、大きらいだが(嫌なこと)、ひねりっぱなし(線香一本でかいさるる時)、おとといおいで(すかぬ客に(から)かう時)、在の旦那衆(田紳)、いやおつきに(そうでない)、なまくら((なま)けもの)みじまい(化粧)、銀ながし(ハイカラ(もん))荒浜もん(夜具を急ぐ人)あんちや(兄さんの異称)、おつちやん(弟)、あの子さん(使子を呼ぶとき)、なで箒((あい)(かた)変える客)、この人さん(此人)、たらどうしょば(困った時)、札がかかった(入院)、腕が利く(遊芸に達せるもの)、チャントついています(情夫のあることを云う)、これ(恋人)、旅の人(他地方の客)、はがき或いはしきり(勘定書)、はばかり(便所)

「客筋の部」

はをし(二度玉代及び線香を重ねる時)、かんろッこ(禿)、一つはだくか(登楼をする事)、いろをんな(情婦)、あぶ(遊ぶ)、にかや(二階)どっさり一ぱいこと(沢山)、しぎる(奢る)、じゃしきあるかい(座敷があるかい)、すぱだく(登楼)

 

(注)下線の部分は、原文に付点があったところ。尚、音便とう小文字とそうでない所が混在していたので、判る所は音便にしたが、表記は音便表記ではないと考えてよいのではないか。また、仮名遣いは、言葉の問題だから原文のままとした。

(註)禿: 肩までで切り揃えた児童期の髪形、転じて、遊郭に住み込む童女の事。余談だが、柏崎には、「禿」姓がある。お寺の姓なのだが、この先代ありは先先代に、神道無念流有信館・中山博道門下の禿勇専(教士)氏がある。氏は、大正2年(1913)3年、大正6年~昭和5年(1930)の間、旧制県立柏崎中学の剣道師範だった。因みに、友人・市川昌平氏の父上、故市川隣平氏は、禿氏の同門の後輩に当たり、教士(八段)、昭和10年から終戦の年まで、柏崎中学の剣道指南だった。

 

 興味ある部分なのだが、何しろ地元の者ではない、文中の言葉を借れば、「旅の人」であり、(事実、新潟に来て40年近くなるが、昔はよく「旅の人」と言われた)、コメントのしようがない。ただ、文中にもあったが、この地方(柏崎)では、「い」と「え」の発音の区別が定かではないようだ。

 

 それでは、と言うのではないが、実は、柏崎の言葉は広島弁と共通点が多くあるように感じる。例えば、「そうだすけーのう」は「そうじゃけーのう」とか、また、単語に於いても、ほぼ同音同義で使用されている言葉が多く見られるように思う。これは、一つには柳田國男の「言語のドーナッツ理論」から、もう一つは、北前船あるいは北前廻船による言葉の伝播あるいは拡散に依るものではないだろうか。

 

 ところで、先日、NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」(山県県鶴岡)で、「そうでがんす」というのが鶴岡方言と聞いたのだが、広島(西部、安芸国)では、昔、古老が、全く同じ使い方・意味で、この「そうでがんす」と言う言葉を使っていた。広島でも、実は、旧安芸国山間部と海岸部では言葉が異なる。また、詳しくは知らないのだが、広島市(城下)の言葉も、大分違いがあったようだ。しかし、概していうと、岡山から広島山口、更に、旧石見国(島根県西部)、出雲を飛ばし、鳥取、福井、などで、同質の言葉をよく耳にした。ただ、残念ながら、大抵の県は旅行したことがあるのだが、山県と秋田だけは、一度も足を踏み入れたことがないのだ。そんな訳で、広島と鶴岡の「そうでがんす」が、どのような関係に在るのか、感覚的にも把握できないが、調べて見た事である。

 

 また、長岡と柏崎では、言葉が違う。しかも、長岡でも、所謂「在郷」と長岡のでは、全く言葉が異なり、違和感を感じた経験がある。越後は、兎に角、在地の大名領、その飛び領、また、大身の旗本や他地方の大名の飛び領、更に天領が入り組んで、それこそ他地方には見られない言語・文化、経済・社会システムなどが混在し、越後独特の文化圏を形成してきたのではないだろうか。

 

 私自身は、旧越後という複合社会・文化圏を、日本の近代化のモデルではないかと考えている。言い換えれば、人間関係を含む越後の全体的近現代史の把握こそが、「今を見る鑑」としての歴史認識ではないのだろうか。大分飛躍してしまったが、いずれにしろ、郷土史を単に限定的地域史と捉えるのではなく、全体との関係あるいは位置付けで見る事が、重要だと考えるのである。過言、ご容赦。

 

Best regards

梶谷恭巨

承前。

 

「芸娼妓の年中行事」

 

