柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 前回に続き、第一編第一章を紹介する。 

 ただ、下記に示したように、我国では、個人情報保護法等により、調査が非常に困難なのだが、米国の場合(一部、ヨーロッパの場合も)、物故人物(一部、生存者も含め)の情報を入手できる。この事は、自分としては重要な事だと思うのである。言い換えると、これらのサイトが民間によって運営されている事とと同時に、これらの情報を記入する人々の意識の問題である。

 強いて言えば、我国における個人情報は、その法理とは異なり、寧ろ個人情報が「官」によって管理されている事を意味する。言い換えれば、一般人の存在など、歴史的意味を持たないという意識が、日本人の歴史認識の根底にあると言えるのではないだろうか。更に言えば、過去の人々の存在は、個人情報として社会的に葬られていると云えないだろうか。

 現在生きる我々の背景には、ただ私のみではなく、その周辺の多くの人々との関係位に於いて存在する。すなわち、過去の人々の存在は、今生きる我々すべての共有すべき存在であり、共有すべき歴史的記憶なのでではないか。我々は、今を刹那的に生きているのではない。過去を継承し、未来に引き継ぐ責任があるのだ。

  大上段に構えてしまったが、下記の様なサイトを紹介する事によって、我国の現状と比較されれば、と思い本旨には多少逸脱するが、敢て紹介する次第である。

  尚、今回は、第一章の一部のみを紹介し、注釈は、第一章の終りにまとめて掲載する。

 【以下本文】

 

第一章「ウィリアム・クラーク・イーストレーキ」

 William Clarke Eastlake

 前回に続き、第一編第一章を紹介する。

 ただ、下記に示したように、我国では、個人情報保護法等により、調査が非常に困難なのだが、米国の場合(一部、ヨーロッパの場合も)、物故人物(一部、生存者も含め)の情報を入手できる。この事は、自分としては重要な事だと思うのである。言い換えると、これらのサイトが民間によって運営されている事とと同時に、これらの情報を記入する人々の意識の問題である。

 強いて言えば、我国における個人情報は、その法理とは異なり、寧ろ個人情報が「官」によって管理されている事を意味する。言い換えれば、一般人の存在など、歴史的意味を持たないという意識が、日本人の歴史認識の根底にあると言えるのではないだろうか。更に言えば、過去の人々の存在は、個人情報として社会的に葬られていると云えないだろうか。

 現在生きる我々の背景には、ただ私のみではなく、その周辺の多くの人々との関係位に於いて存在する。すなわち、過去の人々の存在は、今生きる我々すべての共有すべき存在であり、共有すべき歴史的記憶なのでではないか。我々は、今を刹那的に生きているのではない。過去を継承し、未来に引き継ぐ責任があるのだ。

 大上段に構えてしまったが、下記の様なサイトを紹介する事によって、我国の現状と比較されれば、と思い本旨には多少逸脱するが、敢て紹介する次第である。

  尚、今回は、第一章の一部のみを紹介し、注釈は、第一章の終りにまとめて掲載する。

 【以下本文】

 

第一章「ウィリアム・クラーク・イーストレーキ」

 William Clarke Eastlake

 

以下は、下記のURL、「Find a Grave」による。(興味深いので、参考の為に原文のまま記載)

http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=78618218

Birth:      Mar. 25, 1834

              Gloucester County, New Jersey, USA

Death:   Feb. 26, 1887

              Tokyo, Tokyo Metropolis, Japan

American dentist. Member of Royal Sussex

Masonic Lodge No.501, Shanghai.

Son of Richard Wells Eastlake and Sarah (Clark) Eastlake.

Married Almira Rose.

Father of Dr. William Clark Delano Eastlake and Frank Warrington Eastlake.

Family links:

Parents:

  Richard W Eastlake(? – 1881)

  Sarah Clark Eastlake(1810 – 1891)

Children:

  William Clarke Eastlake(1864 – 1910)*

Siblings:

William Clarke Eastlake(1834 -1887)

  Richard Eastlake(1842 – 1910)*

  Thomas Summers Eastlake(1849 – 1896)*

  Harry Y. Eastlake(1851 – 1902)*

  Walter R. Eastlake(1856 – 1900)*

Burial:

 Aoyama Cemetery

 Tokyo

 Tokyo Metropolis, Japan

 Plot: Foreign Sec. S1 i-2, Plot 7-9

 (上記、「*」付の項目はリンクがある事を示す。)

