柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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  さて、先回も書いたように、頼山陽の王陽明評の漢文が続くのであるが、旧漢字であり、印字が潰れていて、判読困難なところがあるが、読めるところを拾い読みすると、「陽明良知良能、立論雖逈(迥の俗字)異、究帰一轍、・・・・(陽明の良知良能、立論ははるかに異なると謂えども、究めて一轍に帰す。・・・)」とあり、要するに、「王陽明の良知良能は、論理上は大いに異なるが、帰結するところは同じである」というようなことが書かれていると推断するのである。 また、次に、鍋島閑叟(かんそう、直正)の漢詩を引用して、「百年学術推元○、万世英雄見守仁(○のところが不明だが、学問が求めたものは元は同じで、英雄は、仁がどれほど守られているか見ているものだ、という意味にでもなるのだろうか。 七言絶句あるいは律詩であろうから、対句の部分があれば、○も判読できるのだが)」と謂い、王陽明を適評していると述べている。 以下、その続き。

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 則ち(すなわち)、此(この)陽明を河井君は信用されて政治上に利用したので、陽明は裏面には仏学、表面には儒学、良知良能を唱えて、実際に之を応用して物に応じて変を制して、所謂(いわゆる)仏のように座禅するものとは違うのでありますが、故に宸濠の乱(明朝時代の寧王・朱宸濠の乱、1519年)を平らげたと云う人であります。 其(その)陽明を河井君は信仰されて居られた。 我日本帝国に於いて、従来、陽明学者は沢山ある。 例えば、中江藤樹、熊沢蕃山-此(この)人は備前の芳烈公(岡山藩初代藩主・池田光政)に使えて政治に與った人である。 其他、近来に至って、佐藤一斎、大阪で乱を起こした大塩平八郎の如き色々ありますが、凡そ(およそ)日本に於いて陽明学を政治上に本統に利用した人は河井君より外にない。 実に氏は天下の豪傑である。 私は寡って(かって)河井君の友人なる小松彰と云う、一時米商株式取引所の頭取をした人で信州松本の人であるが、河井君の女郎買の先棒をした人である(拍手大喝采)、此(この)小松と云う人は私が小林雄七郎君と一緒に尋ねた時、小松君の云うに、「おまえの国には、えらい人がある。 河井継之助、鵜殿団次郎、象山(佐久間象山)門下の二虎なる小林虎三郎、小藩から人材が出た。 其中(そのなか)でも、就中(なかんづく)、河井君はえらい人である。」 我々の同郷であるが、実に、あの人はえらい人である。 どうも我々が見る所に依ると、新旧薩長内閣諸公の内で河井君のような、則ち政治上に雄才を有して居る人は一人もないと明言された。 それで私は斯う(こう)いうことを尋ねた。 「小松さん、今、河井さんが存命であったら、どうでしょう。」 「丁度、明治元年、旧藩の周旋掛をして京都に出て居りました。 そこで政府に建議をして、河井君と鵜殿君とを参与に御採用あれと云う建議をした処が、直に太政官に於いて採用されて、それから紹状を遣らう(やろう)と云うときに、河井君は会津に與して(くみして)、王師に抗した。 又鵜殿君は幕府の末路に於いて御目付役をして、幕府の勝安房君と一緒に周旋すると云う為め遂に水泡に帰したのは、実に残念でありました。」、「どうですか、小松さん、もし存命でありましたなら内閣大臣中如何なる所に最も適当するか」と問うた所が、小松君曰く、「されば、河井君として現内閣にあらしめたならば、どの所にも適するけれども、特に、先生は外務卿として適当であろう」と云われた。 私は、其の当時のことを思い出して、「ああ云う人が外務卿でありましたならば、彼の一本足の大隈伯(伯爵)が外務大臣として、条約改正をしようとした類ではない。 外国人と雖も(いえども)、河井君には戦慄するに相違ない。」 (喝采) 其の後に、大阪の外山脩造君が上京になりましたから、氏に面会して、「どうだろう。 外山君、小松君は、河井君を外務卿として適任と申されたが、我々の考えでは、大蔵卿が最も適任であろうと思う。 何となれば、七万七千石で借金だらけの一小藩を僅か三年の間、政権を執って、米六万石、金三十八万両も出来たのであるから、あの先生の働を以って、経済の要衝たる大蔵の実権を握らしめたならば、此貧乏なる日本は忽ち(たちまち)金持になるであろうと云うた」、(拍手喝采)、と申した所が、氏も夫れは(それは)、或いは、貴様の言う通り、大蔵卿が適任だろうと申された。 実に、先生は天下豪傑の士である。 嘗て(かって)私が或る北越人の相会しました一席に於いて、河井君の書かれたました一幅を見て記憶して居る夫れ(それ)は、上野の桜雪寮で見たのでありますが、其詩は、「此処青山可埋骨、白髪問人羞折腰(後段、文字つぶれで推測、ここに青山あり、骨を埋めるべし、白髪にして、人に問うは、腰を折るの羞じ(はじ)なり、とでも訳すのであろうか)」と云う詩であります。 実に、あの先生の剛毅勇邁磊磊落落たる風采を見る様ではありませぬか。 (喝采) 斯う(こう)云う、即ち政治上に於いては、我が北越にエライ豪傑の士が傑出したのであります。
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 少々読みに難いかも知れないが、出来るだけ原文を忠実に写した。 尚、旧漢字、旧かな使いなど、読み難いところは、現代文に直したところもある。 また、漢詩については、必ずしも正確な読み方ではない。 適切な訓読があれば、ご教授願いたい。

