柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 小野塚喜平次は、長岡の生んだ日本を代表する政治学者であり第11代東京帝国大学総長である。 そして、広瀬武夫は、「荒城の月」で有名な豊後(大分県)の竹田藩(岡藩)の藩士の子として生まれた日露戦争で旅順港閉塞の英雄、軍神として有名である。 また、司馬遼太郎の『坂之上の雲』では、秋山真之の親友として描かれている。

 「ある旧制中学校長の足跡」を調べている段階で、羽石重雄が旧制大阪府立堺中学(現、大阪府立三国丘高校)の教頭であったことは既に書いた。 その初代校長だった有馬純臣が第五高等学校(熊本)教授時代、大きな影響を受け、それを慕うように堺中学に奉職した事を知った。 その後、三国丘高校の深田先生から情報が届いた。 そこで、有馬純臣という人物に興味を持ち、先ず第五高等学校から調べていくと、当時の校長が加納治五郎であり、有馬純臣は、講道館に6番目に入門した弟子であり、加納治五郎に招聘され第五高等学校教授になっていることが判った。 また、このとき、招聘された一人にが小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがいる。

 この辺りのことは先回書いたので、詳細を省く。 さて、この関係を辿り、講道館の門人を当たって見ると、広瀬武夫がいることが判った。 広瀬武夫は、司馬遼太郎が、軍人としてよりも文学者になっていれば、文豪になっただろうと評するほどの人物だ。 随分前に、そのことを知り、『広瀬武夫全集』を購入していた。 購入当初は、彼の詩文とロシア留学生当時(後に駐在武官)のことに興味を持ち、その辺りの事のみを読んだのだが、改めて、書簡集など読んでみると、小野塚喜平次宛の書簡が目に付いたのである。 しかも、13通。 これは全書簡中でも、親族以外に宛てた書簡の中では最も多い。 しかも、明治31年の書簡が初出であり、37年3月8日の旅順港閉塞に対する祝詞に対する礼状で終わっている。 因みに、広瀬武夫が戦死するのは、同年3月27日のことであった。 小野塚喜平次と夫人併記の書簡もあり、家族ぐるみの付合いが推測される。 しかも、小野塚喜平次は、明治32年9月にロシアまで訪ねているのだ。 予断だが、駐在武官になった頃、一時期、小村寿太郎が駐在ロシア公使を勤めている。

 長岡市刊行の『ふるさと長岡の人びと』でも、このことが取り上げられており、その表現を借りれば、「親友」とあるのである。 小野塚喜平次の妻は、同郷とも言える海軍軍医総監・石黒忠悳の長女・孝であり、海軍との繋がりも想定されるのだが、石黒忠悳の『懐旧九十年』にも大正13年の『耄録-况翁閑話後編』にも広瀬武夫に関する記述はないのである。 この他に、年代が違うのだが、明治34年刊の『况翁閑話』と『况翁叢話』にも記載がない。 となると、この関係は、何処から始まったのだろう。

 広瀬武夫の父・重武は、岡藩勤皇派として活躍した人物であり、戊辰戦争にも参加している。 維新後は、裁判官として、飛騨高山などあちこちと転勤しており、広瀬武夫は、上京した際、父の盟友であった山県小太郎宅に寄宿している。 調べると、山県小太郎は、会津藩降伏の時、軍曹(当時の軍曹は、下士官というよりも将校)として会津若松城明け渡しに立ち会っている。 そうなると、賊軍であった長岡・牧野藩との間には確執があったことも推測されるのだが、書簡中、そんな様子はないのである。

 しかも、広瀬武夫は、芝新銭場にあった「攻玉社」に学び、明治18年に海軍兵学校に入学しているのだから、学校での小野塚喜平次との接点がない。 因みに、小野塚喜平次は、明治28年東京帝国大学法科大学政治学科の卒業であり、その後、大学院に進み、明治30年にドイツ・フランスに留学している。 この年3月、広瀬武夫は、海軍軍令部に出仕、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主役の一人・秋山真之と麻布霞町の上村翁輔大尉の留守宅に同居している。 そして、5月には、軍令部諜報課員転補され、翌月には、ロシア留学命じられ、8月横浜を出帆、神戸港に寄航の後、9月にマルセイユに到着、パリ・ベルリンを経由して、ペテルスブルグに到着している。 狭い留学生世界のこと、この間に、パリかベルリンで知り合い、意気投合したのかもしれない。

