柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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『第五高等学校一覧』によると、羽石重雄は、明治25年10月31日調べに、本科一部第一年級に在学とあり、明治24年9月に入学したと思われる。明治27年(1894)7月(第三回卒業生)、第五高等中学校本科第一部(文科)を卒業。同級生は8名で、全員が東京大学文科大学に進学した。これら8名を記載順に揚げると、次の通り。

 隈本繁吉(福岡平民)、白河次郎(福岡士族)、受楽院養春(熊本平民)、
 羽石重雄(福岡士族)、廣田直三郎(福岡平民)、和木貞(宮崎士族)、
 三根圓次郎(長崎士族)、千住武次郎(佐賀士族)
(註)受楽院養春については、「養」の字が判読できず、取りあえず「養春」とした。

 この内、福岡出身者で、修猷館を卒業したのは、修猷館卒業者名簿によると羽石重雄のみであるが、原武哲(代表)・石田忠彦・海老井英次著『夏目漱石周辺人物事典』、「隈本繁吉」の項では、「久留米の中学明善校に入学、福岡の修猷館に転じて」とある。
 また、受楽院養春に関しては、『東京大学一覧』の文科大学在学生あるいは卒業生を調べたが、「受楽院」の記載がなかった。これにつては、後に述べる。

 今回は、これ等、五校時代の同級生の足跡を個々に追って行きたい。しかし、その前提として、修猷館、明治24年(第三回卒業生)の同級生の動向を記す。明治24年の卒業生は44名、中、第五高等中学校他、進学者で現時点で判明しているのは、次の11名である。

〇蒲池佐三太 → 医科(明治28年卒) → 陸軍三等軍医
〇権藤寿三郎 → 医科(同     ) → 福岡病院
〇白壁傑次郎 → 理科         → 理科大学化学(明治30年卒)
〇鈴木安次郎 → 法科
〇富田太郎  → 予科一部甲
羽石重雄  → 文科         → 文科大学国史科(明治30年)
〇水月哲英  → 文科         → 文科大学漢学科(明治31年)
〇安河内麻吉 → 法科
〇安河内健次 → 理科         → 理科大学物理科(明治30年卒)
山内確三郎 → 第一高等中学校大学予科(法律)
〇山路魁太郎 → 工科(理科から転科)

 次回からは個別に足跡を追いたい。

Best regards



仙田楽三郎は、越後長岡藩牧野家の藩士の子として生まれた事は判っている。しかし、現時点では、その詳細が不明だ。

 そこで先ず、長岡藩に仙田家があったかと言う事から取材を始めた。その結果、長岡藩には、「仙田家」が二家在る事が判明した。

〇仙田所左衛門家: 牧野頼母組、180石
〇仙田弥一郎家 : 牧野頼母組、180石
 (註)ただし、弥一郎家に関しては、別に「弥市郎」の名前があり、同家なのか不明である。

 また、戊辰戦争に従軍した事は明らかだと思われるところから、今泉鐸次郎著『河井継之助傳』の「長岡藩の戦死者」を調べた処、「仙田隼人」の名前がある。それによると、「七月廿九日、二度落城の際城下」とある。慶応4年(1868)7月25日(新暦9月11日)の長岡城奪回後、7月29日に官軍に依り再度落城した当日、戦死したものと思われる。

 そこで、仙田楽三郎は、いずれの仙田家の出身であるか確たる史料はないが、名前から推測して、「仙田弥一郎家」の三男として生まれた事が推測される。また、仙田楽三郎の「楽三郎」であるが、御子孫に取材した所、「がくさぶろう」と読んだと云う事だが、これについても資料がない。

 楽三郎が、文献として登場するのは、明治二年(1869)の事だ。戊辰戦後の教育復興の為、長岡市四郎丸の昌福寺(宗派:曹洞宗、寺号:万融山)に、小林虎三郎が「国漢学校」を開校した年に当る。この国漢学校の生徒として、仙田楽三郎の名前がある。第一回の生徒の一人と云う事だろう。また明治5年~6年には、「句読師」として名前が揚げられ、既にその才能を表していた事が推測される。