  ウィリアム・クラーク・イーストレーク(William Clark EastlakeD.D.S.が日本へ来たのは万延元年(西暦1860年)だと伝えられている。この年の一月十九日に北米合衆国当局から渡航免状第一六九〇號(第八図、九図参照)の下附を受け、ニュージャージー州リヴァトンの開業を廃して、当時三歳のフランク・ワーリントン(Dr. Frank Warrington E.)(後の博言博士)と夫人アー・ヴァーノン・ローズ・イーストレーキ(Almira Vernon Rose E.)を同伴し日本に来たのである。この時、神奈川では開業らしき開業はしなかったが、兎に角、イーストレーキは外国人歯科医来邦の嚆矢にして、この年を以て一般に本邦の泰西歯科学発祥の年となす所以である。イーストレーキは英国王族ヨーク(York)家から起り、英国の国政に参画し、近世まで華冑に列したが、イーストレーキの父リチャード・ウィリス・イーストレーキ(Richard Willis E.)の代に故あって渡米し後、帰化するに至った。イーストレーキはニュージャージー州グロセスター県カルペンテスランヂング(Carpenter’s Landing, Gloucester County, New Jersey)で天保五年(1834年)三月二十五日に生れた。イーストレーキ一家が渡米後は、英国に残して来た財産は、帰化と共に英国政府に没収するところとなり、加うるに南北戦争等の影響を受けたのか銀行の破綻相次ぎ、為めに富を減じたが、それでも貴族的な環境に青年となった。この頃の米国は、内部的には州を拡大して南と西へ国勢を張り、宗教団体は、外国伝道会社を擁して未開地への基督教布教に狂奔した。自然科学者は亦、東洋の未開地の開拓(征服)に熱心であったから、W.C.イーストレーキは早くから歯科医術を修め、その傍ら動物学を研究し、両道によって雄飛せんことを期していた。イーストレーキは十八歳の頃、既に一人前の歯科医術家として立ち、独立生活を立てていたが、1855年(安政二年)111日、フィラデルフィアの教会で、エー・エー・ウィリス牧師の下で、アルミーラ・ヴァーノン・ローズと結婚した。この時、夫妻共に二十二歳だった。このローズ夫人は又ニュージャージー州生れのドイツ系の貴族の出で、四人兄弟の二番目で、デラウエア州のイルミントン大学卒業の文学士であった。子弟教育に熱心で、詩をよくし、文章に長じ、加うるに美貌の賢夫人だった。このローズ夫人と結婚後、ニュージャージー州カムデン(Camden)市で開業したが、1856年(安政三年)716日に長女エウヂニア・ヴァーノン(Eugenia Vernon E.)を早産し、生後僅か二時間の夭折に落胆した。次の長男妊娠に際しては、カムデン市の郊外リヴァトンに転じ、ここで長男フランク(Frank Warrington E.)を1858年(安政五年)122日に挙げ、平和な生活を経た三年後は、東洋への渡航を祈ったのである。

  1858年(安政五年)、米国と日本との間に通商条約が締結され、待期していた外国人は直ちに日本へやって来た。外国伝道会社は日本通商直後、在支のウィリアムス(Dr. Willis Williams)が長崎に来り、帰支後、牧師サイル(Mr. Syle)及びウッド(Henry Wood)と協議し、米国の聖公会(Episcopal)長老教会(Presbyterian)改革教会(Reformed)の伝道局に各々宣教師派遣を要求し、更に英語や科学、殊に医療の普及が伝道の端緒を得る最良策である事を進言して来たので、北米長老教会は、1859年(安政六年)1018日にヘボン夫妻(J. C. Hepburn M.D.)を、改革教会は、同年111日、ブラウン夫妻(Re. V. Samuel R. Brown)及びシモンズ夫妻(D. B. Simmons M.D.)を神奈川に上陸せしめ、又改革教会のフルベッキ(Rev. Guido F. Verbeck)を117日、長崎に上陸せしめた。このヘボンとシモンズは共に立派な医師で、ブラウン、フルベッキも亦第一流の教育家で宣教師である。

  米国が斯く第一流の人物を我邦に向けたことは卓眼といわねばならぬ。以降、渡来の宣教師の何れもが、同様の方針によって人選されたが、本邦に歯科医として一番乗りをしたイーストレーキの如きも第一流の人格と教育を擁していた人物といってよいのではある。なにせ、三百年の鎖国を太ぶったばかりの日本だが、蘭学を通して泰西科学は日本国民の上層には著しく浸潤していた。殊に尊皇攘夷に国論は沸騰し、加うるに泰西思想及び科学者の舶来があって、騒然たる時代であったから、外国人の在邦生活も容易ではなかった。然るに各国は有利なる経済国交を夢み、競うて来航した。よりよき提携を念じて第一流人物を吾邦に送ったことは、それだけ吾邦の思想的な収穫も大であったというべきである。

 イーストレーキの本邦渡来の動機については知るよしもないが、東洋の博物学方面の究明と歯科医術を以て未開地の開拓に熱烈な思慕があったことは想像される。かくして万延元年(1860年)イーストレーキ夫妻が、神奈川に入港したのであるが、開港間もない時代の神奈川(横浜)には外国人が僅かに百数十名在住するに過ぎざる状態で、永住的開業は到底不可能だったと思われる。従って入港間もなく支那へ再航、香港に根拠を定め、上海、北京その他へ出張しながら泰西歯科医術を普及し、その余暇に貝類ならびに昆虫を採集した。然し歯科医開業では甚大な収穫を納めていたのである。

 (続く)


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