一月元旦 総ての客は断って、朝まだきより三々五々打連れて祇園社(八坂神社)弁財天(香積寺境内)遠くは番神淡島等に詣でる、一年の身の安全にても祈るのであろう。

同 二日 弾初め(別項に詳し)

同 七日 九萬九千日此日一日神社に詣でれば九萬九千日に向うと言うである)、夜の十二時を報ずるや吾れ遅れじと起き出でて鎮守八坂神社に風雪を冒(オ)して参詣する。殊に当日は古来より附近村落の信者が参拝するの風習があって、裙絡繹(コウクンラクエキ)、快晴の折は時ならぬ花を見るの想いがある。

同 十四日 小年(コトシ)と言うて各々祝膳に就て(サン)を傾く。

新年宴会 毎年一月の廿四日、五日頃、貸座敷新年宴会を開くのであるが、此日は楼主始め一般出席して、線香及び玉数売上げ高の勝れる者に夫々授賞され、尚お会場に掲示するのである。

六月十五日 柏崎閻魔市の事とて芸妓また綾羅(ウスモノ)をまとうて三々五々各隊をなし、多くは腕車(ワンシャ)を連ねて参拝するのである。

七月十日 祇園祭典の最も賑う日ならば各楼の紅裙又揃いの浴衣を新調して八坂社に詣でる。此祭礼は十四五年前から煙火(ハナビ)を揚げて、一入(ヒトシオ)賑いを添えて居る。奉納煙火の過半数は芸娼妓の寄附で、彼等も又二六時中崇拝せる神様のこととて各自競うて七寸玉を番附面に表し、揚げ具合を見て密かに其の年の運不運を占って居る。

八月十五日 盂蘭盆とて廓内の芸妓は素より雛妓(スウギ)に至る迄、盛装を凝らして、各々主家の墳塋に参拝する。是は他に見ざる習いで、何れも常住坐臥家族的趣味を有して居る事が証される。

十二月二十五日 裁縫学校精勤者の賞書授与式を挙行するので署長又臨席し楼主及び芸娼妓に対し奨励的訓示がある。

十二月三十一日 越年なので戸毎に技芸を尽して杯を挙げ、此日丈けは無礼講として楼主又顧みざれば、謡うあり、笑うあり、実に他界の夢にだも見る能わざる賑いである。

 

(註1)弾初め: ヒキゾメ、管弦の弾き初めの事。

(註2)番神: 日蓮宗三大霊場の一つ番神堂がある。

(註3)淡島: 淡島山、淡嶋神社がある。

(註4)九萬九千日: この日に観音様にお参りすると九万九千日お参りしたご利益があるという日。明治の廃仏毀釈で、「本地垂迹」(神仏混交)が否定されたが、京都八坂大社は、牛頭天王(薬師如来)の他、波利采女(十一面観音)を本地としたことから、末社である柏崎八坂神社も、この祭礼を引き継いだのではないだろうか。尚、越後では、(佐渡は激しかったが)、廃仏毀釈による仏閣仏像の破壊は少なかった。

(註5)紅裙絡繹: 紅裙は、紅いもすそ、転じて芸妓の意で、絡繹は、往来の続く様。即ち、芸娼妓が連なって参拝した情景。

(註6)小年: 中国では春節の始まり。ここでは、所謂「小正月」の事だろう。

(註7)盞: 玉杯。

(註8)腕車: 人力車の事。

(註9)煙火: 自分は広島出身なので、最初、「花火師」の事を「煙火師」と云われた時、その意味が理解できなかったが、この辺りでは「花火」を「煙火」と言うのが一般的らしい。

(註10)雛妓: 見習い芸妓、すなわち所謂「半玉」の事。

(註11)墳塋: 墳、塋共に墓の意。文中のルビが、「フンケイ」となっているが、「フンエイ」が正しい。

(註12)常住坐臥家族的趣味: 「常住坐臥」はいつも位の意味なので、いつも家族的な趣があった。

(註13)裁縫学校: 『越後タイムス』2006811日の記事に次の様な紹介がある。以下、記事原文引用。

「三宮、古見野両女学校中心に ふるさと人物館で 柏崎女史教育のあゆみ展」

  女子裁縫練習場開設を祝う大道長安の書

 柏崎ふるさと人物館では9月18日まで、夏季企画展「柏崎女子教育のあゆみ」を開催している。慶応元年に三宮茂子が開いた裁縫指南所(後の三宮女学校)に始まる、柏崎の女子教育の歴史をたどる展示だ。

  明治以前の女子のための裁縫塾開設は全国的にみても例が少ないという。裁縫指南所は明治39年に学校組織となり、柏崎裁縫女学校に改称、三宮茂子の後を継いだ登喜子は、昭和10年に校名を「三宮裁縫女学校」に変更。終戦目前の昭和20年に閉校となるまで、女性の自立、地位向上に貢献した。