 今のところ確たる資料がないのだが、明治31年1月4日の年賀状は、ハイデルベルク在住の小野塚喜平次に当てたもので下記の通りだ。

 「謹賀新年 併せて平素の疎懶(そらい)を謝す。 明治三十一年一月四日 在露都 広瀬武夫」とあり、追伸として、「東洋風雲漸く急なり。 形勢如何に変ずべきか痛心の至に之有り候。 御同窓落合君には御世話に相成り居り候。 同君健在せり、御放念あれ。」と続く。 (原文はカナ漢字文、一部漢文。)

 ここに登場する「落合」とは、小村寿太郎と共にポーツマス条約の折衝に当たる外交官「落合謙太郎」のことで、確かに小野塚喜平次と法科大学政治学科で同級、明治28年に卒業している。

 こうして書いて行く内に思ったのだが、これはどうも諜報機関に関係するのではないかと思い始めているのだ。 少々話が込み入って来た。 もう少し調べて見ることにする。

 ところで、夏目漱石は、広瀬武夫の漢詩を『艇長の遺言と中佐の詩』という評論の中で酷評している。 また、『それから』の十三の八では、軍神といわれた広瀬武夫も、この頃では、名前も聞かないと云い。 「ヒーローの流行廃(はやりすたれ)はこれ程急激なものである。 と云うのは、多くの場合に於て、英雄(ヒーロー)とは其時代に極めて大切な人という事で、名前丈は偉さうだけれども、本来は甚だ実際的なものである。 だから其大切な時期を通り越すと、世間は其資格を段々奪いにかヽる。 露西亜と戦争の最中こそ、閉塞隊は大事だろうが、平和克復の暁には、百の広瀬中佐も全くの凡人に過ぎない。 世間は隣人に対して現金である如く、英雄に対して現金である。 だから、斯う云ふ偶像にも亦常に新陳代謝や生存競争が行われてゐる。さう云う訳で、代助は英雄(ヒーロー)なぞに担がれたい了見は更にない。が、もし茲に野心があり覇気のある快男子があるとすれば、一時的の剣の力よりも、永久的の筆の力で、英雄(ヒーロー)になった方が長持ちする。 新聞は其方面の代表的事業である。」と。 (夏目漱石全集から引用)

 さて、こうなると益々混乱する。 先にも書いたように、司馬遼太郎は、『広瀬武夫全集』上巻の巻末に特別エッセーとして、『「文学」としての登場』と題する小文を書いているのだ。 夏目漱石の頃、2000通以上書いたといわれる広瀬武夫の書簡や筆まめだったといわれる位に書き残した手帳や手記などは、公開されていなかっただろう。 その事が広瀬武夫の漢詩に対する酷評の原因なのだろうか。 しかも、先の通り広瀬武夫と秋山真之とは親友の間柄であり、正岡子規と秋山兄弟の関係から、もしかすると面識があったのではないかと、憶測さえするのである。 しかし、いずれにしても、漱石と司馬遼太郎の評価の相違は、何なのだろうか。 これまた課題である。

 有馬純臣の柔道の話がここまで広がってしまった。 因みに、有馬純臣は、元治元年、越前丸岡(五万石)藩士の子として生まれている。 明治維新で藩主家とともに上京し、学習院に入学。 卒業後、学習院に奉職。 明治23年に教授、海軍大学校嘱託柔道教授を兼務し、明治25年に加納治五郎の招聘により、第五高等学校教授に就任している。 講道館入門者中、確か四人目が主家11台当主・有馬純文だから、また学習院に入学していることから、主家と近い一門だろう。 『柔道大意』という著作がある。 加納治五郎の意を汲み、柔道の教科書として書かれたものである様だ。 本文・付録あわせると、400ページに及ぶ大作である。 柔道に関心のある人には、お薦めの一冊。 PDFで約23M弱だが、ご希望の方があれば、添付して送付する。 ただ、23M弱のファイルの添付の受信が可能であればなのだが。 勿論、近代デジタルライブラリーでも閲覧が可能である。

 長文になってしまった。 ご容赦。

Best regards
梶谷恭巨

 


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