今回は、相撲の流行に付いてである。
「明治21年(1888)には、相撲(角力)が卑俗な遊戯から一般的流行に昇格した。 時の首相黒田(清隆)伯がその音頭とりであった」と書かれている。 そこで、相撲協会などで史料をインターネットで探すのだが、これといったものがない。 ただ、当時は、各地に相撲団体があったようで、特に有名なのが、東京と大阪である。 因みに、広島相撲というものもあったようだ。
そこで、インターネットで明治の新聞記事を検索してみた。 世の中には、殊勝な方も居られるようで、主要各紙の切り抜きを掲載している方が居られる。 因みに、このサイトは「スポーツ文化史料情報館」といい、URLは下記の通り:
http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/index.html
その明治21~2年の相撲に関する記事を見ると、明治21年1月15日付(東京日日)、「芝公園内の弥生社へ行幸あり、柔道・剣道・相撲を展覧。 同年3月10日付(毎日)、相撲社会を改良せんとする高砂発議もウヤムヤ。 各界ゴタゴタ続き」とある。 以下、本文:
「かつて相撲社会を改良し、新会社を起こして大いになる処あらんとせし、雷(イアカズチ)、高砂発議の原案も、ついに多数の賛成を得るあたわず、折角賛成せし同意者の記名調印さえ、この頃発起人よりそれぞれ返付せしとのことなり。 これらの原因せしものか、今度雷太夫は突然取締役を辞退せしかば、現今の年寄も出稼中、組長のみにてはその諾否を答うるあたわずとと云いたるも、再三再四辞退の儀組長に迫り、拠所なく当五月の場所に一同帰京するまで取締り就職の儀、雷へ説諭あらんことを、組長一同より本所元町警察署へ願い出て、この節双方召喚中なりという。 また聞く処によれば、何故か当五月の靖国神社奉納相撲済み次第、高砂の部屋にて頭立ちたる力士一同並びに海山、八幡山、真鶴、常陸山、鶴ヶ浜等は、みな表面を雷の門人ということに改め、東もしくは西の一方にそれぞれ番附の位置を占め、何かなす処あらんとの風説なるが、果たしてしからば一方に好力士多く、一方に好力士少なき訳なれば、不完全の番附を見るに至るべし。 これは皆その途の不繁盛を招くに近き理なれば、真逆真事とは思わず。 何に致せ相撲社会の紛議は常のごとし。 さて気の毒のことなるかなと、或る人の話なり」と。
明治21年5月13日(東京日日)、「往年の名力士陣幕久五郎、靖国神社大祭に土俵入り」
「文久年間角力社会に於いて向かうに敵なしと、その名を轟かしたる陣幕久五郎は、今度出京して靖国神社大祭角力に土俵入りをしたる由なるが、この時用いたる廻し並びに太刀と言うは、二十五年前島津久光公より拝領したるものにて、廻しは紫地の羅紗に白三段筋の縫いにて、金の三段ふさ付き、太刀は白柄にて、金無垢丸十三ツ紋、鞘は金梨子地に丸十の金紋散らしにて、長さ四尺余りなり。 該品を昨日警視庁に持参し、総監始め一同の一覧に供したり」と。
明治22年1月13日(東京日日)、「相撲協会の紛糾で、改革派力士16名が特別昇給や相撲取締役と検査役選挙を要求」
「前号の紙上にしばしば記載せし相撲協会の紛紜と云うは、十一の紙上に掲げし力士十六名首唱となりて、その請求の次第を聞かれずば出訴とまで意気張りたる一条にて、そのことの詳細を聞くに、まず第一が特別昇給、第二が相撲取締役及び相撲検査役の選挙を、力士中に於いてなさんというにあり。 その第一なる特別と云う特の文字の解釈は、はなはだむずかしき事と見え、年寄中にこの説明を与えざるが、出訴するとまで言い張りたる原因と云えり。 またその第二なる相撲検査役を力士等が選挙すると云うは、随分道理なき請求にもあらざれば、相撲協会の内規はともあれ、請求通りにするやも知れざれども、取締役を各力士に於いて選挙するの一条は、力士等が越権に出でたる処置ゆえ、たぶん排斥するなるべしと云う」と。
同年 1月18日(時事)、「雷、高砂の両年寄が、取締役に撰挙され紛糾収まり、相撲22年1月場所開幕以上の二年間の関連記事をを見ると、「流行」というより、角界に紛糾があったことが伺える。 もっとも、紛糾がわだいになるくらいだから、それだけ盛況だったという査証であろう。 しかし、この改革騒動、何だか、今の角界の混迷を思わせる。ところで、黒田清隆と相撲の関係だが、「音頭とり」はどういうことなのだろうか。 直接的史料は見つからないのだが、次のような記事があった。明治18年12月29日付(東京日日):明治天皇、黒田清隆邸に行幸、相撲十八番を天覧」
「兼ねて仰せ出されたるごとく、昨日午後二時赤坂仮皇居御出門にて、三田なる黒田内閣顧問の邸へ行幸あらせたもう。 御陪乗には徳大寺侍従長、供奉には宮内二等出仕、香川宮内少輔、堤宮内大書記官、岡田、片岡、北条の三侍従、広幡侍従補、伊東一等侍医等の方々ぞ参らせたる。 吉井宮内大輔、三宮宮内大書記官には、御先着として出張せられたり」と。
明治天皇の相撲好きは有名だが、黒田清隆も相撲が好きだったことが伺われる。 もしかすると、このことが縁で、角界の改革に尽力したのかもしれない。 また、戊辰戦争では、力士隊が活躍したこともある。 特に、長州の奇兵隊の力士隊は有名だ。 ただ、力士隊は、長州のみにあったのではなく、会津藩の力士隊も知られている。 また、官軍東征の際には、親兵として、力士隊が錦旗(錦の御旗)を捧げて先頭を行進した。 しかし、明治初期の裸体禁止令などで、一時期、存続が危ぶまれたこともあるようだ。余談。 私事であるが、父方の曽祖父は、福山藩の殿様(老中・阿部正弘)から、お抱え相撲取りにと請われたが、長男であることから、免除されたという話が残っている。 曽祖父は、六尺豊かな偉丈夫で、今も、庭に、鍛錬に使ったという力石が残っている。 しかし、近隣の若者が持ち上げようと試すのだが、未だに、この力石を持ち挙げた者はいないという。 漢学者でもあり、頼杏坪や菅茶山と交流があった。 その縁で、祖父は広島の頼塾の塾頭なったと聞く。参考までに、この時の組合せを紹介すると次の通り:
勝 ⇔ 負
平之戸 ⇔ 先年川
綾瀬川 ⇔ 鬼ヶ谷
鞆之平 ⇔ 一之矢(預り)
四ッ車 ⇔ 綾波
友綱 ⇔ 常陸山
(三役)
大鳴門 ⇔ 高見山
西之海 ⇔ 梅ヶ谷
大達 ⇔ 剣山
(御好み)
鬼ヶ谷 ⇔ 高見山
平之戸 ⇔ 小錦
今回は、相撲の流行がテーマであったが、大正時代に大日本相撲協会が設立される以前の史料が意外に少ないのに驚いた。 相撲博物館のサイトも見たが、何とも冴えないホームページである。 こうした所にも、角界の低迷の原因を見た感がある。 詳細を調べれば、もっと面白いことがあるのかもしれないが、この項は、これで了とする。