柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
[99] [98] [97] [96] [95] [94] [93] [92] [91] [90] [89]

 羽石重雄について、少年期の一部に未だ不明な点があるのだが、修猷館以降の足跡がほぼ判明した。 覚書を兼ねて、その辺りのことを書いて見よう。 その前に、先ず判明した事実は次の通り。 (尚、この文を書いた後、新たに判明したことがあるので、修正加筆する。)

○羽石重雄は、明治3年2月6日、旧黒田藩士の子として、福岡県早良郡原村字庄出身に生まれる。 (今のところ、この程度しか判明していない。)
○明治21年(18歳)、修猷館中学に入学(修猷館の史料を読むと、当時の学制で期間が3ヵ年であるところから推測)
○明治24年(21歳)、修猷館中学(第3回)卒
 ☆同年3月24日、「軍隊投石事件」が発生、館長(校長)・尾崎臻(いたる)が引責辞任し、教頭であった「仙田楽三郎」が館長事務代行に昇格し、翌25年、福岡県立伝習館中学校長に転任 (仙田楽三郎については、現在調査中だが、断片的足跡が判っている。)
○明治27年(24歳)、第五高等学校(熊本)卒
 ☆本科第一部(文科)第三回卒業生、同期8名、この中に「広田直三郎」という人がいるが、昭和6年(1931)、東京鉄道中学(現、芝浦工科大学)第五代校長と同一人物か?
 ☆修猷館同窓会誌『館友雑誌』第一号の論説に『須ラク其義務ヲ全ウスベシ』を寄稿。 因みに、同じに論説に『遺伝ノ説』と題して関豊太郎が寄稿している。 関豊太郎は、宮沢賢治の盛岡農林時代の恩師であり、その後も大きな影響を与えた人物。
 ☆当時の学校長は、講道館の嘉納治五郎であり、後に書くが、羽石重雄が赴任する大阪府立二中の初代校長・有馬純臣は、嘉納治五郎の弟子(講道館)で、明治24年、嘉納治五郎が第五高校校長に就任する際、招聘した人物。 このほかに、ラフカディオ・ハーンも招聘しており、羽石重雄は、有馬純臣とラフカディオ・ハーンの影響を受けたことが推測される。 ★この件についても、別項を設ける。
○明治30年(27歳)、東京帝国大学文科大学国史科卒
○同年、長野師範学校、教諭、離任年次不詳、
○明治31年(28歳)、大阪府立第二中学校(現、大阪府立三国丘高等学校)教諭(歴史と英語を担任)、長崎中学の資料に教頭であったとの記載があるが、三国丘高校の資料室に問合せた結果、それらしき記載がないとの回答。 ただ、面白い事実が判った。 府立二中も初代校長・有馬純臣が、第五高校(熊本)時代、羽石重雄は学生として在籍。 その影響が大であったようだ。 特に明確な記載はないが、有馬純臣校長が、羽石重雄を招聘した可能性が大きい。 ★有馬純臣については、別項を設ける。
○明治33年(30歳)、長崎県立島原中学初代校長に転任
○明治38年9月2日(35歳)、山口県立萩中学第三代校長に就任
 ☆寮で集団暴行事件が起こる。
○明治42年4月(39歳)、岩国中学第三代校長に就任
 ☆岩国中学初代校長「橋本捨次郎」は、滋賀県出身、明治31年、東京帝国大学文科大学史学科を卒業後、石川県で最初の教職に着いたが、直に岩国中学、長岡中学第16代校長、第八高等学校教授、学習院教授、松山高等学校校長を歴任する。
 ☆大正2年2月8日(41歳)、離任。 (校長排斥運動に依願退職か)
○空白期間(新任地を探していた模様)
○大正4年4月(43歳)、新潟県立柏崎高校第四代校長
 ■新たに判った事実: 柏崎中学第二代校長・高宮乾一は、何と!明治30年7月、文科大学国史科で同期卒業なのである。
 ■『東京帝国大学一覧』では、東京出身とある。 そこで、第一高等学校の卒業名簿を調べたが、見当たらない。
 ■高宮乾一は、大正元年10月11日、離任、福岡県立中学明善校(久留米、現福岡県立明善高等学校)校長に転任している。
 ☆羽石重雄の前任校長・元田竜佐は、長岡中学第20代校長に転任
○大正6年11月(45歳)、新潟県立長岡中学第22代校長
 ☆時代が前後するが、明治30年前後、「仙田楽三郎」が長岡中学校第12代校長に就任している。 「仙田楽三郎」は、戊辰戦争当時、長岡藩士、苦学の末、教育会の重鎮をなすのだが、詳細不明。 ★仙田楽三郎については、別項を設ける。
○大正9年5月(49歳)、長野県立松本中学校第四代校長
○昭和2年5月(56歳)、松本中学校校長退任、最後の任地になったようだ。

