柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 今回も『柏崎百年』からの話である。『柏崎百年』には、「教育の門を開く」に次いで「文筆開化」という節が設けられている。確かに教育と切り離せない一節だ。

 ところで、以下紹介する前に、『柏崎百年』を読み進める中に、この本の事を何故今まで知らなかったのかと、残念な気持ちが膨らんでくる。即ち、『柏崎華街志』の著者・編者である「小田金平」の事である。小田金平は、明治30年11月に創刊された『柏崎商報』の編集発行人なのである。柏崎に於けるジャーナリズムの草創期の人物だった訳だ。因みに、この『柏崎商報』は一部7厘であったそうだ。

 また、付け加えると、この本の「郷土の夜明け」に登場する人物が、幕末から明治にかけてのミッシング・リングと考えていた人たちなのだ。昭和44年に発刊された当時は、これらの人物は周知の人達だったのかも知れない。しかし、これらの人物の事が、その後三十数年の内に、埋没してしまったのか、柏崎人ではない自分がとやかく云う事ではないかも知れないが、実に残念である。いずれ書こうと思うのだが、図書館の書庫の中に埋没した多くの先人の文献を、世に顕し、先ずは、これらの文献資料をデジタル化する事が、先人への顕彰ではないだろうか。余談。

 前回紹介したように、日本最初の雑誌と云われる『明六雑誌』に先んじて、荻原嘉平と内山友吉による『随聞雑誌』が明治5年に発刊された。その辺りを引用すると、
 「明治五年というと、二月に『東京日日新聞』が創刊され、九月に新橋横浜間に鉄道が開設されたという年で、新式郵便も前の年の一月に東海道に開かれたばかり。そういう文物草創の時に、越後の片すみから「雑誌」が飛びだしたというわけ、忘庵さんの話によると、雑誌の先駆は明治六年に東京ででた『明六雑誌』ということになっているから、柏崎の『随聞雑誌』はそれより一年早い。日本で初めての雑誌が柏崎で出現したことになる。」

(註1)明六雑誌: 調べて見ると、『明六雑誌』は、明六社の機関誌として明治七年(1874)4月2日創刊で、翌明治8年11月14日に諦観になっている。因みに、「明六社」は、森有礼(薩摩藩島津家)が西村茂樹(佐倉藩堀田家)と語らい、福沢諭吉(中津藩奥平家)、西周(津和野藩亀井家)、中村正直(幕臣)、加藤弘之(出石藩仙石家)らと、明治六年に結成された結社で、「社を設立するの主旨は、我国の教育を進めんあがために有志の徒会同して、その手段を将棋するにあり、また、同志集会して異見を公刊し、知を広め識を明にするにあり。」とある。(Wikipediaより引用)尚、明六社の有志構成が、藩際的であるので書き加えた。

 因みに、森有礼(ありのり)(1847-1889)は、米国留学の帰国後、「明六社」を設立、同会長、初代文部大臣の外、日本学士院初代会員、一橋大学の創設者でもある。また、西村茂樹(1828-1902)は、文学博士、文部官僚、日本学士院会員。

(註2)忘庵: 勝田嘉一、忘庵は号。桑山直二郎が『月刊越山』を発刊した時の編集・校正者。明治28年創刊。因みに、この時、桑山直二郎25歳、勝田嘉一は20歳であった。笹川氏は、『柏崎百年』執筆の際、健在だった勝田忘庵に昔の事を取材したようだ。

 一つ一つ関係を追って行くと、1ページを進めるのに思わぬ時間がかかり、遅々として進まない。今回は、この辺りに止めたい。

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 さて、色々考えたのだが、先回紹介した『柏崎百年』に掲載された事実などを基に、『柏崎華街志』に掲載された広告の調査も兼ねて、その過程で知った事実などを紹介する『柏崎余話なるものを徒然に紹介したいと思う。

 

 先ず、前回の続きとして、『柏崎百年』の第一期「郷土の夜明け」から「教育の門を開く」の冒頭を引用から始めよう。以下、原文。

 

 「明治二年二月、陣屋旧邸に始めて学校を開き、柏崎町を始め村落より生徒を募集す」とある。これによると、当初の職員は、次の通り

 

 教師 原理左衛門

 助教 西巻喜仙二(平井村人)

 主附(学校取調方主附)兼助教 山田波之助

 (大正四、一〇、九、柏崎日報)

