柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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第二章 「ヘンリー・ウィン」

  ヘンリー・ウィン(Henry Winn)は、西暦1850年頃(1858年8月春、イリノイ州ヂールズブルグへ移籍している)、芸国ジョージャ州リバーチーカウンチーフラミングトンに生れた(生年月日不詳)。父は牧師でジョンといい、母はメリーといった。母の兄である伯父サムェル・ロビンス・ブラウン博士(註一、Rev. Samuel R. Brown)は、東洋に於てプロテスタント宣教師の先駆であって、本邦へは、1859年(安政六年十一月一日)、亜米利加リフォームド教会(当時のダッチ・リフォームド)の宣教師として、デー・ビー・シモンズ(D. B. Simmons M.D.)と共にサプライズ号で神奈川に来た。

  (原註1)ブラウンは、1838年六月、ニューヨークのユニオン・セミナリーを卒業するや、モリソン教育協会の専任教師となって、妻帯するや否や、1838年十月十七日出航のモリソン号で、支那マカオに向い、二月二十日、マカオに着き、支那の児童の教育に当った。1843年、所用あって、シンガポールにも往ったが、再びマカオに帰った。夫人が健康を害したので、1847年、帰米した。その間五年、極東支那に於て支那人の教化に努力したのであった。それが、十六年後、再び彼の野心の的だった日本へ来て、基督教の根を下し、日本の文化に偉大な貢献を残して、惜しいことに膀胱炎の為めに、1879年(明治十二年)夏、帰米し、1881年(明治十四年)の夏、満七十歳で、ニューヘブン町で死去した。このブラウン博士の意見によって、ヘンリー・ウィンが支那へ行ったのだと思われる。

  ウィンの祖母ピー・エッチ・ブラウン夫人は、また敬虔な清教徒的賢婦人で、貧しい家庭にありながら、子供の誕生日毎に、聖歌を作った程である。つとに福音の伝えられていない異郷国民へ、伝道の門戸の開かれるように願っていた。殊に日本の鎖国時代に、ある水夫が日本から携えて行った漆器を見て、かかる精巧なる器物を製作し得る国民には福音を伝えねばならぬとて、日夜日本伝道のために祈ったとのことである。また、この夫人は讃美歌297番の原詩作者である。このピー・エッチ・ブラウン夫人の長子が我国プロテスタント最初の宣教師サムエル・ブラウン博士である。このブラウン博士の妹の子がウィンであるから、ウィンであるから、ヘンリー・ウィンが早くから東洋に来航したことは、けだしその祖母と、ブラウン博士と、母の感化によるものと信ぜられる。ヘンリー・ウィンには、三人の弟と一人の妹があった。第一の弟をジョージ・ウィンといい、米国に於て最初は麦粉製造業を営み成功している。末弟トーマスの欧亜漫遊(1923年(大正十二年)109日~1924年(大正十三年)二月七日)の費用を提供したのは、このジョージである。第二の弟はトーマス・ウィンで1851年(嘉永四年)6月29日生れ、1873年(明治六年)春、マサチューセッツ州アムハースト・カレッジを卒業、イリノイ州ファーマーズヴィルの教育にて、一年の間、経験と学資を得て、更にオーボルン神学校に一ヶ年、ユニオン神学校で三ヶ年在学し、明治十年(1877年)春、業全く成りて、その夏、イリノイ州マウントカーメルの教会で伝道に従事したが、外国伝道会社の秘書ロリー博士に推され、日本伝道にジー・ダブリュー・ノックス及びチー・チー・アレクサンドルと共に派遣されることに決定し、その年9月21日に、イーラーザ女史と結婚し、その年12月26日に、日米定期船「北京市号」で横浜、入港、その後、金沢(18771898年)、大阪(18981906年)等、内地の伝道に貢献し、更に満州(19061923年)へも伝道の手を延した。その後、一度帰国したが、昭和四年六月、再び来航、昭和六年二月八日、金沢日本基督教会で九十歳を以て死去した。

  第三の弟は、サルエル・ウィンで、法律家である。米国に在世、昭和十二年、八十二歳に相当する由。妹は、ルイズ・ウィンで、オーター家に嫁し、昭和十二年、八十四歳健在。このルイズ女史も横浜に来ていたことがある。

  ウィンの本邦歯科医業に従事したことは、『歯科沿革史調査資料』エリオット伝中に「ドクトル・ウィンという人、香港に業を開きしが、夏期の一部を我国に送り、莫大な収入を得しが、その勢力範囲を悉くエリオットに譲ることとなれり」との記載あり、更に著者の調査によれば、慶應三年、横浜在住の英国人ペーリーが発行(横浜百六十八番)していた万国新聞紙(邦字新聞紙の祖とも云うべきもの、第一集から第十八集まで十八冊を発刊するに満二年五ケ月に亘っている)の初集(慶應三年正月中旬発行)、第三集(同年三月下旬発行)、第四集(同年五月下旬発行)に、

 「口中一切療治仕候 百八番 ウヰン」

という簡単な広告を連載せるを見た。この百八番は山手に面した河岸で前田橋と谷戸橋との中間に位する商館である。また今泉源吉氏所蔵の左記金児篤斎謹告の引札(左右一尺三寸七分、天地一尺四分、和紙板刻刷(第十八図))がある。

 以上、中途であるが、今回はここまで。

 Best regards

梶谷恭巨


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