 以上、羽石重雄の略歴であるが、ここからも判るように、旧制中学(修猷館)を卒業した年、既に21歳なのである。 入学までの事情が不明だが、明治初年に生まれたことを考えると、廃藩置県やその後の事情から、旧藩士の窮乏の結果が、遅い出発の原因になったことが推測される。 黒田藩分限帳などが閲覧できれば、もっと詳しい事情が判るのだが、何しろ遠隔地のこと、協力者でも見つけなければ、調査は困難だろう。

 ただ、新生修猷館の設立の経緯、すなわち旧藩主・黒田長溥が金子堅太郎に、旧藩士救済の相談から修猷館再興の経緯を考えると、羽石重雄が、その年齢にも拘らず、相当に優秀であったことが推測される。 その意味でも、幼年期・少年期の事情には興味を抱くのだが、先の通り、調査は容易ではない。

 府立二中時代の調査から、第五高等学校時代の断片が見えてきた。 そのキーパーソンが、有馬純臣である。 有馬純臣は、嘉納治五郎の講道館に六番目に入門している。 三番目が「越前丸岡藩主・有馬道純の長男・純文(子爵)であることから推測すると、有馬純臣は、名前からも、旧丸岡藩士であり、藩主家とは近い関係にあることが推測される。 有馬純臣は、先にも書いたように、嘉納治五郎が、第五高等学校校長に就任する際、教授として招聘している。 担当科目は、理財・法学通説、それに英語である。 この担当教科の組合せは異例だろう。 また、嘉納治五郎は、この時、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も招聘している。 担当科目は、英語とラテン語。 修猷館が、授業を英語で行ったことを考えると、羽石重雄は、英語力、また年齢からも注目される存在であったに違いない。 このときに出来た師弟関係が府立二中に継承されるのである。 それにしても、嘉納治五郎やラフカディオ・ハーンとの関係が出てくるとは予想もしていなかった。 驚きである。 益々興味が湧く次第だ。

 次に、仙田楽三郎についても、興味ある事実が判ってきた。 仙田楽三郎が、明治17年6月、長崎中学(現、長崎県立長崎西高等学校、ただし、この系譜は他校にも繋がるとか)の初代校長に就任していたことが判明した。 しかも、長崎県有志教育会の初代総代で、評議員をしているのである。 仙田楽三郎は、長岡出身、明治12年7月卒業の東京大学予備門・理科志望の33名中に名前がある。 記載には、理科大学とあるのだが、東京帝国大学理科大学の明治15年以降の卒業生名簿に名前が見当たらない。 何らかの事情で、大学を中退したのではないだろうか。 しかし、確かに理科大学に在籍したのではないかと思われる査証として、明治18年の長崎県有志教育会の設立総会で、その詳細は不明だが、科学の実験を公開しているのだ。 これらの記事は、長崎大学医学部の『長崎医学も百年』に記載がある。 興味ある人物だ。

 一人の校長の足跡から、人のつながりがここまで広がるとは、予想もしていなかった。 今回追いかけている校長、羽石重雄、仙田楽三郎、橋本捨次郎は、皆、新潟県立長岡中学で校長を歴任した人々である。 仙田楽三郎が明治初期から中期、羽石重雄が明治中期から大正時代、橋本捨次郎も羽石重雄と同時代といえるのだが、年齢から考えると、その足跡は、大きく異なる。 未だ整理して纏める段階にはないのだが、急速に変化する時代の中で、それぞれが、信念と情熱を持って、草創期の教育に取組んだ姿は、その後の歴史あるいは現在にも通じる何かを物語っているように思える。 その辺りの解明が今後の課題である。