 

 また原文の引用を続ける。

 

 鯨波の戦がすんで十ヶ月め、まだ官軍の民泊がつづき、物価暴騰、流通しはじめた太政官札が正金百両につき札百二十五両となったり、百二十両適用となるなどの値下げ布令がでたり「そのため町民に浮沈あり」デマがとぶ。所持混乱のさなかに、始めて耳にする「学校」というものが開校された。原理左衛門は「たんぼの先生」の二代目の修斎のことで、この時、六十四才、門弟には山田霜筠、松村文次郎文次郎、西巻永一郎、中村篤之助等があった。何れも柏崎の進運をひらいた秀才で、百年史の初頭に活躍している。

 

(註1)明治二年二月: 1869年、この年の15日には横井小楠が暗殺され、この月には、造幣局が設置され、蝦夷地では榎本武揚が、蝦夷島総裁として、プロシャ人ゲルトネルに凾館に近い七重村を99ヵ年貸与している(ガルトネル開墾条約事件)。

(註2)陣屋旧邸: 桑名藩大久保陣屋の構内。

(註3)原理左衛門: 後に在るように「原修斎」の事のようだが、理左衛門という通称は、この資料で始めて見た。

(註4)西巻喜仙二: 平井村の庄屋・西巻家の関係か、ただ、喜仙二と「二」の字が付く処から察すると、分家なのかもしれない。

(註5)山田波之助: 後に出る「山田霜筠(そうきん)別人であろう山田霜筠山田八十八郎事。

(註6)山田霜筠: 山田八十八郎、「霜筠」は号。明治初年の新潟県第五大区長。

(註7)松村文次郎: 初代・新潟県県会議長、衆議院議員、越後の自由党の立役者、第二代衆議院議長となる星亨らと共に自由党結成。原修斎の門弟とあるが、一般的に知られているのは、「松村操」、号を「春風」であるところから、「操」が諱で、「文次郎」が通称であったのだろうか。

(註8)西巻永一郎: 山田第五大区長の当時、西巻永一郎は、第五大区副長で第五小区及び第六小区担当をしている。また『新潟県地価持名鑑』に名前を連ねて居る事からも、柏崎町の富豪の一人であったと窺える。

(註9)中村篤之助: 詳細は不明だが、『中村篤之助公用録』が、『柏崎史料叢書』に残って居る。

 

 とまあ、こんな具合で、笹川氏が『柏崎百年』を書かれた当時は、(註)の如き事項は周知の事実だったのかも知れないが、今や簡単な注釈では、相互関係など全く判らない状況である。しかし、前回も述べたように、柏崎が北越戦争における橋頭堡(戦略的重要地)であった事が窺える。官軍は、明治新政府を成功させるためにも、柏崎を一種のモデルと考えていたのではないだろうか。また、柏崎は、戊辰戦争の戦災地にはならなかった。この事は、多くの史料が現存する事を意味する。先に揚げた『柏崎史料叢書』などは、戊辰戦争を研究する上で重要な史料ではないかと思うのだが、こうした史料こそデジタル化を急ぐべきではないのだろうか。

 

 ところで、今回の「教育の門を開く」から、三余堂あるいは藍沢南城に関わる記述がないことが判る。南城自身は、維新前の万延元年(1860に母子いているから直接のかかわりはないと思われるが、何かしら郷方と町方、即ち桑名藩と官軍の対立関係を窺わせる。

 

 ただ、ここでは紹介できなかったが、「文筆開化」の節を見ると、明治五年に、『随聞雑誌』というものが発刊されているそうだ。この『随聞雑誌』は、従来、雑誌の嚆矢と云われた『明六雑誌』の一年前に発刊されているのだから、日本で最初の雑誌と云う事になるそうだ。次回は、この辺りの事を紹介したい。

 

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『与板史こぼれ話』『同続こぼれ話』『与板財閥史』の三編が一冊になった本がある。この中に戊辰戦争に関する記述があるのだが、著者・前波善学氏によると、確かな史料として、大澤孚(まこと)著『与板戊辰史要』が揚げられている。そこで検索して見ると、近代デジタルライブラリーに収録されていることが判った。そこで、この『与板戊辰史要』の目次をみると、第十一章が「松宮雄次郎と村山半牧」である。先ずは、その「松宮雄次郎の事」を紹介しよう。以下原文。尚、旧漢字および假名使いは現代文にまた句読点についても改めてある。 

