柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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仙田楽三郎は、越後長岡藩牧野家の藩士の子として生まれた事は判っている。しかし、現時点では、その詳細が不明だ。

 そこで先ず、長岡藩に仙田家があったかと言う事から取材を始めた。その結果、長岡藩には、「仙田家」が二家在る事が判明した。

〇仙田所左衛門家: 牧野頼母組、180石
〇仙田弥一郎家 : 牧野頼母組、180石
 (註)ただし、弥一郎家に関しては、別に「弥市郎」の名前があり、同家なのか不明である。

 また、戊辰戦争に従軍した事は明らかだと思われるところから、今泉鐸次郎著『河井継之助傳』の「長岡藩の戦死者」を調べた処、「仙田隼人」の名前がある。それによると、「七月廿九日、二度落城の際城下」とある。慶応4年(1868)7月25日(新暦9月11日)の長岡城奪回後、7月29日に官軍に依り再度落城した当日、戦死したものと思われる。

 そこで、仙田楽三郎は、いずれの仙田家の出身であるか確たる史料はないが、名前から推測して、「仙田弥一郎家」の三男として生まれた事が推測される。また、仙田楽三郎の「楽三郎」であるが、御子孫に取材した所、「がくさぶろう」と読んだと云う事だが、これについても資料がない。

 楽三郎が、文献として登場するのは、明治二年(1869)の事だ。戊辰戦後の教育復興の為、長岡市四郎丸の昌福寺(宗派:曹洞宗、寺号:万融山)に、小林虎三郎が「国漢学校」を開校した年に当る。この国漢学校の生徒として、仙田楽三郎の名前がある。第一回の生徒の一人と云う事だろう。また明治5年~6年には、「句読師」として名前が揚げられ、既にその才能を表していた事が推測される。

(追記)国漢学校開校当初の事を、教員の一人として加わった西郷葆(つつむ、1833年~不詳、後に表町小学校初代校長)は、

 「戊辰兵燹(へいせん、兵火の意)の後、長岡藩士の疲弊は其絶頂に達し、住むに家家なく喰らうに食(し)なき悲惨な境遇に陥った。乍去(さりながら)斯る場合に於ても子弟の教育亦た忽諸(こつしょ、軽んじ疎かにする)に附すべからざるを自覚し、小林虎三郎、三島億二郎氏等先輩の唱導に依り、明治二年五月に四郎丸昌福寺に士族の子弟を集め学問を教ゆることになった。教員は田中春回氏を筆頭として、私に大瀬虎治、田中登、大原蔵太、稲垣てい吉(?、金に虎)、伊地知涵(ひたし)、伊地知元造の八名で、生徒の内には渡辺廉吉、柳澤銀蔵、鬼頭悌二郎、波多野伝三郎、根岸錬次郎、仙田楽三郎氏もあった。能く記憶せぬが生徒の数は四五十名位で、教員の給料は多額の人が年給十二両、最低は十両位で、教授は毎日午前限りである。教員は藩庁の習慣にて名義は日勤であったけれども其実隔日出勤教授していた様だ。」

と語ったとある。(信州大学『教育研究』2008年第一巻9~36Pからの復引き)、出典は、北越新報社編『長岡教育史料』。(20141020)

 更に長岡洋学校の卒業との記載がある。長岡洋学校の開校は、明治5年11月23日(西暦1872年12月23日)に開校しているとされるので、国漢学校との重複期間があるのではないだろうか。因みに、明治4年頃には、「国漢学校」は、旧市役所の位置にあったようだ。その後、明治4年8月、廃藩置県により、柏崎県の管轄下に移行し、分黌(分校)長岡小学校と改称された。(柏崎町の学校を本黌(本校)としたので、他の学校は、分校と称された。)

 しかし、その後の履歴がよく判らない。ただ、次に書くように東京大学予備門理科理科を卒業している。しかし、「東京大学予備門」は、明治10年(1877)4月12日、東京開成学校専門科と東京医学校が合併して東京大学が新設された際、各学部(法理文)に入学する生徒に予備教育を行う学校として開設された学校である。すなわち、東京開成学校は、専門科三年・普通科三年の構成であり、予備門は、この普通科を中心に、「官立東京英語学校」が合併し、修業年限4年に再編成された新設された訳であるから、仙田楽三郎は、東京開成学校普通科に入学したと考えられる。