(追記)国漢学校開校当初の事を、教員の一人として加わった西郷葆(つつむ、1833年~不詳、後に表町小学校初代校長)は、

 「戊辰兵燹(へいせん、兵火の意)の後、長岡藩士の疲弊は其絶頂に達し、住むに家家なく喰らうに食(し)なき悲惨な境遇に陥った。乍去(さりながら)斯る場合に於ても子弟の教育亦た忽諸(こつしょ、軽んじ疎かにする)に附すべからざるを自覚し、小林虎三郎、三島億二郎氏等先輩の唱導に依り、明治二年五月に四郎丸昌福寺に士族の子弟を集め学問を教ゆることになった。教員は田中春回氏を筆頭として、私に大瀬虎治、田中登、大原蔵太、稲垣てい吉(?、金に虎)、伊地知涵(ひたし)、伊地知元造の八名で、生徒の内には渡辺廉吉、柳澤銀蔵、鬼頭悌二郎、波多野伝三郎、根岸錬次郎、仙田楽三郎氏もあった。能く記憶せぬが生徒の数は四五十名位で、教員の給料は多額の人が年給十二両、最低は十両位で、教授は毎日午前限りである。教員は藩庁の習慣にて名義は日勤であったけれども其実隔日出勤教授していた様だ。」

と語ったとある。(信州大学『教育研究』2008年第一巻9~36Pからの復引き)、出典は、北越新報社編『長岡教育史料』。(20141020)

 更に長岡洋学校の卒業との記載がある。長岡洋学校の開校は、明治5年11月23日(西暦1872年12月23日)に開校しているとされるので、国漢学校との重複期間があるのではないだろうか。因みに、明治4年頃には、「国漢学校」は、旧市役所の位置にあったようだ。その後、明治4年8月、廃藩置県により、柏崎県の管轄下に移行し、分黌(分校)長岡小学校と改称された。(柏崎町の学校を本黌(本校)としたので、他の学校は、分校と称された。)

 しかし、その後の履歴がよく判らない。ただ、次に書くように東京大学予備門理科理科を卒業している。しかし、「東京大学予備門」は、明治10年(1877)4月12日、東京開成学校専門科と東京医学校が合併して東京大学が新設された際、各学部(法理文)に入学する生徒に予備教育を行う学校として開設された学校である。すなわち、東京開成学校は、専門科三年・普通科三年の構成であり、予備門は、この普通科を中心に、「官立東京英語学校」が合併し、修業年限4年に再編成された新設された訳であるから、仙田楽三郎は、東京開成学校普通科に入学したと考えられる。

 そこで、東京開成学校普通科について見ると、普通科の入学規則が明文化されたのが、明治8年1月えあり、その規則第二条に、「身体壮健行状端正且年齢十五歳以上二十以下ニシテ試験ノ上ヘ上第ノモノハ入学ヲ許スベシ」とあるので、楽三郎は、十五歳以上二十歳以下ということになる。また、翌9年に規則が改定され、第一条に「普通科ニ入学志願ノ者ハ次に記載スル科目の
試験を経及第セサレバ入学ヲ許サズ」とあり、試験科目としては、国書文章、英語作文、地理図誌及地政、万国歴史大綱、算術及代数一次方程式、とあり、年齢は第四条に依って、十六歳以上に改定された。

 以上、東京大学百年史編集室・新谷恭明氏の『東京予備門成立過程の研究』を参照したが、また次の様なことも書かれている。すなわち、この明治9年の合格者は、総数89名中、東京英語学校が37名を主として、関係すると思われる新潟に関しては、新潟英語学校4名があるが、この年の『東京開成学校一覧』は無く、8年の一覧(この年の一覧しか存在しないようだ)には、新潟県出身者6名が数えられるが、仙田楽三郎の名前はない。

明治12年(1879)7月、東京大学予備門理科卒業。
   因みに、同年、理科の卒業の新潟県出身者は、後に秋田県尋常中学第12代校長となる
  杉谷佐五郎がいる。

 次に卒業後の事だが、一覧には「進学」とあり、東京大学理科大学に進学したと考えられるのだが、実際には、「東京大学一覧」の在校生及び卒業生の名簿に名前がない。また、内閣府監修の『職員録』についても調べて見たが、明治19年(1886)に、

 「長崎尋常中学校、(元)校長、(元)一等教諭、月俸65円」、
 の記載があるまで見つけることは出来なかった。しかし、この(元)の意味は不明である。

(追記)旧制長崎県立長崎中学校(ウィキペディア)の記載を見ると、初代校長とあり、在任期間は、明治17年(1884)6月1日~明治20年(1887)10月18日(次代校長が、同年10月19日である事から)とある。但し出典は未確認。
 また、『長崎医学百年史』第五章第十七節「 教員の増聘と長崎医学校の整備」に、明治18年8月15日と翌16日に開催された「長崎県有志教育会」が、長崎県立中学校体操教場で行われ、創立委員総代として「仙田楽三郎」の名前がある。またこの会で、幹事・委員に指名された。この会場で、仙田楽三郎は科学実験のデモンストレーションを行った」とあり、東大予備門理科出身として面目躍如の場面だっただろう。(20141020)