 松宮雄次郎は与板領内観音寺村の民である。彼れは義気に富み先代以来伝統的に任侠を以て居り、常に坐強扶弱(ざきょうふじゃく)の精神を持して郷党の間に重んぜらるゝものであった。

 然るに一朝戊辰の事変に際し我が与板藩が敵中に孤立し苦境に陥るを見、彼れは深く我が境遇に同情し藩の為に尽くさんことことを誓うたのである。即ち四月十一日幕府脱兵隊の暴行あるに際し彼れは来りて其鎮撫に参加し爾後警備施設に対しては領内偵察の事に任じて頗る周到を極め、又警備充実の為には其乾児を供給して非常の場合に備うる等幾多の便宜を与えたるのみならず、松下源六郎一行の水原会議に赴ける時も土田柔助一瀬要人と水原に会見する時も、彼れは陰かに之に追随して水原に到り会津側に於ける裏面の事情を偵知して我れに之を内報し、又は彼我の間に於ける意思の疎通を謀る等実に多大の便益を与えたるものである。

 即ち前記水原会議の際松下源六郎等が決答一日の猶予を請うて旅館に引取りたる秋の如きは、雄次郎能く会津側の内情を諜知し会津側の底意は何等歟(なんらか)の機会を捉えて与板を根拠地とし、即ち与板と長岡と呼応して西軍に抗するの意志に外ならざることを密告したるが如き、又土田、一瀬会見の時には予め雄次郎より我れの苦境衷情を会津側に分疏して我れの立場を弁護したるが如き、皆是彼れが与板藩の為に尽せるものにして多大の貢献と言うべきである。

 抑々(そもそも)、雄次郎は与板領の民なるも夙(つと)に会津藩の為に誘引せられ殆(ほと)んど会津士人の如く扱われて会津藩の為に努力し居たのである。されど彼れは郷土の恩義は忘れ難しと為し我が与板の地が東軍の為に凌辱せらるゝは忍ぶ能わざる所なりとて陰然我が為に尽し居たのである。其後開戦の当時雄次郎は東軍中に在り竟(つい)に西軍の為に囲まれて危急に瀕するの事実あるを知り(六月中旬)松下源左衛門は窃(ひそ)かに彼れの乾児に嘱付して彼れに帰順を勧めたのである。されど彼れは執政の厚意感泣の外なきも今更帰順せば臆病者と世に謡われ、多くの乾児にも合すべき面目なし、唯此上は一死あるのみ必ず厚意に背くにあらずとて乾児を還えし断然帰順を拒絶したのである。

 松宮雄次郎は与板領内の一民なるも素と与板藩士にはあらず、而して彼れが一方会津藩の為に尽し乍(なが)ら同時に又与板藩の為に尽すは矛盾に似て矛盾にあらざるのみならず、松下執政より帰順を慫慂(しょうよう)せらるゝも断乎として之を拒絶する所全く一貫せる義気の存在を見る。嗚呼、雄次郎は真に男子中の男児である。

『与板戊辰史要』書誌
  大正9年5月10日印刷
  大正9年5月15日発刊 (非売品)
  著者兼発行者            大澤孚(まこと)                                                      東京府豊多摩郡杉並村大字高円寺五三七
  印刷者                  本間十三郎
  印刷所                  日清印刷株式会社
                              東京市牛込区榎町七番地

 尚、著者である大澤孚は、『与板藩改革士族卒家禄』(後述)に二十一俵以上改め八石に記載のある大澤平衛門の子孫ではないだろうか。 

(註1)乾児: 乾分の事。
(註2)松下源六郎: 中老
(註3)土田柔助: 与板藩士、弘化2年の『座列帳』に、土田佐次郎(御徒士目付・御勘定人、十石)の記載、廃藩置県時の『与板藩改革士族卒家禄』に、土田柔助(旧五十石以上、改め二十石)の記載があるので、幕末時に昇進・加増があったと思われる。
(註4)一瀬要人: 一之瀬要人(かなめ)隆智、会津藩家老(千三百石)、戊辰戦争で家老中唯一の戦死者。享年三十八歳。
(註5)松下源左衛門: 与板藩家老