 そこで、東京開成学校普通科について見ると、普通科の入学規則が明文化されたのが、明治8年1月えあり、その規則第二条に、「身体壮健行状端正且年齢十五歳以上二十以下ニシテ試験ノ上ヘ上第ノモノハ入学ヲ許スベシ」とあるので、楽三郎は、十五歳以上二十歳以下ということになる。また、翌9年に規則が改定され、第一条に「普通科ニ入学志願ノ者ハ次に記載スル科目の
試験を経及第セサレバ入学ヲ許サズ」とあり、試験科目としては、国書文章、英語作文、地理図誌及地政、万国歴史大綱、算術及代数一次方程式、とあり、年齢は第四条に依って、十六歳以上に改定された。

 以上、東京大学百年史編集室・新谷恭明氏の『東京予備門成立過程の研究』を参照したが、また次の様なことも書かれている。すなわち、この明治9年の合格者は、総数89名中、東京英語学校が37名を主として、関係すると思われる新潟に関しては、新潟英語学校4名があるが、この年の『東京開成学校一覧』は無く、8年の一覧(この年の一覧しか存在しないようだ)には、新潟県出身者6名が数えられるが、仙田楽三郎の名前はない。

明治12年(1879)7月、東京大学予備門理科卒業。
   因みに、同年、理科の卒業の新潟県出身者は、後に秋田県尋常中学第12代校長となる
  杉谷佐五郎がいる。

 次に卒業後の事だが、一覧には「進学」とあり、東京大学理科大学に進学したと考えられるのだが、実際には、「東京大学一覧」の在校生及び卒業生の名簿に名前がない。また、内閣府監修の『職員録』についても調べて見たが、明治19年(1886)に、

 「長崎尋常中学校、(元)校長、(元)一等教諭、月俸65円」、
 の記載があるまで見つけることは出来なかった。しかし、この(元)の意味は不明である。

(追記)旧制長崎県立長崎中学校(ウィキペディア)の記載を見ると、初代校長とあり、在任期間は、明治17年(1884)6月1日~明治20年(1887)10月18日(次代校長が、同年10月19日である事から)とある。但し出典は未確認。
 また、『長崎医学百年史』第五章第十七節「 教員の増聘と長崎医学校の整備」に、明治18年8月15日と翌16日に開催された「長崎県有志教育会」が、長崎県立中学校体操教場で行われ、創立委員総代として「仙田楽三郎」の名前がある。またこの会で、幹事・委員に指名された。この会場で、仙田楽三郎は科学実験のデモンストレーションを行った」とあり、東大予備門理科出身として面目躍如の場面だっただろう。(20141020)

 以下同『職員録』を年次ごとに辿ると、

明治21年(1888)、長崎尋常中学、教諭(月俸65円)
明治23年     福岡県中学修猷館、教諭兼教頭(月俸75円)
明治25年まで、同上、現在の福岡県立修猷館高等学校(福岡市)
明治26年(1893)、新潟県古志郡立長岡尋常中学校、校長
 尚、長岡中学(現在の新潟県立長岡高等学校)では、第12代校長と記録されている。
 また、この記載は明治28年まで『職員録』なく、長岡高等学校の記録に依った。
明治30年(1897)、新潟県古志郡立長岡尋常中学校、校長兼教諭(年俸960円、奏任待遇)
明治31年、  同上
明治32年(1899)、福岡県尋常中学伝習館、館長(年俸1000円、奏任待遇)
明治33年     年俸1200円に昇給
明治35年(1902)、同、正七位に叙せらる。
同年、12月、在職のまま病歿す。

 以上が、現在までに、文献等より判明した略年譜だが、その後の取材で、御子孫が、新潟県在住である事が判った。

 尚、仙田楽三郎に関しては、長崎県に於いて理化学教育に功績があるなど、まだまだ取材を続けなければならない事柄もあり、加筆修正する予定である事を了承されたい。

Best regards
梶谷恭巨

コメント
仙田楽三郎先生の件
仙田先生の件で回答します。
残念ながら、学校葬の資料はありませんでした。
ただ、25周年記念誌に「明治31年4月18日長岡中学校校長仙田楽三郎、館長に仼す。明治35年12月25日病死。」と記載されています。
また、集合写真は残っています。
返事が遅れて申し訳ありませんでした。
【2014/11/10 10:02】 NAME[伝習館同窓会事務局 平田] WEBLINK[] EDIT[]


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