柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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  明治31年(1898)~明治33年には、園遊会が流行したようだ。

以下、高梨健吉訳『日本事物誌』から引用しながら、同時代を見てみよう。

五日間も続く園遊会もあれば、雪の中で開かれるものもあった。 そのときは、寒空に震えている客を暖めようというはかない望みを抱いて、野天に焚き火を燃やしたのであった。 横浜のある商人はたちは、立派な庭園が使えなかったので、港の艀を幾つか繋ぎ合わせてテントを張り、船上で(いわゆる)園遊会(ガーデン・パーティ)を開いたほどであった!」とある。

この件、多方検索してみるのだが、適当なものが見つからない。 ただ、世紀末前後、というか、ヴィクトリア朝時代、社交の場としてのガーデンパーティが開かれた気配がある。 同時代、ニューヨークを中心とするニューイングランドの上流社会で、ヴィクトリアン・ガーデンパーティというものが流行した形跡がある。 特に、春から夏の花の季節、ロードアイランドの避暑地、ニューポートで盛んにガーデンパーティが開かれたようだ。 「ヴィクトリアン」というからには、本家英国のヴィクトリア朝風のガーデンパーティを模したものとも推測される。 ただ、文献によると、英国風庭園は米国にはなく、添付の写真から見ると、セントラルパークのような雰囲気が見える。 しかも大勢が集まって、テニスなどのスポーツを楽しんでいる。 日本でも、当時は英国の影響が大きかったから、その影響ではないだろうか。 いずれにしても、上流階級の社交の場であったのだろう。

この年には、もう一つの流行があったようだ。

世紀の終わるこの年のもう一つの流行は、胸像と銅像の流行であった。 銀で自分の彫像をつくらせたものもあった。 この種の流行は中世初期の流行を思わせるものがある。 そのころ主な皇族や僧侶たちは---あらゆる現象は空であり、自分の現身(ウツセミ)は幻であると観じていたにもかかわらず---少なからぬ時間を割いて、自分の像を描いたり彫刻したりしていたようである。 その肖像画も弟子の作品である場合が多いと断言する人もある。 しかし、いずれにしよ、最後の一筆で、睛(ヒトミ)を点ずるのは、聖者その人であった」と。

ここは文章が面白いので、原文も紹介する。

"Another craze of the closing years of the century was for busts and statues, ---even silver statues of oneself. This last form of this particular craze reminds one of early medieval times, when prominent princes and Buddhist saints (despite their assent to the doctrine that all phenomena are mirage, and personality itself a delusion and a snare) seem to have devoted no inconsiderable portion of their leisure to painting was the handwork of a disciple, but the saint himself would then dot in the eyes."

明治30年代の初め頃のことを調べるが適当な資料がない。 そこで、思い出すのが、武石弘三郎である。

武石弘三郎は、明治10年(1877)7月28日、新潟県南蒲原郡中之島町長呂(現長岡市)に生まれた彫像・銅像作家である。 意外に知られていない彫刻家だが、恐らく、当時としては、最も多作の彫像・銅像作家だっただろう。 ただし、彼が活躍したのは、もっと時代が下る明治40年代からだが。 東京美術学校では高村光太郎の一級上である。 詳細については、ブログ版『柏崎通信』に「綴集談叢(2)-彫刻家・武石弘三郎」で紹介したので省略する。 因みに、このURLは、次の通り: 

http://kashwazakitushin.blog.shinobi.jp/Entry/59/

ところで、チェンバレンの文中に僧侶のことが書かれているが、武石弘三郎を調べた時、現存する僧侶の銅像や胸像は少なかったの印象がある。 一つには、第二次世界大戦中に、金属供出で多くの銅像や胸像が溶かされて軍需品に化けたのが原因だろう。 しかし、世紀末に僧侶の銅像や胸像が多く作られた理由は何だろうか?

そこで思い当たるのが、当時、廃仏毀釈の反動か、カリスマ的僧侶が何人も輩出していることである。 詳細は省くが、長岡に所縁の深い「救世教」を創設した大道長安(新潟県曹洞宗教導職取締から僧籍を離脱)を挙げることができるだろう。 互尊翁・野本恭八郎(長岡に互尊文庫を開いた)は、大道長安から多大な影響を受けている。

また時代は遡るが、『柏崎通信デジタルライブラリー』に掲載した『况翁閑話』(4)で紹介した「縁なき者は度し難し」の(注)に書いた「原坦山」なども、明治期の仏教中興の貢献者である。 明治宗教史に付いては、廃仏毀釈以降の史料を収集中だ。 かなり集めてあるのだが、一読する程度で精査していない。 書きたいテーマではあるのだが。 因みに、先のURLは次の通り:

http://qkasiwazakitusin.blog.shinobi.jp/Entry/16/

もう一つ挙げるとすると、こうした宗教の隆盛は、世紀末に伴う世界的現象だったのかも知れない。 前回のミレニアムもそうだったが、何かしら宗教的な、あるいはオカルト的事物が流行した。 次に、「中世初期の流行」とあるが、これはロマネスクのことであろうか。 美術史には詳しくないので、この程度で。

Best regards
梶谷恭巨


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