 尚、この記載に関しては、後に注釈など加筆する予定である。

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梶谷恭巨
 

第三章 セント・ヂョーヂ・エリオット

  セント・ヂョーヂ・エリオット(St. J. Eilliot D.D.S.が日本に来航したのは明治三年(1870年)である(註)(明治二年と記するものもある。

エリオットは天保九年(1838年)十月紐育に生れ、父は眼科医であった。初め兵士となりて南北戦争に従軍し累進して聯隊司令官附将校となったが不詳の為め除隊し、戦争の終期に至り再び軍医官として陸軍に入り戦争終焉後は独立開業した。エリオットは東洋からの屡々の便りにより東洋に医術を開業するの有望なるを知り、遂に東洋に来る決心をした。然るに更に歯科医術を有するならば一層都合よき旨忠告するものがあって、意を決して、フィラデルヒアの歯科医学校に入り、所定の課程を卒えたのは明治三年(1870年)である。此、歯科の修業を終った年、急遽横浜へ来航したもののようである。按ずるに、エリオットは意を決して横浜に寄港して宣教師のブラウン博士(Rev. Samuel R. Brown)や、ヘボン博士(F. C. Hepburn, M.D.)の令名にしたい。博士等の東洋伝道の精神に絶大な共鳴と諒解を以て来たことは想像に難くない。殊に支那に於ける伝道に多くの経験を有する両博士の意見を聞き、引とめられ、意を決して横浜での開業を決心したことも想像される。エリオットも初めは上海に行くつもりで米国を出たのであったが、横浜に来てから前記の如くして方針を変えて茲で開業したのだる。

 (註)セント・ヂョーヂ・エリオット: 本文中の表記は誤り。W. St. George Elliott, M.D., D.D.s.の事と思われる。尚、Wは「William」であるようだ。当時の歯科学会誌『The Dental Cosmos』に4件の記載が有る。詳細は、翻訳を含め別に記載するが、第14巻に「Yokohama, Japan」、第31巻に「London, England」、第44巻に「New York, August 5, 1902」、第47巻に「New York City, N.Y.」とある。

 また、軍歴に就いては、米国の南北戦争公式記録『The War of the Rebellion』にニューヨーク第79歩兵連隊(義勇軍)の記録に、陸軍中尉の記載がある。この聯隊は、ニューヨーク在住の裕福なスコットランド系米国人によって組織され、その為、「ハイランダーズ」等と称された。当初の主要任務は、十砲兵隊訓練とパレードに在ったようだが、後に、シャーマン旗下に在って、サムター要塞戦等に於て軍功が有った様で、エリオットは、軍功報告の22名中7位に列している。これが為か、ニューヨーク州立軍事博物館の『79th Infantry Regiment, Civil War – Seventy-Ninth Militia; Highlanders; Cameron Rifle Highlanders; Highland Guard; Bannockburn Battalion』に、編成1861529日~解散1865714日等の記載が有り、それによると、『The Union Army』(1908年刊)第二巻に、少佐としてエリオットの記載がある。

 以上のように、エリオットに関しては、実に妙味深い背景がある。この『歯科医事衛生沿革史』編纂当時は、後に記載がある様に米国における調査が不調であったようだが、その後の状況から、更なる記録の存在が認められる。その一つとして、下記URL等、系図学系サイトに何件かの記載がある。しかし、詳細については、有料であり、自分の範疇を越えるので、機関研究者に更なる調査を期待したい。

 http://www.rootsweb.ancestry.com/

 尚、南北戦争アーカイヴに関しては、例えば、下記オハイオ州立大学のものが利用できる。

 http://ehistory.osu.edu/books/official-records/006/0044

(註)フィラデルヒアの歯科医学校: Maurice H. Kornberg School of Dentistryが、1863年、「Philadelphia Dental College」として開港されている。現在のテンプル大学歯学部。米国では二番目に設立された歯科医学校。因みに、最初の歯科医学校は、1840年創立のBaltimore College of Dental Surgery(メリーランド大学歯学部)である。

