柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
[171] [170] [169] [168] [167] [166] [165] [164] [163] [162] [161]
 さて、友田文次郎であるが、奇しくも、我が同郷、すなわち、広島県山県郡の出身である。
 
 友田文次郎は、慶応元年(1865)4月、広島県山県郡に生まれた。 家は農業を営む旧家であったが、父の代に、醸造業を、また製鉄業に従事して、文次郎が幼少の頃は、家業が隆盛した時期であった。
 
 尚、紳士録発刊当時の住所は、川上郡旭川村本町14丁目左10号である。
 
 時期は不明だが、後に、広島の開成舎に学ぶと共に、碩学として知られた河野徴や山田十竹等に就き学業に励んだ。 明治14年(1881)、大阪に遊学、普通学(詳細不明だが、時代からして漢学・洋学か)を学ぶと共に法学を研究した。 しかし、明治17年(1884)、父親の希望により、帰郷、家業を助けた。
 
(注1)開成舎: 浄土真宗の僧侶・能美圓乗(えんじょう)、天保5年(1834)-明治30年(1897)、後に還俗、によって、明治5年に旧広島城内に設立された私立学校。 普通小学科のほか漢学・英学・数学科があったが、明治21年、特別科・文学科・小学科三科になる。 特に、特別科は、当時、第五師団長であった野津道貫(みちつら)の依頼により、軍人子弟のために設けられ、後に、陸軍将校の組織する偕行舎に引き継がれた。 明治22年、播磨屋町に移転、明治24年には、尋常科を加え、更に幼稚園も開設した。
(注2)河野徴: 文政6年(1823)9月、広島の綿商のに生まれる。 諱は徴(しるす)、字は文献、号を小石(しょうせき)あるいは視庵。 著書に、『老生常談』、『古今大家名文章』などがあるほか、漢詩をよくした。 頼聿庵(いつあん、頼山陽の長男、頼山陽が脱藩した為、祖父・春水に育てられ家督した)に学ぶ。 文久3年(1863)、広島藩儒官、元治元年(1864)藩世子の侍読。 長州征討では、長州藩との折衝役を務める。 維新後は、明治5年に厳島神社禰宜、明治8年に広島師範学校教師を務め、後に、私塾を開く。 明治28年(1895)1月23日没。
(注3)山田十竹: 天保4年(1833)、広島藩士・今井七郎衛門の三男に生まれ、後に、山田家(20石)を継ぐ。 11歳で、藩学問所で、坂井虎山に師事、金子霜山に漢学を学び、16歳で句読師に、慶応4年(1868)家督と相続し、儒官に任じられる。 明治3年(1870)、修道館に改名の時、学問所・寄宿寮塾の塾頭になった。 廃藩置県で修道館が廃校になると、明治7年(1874)、東京海軍兵学校教官(漢学)に任命された。 明治14年(1881)、旧藩主・浅野長勲が浅野学校を修道学校に改組したとき、その初代校長に就任。 明治19年(1886)、浅野家から修道校を譲渡され、八丁堀の自邸に修道学校開設した。 一時期、漢学のみの夜学校に後退した事もあるが、没後(1901年8月26日)、今の修道学園の基礎が完成する。 著書に、『日本志略』、『明治小学』、『尺木集』、『十竹遺稿』、『暗誦事類』などがある。
 
 郷里では、常に人に推され村吏、あるいは郡村の委員など務め、後に郡役所に奉職したこともあったが、「これは実業ではないから、到底、立身ができない」と、明治21年(1888)、友人と図り、広島の豪商に就き、長州の元山で、海を埋め立て石炭採掘に、更に数百町歩の塩田や畑を買収して事業を拡大したが、2年半が過ぎる頃、災害に遭い、努力空しく、事業を断念。 明治23年の春、山陽土木会社に入り理事を務めた。
 
