柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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  長谷川泰(たい)について調べていた。 そこで、面白い記事を見つけたので紹介する。 その前に先ず、長谷川泰について説明する必要があるのだろう。 詳細は別の機会として、彼は「済生学舎」の創始者として有名である。 門下から、野口英世が出たことでも知られている。 長谷川泰は、天保13年、現在の長岡の生まれた。 その後、佐倉の順天堂・佐藤尚中(佐藤泰然の女婿、佐藤泰然の実子は松本良順)で医学を学ぶ。 同門、同郷に石黒忠悳がいる。

 まあ、それは措くとして、今回の話は、長谷川泰が、明治27年1月30日、済生学舎北越人懇親会の席上で行った演説の内容である。 因みに、この演説には速記者がいたようだ。 当時既に、速記法研究会なるものがあり、その会員が速記して、書籍として発刊しているのである。 速記法研究会が、既にあったことも驚きなのだが。

 さて、その中で、先ず越後出身の勤皇の志士について語るのだが、その後に、河井継之助に言及している。
 勤皇の偉人として本間精一郎について語った後、「ほかに豪傑は沢山ありますが」と前置きして、「旧長岡藩の河井継之助君のことを申しましょう」と続け、「我々の見る所に依ると天下豪傑の士である。 実にあの人はえらい人であったのであろうと思われる。 氏は戊辰の役に、明治元年に佐幕の方針を採られて全く方向を誤られたのは実に我々は遺憾の訳であるが、しかしながら当時の事情があったかも知れませんから、その辺のことはもうしませぬが、もし氏をして三藩に産ましめたならば、氏は必ず天下の大政を握り総理大臣になって天下を握り廻したに相違ない」と話し、友人である外山脩造の話を紹介している。

 外山脩造は、長岡の生まれで、清河八郎に学んだ後、昌平黌学問所に入っている。 戊辰戦争では、河井継之助の下で戦い、明治になってからは、継之助の遺訓を守り、官界・日銀に席を置くが、後に実業の世界で活躍(阪神電鉄社長など)、衆議院議員など勤めた人物。 また、阪神タイガーズの生みの親とも言われている。

 少々長くなるが、その部分を紹介する。 尚、印字の劣化などあり読み難い。 多少の間違いがあるかもしれないがご容赦。 また、旧漢字・旧仮名遣いは現代文に改め、句読点を付け加えている。

 「今から37年前で、丁度、私が18のときでありましたが、河井君と合わして遣ろう(この部分欠落しているが前後の関係でそういう意味と推測)というので、夏でありました、往きました、丁度、蚊帳のありましたときでしたが、蚊帳の内で面会しました。 先生はひっくりかえって、肴は沢庵、酒は大山だ、一杯飲めと云われた。 顔を見たら二重(?)で眼光炯炯、人を射ると云う有様であったように記憶して居るが、実に先生は智力勇弁あらゆる豪傑の(不明、資か?)を皆完備して居った人であると信じる。 武勇があり智力があり智略があり勇弁であり、智力勇弁あらゆる豪傑の資格を具えた人である。 先生は陽明学者であったが、あれだけの備えを鶏を割くに牛刀を用いると云うようなもので、長岡の如き小藩備に氏の力の一部分を用いたのでありますが、経済点と云い兵備改良の点と云い総の点に於いて、えらいものである。 もし先生が三藩に産まれたならば必ず総理大臣になって政権を握て居る人に相違ない。 要するに先生が、その天性の英傑の才を十分に実際に働き得るように養成した原素は何んであるかと云えば陽明学であると思う。 大層、陽明を信用されて、又一方に於いては宋の李忠定を信用して李忠定の文集を買うことが出来ぬので写したのであるが、--との時分には幕府の儒官でなければ持って居ない。 氏は古賀謹一郎の塾に居って写して読んだ。 李忠定を信用されて政治上にも之を利用した。 あわし、元は陽明学である陽明学と申すものは、私が申すとも御承知であろうが、悪く利用すると大変であるが、能く(よく)利用すると、宜い(よろしい)陽明学は則ち(すなわち)仏学であるが、表面を儒学にして奥の院は仏学である。 頼山陽が王陽明の伝習録の・・・・」とある。