  エリオットが横浜に来たときは前記W・C・イーストレーキも既に支那に向って帰って行った翌年だし、殊に前記S・R・ブラウン博士の甥であるところのドクトル・ヘンリー・ウィンも毎年別章記載の如く慶応以来香港より横浜に来港若干期日出張開業を続行していた頃だから、横浜の外人がエリオットの固定開業を熱望したことは無理もないと思う。エリオットが横浜に来た時には二名の外国人が歯科を開業していた。・其一人は仏人で、他の一人は米人だった。何れも極めて低級の開業で、エリオットが開業するや数週で仏人は内地に入りて仏語教師となり、米人は帰国したという程で、いかにエリオットに人気があったかが想像される(註)(此二人の外国人歯科医の事は全く調査の史料を欠く)。このエリオットの人気のあった所以は医師であって更に歯科医D.D.S.の資格を持ち、尚ヘンリー・ウィンの勢力範囲を譲受けて開業したのだから期せずして歓迎を受けたわけである。斯くしてエリオットは横浜山手に住居を構え、又海岸の五十七番館を借受け之を改造して治療所としたわけである。エリオットの住居はどこにあったかというに、ブラウン博士の西隣であった。即ブラウン博士は千二百十一番でエリオットの宅は二百十ぬ番であった。ブラウン博士宅の南隣地は(二百十番)今の共立女学校の所在地に相当する。

 (註)共立女学校: 1871年 ジェームス・ハミルトン・バラの働きかけにより、超教派の米国婦人一致外国伝道協会から日本に派遣された3人の婦人宣教師メアリー・プライン、ジュリア・クロスビー、ルイーズ・ピアソンによって山手48番地に設立された。日本最古のプロテスタントキリスト教による女子教育機関のひとつ。当初は「アメリカン・ミッション・ホーム」という名称だった。(ウィキペディア)

  エリオットは極めて忠実なクリスチャンであって、合同教会(明治五年三月十日、日本で初めて出来た教会である)の役員をしていた。無論夫妻で来ていたが、子供の事は詳でない。

 (註)合同教会: 英語: United and uniting churches)とは、キリスト教の二つ以上のプロテスタント教派の合同によって設立される教会。(ウィキペディア)

  エリオットは合同教会の役員をして伝道にも熱心であったが更に左記の如く、邦訳最古の聖書『馬古福音書』の刊行に其出版費二百弗を寄贈し、この難事業を完成せしめた事は特筆すべきである。

 (註)馬古福音書: 『馬可福音書』、すなわち『マルコ福音書』の事か?

  山本秀煌著「ぜー・シー・ヘボン博士(James Curtis Hepburn)」159頁に左の記載がある。

  「ヘボン博士はブラウン博士と協力して新約聖書中『馬古福音書』を訳し、尋で『約翰福音書』の翻訳に着手した。

 『馬古福音書』の初めて刊行されたのは明治五年頃で、当時聖書の出版は日本に於て厳禁せられた。切支丹宗の経文なれば誰一人として手を着ける者なく、止むを得ずヘボン博士の日本語教師たりし奥野昌綱自らが其版下を書いたが、出版に至っては全く行憐み引受人が無かったが辛じて「如何なる事起るも決して迷惑を掛けぬ」という証文を入れて稲葉某と云う版木屋を説得し、横浜在住の歯科医ドクトル・エリオットが二百弗を寄附して一千部を刊行した。」

 (註)約翰福音書: ヨハネ福音書の事。

(註)奥野昌綱: 文政644日(1823514日) - 明治43年(1910年)1212日)は日本の牧師、横浜バンドの中心的メンバーの一人。文語訳聖書の翻訳や日本賛美歌のために大きな貢献をした。(ウィキペディア)

  エリオットの患者は殆ど外国人に限られていたかの観がある。この事は後、小幡英之助の入門が容易でなかったことにも関係がある。日本人へ復員を分つという伝道の立前から、ドクトル・シモンズの切なる勧告により邦人の患者をも取扱うこととなったが、エリオットの自記によれば木戸孝允も其患者の一人なりという。『明治事物起源』(石井研堂著)によれば、「エリオットが治療を施せし邦人は米国より帰朝したる翌日来りし新島襄と通弁を同道して来た西郷従道の外は絶てなかりき」と記す程に邦人患者は少かったようである。其手術料につき歯科沿革史調査資料はエリオットの言のして次を引用している。

 (註)『明治事物起源』: 近代デジタルライブラリーに収蔵。また、筑摩学術文庫からも復刻出版されている。

(註)石井研堂: 本名:民司(たみじ)、1865814日(慶応元年623日)- 1943126日)は、日本の編集者、著作家。明治文化研究会の設立に関わり、錦絵の研究など、民間の文化史家として知られた。(ウィキペディア)