 以下同『職員録』を年次ごとに辿ると、

明治21年(1888)、長崎尋常中学、教諭(月俸65円)
明治23年     福岡県中学修猷館、教諭兼教頭(月俸75円)
明治25年まで、同上、現在の福岡県立修猷館高等学校(福岡市)
明治26年(1893)、新潟県古志郡立長岡尋常中学校、校長
 尚、長岡中学(現在の新潟県立長岡高等学校)では、第12代校長と記録されている。
 また、この記載は明治28年まで『職員録』なく、長岡高等学校の記録に依った。
明治30年(1897)、新潟県古志郡立長岡尋常中学校、校長兼教諭(年俸960円、奏任待遇)
明治31年、  同上
明治32年(1899)、福岡県尋常中学伝習館、館長(年俸1000円、奏任待遇)
明治33年     年俸1200円に昇給
明治35年(1902)、同、正七位に叙せらる。
同年、12月、在職のまま病歿す。

 以上が、現在までに、文献等より判明した略年譜だが、その後の取材で、御子孫が、新潟県在住である事が判った。

 尚、仙田楽三郎に関しては、長崎県に於いて理化学教育に功績があるなど、まだまだ取材を続けなければならない事柄もあり、加筆修正する予定である事を了承されたい。

Best regards
梶谷恭巨

承前。

 

「越後の花柳界」

「新潟市遊郭」

 

 新潟市は、新潟県の首都であって、日本五港の一である。其位置は信濃川口の左岸砂丘を隔てゝ日本海に面し、川を隔てゝ(ぬったり)に対して居る。川口水浅く大船は港外に停泊すれど小船舶の出入は(すこぶ)頻繁である。産物は漆器、畳表等で又米穀をも輸出する。維新以前は幕府の直領(ちょくりょう)で奉行所を置いて出入の船舶其他土地に関する事を管理したものである。明治初年置県後大に隆盛に(おもむ)き遂に今日に至ったのである。

 売女の起原は遠く元和以前に始まったのであるが、当時は公娼( )あらざるが故に、随意其居所を定めて隠密に情を売って居たのである。後ち(しんめい)(ちょう)の内中道(今古通三四番地)と称する所が最も殷賑(いんしん)を極め(とみ)て中道七軒と云うさえ伝うる迄に宛然(えんぜん)遊郭の形をづくらるゝものあるを見るに至ったのである。是は宝暦(ほうれき)以前の事で、降って寛政(かんせい)年度に及び是より先き碇屋小路(ひそ)みて淫を(ひさ)ぎしものゝあったが為に、(だつほん)小路と言う名高い異名をさえ(のこ)すに至ったのである。其売女が後ち法音寺(ほうおんじ)小路(こうじ)に移り然して又其当時寺二ノ(今の西堀前通五番)及び五六の今の同通八九番)に(あん)(れん)な花代で春を売る(もの)が現われて、中道のものと入会稼ぎを為す事と為ったが、以来売女の数は年々増加して、天保の末年には就中(なかんずく)盛地であった中道及び法音寺小路(ほうおんじこうじ)のものが漸次衰退を来すに至った、是に反し寺二の今の西堀前通五番)及び古通二三(今の五六番が代って繁盛の(ちまた)となるに及んで、官は売女に対して、其居住すべき地域を指定したが売女は即ち此達示に基いて毘沙門(びしゃもん)(じま)(今の毘沙門熊谷(くまがい)小路(こうじ)(今の横七番)及び碇屋小路より移れる所謂脱奔(だつほん)小路(こうじ)なる寺二の(今の西堀前通五番(にしぼりまえどおりごばんちょう))並に古通二三の今の五六の)を始め五六の(今の八九の)寺今の西堀通八九番)へ掛け坂内(ばんない)小路(こうじ)の南北を区域として移り来り、(ここ)に四個の遊郭を形成するに至ったのである。()くして明治に入るや其の五年十月楠本県令は新に娼妓の名簿を調製して、且つ(あらた)めて前記の旧廓を区域と定め、是を朱引地内(しゅひきちない)と称して、妓の此域外に居住する事を禁じられた、十八年四月に至って篠崎(しのざき)()(けん)は新に貸座敷娼妓取締規則を設けて娼妓稼を貸座敷内に限定し、尚お当業者が他の商家と(ぬき)連ねて居るは、大に風紀を(みだ)すものとして、前期の旧廓のうち古通、西堀前通及び毘沙門()って熊谷小路即ち横七番以北の一隅に移らしめんとの意を抱いて居られたが、偶々(たまたま)二十一年三月七日古通四番より( )出火し、同及び東掘通(ひがしほりとおり)四五番(しごばん)(ちょう)の外、妓廓の一なる古通五番の人家百四戸、西堀前通五番の人家四十五戸を焼いて此両坊の妓楼悉く類焼してしまった。知事は同月九日貸座敷娼妓家業区域を更定(こうてい)して、茲に古通五番と西堀前通五番とを免許区域に於ける貸座敷業者の戸数を限定された。次いで二十三年四月三日住吉より発火して南毘沙門(みなみびしゃもんちょう)の類焼するに至って、千田知事は前知事の遺()えで同月十一日南毘沙門刪除(さくじょ)する旨を令達し、此一廓を免許地域の中より除斥(じょせき)されて終った。又二十六年八月十四日西堀前通八番( )より出火して、同通九番を始め古通八九番東掘前通八九番の人家を焼いて又其各に居住せる貸座敷業者も悉皆(しっかい)類焼の難に遭遇するに至った。(ここ)籠手(こてだ)知事は同月二十三日附を以て免許区域を左の如く改正する事を公達(こうたつ)されたのである。