  一方、丸山樹山が明治24年に開設した柏崎女子裁縫練習場は、大道長安の「救世教」を背景とし、明治33年には古見野女学校として学校組織化、2代目貞の「古見野実科女学校」、3代目中の「柏崎高等実践女学校」と変遷、4代目節は高等専修学校としての認可を得た。同校は昭和63年、約100年にわたる歴史を閉じた。

  企画展は、多くの写真や記録、書簡、思い出の記などで、「サングさん」「コミノさん」と呼ばれた両校のあゆみを紹介している。中でもわが国女子教育の先駆者として名高い下田歌子が柏崎中学校初代校長・渡辺文敏に宛てた書簡は、この企画展準備中の昨年、渡辺校長の孫から寄贈された貴重なものだ。下田は明治32年と33年の二度にわたって来柏。柏崎における女子教育の振興に大きな影響を与えた。

 

 今回興味深いのは、7月10日の「祇園祭礼」の記載である。即ち、今年も先週開催された「柏崎まつり・大花火大会」の始まりに、深く花街が関係していた事だ。浅学、私は、この事実を全く知らなかった。

 

 もしかすると、この事実を市民が知れば、(私自身は、印象を一変したのだが)、祇園祭あるいは花火大会に対するイメージを一新し、柏崎の歴史そのものを再考させる契機となるのではないだろうか。

 

Best regards

梶谷恭巨

承前。

 

「歌舞の師匠」

 

 天保年中、千歳と云うもの三味線を一ヶ月三百文で教え、其弟子におとかと云うものがあって、飯盛女の器用なるものは此両人から、技芸の伝習を受けた。其後、文久の頃、江戸牛込横寺の生れで磐津文字太夫と云う者が、何う云う因縁で柏崎に来たものか、遊行小路に遊芸を指南して居たが、此文字は柏崎花柳界の遊芸鼓吹の為めには与って力があった。続いて久吉というものが来たが、此者は後ちに日吉屋と云う遊女屋を開業したが、戊申の役に流弾に当って死んで終ったとの事である。また踊には大工の福蔵、幇間には内山庄五郎抔と云うものがあった。夫れから松之助と云う者来り、長岡より柴田屋、音羽屋来り、何れも遊芸の指導に勤めたものである。尚お東京より幇間三八と云う者が来て大いに賑わした事もある。目下は元小石川楼の芸妓三代松と、昨年新潟より女(ジョ)と云う者、大に此道の為めに勉めて居る。

 

(註1)常盤津文字太夫: 文久の頃、柏崎に来たと云う事から推測すると、四代目文字太夫か五代目と謂う事になる。しかし、四代目は、文化元年(1804)生れで文久2年8月8日(186291日)に没したと生没が明確であり、しかも晩年は初代常盤津豊後大掾を名乗っているから、文久頃に柏崎に来た可能性が薄い。そうすると、五代目常盤津文字太夫と謂う事になる。この五代目は、文政5年(1822)生れで明治2年2月29日(1869410日)に没している。初め清元琴太夫と名乗っていたが、芸を見込まれ四代目常盤津文字太夫の養子になり、天保8年(1837)に四代目常盤津小文字太夫を襲名、文久2年、四代目の死により五代目文字太夫を新明したが、故あって離縁。その後、六代目常盤津兼太夫を襲名した。この「故あって」が何なのは判らないが、柏崎に都落ちする原因にはなりそうに思える。強いて言えば、その後、五代目常盤津兼太夫の死によって、文久元年(1861名跡が途絶えていた兼太夫を襲名して六代目兼太夫となったのではないだろうか。何かしら曰くありげで興味深い。

(註2)幇間三八: 幇間(ホウカン、太鼓持ち)の三八が実際誰なのか不詳だが、明治30年頃の三遊亭圓朝作の『松と藤芸妓の替紋』(後、明治30年に読売新聞に連載された『雨後の残月』)に清元三八という幇間が登場する。もしかすると、この話が喧伝され「三八」という尚名乗った東京の幇間が来柏したのかも知れない。未だ通信が不便な時代、起こりうる話ではないだろうか。

 

 今回の話は、調べて見ると存外面白い話を内包している。明治初期には、花柳界が盛況の時代であったようで、その事が、大正2年に発刊された安藤せん子著『紅灯情話二代芸者』の中にも見える。また、前回紹介した『新・御宿かわせみ』の中にも、そうした状況を背景にした名無しが載っている。時代の変わり目には、このほかに、新興宗教も盛んになるものだが、こうして花柳界など調べていると、表面に出ない社会現象など、実に興味深い。

 

 最近に出る事も殆どないので伝聞に過ぎないが、紅灯の明るさは、柏崎盛衰の指標ではないかと思えるのである。

 

