柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
羽石重雄について、少年期の一部に未だ不明な点があるのだが、修猷館以降の足跡がほぼ判明した。 覚書を兼ねて、その辺りのことを書いて見よう。 その前に、先ず判明した事実は次の通り。 (尚、この文を書いた後、新たに判明したことがあるので、修正加筆する。) 以上、羽石重雄の略歴であるが、ここからも判るように、旧制中学(修猷館)を卒業した年、既に21歳なのである。 入学までの事情が不明だが、明治初年に生まれたことを考えると、廃藩置県やその後の事情から、旧藩士の窮乏の結果が、遅い出発の原因になったことが推測される。 黒田藩分限帳などが閲覧できれば、もっと詳しい事情が判るのだが、何しろ遠隔地のこと、協力者でも見つけなければ、調査は困難だろう。 ただ、新生修猷館の設立の経緯、すなわち旧藩主・黒田長溥が金子堅太郎に、旧藩士救済の相談から修猷館再興の経緯を考えると、羽石重雄が、その年齢にも拘らず、相当に優秀であったことが推測される。 その意味でも、幼年期・少年期の事情には興味を抱くのだが、先の通り、調査は容易ではない。 府立二中時代の調査から、第五高等学校時代の断片が見えてきた。 そのキーパーソンが、有馬純臣である。 有馬純臣は、嘉納治五郎の講道館に六番目に入門している。 三番目が「越前丸岡藩主・有馬道純の長男・純文(子爵)であることから推測すると、有馬純臣は、名前からも、旧丸岡藩士であり、藩主家とは近い関係にあることが推測される。 有馬純臣は、先にも書いたように、嘉納治五郎が、第五高等学校校長に就任する際、教授として招聘している。 担当科目は、理財・法学通説、それに英語である。 この担当教科の組合せは異例だろう。 また、嘉納治五郎は、この時、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も招聘している。 担当科目は、英語とラテン語。 修猷館が、授業を英語で行ったことを考えると、羽石重雄は、英語力、また年齢からも注目される存在であったに違いない。 このときに出来た師弟関係が府立二中に継承されるのである。 それにしても、嘉納治五郎やラフカディオ・ハーンとの関係が出てくるとは予想もしていなかった。 驚きである。 益々興味が湧く次第だ。 次に、仙田楽三郎についても、興味ある事実が判ってきた。 仙田楽三郎が、明治17年6月、長崎中学(現、長崎県立長崎西高等学校、ただし、この系譜は他校にも繋がるとか)の初代校長に就任していたことが判明した。 しかも、長崎県有志教育会の初代総代で、評議員をしているのである。 仙田楽三郎は、長岡出身、明治12年7月卒業の東京大学予備門・理科志望の33名中に名前がある。 記載には、理科大学とあるのだが、東京帝国大学理科大学の明治15年以降の卒業生名簿に名前が見当たらない。 何らかの事情で、大学を中退したのではないだろうか。 しかし、確かに理科大学に在籍したのではないかと思われる査証として、明治18年の長崎県有志教育会の設立総会で、その詳細は不明だが、科学の実験を公開しているのだ。 これらの記事は、長崎大学医学部の『長崎医学も百年』に記載がある。 興味ある人物だ。 一人の校長の足跡から、人のつながりがここまで広がるとは、予想もしていなかった。 今回追いかけている校長、羽石重雄、仙田楽三郎、橋本捨次郎は、皆、新潟県立長岡中学で校長を歴任した人々である。 仙田楽三郎が明治初期から中期、羽石重雄が明治中期から大正時代、橋本捨次郎も羽石重雄と同時代といえるのだが、年齢から考えると、その足跡は、大きく異なる。 未だ整理して纏める段階にはないのだが、急速に変化する時代の中で、それぞれが、信念と情熱を持って、草創期の教育に取組んだ姿は、その後の歴史あるいは現在にも通じる何かを物語っているように思える。 その辺りの解明が今後の課題である。 以上、覚書を兼ねて、羽石重雄の足跡を紹介した。 何かの参考になれば幸いである。
Best regards 追伸: ご協力頂いた各校同窓会の方々に感謝致しております。 今後も、宜しくご教導頂ければ幸いです。
嘉納治五郎について
大阪府立三国丘高校同窓会の関係者で、お問い合せを受けた際にこのHPを拝見、羽石先生の事蹟を丹念に調査されているのに感服しました。ただ、講道館柔道の創始者「嘉納治五郎」を「加納」と表記されているのが気にかかります。柔道を学んだ者には「加納治五郎」はピンとこないので、ご訂正をお願いします。
嘉納治五郎について
ご指摘、ありがとう御座いました。 申し訳ありませんでした。 早速、訂正します。
Best regards 梶谷恭巨
明治期の英語教育について
早速ご訂正いただき、感謝します。なお、あらためて気づいた事があります。有馬純臣が五高で担当した教科「理財・法学通説そして英語」に関してですが、明治期の中・高等教育では英語が極めて重視されたが日本人が著した教科書がなく、旧制中学では英国から輸入した教科書を用いていたそうで、「英語をマスターするため猛勉強した」と明治35年卒業の大先輩から聞きました。旧制高校・大学でも原書で学んだ科目が少なからずあったそうです。このことから、明治期の高校・大学を卒業した方は、専攻に関係なく、中学校で英語を教える力をもっておられたように思います。
明治期の英語教育について
この件、以前から気になっていた事で、英語教育は、明治期に於ける中等教育、あるいは、もしかしかすと、その後の教育の在り方を決定付ける要因になったのではないかと考えています。
そこで、項を改め、本文に掲載しようと書いては見たのですが、資料を追う毎に、予想もしない展開。 資料編で、その辺りを追求していたのですが、未だ糸口を見つけておりません。 実のところ、ブログ版にアップロードしようと思い素文を書いてみたのですが、確信が持てない。 ただ、「第一高等学校一覧」を精査したところ、ヒントになる学生あるいは卒業生を発見。 このことについては、改めて書きたいと考えています。 尚、貴兄、宜しければ、貴校同窓会の逸話なり、ご紹介頂ければ幸いです。 一応、日本の古本屋辺りを探り、可能なら入手したと考えたのですが、結果として、見当たリマ撰でした。 本文として、英語教育等、当時の中等教育の実情に関しては、今しばらくご猶予頂ければ幸いです。 Best regards 梶谷恭巨
羽石重雄経歴関連
○4番目
有馬純臣は嘉納治五郎が第五高校校長に就任 する際招聘した人物 ⇒嘉納治五郎 明治24年 第五高等中学校校長 有馬純臣 明治25年 第五高等中学校教師 明治26年嘉納の第一高等中学校校長へ転出に 関連する講道館後継含みと思われる。 ○7番目 羽石重雄 明治31.9-33.4大阪府第二(尋常) 中学校教諭 明治31-32年度は教頭であっ た。(「三丘110年」P256) 大阪府第二(尋常)中学校教諭で貴エリア関連情報あれば教えてください。 沢吹忠平 明治29.4-31.5 後に柏崎高女校長
コメントへのお礼
岩根様
コメントおよびご助言、ありがとうございました。 Best regards |
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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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