 

  旧横七番一丁目より同四丁目西受地角に至る北側以北

  東堀通十三番

  四ツ谷一丁目日和山道東側以東

  西受地一丁目西側以西

                 戸数無定限

    (ただし)通六番現在五戸、同八番現在二戸、通十三番現在八戸、旧横七番三丁目南側現在二戸の貸座敷は本令発布の日より五ヶ年を限り現在の家屋に於て営業する事を得。

 

Best regards
梶谷恭巨

承前。

「名物里謡」

大津絵(おおつえ)節(ぶし) として柏崎の寺々を編み込んで歌ったものが一時流行したそうだ。


  柏崎の寺々を上から下迄申そうなら、何と云うても浄興寺、敗れたれ共香積寺

  何年たっても一念寺、嘘をついても本妙寺、損をすれども福泉寺、柳の中の真光寺

  夜桜を眺めて帰る西光寺、地獄の中にも極楽寺、近くみせても洞雲寺


(註1)浄興寺: 初め真宗大谷派の別格寺院であったが、昭和27年、真宗浄興寺派として独立、越後・信濃・出羽に亘って、約90時の末寺を持つ。柏崎の浄興
寺は、別院、他に柏崎市内には、同派の末寺が二ヵ寺あるとのこと。西本三丁目。

(註2)香積寺: 謡曲『柏崎』の舞台となった寺。西本三丁目。

(註3)一念寺: 香積寺に隣接する時宗の寺。西本三丁目。

(註4)本妙寺: 日蓮宗の寺。西本三丁目。

(註5)福泉寺: 日蓮聖人の高弟・日朗上人が開山した。また、枇杷島城主・宇佐美家の祈願寺であったそうだ。柏崎市新橋。

(註6)真光寺: 別に、西山に同名の寺があるが、文脈から浄土宗の寺と思われる。西本一丁目。

(註7)西光寺: 同名の寺が三ヵ寺あるが、夜桜から推測し、大久保の浄土宗西光寺と思われる。

(註8)極楽寺: 同様に、同名の寺が三ヵ寺あるが、地域から推測して、若葉の浄土宗極楽寺と思われる。

(註9)洞雲寺: 同様に、地域の関係から、常盤台の曹洞宗洞雲寺と思われる。余談だが、六日の雲洞庵と関わりのある寺号ではないか。

 夕ぐれ の歌に因んだ鏡沖の風景。

  夕暮れにながめ見渡す米山や月かげうつる鏡沖、青田に胸が晴れるぞへ、アレ

  蛙(かわず)なく雨蛙(あまかわず)あすは雨ではないかいな――

(註)鏡沖: 現在の「鏡が沖中学校」の辺りか。この辺りには幕末「鏡里村」があったようだ。余談だが、幕末の漢学者・「詠帰堂」星野鏡里は、其号をここからとっ
たようだ。

