柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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  明治34年(1901)に大規模な遠足が行われたそうである。

「1901年は、子供たちや職工たちの大規模な遠足であった。 或る主要新聞(二六新報)は、東京(向島)に職工十二万人の遠足会(労働者懇親会)を催したが、この大群集が現場に近付いたとき、警察の手によって五万人だけしか前進を許されなかったので、暴動が発生した。 或る遠足は、これより手ごろな人数で、三八○人の盲目の按摩さんが参加し、杉田の梅の花を見物(?)に出かけた。 ちょうどアルプス登山の流儀にしたがって、長い綱につかまりながら安全無事に出かけたのであった」と。

ここでいう「向島の遠足会」というのは、明治34年(
1901)4月3日に、二六新報が主催した「労働者懇親会」のことであろう。 法政大学大原研究所のデジタルライブラリーによると

「日本労働者大懇親会」とある。 以下引用する。
「3月中旬《二六新報》社は、4月3日に東京向島で労働者大懇親会を開催するとの計画を発表した。 警察は参加者を5千人に制限し、多くの工場も労働者の参加を禁止した。 これに対し《二六》側は式典を短時間で終え、他の催しに多数が参加しうるようにした当日は2万人以上が参加し、片山潜が労働立法および普選の請願、毎年、4月3日に懇親会を開催することを提案して可決された。〔参〕《秋山定輔伝》1巻1977」

このことからも判るように、高梨健吉訳の『日本事物誌』(平凡社・東洋文庫)の5万人には疑問があった。 そこで、原本を調べてみると、矢張り「5000人」であり、これは高梨健吉氏の誤訳である。 また、12万人というのは、どうであろう。 これは、原本通りである。 チェンバレンの観察眼からすれば、その数値に大きな誤りがあるとも思えない。 いずれ紹介することになるだろう、「キリスト教」の項で挙げられるキリスト教各派の教徒数なども、統計を基に精確に記されている。 そのことから考えると、二六新報が、警察の手前、過少に参加者数を発表したのではあるまいか。 また、懇親会に参加できなかった人が、それほど多かったということだと思われる。 因みに、この集会の参加者に付いて検索してみたが、参加者数は三万人くらいと記すものもある。 要するに、懇親会の出席者数については触れるものもあるが、出席できなかった参加者に触れるものはないようである。 
この大懇親会は、前年(1900)3月10日の治安警察法公布に対する不満・反動の表れだったのだろう。

この新世紀の年は、労働運動あるいは社会主義運動のエポックでもあったようだ。 同じ年の5月18日(私の誕生日)、日本で最初の社会主義政党「社会民主党」が結成された。 しかし、翌19日届出を出したが、20日宣言書を発表と同時に、禁止された。 禁止の理由は、稿料の中の軍備全廃・貴族院廃止・人民のの三項目であった。 因みに、発起人は、社会主義協会の片山潜・安藤磯雄・幸徳秋水・西川光二郎・木下尚江・河上清であった。 6月に、党名を「社会平民党」として再度届出を提出したが、これも禁止された。
余談だが、この年の2月3日、福沢諭吉が死去したことも、何やら19世紀の終わりを象徴するようである。

ところで、「子供たちの遠足」の背景には、同年3月、「中学校令施行規則」および「高等女学校令施行規則」の通達で「体操科」が明示されたこと、また同4月1日に「小学校体操科課程及び授業時間割」が通達されたことに関係があるのかもしれない。 調べてみたが、その他に「子供たちの遠足会」に関する記事は見当たらなかった。 これは、それこそ余談だが、「旧制中学校校長の足跡」を追っていたとき、当時の中学校で、学校からの強制ではないが、グループで遠足することが流行っていた事実がある。 わが主人公・羽石重雄先生は、特に、五校時代、友人と共に遠足をしている。 もっとも、感覚的には、今いう「遠足」とは異なるのだが。 そうそう、記憶が定かではないが、漱石だったか、次の子規だったか、鎌倉・江ノ島へ遠足したのは誰だったのだろう。

また、「按摩さんの遠足会」についても同様で、こちらは、一件のヒットもなかった。 時代を微妙に反映する記事なので興味深い。 すなわち、江戸時代に検校を頂点とする一種のギルドが形成され、幕末維新にも何らかの形で影響を与えたんではないかと憶測するのである。 例えば、勝海舟の曽祖父である米山検校の存在である。 余り表面には出ないが、江戸期におけるセカンダリー金融の担い手であったのではないか。 空想を広げれば、中華王朝における宦官的存在。 時の権力者と肌を接することのできる存在の意味は、意外に重要なのではないだろうか。 もしかすると、時の薩長藩閥、言い換えれば、時の権力者に対する「俺は、お前さんのことを隅の角まで知っているんだよ」という、維新後に崩れてしまったギルド、言い換えれば、それなりに保証されていた検校体制の崩壊に対する恨みがあったのではないかと憶測するのである。 要するに、「これって、按摩さんのデモじゃあないか」と思ったのである。 この件、興味がわくのだが、あれこれ調べても、伝えるものが無いのである。 余談だが、米国における「アファーマティヴ・アクション」の是非の問題が脳裏を掠めた。

いずれにしても、「大規模な遠足」とは、団体行動であり、時期的見て、体外的に問題を抱える後期明治政府としては、「鶏肋の味(三国志の曹操)」的矛盾に満ちた混沌があったのかも知れない。 実の所、労働者懇親会より、子供や按摩さんの大遠足に、池の底から湧く気泡の如き、時代を反映する確かさを感じるのだが。

Best regards

梶谷恭巨  


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