Best regards

梶谷恭巨

承前。

「雑事」(13)

物見遊山の席順 旧女郎屋(吉原系)の好婦は、襠衣(ウチカケ)を用いる事ができ
たけれど、他には之を禁じ、又祇園詣、其他物見遊山の際には、他婦は必ず下座しな
ければならぬ事になって居って、芝居相撲の際には、如何程金を出しても桟敷に上る
事は許されなかったそうだ。

(註1)吉原系: 本文中、先に記載があったが、詳細は判らない。また、この項が
何時ごろの事を述べているのかも不明である。ただ、『花街風俗』などを見ると、
社会の裏面であるが故に、格式や掟が厳しかったことが窺える。

妓女の祝い着 昔花街で用いた四季の晴れ着と云うのは、正月、祭り(三月)祇園
(七月)恵比寿講(十月)の四度であったという。

弘化安政の相場 は左の通りであった。

 女郎屋………妓婦六百文、酒肴三百文

 遊行茶屋……妓婦四百文

 旅籠屋………一泊百十文より百八十文

 但し慶応頃よりは妓婦の相場はニ朱と百文となったそうだ。

酒肴の献立 妓婦は翌日まで客の傍を去らず、又三百文にて、酒は飲み放題で肴は大
なるを用い、大平、吸物、広蓋等に山海の珍味を盛って出すのであるが、客は夫(ソ
レ)には箸を着けぬのを以て粋として居ったのである。

目録調製 妓女の代も酒肴料も定まって居ったから妓楼でも、別に目録は作らなかっ
たが、文久、元治の頃から、始めて目録を作り、酒肴を売るに至った。是れは一方に
両換等の関係もあったから必要に責められた為めであろう。

淫売宿 と貸座敷とは無関係のものであるが、兎に角、参考迄に記して置く。柏崎
元地色三朱と云う淫売婦があったが、何(ド)うして三朱と言ったかと云うに十八銭
七厘五毛(一朱が即ち六銭二厘五毛)で密かに淫を売った為めに此名を附けたのであ
る。最も淫売の盛んなのは明治五六年の頃であって旭小路、君小路、寺門前等には魔
窟が沢山あったそうである。当時の俚謡に

   あさひ小路は箒が入らぬ

        いらぬ筈だよ裾ではく

とあるを見ても如何に盛んなりしかを察せられる。

(註2)旭小路: 西本1丁目10番と同2丁目1番の間にある小路。『ソフィア
だより』43号(市立図書館、平成12年1月4日刊)。因みに、後に出る「広小
路」とは、並行している。

(註3)君小路: 不詳。

(註4)寺門前: 不詳

 *尚、柏崎の小路につては、先に揚げた市立図書館の『ソフィアだより』に詳し
い。それら小路をまとめたURLは下記の通り。

 http://lib.city.kashiwazaki.niigata.jp/siraberu/kouji.html

情死 由来柏崎の青楼では情死と言う事を余り聞かない。最も天保の頃、遊女玉菊な
るものと桜井某と西光寺畔の鐘ヶ淵に身を投げて情死したが、其後広小路の仏壇屋某
と港屋のみなとと云う遊女と浅からぬ中となり遂に情死を企て、先ず女を殺して後自
分の喉に突き立てたが、手元狂いて死に切れず、治療を受けた後、獄に投ぜられたと
云う。又此以前にでもあったが事か、某と某妓とが二階に縊死を遂げた、其歌の齣
(句)に曰く

   登る梯子が剣の山よ、渡る敷居が三津の川よ

(註5)広小路: 上越に向かって、国道8号線を鵜川の手前で右折し、跨線橋を越
えた現在の新橋5丁目辺り。

火薬自殺 柏崎の遊郭で情死も少ないが、又自殺も少ない。四十四年六月の四日、越
路楼で比角(ヒスミ)村の藤田と云う者がダイナマイトで自殺を遂げたが、斯くの如
き事は殆どない事である。

 内容については、特に注釈を付けない。ただ、年月日が判る「火薬自殺」だが、柏
崎の年表を調べて見ると、ダイナマイトによる自殺なのだから、さぞや大事件と思い
きや、記載がないのである。しかし、この年は、火災の大方年の様で、しかも扇
郭周辺で多く発生していることから、県令により、遊郭を新花に移転するよう通達
されたようだ。特に、11月13日夜、新桐油屋より出火した火事は、家消失
660戸、寺消失13寺であった。また、記憶が確かであれば、この年、新潟でも大
火があった。余談だが、この年の5月20日、勝田加一を中心に『越後タイムス』が
創刊された。

 尚、今回で、「雑事」が終り、次回より、「歌舞の師匠」に入る。

Best regards

梶谷恭巨


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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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