楼名都々逸(ろうめいどどいつ) 某粋士の作、仲々妙趣がある。


  君は今頃山口あたり、かすむ姿を日のはらす、

  すだれ下して流るゝまゝに、ふたり河内の涼(すずみ)船(ぶね)

  小島高徳まごゝろこめて、君をまつみの筆のあと、

  関を越路の源氏の武将、静のおたまきくりかえす、

  雨に遠音(とおね)の品川千鳥、港泊りの旅枕、

  露になりたや千草の原で、今宵一夜を月見草(ぐさ)、

  いろは、桜に香(にお)いは梅に、松はみどりの節(みさお)だて、

  としま見がくれ若松林、水に番いの都鳥、

  浮名高はし人目をしのび、小石川原の蛍狩り


(註)小島高徳: 児島高徳の事と思われる。南北朝時代、後醍醐天皇隠岐配流を阻止、天皇奪還を図るが失敗。桜の木を削り、「天勾践を空しうすること莫れ、時に范
蠡の無きにしも非ず」という、呉王夫差と越王勾践の逸話を著した詩を記した事で有名。父などは、『日本外史』のこの件を称揚して涙したものである。

三階(さんがい)節(ぶし) 柏崎の名物の一つであって、全国に喧伝されて居る歌で、各地方より入り来る珍客は、先ず其杯盤の間に此節と踊とを望んで止まないので
ある。尤も此歌の中には聞き苦しい節もあるが、兎に角踊は綺麗であって、多数の紅裙が輪を作って遣る時は、恰も胡蝶のヒラヒラと飛び廻って居る様である。今此
歌の草創を尋ねて見るに、承応年中下專福寺に法話に最も妙を得た僧侶があって、此説教を聴聞する善男男女の中で、僧が雄弁にして且法話の妙なるに嘆賞して、

  出家さ出家さと恋にするー、出家さアー、出家さの御勧化(ごかんげ)山坂越えても参りたや、

と歌ったのが、始めとなったとの事である。其後新作続々出でて其数実に幾何(いくなん)なるかを知る事が出来ない、今其二三を左に紹介せば、


  下宿(しもじゅく)番神堂は、よく出来たー、御祓(ごはい)、御祓の仕掛は新宗吉大手柄―。

  根埋(ねうま)り地蔵や立地蔵―佛、佛に似合わぬ魚の売買(うりかい)なされますー。

  蝶々(ちょうちょう)蜻蛉(とんぼ)やきりぎりすー、山でー、お山で囀(さえず)る松虫鈴虫轡(くつわ)虫(むし)―。

  米山(よねやま)ながむればー、煙か霞か白雲(しらくも)棚引(たなび)く面白さー。

  谷(たん)根(ね)河内(かわち)や青海(おうみ)川(がわ)―、米山参りや、吾身を清める拂(はらい)川(がわ)―。


(註1)御勧化(ごかんげ): 仏の教えを説き、信心を勧める事。

(註2)新宗吉: 明治の生んだ名棟梁で、四代目篠田宗吉の事。明治10年、消失した番神堂を再建している。


米山(よねやま)甚句(じんく) 全国に知れ渡ってる名歌であるが、其始めを探るに、昔刈羽郡荒浜村から、登(とう)龍山(りゅうざん)(後、米山)及び荒(あ
ら)砂(すな)(幕下三段)と云う力士を出した事がある。其米山と云う力士が、江戸で始めて此歌を唄ったのが、今日迄伝わって居るとの事である。当時の文句の一
二を記せば、


  行こうか参(まえ)らんすか米山薬師、一つや身の為め、サ、主(ぬし)の為めー。

  つげる横(よこ)櫛(ぐし)、伊達(だて)には差さぬ、びんのほつれを、サ、とめにさすー。


 この他新作が続々ある。

おけさ節 の起源は種々(いろいろ)あって、一は其口碑(こうひ)に佐藤嗣(つぐ)信(のぶ)同忠信(ただのぶ)の母音羽の前の一族が其子供の戦捷(せんしょ
う)を聞(き)えて、尼僧達が袈裟衣の儘(まま)、鼻謠(はなうた)唱えて、踊躍(ようやく)せしより始まったとあるが、此節の全国に起ったのは、寛治年中の頃と
の事である。又越後の婦人誌上に、


