柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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  明治26年(1893)には、「福島(安正)中佐は単騎シベリア横断に成功し、全国民が熱狂した。 そのとき一般国民がいかに夢中になったかは、当時の新聞を通読しなければ、とても想像できるものではない。」

東京朝日新聞は、同年6月30日付の記事で、「中佐の汽車到着するや、楽隊奏楽の声、嚠喨(リュウリョウ)として起こる。 歓迎会員総代川村伯(爵)は直ちに、中佐の汽車に入込みて、挨拶をなし、九鬼委員先導にて、群集せし歓迎者の中を押分けつつ、停車場待合所壇上に登る。 此の時、歓迎者は一斉に福島君万歳を唱えう。 (中略) 此日かねて歓迎の為めに狂するが如くなりし有志者は言うに及ばず、此の絶大の偉業をなしたる、此の全国人士の歓迎を受くる、福島中佐其人の容貌風采なりとも一見せばやと、四方より集まり来る老若男女は、其数果たして幾千万なるを知らず」と、その熱狂振りを報じている。 因みに、福島中佐が、新橋駅に到着したのは、前日の29日のことである。福島安正は、嘉永5年9月15日(西暦1852年10月27日)、信濃国(松本市)、松本藩士・福島安広の長男に生まれ、幕府講武所に学び、戊辰戦争に参戦、明治なると開成学校に進み、明治6年(1873)、明治政府に出仕、司法省から陸軍省に移籍した。 詳細は、島貫重節著『福島安正と単騎シベリア横断』や、記憶が定かではないが、映画にもなった(あるいは、その中のかなり詳しいエピソード)こともあるので、この際省略する。 ただ、当時の武官の活躍に付いては、芝五郎・石光真清・明石元二郎らの活躍が、自伝・伝記・小説などで紹介されており、また、司馬遼太郎の『坂の上の雲』でも、司馬遼太郎独特の俯瞰的視点で紹介されている。 当時の若手士官、特に、薩長以外の出身者は、様々な形で結びついていることに興味を引かれる。 明治という時代を見るとき、この複雑で有機的な交友関係は、重要だと考えているが、これはまたの機会に。

ところで、この「流行」は、冒険家の時代を反映しているのではないだろうか。

福島中佐の帰還に先立ち、明治26年3月2日の『朝野新聞』は、郡司大尉の千島探検隊の出発を報じている。
明治26年(1893)3月2日、「千島拓殖へ探検隊出発。 郡司大尉、120名の同盟者と共に岡本翁の志を継ぐ」と。 以下、詳報:


千島拓殖の壮図を抱き、一百二十名の同盟者とともに、極北沍寒(ゴウカン)不毛の地に入らんとする一億男児郡司海軍大尉は、いよいよ来る十五日を以って出発すべしと云う。 千島拓殖の事に就いては、岡本監輔翁最も人に先だちてこれを主唱し、千島義会なるものを設け、東奔西走ひとたび千島に渡りたるも、心事多くは齟齬して行われず、ついに空しく壮図を抱きて帝城の西隅に蟄居するも、雄心勃々水から禁ずるあたわず、日夜その宿志を遂げんことを思うの際、郡司大尉の断然決心を天下に示して、千島に赴かんとするに会し、世間皆その壮図を賛嘆せざるなく、事ついに叡聞に達して、千五百円の御下賜金あり、岩崎一家また千五百円を寄附し、朝野貴顕紳士の寄贈に係るものまた数千円の多きに上り、岡本翁の名はついに千島拓殖の壮図と相離れんとするに至れり。しかるに聞く処によれば、郡司大尉はつとに岡本翁の有為の士なるに感じ、その三十余名を率いて千島に赴くや、或いは業ならずして、半途空しく辺土に骨を晒すに至るも知るべからず、翁もし仆るれば、誓ってその壮図を継がんとの決心を抱き居たるよしにて、今日に於いても岡本翁の精神は、あくまでこれを師として忘れざるべしと、人に物語り居ると云う。 大尉のこの行もとより死を決して赴くものなれば、同士百二十余名は残らず血判制約をなし、その妻子までも署名血判せしと云う。 その壮心思い見るべきなり。 出発の時は横浜港よりボートに乗り、大尉自らこれを指揮し千島に向かうはずにて、各地沿岸の有志者は皆その行色を壮んにせんとて、日取りを聞き合わせに来るもの多く、横須賀小学校生徒は消化を歌い、これを送る準備をなし、かつ途中茨城県那珂湊に寄港するを以って、水戸弘道学会に於いては盛んにこれを歓迎せんと、目下もっぱら準備中なりと云う。 しかし、千島到着後、衣食住に要する需要品はいっさい内国に仰がず、自営自活の道すでに立ちたれども、医師一人同行せざるは不便なりとて、その人を海軍軍医中より得んとするも、未だ適当なる人物なきを以って、これのみ不足を感じ居ると云う。

(注1)郡司大尉: 郡司成忠、万延元年11月17日(西暦1860年12月28日)、江戸下谷三枚橋横町(現、台東区御徒町辺り)の旗本・幸田成延の次男に生まれる。 親戚の郡司家に養嗣子になるが、明治維新で郡司姓のまま幸田家に戻る。 明治5年(1872)、海軍兵学寮に年齢を偽って入学、海軍軍人になる。 明治26年(1893)、千島開拓の志の実現の為、予備役編入。 報効義会を設立、千島探検に乗り出す。 この時、後に南極探検を行う白瀬矗(ノブ)中尉(陸軍)が、この探検隊に参加している。 弟は、小説家・幸田露伴。
(注2)岡本監輔: 天保10年(1839)、阿波国美馬郡穴吹(現、徳島県美馬市穴吹町三谷)の小農の次男に生まれた。 幼少より資質優れ、15歳の時、それを見抜いた祖父に連れられて徳島の儒者・岩本贅庵(ゼイアン、古賀精里→鉄復堂の学統)に学んだ。 間宮林蔵(倫宗)の『北蝦夷図説』を読み、北方開拓を決意、文久3年(1863)に樺太探検、慶応元年(1865)には、丸太舟により樺太一周に成功、明治元年2月(1868)、函館裁判所内国事務局権判事、同4月、判事となり、樺太経営を委任された。 その後、東大予備門、一高などの教職に就き、明治25年(1892)「千島義会」を設立、択捉島などを探検し、『千島見聞録』などを著した。と、まあ、郡司大尉の記事が続くのだが、この話題は、本論から外れるので、また別の機会に。いずれにしても、この年は、探検あるいは冒険の年だったようだ。

Best regards
梶谷恭巨
 


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