 尚、李忠定については詳細を知らない。 ただ、『頼山陽先生書後』(頼山陽著、児玉慎・士敬編)の第二冊に「書李忠定公集鈔」という段があり、要約すると、清の鄭板橋が、英雄の読んだ書つて、李忠定を上げているので、姫路の河合氏の山黌に蔵書があるのを知り、訪ねて筆写したが、全部が写せず、惜しみながら帰ったとの記事がある。 漢文なので読み間違いがあるかもしれない。 ご容赦。 とまあ、江戸末期・幕末に、それ位に李忠定公集が関心を呼んでいたのだろう。

 尚、河合氏とは、姫路藩酒井家の名家老といわれた河合寸翁のことで、「山黌」とは、寸翁が開いた私塾、所謂「山の学校」、仁寿山黌のこと。 寸翁の史料に、頼山陽を一時期招聘したとある。 また、姫路神社境内には、寸翁を祀った「寸翁神社」がある。

 以下、頼山陽の王陽明評が漢文で続くのであるが、何しろ印字がつぶれて読み難い。 この部分は、頼山陽の文献から探すことことにして、更に、この河井継之助に関する文章を続けたいが、長くなる。 それに、字が小さいこともあり、虫眼鏡で読んでいるから、涙目が一層激しくなって、疲れてしまった。 そんな訳で、続きは次回に。

 ところで、この『同郷人の団結』は、僅か13ページの小冊子である。 そこに登場する人物は、すべて長谷川泰の同世代人だが、『長岡の人々』や『長岡歴史事典』に記載のない人々もあるのである。 速記録なので、文脈も乱れているが、それでも、その晩の雰囲気を伝えている。 同時代人が語ったところに、臨場感があるのだろう。 ところで、明治時代、維新の事情を忘れないためにもと、各地で「史談会」が開かれたが、それらの史料も、現在、閲覧あるいは入手することも難しい。 しかし、こうした同時代人の言葉にこそ、歴史的事実とは異なる真実を伝えるものではないだろうか。 心情・感情の問題である。 歴史は概して、その時代の人々の心を伝えない。 歴史書を読む我々は、現代の感覚で評価し、現在の心情で共感し、あるいは反感を持つこともある。 してみると、矢張り、その時代人の感覚あるいは感情を知るには、その時代人の言葉で語られる物語を知る必要があるだろう。 歴史学とは、年代記的歴史的事実と同時代人の感覚感情、それに生活史あるいは時代背景との三者の上に成り立つものではないだろうか。 こう考えると、歴史小説の意義は大きい。

 余談だが、中国では今、山岡荘八の『徳川家康』がブームだそうだ。 ベストセラーランキングの上位(確か三位だったか)にあり、700万部が売れたという。しかも読者層は、ほとんどが、若者・学生・若手の経営者とだと聞く。 因みに、日本では、1000万部以上が売れているそうだが、街頭インタビューで、この本の存在あるいは徳川家康に関心のある人は、ほとんど居なかった。

 尚、長谷川泰は、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』あるいは『峠』にも登場する。 以前、『柏崎通信』に、彼あるいは石黒忠悳について書いたこともある。 『ある旧制中学校長の足跡』の調査から、関連する人物を追いかけていくと、思わぬところで、思わぬ人物との関係に遭遇する。 まさに、この世は「スモール・ワールド」であると実感するのも、こんな時だ。 日常の世界でも「6次の隔たり」という経験則があるが、歴史の世界にも、時空を越ええた「6次の隔たり」のようなものがあるように思える。

 またしても余談だが、当時の「修身」の教授内容は、官の意向とは別に、歴史の側面、すなわち個人に纏わる事例などを主たる教材としていたことを考えると、西欧的歴史観に違和感を持った、現場の教育者の苦肉の策だったのではないだろうか。 例えば、最近判ったことだが、羽石重雄は、大阪府立二中時代、英語と歴史を担当しているのである。 この、国史科出身の学士が、歴史と英語を教えているのだ。 実に興味深い。 その影響は、初代校長である有馬純臣だと聞くが(羽石重雄の五校時代の担任)、実は、有馬純臣自身、第五高等学校で、理財・法学通説・英語を担任していたのである。 因みに、当時の第五高等学校学校長は、講道館の加納治五郎であり、有馬純臣は、六番目に入門した門弟だった。 加納治五郎は、学校長になったとき、彼を呼び、また、ラフカディオ・ハーンを松江中学から招聘しているのである。 この辺りの事情も面白い。 機会があれば、書くことにしよう。

Best rgards
梶谷恭巨
 

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