 文政十二年浪花で、東都の白頭子柳魚と云う人が著わせし、総援僭語の中に、

  雁八は一個だめ声高やかに此の国の流行唄、桶佐節とか云へる夷歌を唄うを聞けば、

    桶佐正直次傍眼。桶佐猫兒姓乎好戯。

   おけさ正直なら、傍にも寝しょうが、おけさ猫の姓でヤアレじゃれたがるー


と見えた。又最も人口に膾炙して居る所の、

   おけさ見るとてよしで眼を突いたョ、兎角おけさはヤアレ眼の毒じゃー。


と云う歌に因ると、おけさとは業平にも譬う可き美男子か、又は娟妍(せんけん)窈窕(ようちょう)たる佳(か)婦人であったか、其は不明であるが、兎に角慶元以
降の事であろうと思われる。

 尚お一説に昔し江戸の深川に某氏と云う豪家があって、其家に一匹の猫を飼って置いたが是をみけと云うた。間もなく一家破滅して老母一人となりたれば、みけにも食
物を能(あた)える事が出来ず、遂にみけに其因果の憂目(うきめ)を苦(く)説(ど)き聞かせしに、其後此みけ一人の美女に化けて老母の処に来り、自分を新潟の遊
女屋へ売って呉れと云うから、老母は直ちに女衒(じょげん)に依頼して新潟の遊女屋に身を売って遣ったが、此みけ頗る美人との事であって又猫の化けたる事なれば声
色非常に宜く新に一曲の短歌を作り出した、其がおけさ節であって今にも越後全体に伝わって居ると云う事である。

 兎に角吾が柏崎に於ても、盂蘭盆(うらぼん)其他杯盤(はいばん)の間に此歌を唄うて居る。其最も盛んに且つ土地の里謡として唄うて居る処は出雲崎である
が、仲々元気のよい歌で越後名物の一として各国に喧伝して居る。その二三を記して見れば左の通りである。

   竹の小口にスコタンコタンとなみなみたつぶりたまりし水は、

歌「すまず濁らずヤアレ出ずいらずー」

   京都じゃ三十三間堂、佛の数が三万三千三百三十体迄ござる、下(しも)へさがって

   下宿(しもじゅく)番神、柏崎閻魔さん、荒浜諏訪さん、宮川天神、椎谷(しいや)の観音、石地(いしぢ)の羅石、

   アイヤ所のぢさんばさん、友達誘うて、青竹杖突き握飯(にぎりめし)かたねて、

歌「あれが佛さんだとヤアーレいうてーまいるー」

鉢崎(はっさき)柿崎柏崎、下(しも)にさがりし出雲崎、新潟の下(しも)の松ヶ崎松前にいしん、

佐渡わかめ、いからしほしこは、すなだらけ、

おけさ踊と、磯うつ波はヨ、いつも心がヤーレいそいそとー。

胸に千(せん)把(ば)の、かやたくとてもヨ、煙り上げねばヤーレ人知らぬー。

こいというたとて、往(ゆ)かりよか佐渡へヨ、佐渡は四十五里ヤーレ、波の道―。


尚お此他無数である。


(註1)佐藤嗣信・忠信: 源義経の四天王、義経挙兵の折、藤原秀衡の命で義経に従い、兄嗣信は屋島の戦いで討ち死に、弟忠信は、義経都落ちの同道するが、宇
治で離別、今日に潜伏するが、密告により襲われて、奮戦の中討ち死にする。

(註2)白頭子柳魚: 後記『総援僭語』の作者であるようだが、それに関する記載はなく、『半月夜話』編者として名がある。この作家は、浜村輔(浜が名
字)、画を岳亭丘山が書いている。関心のある方は、早稲田大学図書館に所蔵されているので閲覧は可能なようだ。また、近代デジタルライブラリーで、それぞれをキー
ワードで検索したがヒットしなかった。

(註3)総援僭語: 市立図書館で検索したが、この書はなかった。

(註4)娟妍(せんけん):るびは「せんけん」になっているが、これは、嬋娟の誤りではないだろうか。

(註5)慶元: 慶応・元治の頃ということであろうか。因みに、慶元という年号は存在しない。

甚句(じんく) は種々あって、長岡甚句、米山甚句其他土地々々に甚句がある様である。柏崎ではあまり甚句と云うものは流行せぬが、附近の村落では盂蘭盆抔に盛ん
に歌って踊って居る。此甚句の起因は昔石地浦に甚九という男があって、大阪へ出て商業をして大に利を得て、俄大尽になったが、其頃一目千両という遊女のおりん
と云うものを三度続けて招(よ)んだので、大阪人は舌を捲いて驚き、越後の大尽と呼んで居た。甚九遂に本国に帰らんとする時に、おりんを落籍(みうけ)して来た
が、其時おりんが歌を作った。

