「流行」の続きを書こう。
さて前回は、明治19年(1886)~20年にかけて流行した「ドイツ麻疹」に付いて書いたが、この翌年頃から、一種のオカルトブームが始まったようだ。 彼によると、「催眠術をかけることや、テーブルに手を触れると自然に持ち上がる心霊現象、こっくり占い板が流行した」そうである。
そこで思い出すのが、妖怪学者として有名な井上圓了である。 井上圓了は、安政5年(1858)2月4日、越路町の浄土真宗大谷派・慈光寺に生まれた。 経歴の詳細については、余りにも有名なので他に譲るとして、余り知られていない事実などを紹介しよう。
先ず、この『柏崎通信』ではお馴染みの石黒忠悳との関係である。 井上圓了は、石黒忠悳が池津(小千谷)で私塾を開いたときの最初の門人なのである。 門人と言っても、確か10歳に満たない頃のことだったと記憶する。 確かめてみると、『懐旧九十年』に、そのことが書かれている。
序のことだから、その部分を紹介しよう。 因みに、年表によれば、当時、石黒自身は18歳の頃(文久2年(1862))だったようだ。
「第二に(第一は近隣の村民に読み書き算盤を教えること)、医・僧または農家の子弟などを上級として、経書・歴史・算数を教え、これにはひとしお力を入れて尊皇心を注入しました。 この級から出たもので、名ある者が数名ありましたが、一番世に知られたのが、文学博士井上圓了君です。 圓了は浦村の慈光寺という浄土真宗のお寺の長男で、幼名・龏常(登録がない。 実際には龍の下に共で、トモツネ)と称し、塾に通うたのは八、九歳の時からでした。 その頃、妻は、「トモツネ」は他の子と異(ちが)うところがありますから、後日必ず大成しましょう、と言って特に愛育したのですが、後年、果たして世に知られたので、妻は大層喜びかつ誇っていました」と書いている。
驚くのは、その上級の学科である。 四書五経の素読から始まり、『小学』・『朱子家訓』・『国史略』・『日本外史』・『政記』・『十八誌略』・『元明史略』・『古文真宝』・『坤輿図誌』・『明倫和歌集』に加え、算術・習字・剣道の形など教えていたというのである。 この中で、少なくとも眼を通したことがあるのは、『小学』・『朱子家訓』と頼山陽に係る『国史略』・『日本外史』・『政記』、必読書と言われた『十八誌略』と『古文真宝』くらいで、それも何十年もかかってのことだ。 石黒、18歳で、これを教えるとは、また、10歳に満たない井上圓了が、それを習うとは、全く恐れ入るの一言である。
余談に逸れたが、この当時の流行の背景には、神道への傾斜あるいは廃仏毀釈の影響もあるのではないかと考えている。 ただ、残念なのは、チェンバレンが、「廃仏毀釈」には触れていないことだ。 更に付け加えると、この神秘主義的傾向は、大正にまで至ることだ。 推測の域を出ないが、井上圓了が、「妖怪学」として、理論的に神秘主義を解明しようとした背景には、この流行(廃仏毀釈を含め)があったのではないかと考えるのである。 以前にも書いたことがあるが、真言密教を中心とする「本地垂迹」の思想が、神仏分離を強制された時期でもあり、チェンバレンが流行として捉えた神秘主義的傾向は実に興味深いものがある。 この辺りのことは、改めて書く機会もあるだろう。
ところで、これは私事なのだが、もう三十年くらい昔のこと、慈光寺の住職の弟さんと職場を同じくして、特に中越地区を廻ったものだ。 彼自身にとっては、(大伯父あるいは玄伯父にあたる)、余り関心がなかったようだが、頼んで、慈光寺を訪ね兄である住職に圓了に付いて、一日、昔話を聞いたことがある。 特に、記憶がないところを見ると、資料等が東洋大学に移管され、確か、圓了に係る屏風とか掛け軸を拝見したほか、目新しい事実を聞かなかったのであろう。 ただ、春の日、本堂で住職と対面した記憶は鮮明に覚えているのだが。 これも余談であるが、長岡には東洋大学の出身者が多い。 矢張り、これも学祖・井上圓了の影響であろうか。 中越地震の時、多大な被害を受けた旧山古志村村長・長島さんが、身を賭して復興に尽力される姿は、今も強く印象に残る。 氏もまた東洋大学の出身と聞く。 圓了先生の薫陶が継承された査証であろうか。
話を戻すと、明治時代のこの流行について、早稲田大学教育学部歴史学研究会妖怪部会が、こうした研究部会があること自体が驚きなのだが、2009年度後期の研究発表のテーマとして、「明治日本におけるオカルトブーム史」を発表している。 対応してもらえるかどうかわからないが、一応、連絡してみようと思う。 「廃仏毀釈」に関しては、追いかけるテーマの一つでもある。 機会があれば、回答を見て、また採り上げた。 「流行」の項、未だ続くのだが、まt次回に。
Best regards
梶谷恭巨