(註)新島襄: 大河ドラマ『八重の桜』でご存知の通り。

(註)西郷従道: 西郷隆盛の弟。

  「エリオット曰く、全の手術料は最初十弗を最低としたり。即ち以前日本に来りて施術せしドクトル・アートラック氏が最低十五弗と定めしよりも少しく廉なり、而して当時の状態より見るに余の手術料は最も適当なりしが如く、何等の反対をも受くることなかりき。」

 (註)ドクトル・アートラック: 現時点、不詳。

  斯くしてエリオットは明治八年(1875年)まで横浜にありて治を施したが、其間、門に入りて教を受けた日本人では小幡英之助及び佐治職(つかさ)の二人である。松岡萬蔵なるもの同家にあったが、之は技工師だった。又英国人のボートもエリオットの門に入ったが後紐育(ニューヨーク)及費府(フィラデルフィア)に於て業を了え、香港倫敦等で開業した。之等門下に対するエリオットの態度に就てはエリオットの手記に次の記載がある。

 (註)小幡英之助: 本著第二篇第一章第二節「エリオット門下」に詳細。

(註)佐治職: 同上。

(註)松岡萬蔵: 我が国における歯科技工士の嚆矢とされている。他、不詳。

  「学生に対しては喜んで指導し援助するを常とせり。希望者さえあれば尚多数の者を養成し得たらん。これ等の学生に対しては、或る機会に於て米国に赴き歯科医学を研究するよう勧め何等の報酬を求めるような事は無かった。」(『歯科沿革史調査資料』)

  エリオットは明治七年(1874年)日本を出発し支那へ向った。此時小幡英之助は随従して上海に赴き半年位滞在したが、更にエリオットは上海よりシンガポールに向ったので小幡英之助は分れて帰朝した。シンガポールで開業したエリオットは後錫蘭(セイロン、今のスリランカ)印度及欧州の諸地を経て明治十二年(1879年)倫敦(ロンドン)で、ドクトル・フィールドの跡を譲受けブロック・ストリートに開業したが、アメリカン・デンチストとして朝野の歓迎を受け非常な成功を収めたのである。この倫敦時代に黒田虎太郎が師事し指導を受けたことがある。

 (註)ドクトル・フィールド: Dr. George W. Field(London, England)の事か?『The Dental Cosmos』(Editorial, The Webb Testimonial)に1件、第25巻に名前がある。

  其後エリオットは年月不詳なれども倫敦国立歯科医学校の教授となり、歯科手術学を担当すること五年に及んだという。後紐育に帰り歯科医業を開いたが明治四十四年四月長子に医院を譲り引退した。時に七十二歳である。ニュージャージー州サウスオレンジ市に悠々自適したが大正四五年頃他界したとのことである。長子某も大正十三年(1924年)逝去し今は遺族に尋ぬべきものもない。

 (註)エリオットの事に関し調査したいと思い、調査条項を書いて、紐育の光星美磨次氏に奥村理事長から調査方を依頼したのであったが、何しろ年代が経過していた為めに遺族が見当らず判明するに至らなかった。茲に光星氏の通信を揚げて置く。

 (前文略)御尋のドクトル・エリオットの件は残念ながら駄目でした。同氏は千九百二十四年18 E, 41stに開業中亡くなって手がかりがありません。当市歯科医師会及びサウスオレンジのエリオットと名のつく人等片はしから電話で探しましたが駄目、S. S. White会社と生前取引が有った様ですから同社のFuck氏(当時八十幾歳)とかの御老人をわずらわして会社の方から調査して貰いましたが矢張り何の手掛りもなく誠に残念の至りですが仕方がありませんから御報告申して置きます。

 倫敦のフィールド会社のフューク氏等は此のフィールド氏が時々米国に帰って来てホワイト会社に出入した事を今も覚えて居ると申して居ります。(後略)

   一月十五日         光星美磨次                                                                                       

(註)光星美磨次: 『大日本歯科医学会誌』(37号)に、「ポーセリンジヤケツトクラウン」及ビ陶材用途ノ二三 / 光星美磨次 / p818、の記載がある。但し、詳細については目下不明。