  甚九は越後の甚九越後の甚九は世界の花じゃ、四十四十だと今朝迄思うた三十九じゃもの花じゃもの、 是を甚句と云う歌にして、今は種々(いろいろ)な文句に換えられたのである。

 踊り歌 今を去る十有余年前柴田屋という踊りの師匠があって、柏崎名及び景色を編み込んで踊りの手を付けた歌がある。

  花見月空も長閑(のどけ)き八坂(やさか)たの、今日のさらいの賑ひに、日傘をさすは長(ながまち)の、

  歩む姿は小(こまち)姫、今日の大(おおまち)楽しみに、二人が仲(なかまち)むつまじく、祝ひの客は限りなく、

  浮いた世界の扇(おおぎまち)、花に荒(あら)(まち)剣の山、せめて一もと、いけてやうれし仇(あだ)桜(ざくら)、

  写す柏の花盛り、そとにもなびく塔(とう)の原(はら)、

あさくとも節 左に記す二首の歌は一時全県下に唄われたもので、今尚お下越地方で盛んに歌って居るそうであるが、是は吾が柏崎の漢詩人山田箱筠翁の作であると
の事である。

  金銀の為めでお主に王て飛車、桂馬のてくだにかけられて、今日此頃は角の様、二ふをするのも是非がない、

  人は武士、花は吉野の山桜、旭に香(にお)う勇ましさ、散るも開くも国の為め、名誉の花ではないかいな。

(註)漢詩人山田箱筠翁: 手の届く範囲で調べて見たが、不詳。尚、内山智也先生の著作に『柏崎漢詩人書軸解説』と云う本が市立図書館に所蔵されている。因み
に、内山先生は、筑波大学退官後、湯島聖堂の理事長をされたと聞いているが、何しろ、確か先生の米寿の祝いに同席させて頂いて以来、藍沢南城研究会とも疎遠になっ
ており、御近況を知らない。

 今回は長くなった。出来るだけ調べて見たが、おけさや甚句など情報の多いものもある反面、今の所、見出せない事項も多く、気が付くことがあれば、追って掲載した
い。

Best regards
梶谷恭巨
承前。

柏崎の名妓」

 古来吾が柏崎にも名妓が多くあった。明治初年の頃、扇楼に三人の名妓があって源
氏名を扇吉、扇蝶、扇山と云うて、中にも扇吉が最も全盛を極めたそうである。

 粋士越中山人と云う者、戯れに一詩を作った。

  扇吉扇蝶又扇山。三扇之中山為關。此婦従来名声遠。扇屋第一顔。

  (扇吉扇蝶また扇山、三扇の中、山関を為す、この婦従来名声遠く、扇の扇屋
の第一の顔。)

 扇(せん)蝶(ちょう) は本名をたせと云うて、長岡草生津(くそうづ)の生れで、十
二歳の時に扇屋に身を沈め、十五歳の時迄遊芸万般を見習い、仲々の美人で、非常な
全盛を極めた者であるが、彼の傑士星野藤兵衛氏は扇蝶を愛ずる事一方ならず、遂に
落籍(ひか)せて其妾(しょう)とし、間もなく木曽道中で京阪地方の名所旧跡を探りに
行ったが、其時の費用は二千有余円を要したとのことである。時の従者は四谷の渡辺
金八、料理人の森山文蔵、名妓文字太夫の三人であったとの事である。

 扇(せん)吉(きち) は岡のの豆腐屋の娘で、母親は彼の六歳の時扇屋へ三両で身
を売ったそうである、長じて歌舞妓となったが、殊勝にも彼は辛き勤めの暇を見て
は、香積寺の弁財天に祈誓を籠め、何卒行末に名を上げます様になして下さいと、小
使銭なども無き頃なれば無論賽銭抔ある筈なく、綺麗な小石を拾うては賽銭の代りと
し風雨を厭わず、参詣せし甲斐あって、幸いにも後年全盛を極めるに至った。扇吉の
為めには城を傾け国を亡ぼしたものもある位で、近郷の弗箱は吾れ劣らじと競争し
て、彼の歓心を買ったとの事である。之が為め扇吉は座(い)ながらにして黄金の山を
なし、錦の波の寄せるが如く、何不足なき身となり、箪笥が七本、帯が四十五筋、衣
裳髪道具縮緬の夜具が五通り、紬縞が二通、其外夏冬の夜具が五通りもあって、虫干
抔と云う時は十数日も掛った位で、掛け払いの時は縮緬の座布団の上で、長煙管を啣
(くわ)えて支払をしたそうで、其支払高は少ない時で二百円位あったとの事である。
斯くの如き全盛を極めた彼も寄る年波には勝ち難く明治十七年春廿七歳で独身となっ
て、世帯を持ったとの事だが、今は早や地下に其昔の俤(おもかげ)を夢みて居るであ
ろう。当時の俗謡に