 因みに、ここに登場する小松彰および鵜殿団次郎の略歴は次の通り。

小松彰(1842-188): 詳細は不明だが、明治23年(1890)に建立された「故長岡藩総督河井継之助君碑」の裏面に、建立に尽力した人々として、名前がある。 「松本藩士、久美浜県(久美浜代官所支配地および丹波の旗本領、現京都府京丹後市久美浜町に県庁が置かれた)・生野県(生野代官所支配地および播磨の旗本領と大名の飛び領、現兵庫県朝来市に県庁が置かれた)の権令(兼務)、豊岡県(現兵庫県豊岡市と京都府の一部、旧豊岡藩陣屋跡に県庁が置かれた)権令、後に県令とあるそうだ。 また、明治六年、内閣法制課長との記事もあった。
 尚、先回紹介した外山脩造の名前も、同碑にある。 また、題字は黒田清隆、碑文は三島毅。 序に、三島毅について:
三島毅(1830-1919): 備中松山藩士、名は毅、字は遠叔、号を中洲。 最初山田方谷の門下に学び塾頭なる。 次いで伊勢の津の斎藤拙堂に、更に昌平黌の佐藤一齋・安積艮齋に学び、後に(安政6年、1859)山田方谷も学頭をした藩校有終館の会頭となる。 維新後は、漢学塾二松学舎を開くと伴に、東京高等師範学校教授、東京帝国大学文科大学教授、明治29年東宮侍講、宮中顧問官などを歴任した。 現二松学舎大学の創立者。 河井継之助が、山田方谷を訪ね、入門したのが、安政6年であるから、継之助との関係は深い。

鵜殿団次郎(1831-1868): 長岡藩士、藩校・崇徳館で学んだ後、江戸に出て洋学を学ぶ。 勝海舟に認められ幕臣・蕃書調所教授、目付に登用される一方で、河井継之助と伴に藩政改革に尽力するが、38歳の若さで死去。

 先回に続き、長谷川泰が、河井継之助について語った部分を紹介した。 勿論、これが、済生学舎の北越人懇親会で述べられたことは事実である。 それ故、身贔屓なところもあるが、概して、河井継之助の人となりを勇弁に語っていると思う。 ただ、面白いのは、陽明学と仏教との関係を述べているところだ。 実は、今まで、こういう見方をしたことがなかった。 「良知良能、知行合一」 考えて見れば、確かに仏教に通じるものがある。 否、寧ろ、根源は同一であると言うべきなのかもしれない。 また、これは憶測にしか過ぎないが、長谷川泰が設立した医学校を「済生学舎」と命名した背景には、師である佐藤尚中が、自身の医学私塾を「済衆精舎」と称したことがあり、その出典は不明だが、無量寿経に、「広済衆厄難、 開彼智慧眼、 滅此昏盲闇、 閉塞諸悪道(広く衆の厄難を救済し、彼の智慧の眼を開かせ、この昏盲の闇を滅して、諸悪の道を閉塞する)」とあるところから、仏教との関係を推測できるのかもしれない。 いずれにしても、今まで余り考えていなかった仏教の拘わりについて、改めて調べる必要があるだろう。

 未だ書くべきことがあるのだが、長くなったので、続きは次回に。

Best regards
梶谷恭巨
 

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