 以上、覚書を兼ねて、羽石重雄の足跡を紹介した。 何かの参考になれば幸いである。

Best regards
梶谷恭巨

追伸: ご協力頂いた各校同窓会の方々に感謝致しております。 今後も、宜しくご教導頂ければ幸いです。


コメント
嘉納治五郎について
大阪府立三国丘高校同窓会の関係者で、お問い合せを受けた際にこのHPを拝見、羽石先生の事蹟を丹念に調査されているのに感服しました。ただ、講道館柔道の創始者「嘉納治五郎」を「加納」と表記されているのが気にかかります。柔道を学んだ者には「加納治五郎」はピンとこないので、ご訂正をお願いします。
【2009/06/07 18:18】 NAME[吉田 茂] WEBLINK[] EDIT[]
嘉納治五郎について
 ご指摘、ありがとう御座いました。 申し訳ありませんでした。 早速、訂正します。

Best regards
梶谷恭巨
【2009/06/07 19:03】 NAME[梶谷恭巨] WEBLINK[] EDIT[]
明治期の英語教育について
早速ご訂正いただき、感謝します。なお、あらためて気づいた事があります。有馬純臣が五高で担当した教科「理財・法学通説そして英語」に関してですが、明治期の中・高等教育では英語が極めて重視されたが日本人が著した教科書がなく、旧制中学では英国から輸入した教科書を用いていたそうで、「英語をマスターするため猛勉強した」と明治35年卒業の大先輩から聞きました。旧制高校・大学でも原書で学んだ科目が少なからずあったそうです。このことから、明治期の高校・大学を卒業した方は、専攻に関係なく、中学校で英語を教える力をもっておられたように思います。
【2009/06/08 03:00】 NAME[吉田 茂] WEBLINK[] EDIT[]
明治期の英語教育について
 この件、以前から気になっていた事で、英語教育は、明治期に於ける中等教育、あるいは、もしかしかすと、その後の教育の在り方を決定付ける要因になったのではないかと考えています。
 そこで、項を改め、本文に掲載しようと書いては見たのですが、資料を追う毎に、予想もしない展開。 資料編で、その辺りを追求していたのですが、未だ糸口を見つけておりません。
 実のところ、ブログ版にアップロードしようと思い素文を書いてみたのですが、確信が持てない。

 ただ、「第一高等学校一覧」を精査したところ、ヒントになる学生あるいは卒業生を発見。 このことについては、改めて書きたいと考えています。

 尚、貴兄、宜しければ、貴校同窓会の逸話なり、ご紹介頂ければ幸いです。

 一応、日本の古本屋辺りを探り、可能なら入手したと考えたのですが、結果として、見当たリマ撰でした。

 本文として、英語教育等、当時の中等教育の実情に関しては、今しばらくご猶予頂ければ幸いです。

Best regards
梶谷恭巨
【2009/06/09 20:23】 NAME[梶谷恭巨] WEBLINK[] EDIT[]
羽石重雄経歴関連
○4番目
  有馬純臣は嘉納治五郎が第五高校校長に就任  する際招聘した人物
 ⇒嘉納治五郎 明治24年 第五高等中学校校長
  有馬純臣 明治25年 第五高等中学校教師
  明治26年嘉納の第一高等中学校校長へ転出に  関連する講道館後継含みと思われる。
○7番目
  羽石重雄 明治31.9-33.4大阪府第二(尋常)  中学校教諭 明治31-32年度は教頭であっ   た。(「三丘110年」P256)
大阪府第二(尋常)中学校教諭で貴エリア関連情報あれば教えてください。
 沢吹忠平 明治29.4-31.5 後に柏崎高女校長
 
【2012/04/22 23:49】 NAME[岩根正尚] WEBLINK[] EDIT[]
コメントへのお礼
岩根様

 コメントおよびご助言、ありがとうございました。

Best regards
【2012/04/23 10:20】 NAME[筆者・梶谷] WEBLINK[] EDIT[]


コメントフォーム
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード
  Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字


カウンター
プロフィール
年齢:
76
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
最新コメント
[04/17 梶谷恭巨]
[04/17 まつ]
[03/21 梶谷恭巨]
[11/18 古見酒]
[07/10 田邊]
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新トラックバック
バーコード
ブログ内検索