  はやる新扇屋の前へ

       扇吉居るかと通うて来る

と以て彼の如何に全盛を極めたかが察せられる。扇吉は斯く不自由なき身となったの
は、弁財天の御利益であるとて、後年新に廟を建てて其恩に報いたとの事である。

 扇山(せんざん) は長岡生れのものであって始め新潟に至り、後ち柏崎に来たとの
事でくぁる。

 小若(こわか) は元士族の愛娘(むすめ)であったが、明治十年の頃、千種屋に勤め
の身となった。容貌美しく、歌道に通じて、歌人遊女と囃(はや)されたそうである。
會(たまた)ま西南の変報を聞いて国風ニ首を詠じた。

  御軍(みいくさ)の事の起りは知らねども

       勝つも負けるも同じ国人(くにびと)

  浦安のゆたけき国もつくし潟

       国のはてには波の音(ね)ぞする

 小薩摩(こさつま) 元禄の頃の遊女で、歌俳諧を能(よ)くしたものだとの事であ
る。

  白露の菖蒲は軽し洗ひ髪

 浅尾(あさお) 是も元禄の頃の遊女である。

    八月十五夜たのめける人のとはざりければ

  もろともにみてこそ月も月ならめ

      空たのめにもふけゆくはなし

 刈(かり)藻(も) 同じく元禄の頃ならん。

  河竹のよそにながれの名を立てヽ

      枕さだめぬうきねにぞ泣く

 道(みち)柴(しば) 是れ又何時の頃か知らざれど、風雅に富みたる遊女であったよ
うだ。其残れる一句を記せば

  梅が香(か)に無垢(むく)恥かしき化粧水(けしょうみず)

 小(こ)〆(しめ) 桜屋の芸妓で、美妓として其名を知られて居たが、明治二十六年
の早春、殊勝にも緑なす髪を切って仏門に帰依し、銭山寺に黒衣を纏うの身になっ
た。其原因を探れば、近村某商家の主人の寵を受け子迄なしたれど、妻の思いや自ら
の心に責められて、遂に斯くの次第になったのである。

 小花(こはな) は十数年前の名妓で、片桐某の寵厚く、宴席に侍って歌うときは、
其声調の美妙なるに聞くもの嘆美せざるはなかったが、就中(なかんずく)詩吟に長じ
て居た。嘗(かつ)て江戸錦絵に画かれて坊間に伝えられた。

 きみ 緑屋の遊女で、都々逸(どどいつ)を作って曰く。

  けんさあとでも疑い深い

      お前御医者にして見たい

 小よし 千種屋の抱え遊女で、同じく都々逸を物して曰く

 つもちつもりし口舌の種も

      とけてうれしい春の雪

 尚お此外八ッ橋、小稲、綾衣、仲吉、一羽、一声、この浦、玉浦、島吉、おせき、
千代吉、おしま、おたけ、小芳、音羽、小青、八重、小蔦、小道なんど云うものも
あったが、此内には今尚お矍鑠として餘年を保って居るものもあるとの事である。

 明治卅八年柏崎新聞社(今の日報)で、柏崎の紅裙中容貌及び技芸の秀でたるもの
の投票を遣ったが、技芸の部に於て、

  一等 河内屋 みす  二等 山口屋 金助  三等 河内屋 千代

の三名当選した。又容貌の部では、

  一等 河内屋 小咲  二等 千種屋 みち  三等 千種屋 とみ

の三名であった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    夕ぐれ 夕ぐれに眺め見あかね極楽寺、月に風情を稲の露、

            水底に草(?)が見ゆるぞい、アレ蟲の声、蟲の名に松蟲
鈴蟲轡蟲

 特に注釈もない。 ただ、最後の所、活字がつぶれて判読できない。

 それにしても、星野藤兵衛の豪遊ぶり、また扇吉の全盛の様子、いつの世も紅灯の
巷は、変わらぬものなのだろうか。

Best regards

梶谷恭巨


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プロフィール
年齢:
76
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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