(注4)郡役所に奉職: 私事になるが、期間は不明だが、明治の頃、山県郡郡役所が我家に置かれていた。 現在の家は、安政年間に建てられたと伝えられ、家の玄関は、御上口という藩の郡代などが使う玄関と通常使う玄関があった。 玄関を入ると、土間があり、三間幅で奥行き一間の広敷という板の間があり、奥に広間があって、郡内の行政・裁判などが行われていたそうだ。 明治中期以後のことと思われるが、玄祖父・その弟が郡長を務めた。 時期の前後が不明だが、もしかすると、友田文次郎は、郡の役人として、我家で執務していたかも知れない。 ただ、友田家が一家を挙げて北海道に渡った為か、母に聞くが、友田という名前を知らないという。
 
 しかし、志忘れ難く、明治24年、北海道の開拓が有望であることを知り、一家を挙げて渡北、同年7月、川上郡永山村に移住した。 当時、自身の事業の失敗と、家業である鉱山・製鉄業も、既に数年前から洋鉄の輸入で不振に陥っていた。 その為、移住時には、殆ど余財は無かったと云う。
 
 これは、余談だが、母に、旧加計町に友田という家があったかどうか調べてもらったところ、確かにあったそうで、今も、一軒だけ友田姓の家があるそうである。
 
 永山村は、現在の旭川市で、入植当時は、茫漠たる荒野でまともな家は一軒も無かったと云う。 その地で、9年間、家計が安定するまで自ら鋤鍬お手に開墾した。 しかし、この間、移住の翌年春には父親が、更に一年後には弟が死去するなど不幸が続いたが、移住後直ぐに、村吏に推され、三年間務めるなど、町村の発展に尽力している。 その努力が実り、明治25・6年頃には、村民の寄付で、村役場の分署、小学校を建設、旭川周辺の30万坪以上の土地を村の共有地にするなど、公共事業を推進した。 また、私立旭川裁縫専門学校を有志二名と共に設立している。
 
 明治26年、川上農会を設立し、副会頭に就任。 明治29年、川上懇話会を設立、幹事および評議員に就任したほか、町村の委員等に選ばれた。 明治31年、憲改党が合同結成された時には、札幌支部に所属し、常議員に選ばれ、北海道問題および党勢拡張に努めたが、派閥抗争による党の解散後は、何れの派閥にも属さず、北海道同志倶楽部に属した。
 
 その後の足跡を追うと、上富良野の温泉、翁温泉・中川吹上温泉の開発に名を見ることができる。 また、北海道道議会の前身である「北海道会」の第9代副議長に「中立」会派、旭川区選出、大正5年10月、在任期間4年とある。 その他に、北海道会議員第一期(明治34年から37年)、第三期(明治40年から43年)、第四期(明治43年から大正2年)、第五期(大正2年から5年)、第六期(大正5年から9年)の五期、川上支庁旭川区選出の記載がある。 いずれにしても、北海道開拓史、特に、旭川市の発展に寄与した人物である。
 
 ところで、友田家が、広島県山県郡で、製鉄業に従事したということから推測すると、詳しい住所が不詳だが、加計ではないかと考えられる。 加計は、佐々木氏隅屋(現、加計氏)が、多々良製鉄を起こした地であり、その後、帝国製鉄として近代的製鉄を導入し、製鉄所を建設した所である。 現在、製鉄所の跡地は、郷土資料館になっている。 余談だが、私が、加計町の議員をしていた当時の当主・正文氏は、東京帝国大学で夏目漱石に学び、鈴木三重吉と同級生だった。 漱石全集の書簡集に、漱石と正文氏の往復書簡が掲載されている。 また、我家は、北海道とも縁が深く、北海道にも戦前からの親戚がある。 因みに、そのひとつ西家は、鉱山開発に関係し、現在の当主は、札幌駅近くで歯科医を開業しており、もう一軒(梶谷)は、矢張り駅近くで果物屋を営んでいる。 西家は、北海道の鉱山開発史に多大な足跡を残している。 機会があれば、紹介したい。 まあ、そんなことから、今回は、友田文次郎を取り上げた次第だ。
 
Best regards

梶谷恭巨 


コメント


コメントフォーム
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード
  Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字


トラックバック
この記事にトラックバックする:


カウンター
プロフィール
年齢:
76
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
最新コメント
[04/17 梶谷恭巨]
[04/17 まつ]
[03/21 梶谷恭巨]
[11/18 古見酒]
[07/10 田邊]
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
フリーエリア
最新トラックバック
バーコード
ブログ内検索