(註)フィールド会社: 捜したが不明。

(註)S. S. White会社: この会社は現存して居り、下記URLにその沿革がある。

 http://www.sswt.com/history.htm

  以上、第三章終了。

 Best regards

梶谷恭巨

【承前】

  以上によっても、一定期間開業したことは想像に難くない。出張季節も夏季とは限らないことは前記萬國新聞の広告によりて知られる。兎も角、慶応年間、随時不定期に香港より来航し開業せしもののようである。トマス・ウィン伝中のトマス・ウィンの手記を引用すると次の通りである。

  「カレジ(著者註・マサチューセッツ州アムバースト・カレジ)の第二学年の終りになった頃、支那の香港に住んでいる長兄ヘンリー・ウィンから書信を受取った。長兄はこの地で歯科医を開業し月数千円の収入を得てトントン拍子に成功しつつあった。もしトマスがカレジを退学して歯科医学校に入学するならば、その学費全部を支援しよう。そして香港に来て手助するならば収入も半分わけにしようから、是非そうせよ、との勧誘状であった。いろいろ熟慮して、略々長兄の好意に応ずる決心をなし、帰省後、母に相談したら「何故あなたは伝道者にならないのです?」と反問され歯科医になることを思い止まった。」

(註1)アムバースト・カレッジ:これは著者の間違いではないだろうか。マサチューセッツ州でこれに近い大学としては、アマースト(Amherst)大学がある。アマースト大学であれば、例えば、新島襄や内村鑑三が卒業生に名を連ねる。

  この手記によって香港にヘンリー・ウィンが住んでいたことと、相当な収入を得ていたことが知れる。またトマス・ウィン夫妻が明治十年十二月二十六日、横浜に入港した折り、出迎えた人々をウィン博士は、また次の如く書いている。

  「伯父ブラウン夫妻とその娘ハッチー、妹ルイズ、従兄ラウダー夫妻、同ロバート・ブラウン夫妻、長兄ヘンリー・ウィン夫妻とその二児こージョリーとフレットで都合十二人であった。」

 (註2)伯父ブラウン夫妻:サミュエル・ロビンス・ブラウン、エリザベス・バートレット夫妻。前回、原註があったが、多少因縁めいた話を付け加えると、幕末、柏崎の領主である桑名藩主・松平定敬(さだあき)と養嗣子・定教(さだのり)が、サミュエル・ロビンス・ブラウンの門下生であった。因みに、松平定敬は、会津藩主・松平容保の弟であり、兄が京都守護職、自分が京都所司代であった為に、戊辰戦争では朝敵とされ、不在であった桑名では家臣が官軍に降伏した為、柏崎に遁れ、北越戦争(鯨波戦争)に敗れた後は、会津から仙台を経て、榎本武揚らに(函館戦争)合流し、横浜で降伏した。その後、赦されて華族に列し、兄・容保の後、日光東照宮の宮司になった。

(註3)ラウダー夫妻:ジョン・フレデリック・ラウダー(John Frederic Lowder)、ジュリア・マリア(Julia Maria)夫妻。ジョンは、1843215日生れの英国人で、英国外務省領事部門の日本語通訳生(一度失敗)で、18607月、来日、若干17歳だった。一年、後輩に当るのが、アーネスト・サトウである。また、妻ジュリアは、先のブラウンの長女である。詳細は、下記サイト(横浜開港資料館館報『開港のひろば』平成8年8月3日第45号)に詳しい。

  http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/images/kaikouno-hiroba_45.pdf

(註4)ロバート・ブラウン夫妻:ロバート・モリソン・ブラウンは、サミュエル・ロビンス・ブラウンの息子。また詳細は不明だが、ロバートは、らとがー大学の出身らしい。

  即ちこの明治十年にはヘンリー・ウィンは次弟の来航を伯父ブラウン博士一族と横浜に迎えたのだが、この年ヘンリー・ウィンが横浜で開業していたかどうかは不詳である。ヘンリー・ウィンは明治二十三年(1890年)頃、長逝(場所不詳)し、その蓄積した富は失せてしまったので、遺児の養育は次弟のトマス・ウィン博士が補助したとのことである。ヘンリー・ウィンの伝記は詳述するに史料全く欠くを遺憾とする。

  今回で、第二章ヘンリー・ウィン伝は終了。

 Best regards

梶谷恭巨



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男性
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1947/05/18
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よろず相談家業
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歴史研究、読書
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柏崎マイコンクラブ顧問
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